四章 魔凱史


 突然の不思議な出来事に神経が高ぶっているためか、それとも不安のためか、ベッドにもぐり込んだ後も、奈子はなかなか寝付けなかった。
 街へ着いたのはもう夜更けで、通りに人影はほとんどなかったが、それでもまだ、明かりの灯っている建物はいくつもあった。
 ファージが滞在しているという小さな宿屋その一つだ。もだ。
 夜食を用意してもらって、簡単に入浴を済ませて、奈子はすぐにベッドに倒れ込んだ。
 もう、死にそうなほどに疲れ切っていた。肉体的にも、そして精神的にも。
 なのになかなか寝付けずに、ファージが奈子の倍以上の量の夜食を平らげて部屋に戻ってくるまで、ベッドの中で寝返りを繰り返していた。
「ナコ、眠れないの?」
「ん……」
 曖昧にうなずく。
「ま、無理もないか。いきなりこんなことになったんじゃあ……」
 そういうと、ファージもベッドにもぐり込んでくる。セミダブルくらいの大きさは充分にあるので、女の子二人が一緒に寝るのに不自由はない。
「でも、寝ておかないと身体がもたないよ?」
「それはわかってるんだけどね……。ね、ファージ、何か話してくれない?」
「何か、って?」
「この世界のこととか、ファージのこととか……。なんでもいい」
 そう言うと、ファージは少し考えるような表情になった。
「じゃあ、話してあげる。この大陸の歴史を……」
 そうしてファージは、彼女にしては珍しく、静かな口調で話しはじめた。



 この大陸は、一般にコルシアと呼ばれている。
 古い、古い言葉で『大地』という意味だ。
 大陸の中央部には南北に走る長大な山脈がそびえ、その西側は広大な砂漠で人間は住まない。
 人間の土地は、大陸の東半分だけでしかないが、それでも人間が支配するには充分に広すぎる土地だ。狭義では、この、人間の住む範囲がコルシアと呼ばれる。
 今から千五百年ほど前のこと。
 その当時、大陸北部にあったストレイン帝国が、コルシアの過半を支配していた。
 ストレイン帝国はやがて、コルシア中央部を東へ向かって流れる大河コルザ川を越えて、大陸の南側への侵攻を開始したが、その頃の大陸南部は無数の小国に別れ、ストレインに対抗できるほどの勢力は存在しなかった。
 しかし、ストレイン帝国が大陸全土を支配下に置くのも時間の問題と思われた頃、状況が変わりはじめた。
 ある小国の王子が、大陸南部の有力な国々を説得し、ストレインに対抗しうる同盟軍としてまとめ上げたのである。
 その中心は、トリニア、ラカス、テンナ、ハレイトン、ケリア、ドット、バーパス、レイモス、アンシャスという九つの王国。この同盟は、トリニア王国連合と呼ばれた。
 十数年に及ぶ激しい闘いの末、同盟軍はストレイン帝国を滅ぼした。
 トリニア王国連合による治世は、その後五百年近く続いた。その間、帝国寄りだった国々との小規模な戦争はあったものの、コルシアの歴史上もっとも平和な時代だった。
 それは強大な魔法によって支えられた文明。今よりも遙かに進んだ文化。
 ストレインからトリニアに至るこの数百年間を、後の歴史学者は特に『王国時代』と呼んでいた。



「トリニアの時代は、今から千年くらい前まで続いたの」
 ファージは言った。
 奈子は、黙って聞いている。
「だけど、平和は永遠のものではなかった。ある日突然、平和と繁栄の時代は終わりを告げた……」



 それは、突然の侵攻だった。
 ストレイン帝国が滅亡した時、一部の勢力が帝都を脱出して、遙か北の地へと逃げ延びていったのだ。
 それまで、人もほとんど住まなかったような土地に、彼らは新しい国を築いた。
 それが、後ストレイン帝国である。
 何百年もかけて力を取り戻したストレインがトリニアへの侵攻を開始するまで、トリニアの人々はその勢力を見くびっていた。後ストレインは北の辺境の小国に過ぎず、その繁栄は過去のものだと。
 だから、緒戦は完璧な奇襲だった。最初の戦いでトリニアは大きな損害を受け、戦火は瞬く間に王国連合全域に広がった。
 トリニアとストレインの、二度目の全面戦争。それは、五百年前よりも遙かに凄惨なものとなった。
 王国時代、魔法技術の進歩はめざましいものがあった。今では伝説となっている、高度な魔法のすべてを注ぎ込んだ戦争。その結末は、凄惨としか言いようのないものだった。
 高位の魔術師や竜騎士の魔法によって、大都市はことごとく破壊され尽くして。
 後には草一本生えない荒野が広がり。
 竜にも劣らない力を持った人造の魔獣が大地を埋め尽くして。
 人間が長い時間をかけて築き上げてきたもの。それが滅び去るのに要した時間は、ほんのわずかなものだった。
 そして、冬の時代がやってきた――。
 都市を破壊するための強大な魔法によって引き起こされる爆発は、大量の土砂と、火災による煤を空高くまで巻き上げた。それは太陽が大地にもたらす光と熱を遮り、真夏に雪が降るような気候が何年も続いた。
 そして、魔力の副作用である瘴気が大地を覆い、疫病が流行し、さらには魔術師の制御を離れた魔獣が人々を襲い、人間は瞬く間にその数を減らしていった。
 やがて、陽の光が再び地上に届くようになった頃には、世界の人口は王国時代最盛期の十分の一ほどにまで減っていたという。
 しかも、それで争いが終わったわけではなかった。
 僅かな「人間が安全に住める土地」を巡っての争いは絶えることがなく。
 やがて、王国時代の偉大な技術も知識も、そのほとんどが失われてしまった。
 千年が過ぎていくぶん安定を取り戻したとはいえ、いまだに国々は争いを止めず、王国時代の平和も繁栄も、遠い過去の夢物語でしかない。



「――私たちは今、長い長い黄昏の時代を生きているの」
 寂しそうな口調で、ファージはそう言った。それで、話を終えた。
 奈子は黙っていた。言うべき言葉が見つからなかった。
 ベッドに横になったまま、黙って天井を見つめていた。
「ごめん。つまんない話、しちゃったね」
「ううん」
 奈子は首を横に振る。
「私の世界だって……それほど変わらないと思う。何十年か前に、世界中を巻き込むような戦争もしているし。今は表向きは平和だけど、小さな戦争はあちこちで起こっているし…。魔法じゃないけど、大陸そのものを滅ぼすような兵器は存在するし。ひとつ間違えば、明日にでもこの世界よりひどいことになるかも知れない」
「でも、明日は今日よりも少しは良くなるかも知れない。そう思って、眠ろう。もう遅いよ。モクル・ネ」
 ファージの人差し指が額に当てられると、急に瞼が重くなった。
 何か魔法を使ったらしいと気付いたのは、翌朝、目が覚めてからのことだった。



「ナコ、起きて。朝だよ」
 耳元で声がする。
 朝……起きなきゃいけない。意識の奥底ではそう思っていても、身体がなかなか目覚めようとしない。
「う……ん……」
「早く起きないと、目覚めのキス、しちゃうぞ?」
 その一言は効果てきめん。奈子は跳ねるように飛び起きる。
 一瞬、おやっという表情であたりを見回し、そして小さくため息をついた。
「どうしたの?」
 金色の瞳が、奈子の顔をのぞき込んでいる。
「え……なんでもない」
 奈子は力のない声で応えた。
「ただ……やっぱり、夢じゃなかったんだなぁ……って」
 そう言って、自嘲めいた笑みを浮かべる。
 夢を見ていた。夢の中で、由維の作ったお菓子を食べていた。
 いつも通りの風景。それが、奈子の日常。しかし現在置かれている状況は、そんな日常からはかけ離れたものだった。
 ファージが、すまなそうな表情を見せる。元はといえば彼女のせいなのだ。
 しかし、謝罪めいたことはなにひとつ口にせず、ただ、こう言った。
「朝ごはんの用意ができてるから、行こ」
「……うん」
 奈子はベッドから出ると、ファージに続いて階下の食堂へ向かった。
 昨夜の夜食もそうだったが、宿の食事は意外と口に合った。もともと奈子には好き嫌いはあまりないが、なにしろ異世界の食事である、何かとんでもないゲテモノが出てきたらどうしようかと思っていたのだ。
 今朝のメニューは、インド料理のナンに似たパンに、何の乳が原料かはわからないがクリーム状のチーズ、野菜と干し肉のスープ。そして、赤紫色をした甘酸っぱい果物のジュース。
 朝食としては、質、量ともに申し分のない内容だ。
「今日は、これからどうするの?」
 食事をしながら、奈子はこの後の予定を訊いた。しかし、すぐには返事がない。
 見るとファージは、口いっぱいに食べ物を頬ばって、何も言えずにいたのだ。
 昨夜から感じていたことだが、ファージはどうも食い意地が張っている。しかも奈子より小柄なくせに、ものすごい大食だ。
 この身体のいったい何処に、これだけの食べ物が入っていくのだろう。奈子は驚嘆の表情で、ファージが食べる様子を見ている。
 やがて、奈子の倍以上の量を平らげたファージは、満足そうに大きく息を吐き出した。
「これからまず、ナコの着替えを買いに行って、それから、神殿でナコを元の世界に帰すための研究」
「神殿?」
 聞けば、この街には古い神殿があるのだそうだ。
 現在の街の規模からすると大きすぎるようにも思える建物なのだが、王国時代に建てられ、長い冬の時代を越えて今に至るものらしい。
 当然、その時代の魔法に関する資料なども残っている。
 王国時代の魔法技術の資料を探して旅を続けているファージは、それを目当てにこの街へ来たのだそうだ。
 朝食の後、買い物をしながらそんな話を聞いた。
 ファージは奈子のサイズに合う服を何着か買い、それを昨日と同じように魔法のカードに封じ込めて渡してくれた。
 気楽に買い物をしている様子を見ると、ファージはかなり裕福らしい。曰く「腕のいい魔術師ってのは、お金には不自由しない」ということだそうだ。
 魔術師が商売として成り立つというのは、少し意外な気もした。この世界の人間のほとんどが、ごく普通に魔法を使えるらしいというのに。
 しかしよくよく考えてみれば、不思議なことではない。要するにプロとアマチュアの違いなのだろう。誰だってボールを投げることはできるが、プロ野球の投手になれるのは一握りの人間でしかない――そういうことだ。
 なんにせよ、ファージが経済的に恵まれているというのは幸いだった。奈子が元の世界に戻るまでの間、生活のすべてはファージに依存しなければならないのだから。


 この街――ルキアの中心部にある神殿は、かなり離れたところからでも見える、大きな建物だった。特に、高い塔が目立つ。
 しかし、実際に使用されているのはそのうちの一部分であるらしい。
「今の技術じゃ、これだけの規模の神殿を維持するのは大変なの。それに、昔はこの街も今よりずっと大きかったし」
 神殿の門をくぐりながら、ファージが説明する。彼女は顔パスで神殿の中へ入れるようだ。何人か、神官と思しき人たちとすれ違ったが、顔見知りらしく親しげに挨拶してくる。
 ファージは数日前からこの街に来ているというし、そもそも今回の訪問が初めてではないというから、当然のことだろう。
 神殿の奥にある図書室のような部屋が、ファージの目的地だった。
「私はここで調べものしてるから、ナコは、適当に暇つぶししてて。ここの本は自由に読んでも構わないし」
「ん……」
 奈子は曖昧にうなずきながら、部屋の中を見回した。
 いくつもの書架が並び、古ぼけた書物がびっしりと収められている。その数は少なく見積もっても数千冊にはなるだろうか。
 奈子には読めない文字で書かれた物も多い。奈子が教わったアィクル語以外の言語か、さもなくば古語なのだろう。
 奈子はどちらかといえば体育会系であるから、こうした大量の本と向き合うのは苦手だ。それでも、興味の惹かれそうな本を何冊か選びだし、それを持って席に着いた。
 建物の中は静かで、分厚い本を何冊もひろげたファージが、何かメモをとっている音だけが微かに響いていた。
 奈子は机に両肘をついた、やや行儀の悪い姿勢で本を開いた。
 それは、王国時代の歴史を綴った歴史書だ。奈子はすぐに、本に夢中になった。大量の本が並んでいる光景は苦手でも、読書そのものは決して嫌いではない。
 王国時代の歴史の主役は、竜騎士である。
 巨大な竜を駆って大空を舞い、最高の魔法と剣技を駆使する者たち。
 王国の栄光の象徴。
 一人の竜騎士は、一万騎の重装騎兵にも匹敵するといわれていた。
 竜騎士を倒せるのは竜騎士のみ。多くの場合、戦争の最後の決着をつけるのは、竜騎士同士の一騎打ちであったという。
 無論、竜騎士の数はそれほど多くない。その素養を持った人間はごく僅かであったし、竜の数はさらに少なかった。
 王国時代の最盛期でさえ、その数はトリニア王国連合全体で三十人程度であったという。後ストレイン帝国ではもう少し多かったらしいが、それでも五十人に満たない。
 つまりこの大陸全土で、一番多いときでも僅か八十人の竜騎士しか存在しなかったことになる。
 その中でも特に高名な者たちの物語は、読んでいて面白かった。
 トリニアの竜騎士の祖、戦いと勝利の女神の化身エモン・レーナ。
 その夫であり、トリニアの王エストーラ・ファ・ティルザー。
 エストーラの従妹で、トリニア最強の竜騎士と名高いクレイン・ファ・トーム。
 もっとも華麗な剣技の持ち主、ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。
 その強大な力故に魔王と呼ばれて怖れられた、ストレイン帝国の皇帝ドレイア・ディ・バーグ。
 ストレイン随一の名将としてトリニアを苦しめ、後にストレインを出奔して自分の王国を築いた北の女帝、レイナ・ディ・デューン。
 女性の竜騎士に多くのページが割かれているのが意外だった。竜騎士全体で見れば、やはり女性はごく僅かでしかない。
 しかし、その僅かな女竜騎士の多くが、竜騎士として特に強い力を持っていたのがその理由だ。歴史に残る最初の竜騎士、エモン・レーナが女性であったことと、なにか関係があるのだろうか。
 別な本には、そうした竜騎士たちの肖像が描かれていた。
 その中で特に気に入ったのが、ストレイン帝国の竜騎士だったレイナ・ディ・デューンだ。長く美しい黒髪と、意志の強さを感じさせる鋭い瞳が印象的だった。
(ちょっと、アタシに似てるかも……)
 そう思ったが、それは少し図々しいかも知れない。レイナの方が遙かに大人っぽく、そして客観的に評価すれば、幾分美人であるようだ。
 そもそも女性の竜騎士たちのほとんどが、ややきつい感じで気の強そうな顔立ちだから、奈子と雰囲気が似ているのも当然だ。
「ナコ、そろそろお昼だよ」
 不意に声をかけられて、奈子は驚いて顔を上げた。
 目の前に、ファージが立っている。いつの間に用意したものか、大きなバスケットを抱えていた。
「お昼……?」
「今日は天気もいいし、中庭で食べよ」
「うん」
 奈子も立ち上がって、本を書架に戻した。ファージの後に続いて神殿の中庭に出る。
 今日もいい天気だ。気温はけっこう高いが、湿度が低いためにそれほど気にならない。
 芝生の上に置かれている小さなテーブルに、ファージはバスケットの中のお弁当を広げた……と思う間もなく、猛烈な勢いで食べはじめる。
 メニューは、朝食の時と同じようなパンに、肉や野菜をのせてくるくると巻いたもの。奈子の感覚でいえばサンドイッチのようなものだろうか。四〜五人分くらいはありそうな量だが、少なくとも三人分はファージのお腹に収まるのだろう。他に、洋ナシに似た形の果物がいくつかあった。
「……それで、アタシを元の世界に返すための研究は進んだの?」
 奈子は、一番気がかりなことを訊いた。口いっぱいに頬ばったものを強引に飲み込んでから、ファージは応える「。
「ん……。新しい資料を見つけたから、二、三日中にはなんとかなりそう」
「そっか……、よかった」
 奈子は安堵のため息をついた。もしも帰れなかったらどうしよう――そんな不安が常につきまとっていたのだ。
 それからふと、考えるような表情になる。
「ねぇ、アタシは、新しい魔法の実験に巻き込まれたって言ってたよね? ファージはもともと、どんな魔法を研究していたの?」
「んー、なんて言ったらいいかなぁ……。他の世界との間に道を開いて、より強大な魔力を得る魔法……とでも言おうか」
「何故そんなことを?」
 ファージがその問いに答え始めるまでに、僅かな間があった。この世界の魔法について何も知らない奈子に対して、どう説明すればよいかと考えているようだ。
「それにはまず、魔法というものの原理を説明しないとね。魔法の力……魔力の源は、どこから来るか知ってる?」
 奈子は当然、首を横に振る。
「ナコは先刻、王国時代の竜騎士の本を読んでいたみたいだけど。竜騎士の魔法は、砦の一つや二つ、簡単に破壊することができたんだよ。それだけのエネルギーは、どこから来ると思う?」
「どこから、って……」
 そんなもの、考えたってわかるはずがない。
 おとぎ話の魔法使いは、杖を振ったりちょこちょこと呪文を唱えるだけで、様々な奇蹟を起こしてみせた。魔法とはそういうものだと思っていた。
「……何もないところから『力』を出現させるから、魔法っていうんじゃないの?」
「それじゃ、エネルギーの保存則に反するでしょ」
 そんなことも知らないのか、といった表情でファージが言う。
 奈子は少し驚いた。自称『魔術師』の口から「エネルギーの保存則」などという言葉を聞くとは思いもしなかったから。
 それが事実とすれば、この世界の『魔法』とやらは、物理の法則に従った現象ということになるかもしれない。
「魔力というのは、空間を満たすエネルギーの総称。それは、精神の働きで制御することが可能なもの。それが、魔法なの」
 ファージは真顔で言う。どうやら、奈子をからかっているというわけではないらしい。魔法というものに対する認識を、改める必要がありそうだ。
「空間というものは、それ自体エネルギーの塊のようなもの。今、私たちがいるこの空間も、大きな『力』で満ちているの。でも、それは極めて安定したもので、何かに利用するということはできない。つまり……」
 滝を落ちる水は岩に穴を穿ち、流れる水は大きな水車を回す。それはつまり、水がエネルギーを持っているということだ。地上に住む人間は、その力を利用することができる。
 しかし、水の中に棲む魚にとってはどうだろう。流れに逆らって泳ぐことをせずにただ流されている時、その魚にとって周囲の水は静止しているのと同じで、なんの力も及ぼさない。
 それと同様に、空間そのものが持つ『力』も、同じ空間に住む者にとっては意味をなさない。
 しかし、違う世界なら――。
「水を入れた樽を二つ、重ねたところを考えてみて」
 下の樽には、魚が入っているとしよう。それだけでは、上の樽の存在はなんの意味も持たない。しかし、その樽の底に穴を開ければ、水は相応の勢いで下の樽に流れ落ちる。その水勢は、当然下の樽の水にも動きを引き起こすことになる。
「ナコの住む世界と、私の住む世界が違うように、世界というものはひとつじゃない。無数に存在するといってもいいんじゃないかな。普段はその存在を知ることはできないけどね。異なる世界の間に穴を開ければ、異世界の空間そのものが持つエネルギーを利用できるというわけだよ」
「はあ……」
 奈子は曖昧にうなずいた。
 わかったような、わからないような。そんな表情だ。
 ファージは話を続ける。
「異なる世界との間を自由に行き来する能力を持った存在『精霊』の力を借りてエネルギーを取り出すのが精霊魔法。もっとも一般的な魔法だね。普通の人が使う魔法がこれ。それに対して、自分の精神力で強引に次元の壁をこじ開けるのが、上位魔法。うまく行けば精霊魔法以上の力が得られるけど、安定性に欠けるし、個人の資質による力の差も大きいんだ」
「ファージは、その上位魔法を使えるわけ?」
「当然でしょ。そうでなきゃ一流の魔術師とは言えないもの」
「ふぅん……でも……」
 奈子は、これまでの話を頭の中でもう一度反芻してみる。まだまだ疑問はあった。
「それと、アタシがこの世界に迷い込んだことは、どうつながるの?」
「人が魔法を使う時、異世界との間に小さな穴が開く。そこから魔力が導かれるんだ。その穴を大きく広げて、そこを通り抜けて次元の隙間を近道するのが転移魔法の原理ってわけ。ここまではいい?」
「うん」
 奈子はうなずく。
「強大な魔力を導き出すには、二つの方法がある。一つは、穴を大きくすること。もう一つは、次元的にできるだけ『遠い』世界と穴をつなぐこと。高さが同じなら、より大きい石を落とした方が痛い。石の大きさが同じなら、より高いところから落とした方が痛い。それと同じ」
「うん、それはわかる」
「理想は、その両方なわけ。より遠くの次元に、より大きな穴を開ける。ところが先刻も言ったとおり、次元の穴は転移魔法にも利用される」
「たまたまファージが開けた穴の先がアタシの世界につながって、しかもアタシが落ちるほどに大きかった、と?」
「そういうこと」
 ファージは笑ってうなずいた。その後頭部を軽く小突く。やっぱり悪いのはファージだ。
 話の間に食事は終わって、ファージは温かいお茶を淹れてくれた。よい香りのするカップを受け取って口をつける。
 一口飲んでから、さらに訊いた。
「ファージってさ、今でも一流の魔術師なんだよね? なのに、より強い力を求めるの?」
「力のある者は、さらなる力を欲する。そういうものじゃない?」
「だけど……」
 奈子は一瞬口ごもったが、それでもやっぱり言葉を続けた。
「より強い魔力。それって、王国時代の末期に世界を滅ぼしかけた力なわけでしょう? それを、求めるの? なんのために?」
「別に、大それた目的があるわけじゃないよ」
 いつの間にか、ファージの顔からいつもの無邪気な笑みが消えていた。珍しく真剣な表情で、まっすぐに奈子を見ている。
「ナコは、思ったことない? 誰よりも強くなりたいって」
「それは……」
 それは、確かにある。格闘技を学ぶ者なら、誰でも考えることではないだろうか。
 もちろん、現実には不可能かも知れない。それでも、必ず一度は夢見ることだ。
 誰よりも強くなりたい。最強になりたい。
 奈子は、格闘技が好きだった。
 全力を尽くして強敵と闘うことは楽しかった。
 だけど本当に楽しいのは、その強敵を倒して、自分の強さを確認することではないだろうか。
 他人よりも優れた存在でありたい。そう思わない人間は少数派だろう。
「私は、強くなりたいよ。生きていくために。自分の思うとおりに生きていくために……ね。誰かに生き方を強制されるなんて、嫌じゃない?」
 その言葉には奈子もうなずいた。しかし、その言葉に込められた本当の意味を知るのは、ずっと後のことだった。



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