三章 金色の瞳の少女


 目を覚まして、その時自分が見知らぬ女の子にキスされていた場合――。
 健全な中学三年の女の子としては、いったいどんなリアクションをすればよいのだろうか。
 奈子は、もっとも当たり前と思われる行動を選択した。つまり、悲鳴を上げて飛び起きるというものだ。
 いくら同性に人気のある奈子でも、こんなことに免疫はない。
 その慌てぶりが可笑しかったのか、女の子はくすくすと笑っていた。
 見たところ奈子と同世代くらいだろうか。背は、百六十センチを越える奈子よりも少し低い。
 日本人ではない。
 肌はずっと白くて、頭の横でまとめている髪は、色の濃い鮮やかな金髪だ。
 そして、瞳も濃い金色だった。そのためにちょっと人間離れした雰囲気を漂わせている。
「あ、あ、あんた! い、いったいなにしてたのよっ?」
 手の甲で口を拭いながら、奈子は叫んだ。
 いったい、眠っている間に何をされていたのか……。知らず知らずのうちに鳥肌が立つ。
(眠って……あれ?)
 奈子は首を傾げた。
「エ・ク リワィケ ヤ・アン?」
 女の子が口を開いた。
 知らない言葉だった。
 もっとも奈子は、外国語なんて簡単な英語くらいしか理解できない。それでも中国語やフランス語なら、話している意味はわからなくても、それが何語かくらいは見当がつく。
 少女が口にした言葉は、そのどれにも該当しなかった。
 いったい何語なのだろう。
 それに彼女は何者で、ここで何をしていたのだろう。
 奈子は混乱していた。
 自分の置かれている状況がわからない。
 いったい何故、こんなところで寝ていたのか。
 こんなところ……そう、そこは疎らな森の中だった。奈子は、草の上に直に寝ていたのだ。
 そのことに気付いて、それから少しずつ記憶が甦ってきた。
 奏珠別公園の展望台で稽古をしていたこと。
 帰ろうとした時に不思議な光に包まれて、意識を失ったこと。
 気がつくと見知らぬ山中にいたこと。
 夜になって、空に三つの月を見つけてパニックに陥ったこと。
 そして、豹に似た獣に襲われたこと。
 襲われて、そして……。
 そうだ、ひどい傷を負って倒れたのだ。そこまでは憶えている。
 見ると、獣の死体は数メートル離れたところに横たわっていた。
(あれ? そういえば……)
 すぐに手当をしなければ危険なほどの怪我をしたのではなかっただろうか。
 慌てて自分の身体を見下ろした。
 奈子が着ていたタンクトップは、肩の辺りが破れていて、その周囲が血に染まっている。
 それなのに…。
 その下の肌には傷がなかった。
 かすり傷ひとつない、きれいなピンク色の肌。
 それは不自然にきれいだった。まるで、怪我が治ったばかりのような。
「……まさか」
 怪我をした、というのは勘違いではない。実際、服には出血の痕がある。
 それに、噛まれた腕。
 骨が見えるほどの怪我をしていたはずの右腕も、やっぱり同じ。傷一つなかった。
「まさか……」
 目の前に座っている少女を見る。
 向こうは、にこにこと微笑んでこちらを見ている。人懐っこい笑顔だ。
 他に、近くに人がいる気配はない。
 誰かが傷の手当てをしてくれたというのであれば、それはこの少女しかあり得ない。
 しかし単に「手当て」などといってよいものだろうか。なにか不自然ではないだろうか。
 その時になって、もう一つ不自然なことに気付いた。
 まだ夜なのに、どうしてここはこんなに明るいのだろう。
 その少女の頭上、地面から二メートルくらいのところに光源があった。
 それが、周囲を照らしている。キャンプに使うガソリンランタンよりも明るい光だ。
 しかし、そこには何もなかった。
 電球も。ランプも。
 何もない空中に、ただ、わずかにオレンジ色がかった白い光だけが浮いていた。
「な……に、なんで?」
 その時、少女が静かに立ち上がった。
 こちらに近付いてくる。
 奈子は思わず後ずさった。しかしすぐに、大きな樹に背中からぶつかってしまう。
 少女に手首を掴まれた。
 反射的にその手を振り払おうとする。その瞬間、声が聞こえた。
『……逃げない……話……あるの……」
「え……?」
 確かに、聞こえたような気がした。
 しかし、目の前の少女は口を動かしていない。もちろん、近くに他の人の気配もない。
 しかもその声は、耳に聞こえたのではないように感じた。
 夢の中で聞く声のように、鼓膜を介さずに頭の中にだけ存在する声。
『暴れな……で……』
 まただ。気のせいなどではない。それに、声の主はやはり目前の少女しかあり得ない。口は動かさなくとも、表情の変化と声が一致している。
「テレ……パシー?」
 思わず、そんな言葉が口をついた。
 そんな馬鹿な……と思っても、他に思いつくこともない。
 思わず、動きが止まる。
 その隙をつかれた。
「――っ!」
 すぐ目と鼻の先に、顔があった。そう思った瞬間、奈子は唇を奪われていた。
『暴れないで。これで、話ができるでしょう?』
(……え?)
 慌てて相手の身体を突き飛ばそうとした時に、また声が聞こえた。
 今度は、先刻よりもずっと明瞭に。
 間違いない。この少女が話しかけてきているのだ。しかし、何故キスを?
 何が起こっているのか理解できない。
『手をつなぐだけでもいいんだけど、皮膚よりも、粘膜の接触の方が感度がイイの』
(か、感度って……粘膜って……あのねーっ!)
 際どい台詞に、顔が真っ赤になる。
 頭の中で、くすくすと笑い声がした。
『やだなぁ、なに誤解してんの? そーゆーエッチな意味じゃないって』
 女の子が可笑しそうに目を細めている。
『この方が、言葉が通じやすいってこと』
 自分の勘違いに気付いて、奈子の顔がいっそう赤みを増す。ちょっと考え過ぎだったようだ。
 それからようやく、いま起こっていることの意味を悟った。
 言葉が通じないはずの少女と、こうしてキスすることによって、意志の疎通を行っているのだ。
 以前、超能力もののSFマンガで『接触テレパス』とかいうものを読んだ記憶がある。あれは『超人ロック』だったろうか。
『私はファーリッジ・ルゥ。ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。……ファージって呼んで。ね、ナコ』
(あ、アタシの名前を?)
『気を失っている間に、ちょっと調べさせてもらった』
(調べて……って……)
 なるほど、それで納得がいった。目が覚めたとき、どうしてキスされていたのか。今と同じように、唇の接触によって奈子の記憶を読んだのだろう。
 しかし……。
(ちょ、ちょっと待って。ファージ……だっけ、どうしてあんた、こんなことできるのっ?)
『どうして、って。それは私が腕のいい魔術師だからに決まってるじゃない』
(魔術……師?)
『あのね、ナコ。驚かないで聞いてね。あなたが今いるここは……』
 奈子に心の準備をさせるためだろうか、少女はそこで言葉を切って、一呼吸分の間を取った。しかしそれは、より緊張を高める効果しかもたらさなかった。
 もっとも、いくら心の準備をしていたところで、次の台詞にショックを受けずにいることは不可能だったろう。
『ここは、あなたが住んでいたところとは、まったく別の世界なの』



 異次元の世界。
 パラレルワールド。
 呼び方はいろいろあるだろう。
 つまりは、そういうことらしい。
 奈子がそれを理解するまでには、ずいぶんと時間がかかった。
 いや、理解したくなかったというのが正しいだろう。
 正直にいって、そんな気はしていた。
 この少女……ファージと出会う前から、心の奥底で恐れていたことなのだ。
 見慣れない風景だけなら、まだ他の説明もできた。しかし、夜空に浮かぶ三つの月。炎を操る奇妙な獣。そして、言葉の通じない相手と不思議な方法で会話していること。
 自分がまるで違う世界に放り出されたとでも考えなければ、辻褄が合わない。
 それにしても、何故いきなりそんなことになってしまったのだろう。
『ナコは、手違いで転移魔法の実験に巻き込まれてしまったの。偶然、高位次元における座標が重なる位置に、ナコがいたのね』
 ファージの言うことの意味が正しく理解できたわけではないが、なんとなく雰囲気は伝わる。しかしだからといって、それが何かの解決になるというわけでもない。
(でも……あんた、どうしてそんなに詳しいの?)
『私は魔術師だって言ったでしょう。私が、ナコをここへ連れてきたの』
「な、なんだって? どうしてそんなこと!」
 思わず、声に出して叫んでいた。しかしそれではファージには通じない。
 ファージがまた唇を押しつけてくる。
(どうして、どうしてそんなことをしたの? 早くアタシを元の世界に戻してよ)
『別に、わざとやったわけじゃないよ。言ったでしょ、手違いがあったって』
(手違いって……)
『転移魔法の実験をしていたのは私なの。ナコは、それに巻き込まれてしまったんだよ』
(ま、魔法……?)
『そう、魔法。私はこれでも、一流の魔術師なんだから』
 魔法。奈子の常識では、おとぎ話の中にしか存在しないもの。
 ここは、それが実在する世界だというのだろうか。いやいや、異次元の世界が実在するのなら、魔法使いの一人や二人実在したって不思議はない。もう、何を言われても信じられる気分だ。
(魔法…って…、ここではそれが当たり前なの?)
『人によって力には差があるけどね。自慢じゃないけど私は、強い力を持った魔術師なんだ。で、新しい魔法の実験中にナコを巻き込んでしまったというわけ』
(じゃあ……早くアタシを元の世界に返してよ。きっと心配してる)
 由維が、奈子の帰りを待っている。家を出てから、いったい何時間が過ぎているのだろう。向こうではとっくに夜中過ぎのはず。心配しないわけがない。
『それが……ねぇ……』
 ファージが困ったような表情をする。それを見て、奈子の顔からさぁっと血の気が引いた。
 そういえばファージは「手違いで巻き込まれた」と言っていた。それの意味するところは…。
(まさか……帰れない……?)
 恐る恐る、訊いてみた。
 ファージが誤魔化すような、やや引きつった笑みを見せる。
『そ、そんなことない、ちゃんと帰れるよ。ただ……どうしてこんなことになったのかよく調べなきゃならないし、まだ研究中の不安定な魔法だし……今すぐってわけには……』
(じゃあ、いつになったら帰れるの?)
『いろいろと調べなきゃならないこともあるし……あと二、三日……いや、四、五日かな……』
 なんだか、締め切り前の漫画家か作家のようなことを言う。いまいち信用できない口振りだ。
『十日はかからないと思うよ。あははははー』
 まったく、信用できない口振りだった。とはいえ、他にどうしようもない。
(じゃあ最大で十日として……。その間、アタシはどうすればいいの?)
『こっちで暮らすしかない……ね。大丈夫、ナコのことは私が全部面倒見るから。食事も、寝るところも』
 こうなっては、当面の間ファージを頼るしかなさそうだ。はなはだ不本意ではあるが。
 奈子は大きくため息をついた。
(わかった……。けど、一分一秒でも早く、アタシを元の世界に戻してよ)
 これで、一番大きな問題についてはとりあえず保留だ。奈子にできることがない以上、後はファージに任せるしかない。
 しかし他にも解決すべき問題があった。
(ところで、一つ訊きたいことがあるんだけど……)
『なに?』
(こっちの世界じゃ、言葉が通じない相手とは、こんな風にキスで意志の疎通をするのが当たり前なの?)
『まさか。これはかなり珍しい魔法だよ。ごく一部の、高位の魔術師しか知らないもの』
(アタシが生まれ育った世界じゃ、キスってのは一般に、愛情表現の手段なんだけど?)
『こっちでも、そう』
(だから、話をするのにいちいちキスしなきゃならないのって、すごく抵抗あるんだけど……)
 なにしろ、先刻からずっとキスを続けているのである。しかも女の子同士で。
 いくら奈子が同性に人気があっても、本人は一応ノーマルだ。少なくとも自分ではそう思っている。だからこの状況は、精神的な負担が大きい。ファーストキスではなかったことが、せめてもの救いだろうか。
『私は別に気にしないけど……、ひょっとしてナコ、キスしたことなかった?』
(あるよ。こう見えても最後まで経験済み……って、ちょっと! なに言わせんのっ!)
 怒っているのか、それとも照れているのか、奈子の顔が真っ赤になった。自分で口を滑らせたのだからファージを責めるのは筋違いなのだが、しかし向こうは気にした様子もない。
『まあ、ここなら誰もいないからいいけど、街でこんなことしてたら、あらぬ誤解を受けるよねぇ』
(ホントに、あらぬ誤解……なの?)
 先刻から気になっていたことを訊いた。しかし、訊けば訊いたでその回答が怖い。
(なんだか先刻から、楽しんでいるようにも見えるんだけど?)
『うん、楽しい。ナコってキレイだし、カッコイイし』
 この子ってばやっぱりそっちの趣味だったのか――と、奈子は慌ててファージから離れた。「そっちの趣味」の女の子に迫られることはしょっちゅうだが、だからといって慣れるものでもない。
 奈子の慌てぶりが可笑しかったのか、ファージはこちらを見て笑っている。何か言っているようだが、意味は分からない。表情から察するに「あはは、冗談だって」といったところだろうか。
 そしてまた、奈子に抱きついてくる。
『キスしなくても話が通じるようにできなくもないけど……試してみる?』
(そんな方法があるなら、最初からやってよ!)
『だって、この方が楽しいし……』
(あ、あんたやっぱり?)
『それに、最初は少し頭痛がするかもしれないよ?』
(頭痛なら今だってしてる)
 その原因は多分に心理的なものではあるが。
 ファージは一度離れると、顔の前で両手を合わせて、お祈りでもしているような姿勢になる。口の中で何かぶつぶつと唱えている。魔法の呪文とやらだろうか。
 それから、奈子の頭を挟むように、両手をこめかみに当てた。
 その瞬間。
 いきなり、頭に強烈な衝撃が走った。
 まるで、バットで思い切り殴られたような感じだ。実際にバットで殴られた経験があるわけではないが、多分こんな衝撃に違いない。
 奈子は、頭を抱えてうずくまった。一瞬意識が遠くなり、涙が溢れ出した。
「う……くぅ……痛ったぁ……」
 地面にうずくまって、奈子は呻いた。
「……な、何が『少し頭痛』よっ! マジで死ぬかと思ったよっ?」
「でも、これで話が出来るでしょ?」
 まるで悪びれない様子で、ファージは言った。
 それで、奈子も気付いた。
 今のファージの声は、実際に耳に聞こえているものだ。
 日本語ではない。これまでファージが喋っていたのと同じ、異世界の言葉。
 なのに、その意味が理解できる。
 そして、自分の考えを同じ言葉で話すことができた。
「……いったい、何をしたの?」
「この大陸でもっとも広く使われている言葉……アィクル語っていうんだけど、その知識をナコの脳に刷り込んだの。とりあえず、日常会話に困らない程度だけどね」
「これも……魔法?」
 ファージはうなずいて、言葉を続けた。
「膨大な数のシナプスの結合を一瞬で作り出すわけだから、その時の衝撃でちょっと頭痛を感じるワケ」
「だから、ちょっとじゃないってば」
「そぉ? だから、この魔法もあまり普及しないんだね。あはは……」
 奈子は、お気楽に笑うファージを睨みつけた。
「逆に、アタシの言葉の知識をファージが読みとることはできなかったの?」
「だって私、痛いの嫌いだもの」
「やっぱり痛いってこと知ってんじゃん!」
 何食わぬ顔のファージに対して、思わず殺意を憶える。しかしファージは、そんな奈子の怒りに気付かないのか、それとも気付かないふりをしているのか、意に介する様子もない。
「そろそろ、街に戻ろうか。お腹空いたし」
「街? 街があるの? この近くに?」
 奈子がさんざん歩き回って、結局、灯り一つすら見つけられなかったのに。
「すぐそこだよ。転移魔法を使えば……ね」
「転移……? 魔法の力で、離れた場所へ移動するの?」
「そう。これができる魔術師は、そうそういないんだよ」
 ファージは自慢げに胸を張る。しかし奈子にとっては、空間転移だろうとキスによる意志の疎通だろうと、人智を越えた力であることに変わりはない。どんな魔法がすごくて、どんな魔法がごくありきたりのものなのかは知る由もない。
「あ、街へ行く前に、服を着替えた方がいいかな。ちょっと小さいかもしれないけど、私の着替えを貸してあげる」
 言われてみれば確かにそうだ。
 トレーニングをしていたときのままジャージ姿の奈子は、この異世界ではひどく奇妙なものに映るだろう。
 ファージは、ややチャイナ服にも似た雰囲気の、袖のないワンピースを着けている。生地の色は先刻奈子を襲った、豹のような獣の毛皮に似ていた。
 裾丈は脛まであるが、両側に腰までのスリットが入っていて、太股が露わになっているところが妙に艶っぽい。
 腰には皮でできた幅広のベルトを締めていて、小さなポーチがついている。そして、ベルトには短剣も差していた。
「そーゆーのが、この世界の女の子が着る普通の服?」
 やや躊躇いがちに訊いた。スリットの部分を指差して。
 動きやすそうだし、今の季節は涼しそうだし、それにまあまあ格好いいけど。
 この深すぎるスリットはちょっと恥ずかしい。
 そもそも奈子は、スカートなんて学校の制服でしか着ることはない。口の悪いクラスメイトには「学校一、セーラー服が似合わない女子」とまで言われている。あるいは「ガクランでも来てくれば?」とか。
 そこまでひどくはないだろうと自分では思うのだが、私服はいつもジーンズだ。
「いや。このスリットは、女性騎士の礼服を真似たもの。動きやすいからね」
「できれば、もう少し大人しめの服を貸してくれないかなぁ」
「ナコには似合わないよ」
 間髪入れず、きっぱりと言いきられた。
 確かにスカートが似合わないのは自分でもわかっているが、初対面の、しかも異世界の人間にまで言われると、ショックを受けてしまう。
「絶対、動きやすい服の方がいいって」
「でも……」
「普通の女の子は、素手で炎豹を倒したりはしないと思うけど?」
 ファージは、奈子が殺した獣を指差した。
「そ、それは……」
「とゆーわけで、これに着替えてね」
 そう言うと同時に、いきなりファージの手の中に一着の服が現れた。形はファージが着ているものに似ているが、色はもっと地味な茶褐色だ。
「え? それ、どこから出したの? それも魔法?」
「そう。普段はこれにしまってあるの」
 ファージはポーチから、数枚のカードを取り出した。
 大きさはちょうどテレホンカードくらい。材質は紙のようだが、なんらかの加工をしてあるらしく、表面には艶があって手触りも固い。
 片面には、トランプかタロットを思わせる複雑な幾何学模様が描かれており、その裏には、奈子には読めない文字らしきものが書き込まれていた。
「なに、これ?」
「魔法のカードの一種。こうやって使うんだ。エク・テ・クネ!」
 ファージが意味不明の言葉をつぶやくと、奈子の足元に一足の靴が現れた。
 革製の、短いブーツ。ファージが履いているものとほぼ同じデザインだ。
「このカードにはね、品物をしまっておけるの。こうすると軽いし、かさばらないし、旅の時には必需品だね」
「へぇ……、魔法って便利なものね……」
 奈子は、手の中のカードと服を交互に見た。こんな小さな物の中に服や靴がしまっておけるとなると、確かに旅行には便利だ。
「逆に、カードに物をしまう時は、その品物に意識を集中して、ソー・オ・ネ!」
「え……? きゃあっ! なによこれっ?」
 思わず、悲鳴を上げた。
 無理もない。ファージの呪文と同時に、奈子は全裸になっていたのだ。
 慌てて、手に持っていた服で身体の前を隠す。
「夏とはいえ夜だし、早く服着ないと風邪ひくよ?」
「誰のせいよっ!」
 顔中真っ赤にして、奈子は叫んだ。
「ちょっと、あっち向いてて!」
「別に、女同士で恥ずかしがらなくてもいいのに……」
「だからって、じろじろ見ないでよ!」
「だってぇ。きれいな女の子の裸って、目の保養だと思わない?」
「それはそうだけど……って、そうじゃなくて!」
「じゃあ、これも」
 ファージが他のカードから、下着も取り出す。
 奈子は手早く、それらの品を身に着けた。ファージは奈子よりも小柄なので少し小さめだったが、それでも着れないことはない。
 着替えを終わった奈子を見て、ファージは満足げにうなずいた。
「うん。これなら誰も、ナコが異世界からやってきたなんて思わないね」
「でも……」
 奈子は心配そうに、この世界の衣類を身に着けた自分の身体を見おろした。
「服はともかく、髪の色も目の色もファージと違うけど……大丈夫かな?」
 奈子の髪は濃い茶色だった。脱色しているわけではなく、生まれつきの色である。瞳も、平均的な日本人よりはやや明るい色だ。
 それに対してファージの髪は、鮮やかな濃い金髪。そして瞳も金色だった。
 奈子はこれまで、こんな色の瞳を持った人間は見たことがない。
「あ、平気平気。私の方が例外」
 ファージは笑って言った。
「私の出身はこの地方じゃないし……。このあたりなら、ナコみたいな髪の色は珍しくないよ。それに、この目は私だけのもの」
「ふぅん…」
 奈子は曖昧にうなずいた。
「でも、ファージの瞳ってきれいだよね。金色に輝いて……まるで宝石みたい」
「んふ、ありがと」
 嬉しそうに金色の目を細めて礼を言うと、ファージは奈子の手を取った。
「じゃ、戻ろっか」
 その言葉が終わらないうちに、二人の身体は淡い光に包まれた。
 一瞬、ふわりと身体が軽くなったように感じ、そして気がついた時には、奈子は見知らぬ街の中にいた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.