二章 異邦

 
 黒――
 それは夜の色。
 星明かりすらない、真の闇。
 轟々と鳴る風の音。
 雨が顔を叩く。
 時折、閃光が闇夜を裂く。
 雷鳴。
 嵐。
 その中を、一人の女性が歩いている。
 風になびく長い黒髪。服も漆黒。
 まるで、夜の闇に溶けこむような。


 白――
 それは雪野の色。吹雪の中の。
 視覚がまったく役に立たない、一面の白い空間。
 上下の感覚すらなくなるような。
 冷え切った皮膚も、なにも感じない。
 なんの匂いもない。
 音だけが聞こえる。
 風の音と、雪を踏んで歩く音。
 ひとつだけ、白以外の色彩が存在する。
 紅――
 雪の上に広がる、紅い血の染み。


 赤――
 それは血の色。
 それは炎の色。
 炎に包まれる都市。
 血にまみれた兵士たち。
 折り重なる死体。
 血に染まった刃。
 灼けた大地。
 様々な赤い背景の中に、青い、巨大な生物の姿。


 青――
 それは、空の色。
 燃えさかる都市の上空を、翼を広げて舞う巨大な竜の姿。
 蒼空に溶けこむような、青い鱗。
 一つの都市を焼き尽くした巨大な魔物は、高度を上げていく。
 青い空。
 どこまでも続く。
 どこまでも高く。
 少しずつ、その青が濃くなっていく空。


 そして、また、黒――
 何も存在しない、無。その中に一つだけ輝く。
 ……金色の光。



「いったい……ここは?」
 奈子は、ぼんやりとつぶやいた。
 よく憶えていないが、断片的な夢を見ていたような気もする。
 頭の芯が痛い。
 何が起こったのか理解できないまま、身体を起こして周囲を見回した。
 どうやら、草むらの中に倒れていたらしい。
 いったい何が起こったのだろう。
 そこは鬱蒼とした森の中だった。奈子が先刻まで立っていた、奏珠別公園の展望台ではない。
(登山道の方に、迷い込んでしまったのかな…?)
 奏珠別の南側に連なる山々は、そのまま定山渓の方まで続いている。そこにはいくつもの登山道があり、展望台にその入口の一つがあった。
 だから、最初はそう思ったのだが、それにしては森の様子がおかしい。
 奏珠別の山で普通に見ることができる、カラマツやエゾマツ、シラカバやダケカンバ、クルミ、あるいはカツラといった樹々が見あたらない。一番目立つのは、団扇のような大きな葉を茂らせた巨木なのだが、奈子はそんな樹を見たことがなかった。
 周囲の風景に、なにか違和感がある。
 森や山並みの風景というものは、土地によってずいぶんと印象が違うものだ。旅行で訪れたことのある東北、飛騨、沖縄。同じ日本であっても、奈子が見慣れた北海道の景色とはずいぶん違っていた。それが海外ならばなおさらのこと。
 そして今見ている風景には、東南アジアの熱帯雨林へ旅行した時と同じくらいの違和感を感じていた。
 しかも、おかしなことは景色だけではない。
 樹々の隙間から、今まさに山の陰に沈もうとしている夕陽が見えるのも妙だ。奈子が家に帰ろうとしたのは、夜の十時近い時刻だったのに。
 まさか、翌日まで意識を失っていたわけではあるまい。タンクトップの汗が乾ききっていないところを見ると、せいぜい一時間前後だろう。
 そしてもう一つ。
 気温がまるで違った。七月の北海道の夕暮れにしては暑すぎる。
 いったい何が起こったのだろう。奈子は混乱していた。
 わけがわからないまま、立ち上がって歩き出した。
 このまま、ここにいても埒があかない。もうすぐ暗くなってしまう。その前にこの森から抜けて、人里に出たいと考えていた。
 幸い、森の中は下草が少なく、歩くのはさほど困難ではなかった。緩やかな斜面を、下に向かって歩いてゆく。
 歩きながら考える。ここは、いったい何処なのだろう。
 森の中を歩いて、樹や、草や、あるいは昆虫や小動物の姿を確認するたびに、不安になってゆく。
 樹液が染み出している樹の幹に、大きな甲虫を見つけた。奈子が知っているものの倍以上もありそうな、三本の角を生やした大きなカブトムシだ。
 新種発見、と喜ぶ気にはなれなかった。そんな単純な問題ではないことくらい、とうに気付いている。
 奈子には見慣れない草木も、昆虫も、リスに似た小動物も、梢の上を飛ぶ鳥も、見事に調和していた。ここでは当たり前の存在に違いない。
 異質なのは、奈子の方なのだ。
 しばらく歩いたが、人間が住んでいる気配は見つからなかった。どこまでも深い森が続いているだけだ。
 もう、辺りは暗くなりはじめていた。
 太陽はとっくに山の陰に隠れている。西の空にはまだ夕焼けが残っているが、それもそう長くは続かないだろう。
 見知らぬ土地、それも山の中を夜に歩き回るのは無謀なことだ。それに、奈子はもう疲れ切っていた。ここではまだ宵の口かもしれないが、奈子の本来の時間では、そろそろ真夜中の筈なのだ。
 覚悟を決めて、今夜は野宿をした方がいいのかもしれない。幸い天気はいいし、気温も充分に高い。テントや寝袋がなくとも、一晩くらいは平気だろう。
 奈子は、大樹の根本に腰を下ろした。大きく息を吐き出す。
「お腹……空いたな……」
 本当ならば今頃は、家でお風呂に入って、由維の手作りのお菓子を食べて、柔らかなベッドに入っているはずだったのに。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 いったい自分の身に、何が起きたのだろう。
「心配してるだろうな……」
 両親のことではない。親は仕事で、来週まで帰らないと言っていた。
 だけど、家には由維がいる。
「……一時間半くらいで戻るって言ったのに、心配してるよね」
 泣いていなければいいけど。
 小さい頃の由維は泣き虫で、よく男の子にいじめられていた。それを助けるのは奈子の役目だった。
「なんで、こんなことになっちゃったかなぁ……」
 奈子は、その場に横になった。
 青草の香りが鼻をくすぐる。
 梢の間から、濃い群青色をした空が見える。星がいくつか、瞬いている。
 陽が沈んでしばらくたつのに、空は意外と明るかった。
 奈子の住む奏珠別の街なら、札幌の中心部の明かりで夜空もわずかに明るいものだが、ここにはそんなものはない。人工の明かりなど、何ひとつない。それなのに、ほのかに明るい夜空。
 すぐに気付いた。月が出ているのだ。天頂付近に、半月よりもやや細い月がある。
「月……、あれ?」
 違和感があった。
 だけど、その正体が何かわからない。
 何故か急に、不安になる。
「月、確かに月……。だけど、なにかヘン」
 立ち上がって、じっとその月を見上げた。
 天体観測が趣味という人間ならば、すぐに気付いたかもしれない。しかし奈子が意識して夜空を見上げるのは、たまに流星群や彗星がニュースを
賑わしている時くらいしかない。 だから、気付かなかった。何かおかしいと思いつつも、具体的に何がおかしいのかはわからなかった。
 しばらくじっと空を見上げていて、もう一つの変化に気付いた。
 空が、先刻までよりも明るくなっているようだ。
 おかしな話だった。陽が沈んで、これからどんどん暗くなってゆく時間帯だというのに。
 何気なく、奈子は立つ位置を少し変えた。
 その結果、今まで木の陰になっていたそれが目に入った。
「――っ!」
 思わず息を呑んだ。両手で口を覆う。
 それは、月――だった。
 東の山の陰から昇ったばかりの、丸い月。
 丸い、二つの月。
 大きさはずいぶん違う。小さな方は、大きい方の半分くらいの直径しかない。
 クレーターによって描かれた表面の模様もそれぞれ違う。
 しかし、どちらも満月だった。
 奈子はもう一度、頭の上を見上げる。
 そこにも、月があった。
 最初に見つけた、半分の月。
 そして、先刻の違和感の正体に思い当たった。
 日本ではよく「ウサギの餅つき」に喩えられる模様が、どこにもなかった。
 そう、三つの月のどこにも。
 それは確かに月だったが、しかし、奈子が知っている月ではなかった。
 そのことに気付いて――。
 奈子は悲鳴を上げて走り出した。今、目にしたものから逃げ出すように。
 それは、あまりにも受け入れがたい事実だった。
 悲鳴を上げ、森の中を闇雲に走った。
 いくら逃げたところで、この空から逃れることなどできないとはわかっていたが。
 それでも、冷静ではいられなかった。



 力尽きて立ち止まるまでに、いったいどのくらい走っていたのだろう。
 奈子は大きな樹の幹に寄りかかって、大きく肩で息をしていた。
 いつの間にか西の空もすっかり暗くなり、三つの月だけが控えめな明るさを地上へ送り届けている。
 荒い息をしながら、周囲を見回した。
 かなり、山のふもとの方まで来たのだろうか。先刻までいた場所よりも傾斜は緩やかで、森の樹々はいくぶん疎らになっている。しかし、相変わらず人の気配はない。
「……いったい、なんなのよ。ここは……」
 泣きそうな声でつぶやいた。それに応える者はいない。
 奈子は、ただ一人きりでここにいた。
 不安だった、心細かった。
 大声で泣きたいくらいだ。
 だけど、ここで泣いていても何も解決しない――と。心の奥で冷静にそう考えることのできる自分が、今は少しだけ疎ましかった。
「もう、寝ちゃお……かな……」
 それもある意味、逃避かもしれない。しかし疲れ切っているのも事実だ。これ以上夜の山中を歩いていても、事態が好転するとも思えない。
 頭と身体を休めて、朝になって周囲が明るくなってから、また考えればいい。夜空にかかる三つの月を見ながらでは、冷静な思考などできるはずもない。
 そう考えて、その場で横になろうとした奈子だったが、しかし、ふと動きを止めた。
 何か、いやな予感がする。
 ざわっと鳥肌が立つ。
 気配がした。
 何かが見えるわけではない。物音が聞こえるわけでもない。
 それでも感じることができる。
 何らかの生き物の気配だ。人間ではない。
 奈子の住む奏珠別の近くの山なら、出会う野生動物はせいぜいキタキツネかエゾシカくらいのもの。ヒグマはもっと山奥まで行かなければいない。
 しかし、まったく見知らぬこの土地では、どんな危険な獣がいるかわからなかった。
 危険な獣。それだけは確信していた。
 先刻から感じるこの気配。
 殺気、だった。
 肌を刺すような、鋭い気配。
 額に汗が滲む。
 周囲の空気全体が緊張していた。
 いったい、どこにいるのだろう。奈子は周囲を見回す。
 しかし、月明かりの下ではそれほど遠くまで見えるわけではない。見える範囲に、それらしき影はない。
 それは突然、頭上から現れた。
 樹上から奈子を狙っていたのだろうか。紙一重のところで、奈子は最初の一撃をかわした。
 地上に降り立った獣と対峙する。
「……豹?」
 それは確かに、豹に似ていた。
 体長は一メートル半くらい。明らかに猫科と思われる姿形、全身にちりばめられた豹紋が特徴的だ。
 しかしその毛皮は、奈子が動物園で見たことのある豹よりも赤みが強いような気がした。月明かりの下だから正確にはわからないが、まるで冬毛のキタキツネだ。豹紋も黒というよりは濃いオレンジっぽい。
 二つの目が、夜の闇の中でぎらぎらと光っていた。
 明らかに奈子を狙っている。奇襲に失敗しても、まだ諦めるつもりはないらしい。
 背中を丸めて、飛びかかる隙をうかがっているように見えた。
 奈子は緊張した面持ちで構えをとる。
 肉食獣との闘い方など、無論道場で習ったことはないし、実際に闘った経験もない。
 極真空手の初代総裁、かの大山倍達じゃあるまいし、今時、誰が好きこのんで人間以外の獣と素手で闘おうなどと思うだろう。
(いや、そういえば……)
 北原極闘流の総帥の孫娘で奈子の先輩、そして女子空手のチャンピオンである北原美樹が話してくれたことがなかったか。大型犬との闘い方を。
 しかし相手は、奈子がそれを思い出すのを待ってはくれなかった。
 突然、殺気がさらに強まる。
 その獣はまったく動いていないのに、飛びかかられたように感じた。
 思わず、その場から飛び退く。
 その瞬間。
 目の前……奈子が一瞬前まで立っていた場所が、炎に包まれた。
 まったくの突然に。
「な…!」
 驚いてバランスを崩す奈子に、今度こそ本当に獣が襲いかかってきた。
 鋭い牙が奈子の喉を狙う。
 反射的に、腕でガードした。
 その腕に獣の牙が食い込み、奈子は地面に押し倒された。
 鋭い爪が、肩に食い込む。
 奈子は悲鳴を上げた。
 痛みなんて生やさしいものじゃない。腕が引きちぎられるのではないかと思った。
 牙は、骨にまで届いている。傷から流れ出た血が、ぼたぼたと顔に落ちてきた。
 獣の爪が、肩の肉を引き裂いた。
 相手の体重は奈子とそう変わらないはずだが、野生の獣の力は人間の比ではない。なんとか押し返そうとしても、びくともしない。
(殺される……このままじゃ……)
 無意識のうちに、まだ動かせる左手の指先を揃えて、獣の目に突き入れた。
『ギャンッ!』
 叫び声を上げて、獣は奈子の腕を放した。すかさず、自由になった腕を獣の首に回した。
 同時に、両脚で相手の胴を挟んで締め上げ、動きを封じた。
 右腕で獣の首を締め、眼窩に突き入れたままの左手で、力任せに顔を捻り上げた。
 目、そして頸椎。
 無我夢中で意識せずにやったことだったが、それは、ほぼすべての哺乳動物に共通した急所だった。
 獣の首が、くぐもった音を立てる。
 ビクッ、ビクンと身体を大きく痙攣させると、全身から力が抜けた。
 獣は、それきり動かなくなった。
 それでも奈子は、しばらくの間そのままの姿勢でいて、一分以上経ってから、ようやく腕を放して獣の下から抜け出した。
 地面に手をついたまま、横たわった獣を見る。
 口から血の泡を吐いて、それは息絶えていた。
 奈子はただ呆然としていた。肩で息をする。
 すべては無我夢中でやったことで、なかなか、助かったのだという実感が湧いてこなかった。
 手も脚も、がくがくと震えている。歯はカチカチと鳴っていた。
 一つ間違えば、今ごろ奈子はこの獣の餌となっていたはずだった。
 初めて……だった。
 生まれて初めてだった。
 本当に生死を賭けた闘いなどというものは。
 そしてもう一つ。
 自分が学んだ格闘の技で、生き物の命を奪ったのも初めてだった。
 だけど、仕方のないことだ。
 そうしなければ、奈子が殺されていた。
 なのに何故、こんなに身体が震えるのだろう。
 立ち上がろうとした奈子は、痛みに顔をしかめた。
 噛まれた腕の傷と、爪で裂かれた肩の傷。どちらもひどく出血していて、骨まで響くような痛みがあった。
 滴り落ちた血が、足下の草を紅に染めていく。
(いけない…止血しないと…)
 一度立ち上がりかけた奈子は、また膝をついた。
 既に疲労が限界を超えている上に、この多量の出血。
 さらに、極度の緊張から解かれたことで、全身から力が抜けていた。
 目の前が暗くなっていく。
 地面についた手も身体を支えることはできず、奈子はそのまま意識を失った。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.