五章 たたかう、力


 それから数日間は、同じような日々の繰り返しだった。
 ファージは朝から、神殿の図書室で研究に没頭している。奈子は同じく図書室で本を読んでいるか、それに飽きると街の中をぶらぶらと歩いてみたりする。そして昼になると宿でお弁当を受け取って、神殿にいるファージと一緒に食べる。
 そんな生活が、徐々に身体に馴染んできていた。焦りや不安がまったくなかったといえば嘘になるが、それでも最初の頃に比べれば落ち着いたものだ。
 こちらの生活習慣にも、少しずつ慣れてきた。人前でとんでもない失敗をして、注目を集めることも少なくなった。
 人間の生活なんて、根本ではそう大きな違いはないのかも知れない。たとえここが、剣と魔法が支配する世界であったとしても。
 それでもこの世界では、魔法が生活の中に溶けこんでいる。夜の照明にも、炊事をはじめとする様々な家事にも、魔法の助けを借りていた。
 もっともそれは、奈子が抱いていた、呪文ひとつでどんな奇蹟でも起こせる『魔法』のイメージとは少し違う。
 ファージの説明からわかったことだが、要するにこの世界の魔法とは、異次元から得られるエネルギーと、その制御手段の集大成なのだ。奈子の世界における電気や化石燃料の替わりに、魔法が様々な場面で用いられるというだけの話だ。
 だから奈子には、ひとつだけ気をつけなければならないことがあった。それは、魔法が使えないことを知られないようにすることだ。
 この世界の人間は、ほぼ例外なく魔法を使える。ごく僅かにその素養を持たない者もいるが、それは一種の先天的な奇形だった。


 その日、奈子はいつものように昼食を取りに宿へ戻っていた。昼時、宿の食堂は泊まり客以外にも大勢の客で賑わっている。
 ファージの食べっぷりをよく知っている宿のおばさんは、ずっしりと重いバスケットを渡してくれた。
 それを受け取って宿から出ようとした時、背後から下品な男たちの笑い声が聞こえた。そんな中に、悲鳴らしき女の子の声が混じっているのに気付いて、奈子は振り返る。
 見るからに柄の悪そうな男が四人、昼間から酒を飲んでいるのか赤い顔をして、宿で働いている女の子にからんでいた。
 無理やりお酌でもさせようとしているのだろう。嫌がる女の子の腕を乱暴に掴んでいる。
 奈子は微かに眉をひそめると、無言でそちらへ歩いて行った。持っていたバスケットを傍らのテーブルに置くと、女の子を掴んでいる男の腕をいきなりねじり上げる。
 男が悲鳴を上げ、女の子を放す。それでも奈子は構わずに、腕にさらに力を込めた。
 場違いな男の悲鳴に、周囲の客たちの視線が集まる。あちこちで驚きの声が上がった。
 無理もない。奈子のような女の子が、ふたまわり以上も大きな身体をした男の、筋肉で盛り上がった太い腕を片手でねじり上げているのだから。
 その男の仲間たちも突然のことに状況が飲み込めないのか、ぽかんとした表情を見せている。
 実際のところ、奈子の腕力なんてそれほど大したものではない。女の子としてはかなりのものだろうが、力自慢の男に比べればまるで問題にもならない。
 それでも関節と筋肉の構造を熟知し、てこの原理を応用すれば、こういった芸当も可能なのだ。奈子が学ぶ北原極闘流は、表向きは空手だが、その実態は投げ技や関節技も認められた総合格闘技だ。特に、古流柔術の関節技は多く取り入れられている。
 男の肩が鈍い音を立て、悲鳴が途切れたところで奈子は手を放した。折れてはいないが、肩を脱臼したはずだ。別に、やりすぎたとは思わない。どうせ、自分が痛い目に遭わなければわからない連中なのだ。
「やめなさいよ、嫌がってるじゃないの」
 女の子を背後に庇うようにして、奈子は言った。
 こういった状況には慣れている。これまでにもよくあったことだ。
 奈子の実力は同世代の並の男子など歯牙にもかけないから、クラスメイトや後輩に頼まれて、しつこいナンパや痴漢の撃退にしょっちゅう駆り出されていたものだ。それは奈子にとって、ちょうどいい実戦練習の場だった。
「て、てめえっ! なにしやがる!」
 肩を押さえた男が叫んだ。野太い声だが、涙目なのでいまいち迫力に欠ける。
「そんなでかい図体をした男が、女の子に腕を掴まれたくらいで泣くんじゃないよ。みっともない」
 奈子はからかうように言った。周りで様子を見守っている客たちが、あちこちで失笑を漏らす。
 男の顔が、怒りのあまり真っ赤になった。力任せに奈子に掴みかかろうとする。
「遅い!」
 奈子の声と同時に、ドンッと重い音が響く。奈子の足が、床を踏み鳴らした音だ。中国拳法でいうところの震脚である。
 同時に、掌底が男の鳩尾に打ち込まれていた。身体がくの字に曲がる。
 そこへすかさず、顔面を狙って左右の掌打を連発する。脳が揺さぶられた男は、目の焦点が合わなくなる。相手の動きが止まったところで、掌底で真下から顎を打ち上げる。
 男の身体がのけぞり、胴体ががら空きになった。そこへ、渾身の正拳突きを叩き込む。
 それで終わりだった。男はその場に崩れ落ちる。
 実際には、ほんの二、三秒のことだったろう。
 一瞬、食堂全体が沈黙に包まれる。
 奈子は満足していた。今の技は完璧だった。格闘技は実戦で使えてナンボ――奈子を指導してくれた先輩は、いつもそう言っていた。それが、武道とスポーツを画するものだった。
「こ、このガキ!」
 倒れた男の仲間が我に返って、テーブルに立てかけてあった剣の柄に手を伸ばす。
 奈子は、傍らのバスケットを掴んで投げつけた。
 男は反射的に、バスケットを手で払いのけようとする。その隙に、奈子は身体を低く沈めた。野球のスライディングのような姿勢で、相手の膝を蹴る。バランスを崩した男は、大きく脚を開いて踏みとどまった。
 狙い通りだった。奈子は両手で身体を支え、逆立ちするように股間を蹴り上げる。一瞬の呻き声とともに、男の動きが止まる。
 その隙に立ち上がって、首を狙って上段の回し蹴りを叩き込んだ。糸の切れた操り人形のような姿で、男は床に倒れた。
 これで二人。だが、相手はあと二人いる。
 奈子は、大きく息をした。
 二人があっという間に倒されたことで怖じ気づいてくれればいいのだが、あまり期待はできないだろう。どう考えても、小娘にやられて大人しく引き下がるようなタイプではない。
 四対一というのは、実際のところかなりのハンデだ。まともに闘っては、相当な実力差があっても勝つのは難しい。
 では、どうすればいいのか。
 基本は簡単だ。四対一で闘わなければいい。
 四対一の闘いではなく、一対一の闘いを四ラウンド行うと考えればいい。同時に複数を相手にせず、一人ずつ確実に仕留めていく。
 ここまでは上出来だった。
 相手の不意をついて、二人までを無傷で倒した。
 そのために、少しばかり慢心していたかもしれない。この時の奈子は、大切なことを忘れていた。
 それまで座っていた二人のうちの片方が、ガタンと大きな音を立てて立ち上がる。前の二人に比べると体格はやや小柄だが、目つきが鋭い。
(ちょっとは、強そうかな……)
 相手が冷静なのが気にかかる。激昂して冷静さを失ってくれる相手の方がやりやすい。
「なにやら奇妙な技を使うようだな」
(奇妙って……、空手や拳法を見たことないの?)
 一瞬そう思ったが、すぐに思い出した。
 ここは異世界なのだ。空手も中国拳法もあるはずがない。とはいえ、この世界なりの格闘技はあるのだろうが。
「では、こちらも本気で行くか」
 男が剣を抜いた。
 奈子との間合いはまだ三メートル以上ある。たとえ剣でも届く距離ではない。
 しかし、男は距離を詰めようとはせず、空いている方の掌を奈子に向けた。
「――っ!」
 突然、男の手の中に炎が現れた。それが、奈子に向かって飛んでくる。
 奈子は反射的に、身を沈めて炎をかわした。
(ま、魔法っ?)
 髪が焦げる匂いがした。完全にはかわしきれなかったらしい。
「ショウ・ウェブ!」
 男が叫ぶ。
 その手の中に、大きなリンゴくらいの光る球体が出現する。その動きは先刻の炎よりも数段速く、体勢の崩れていた奈子にはかわしきれなかった。
 光の球は、奈子の胸のあたりで突然破裂した。衝撃で壁に叩きつけられる。
 背中を強く打ち、痛みのあまり呼吸が止まった。
「あ…ぅ…」
 奈子はその場に膝をついた。
 自分の愚かさに腹が立つ。
 すっかり失念していた。ここは、魔法が当たり前に存在する世界だということに。
 そのことを忘れて喧嘩を売るなんて、無謀にもほどがある。
 立ち上がりながら、奈子は手の甲で口を拭った。壁に叩きつけられたときに口の中を切ったのか、唇に少し血が付いていた。
「少しはやるのかと思ったが、所詮はこの程度か」
 男が嘲るように言った。手の中に、再び光球が現れる。
 反射的に、両手を交差させて顔面をブロックする。腕に当たった光球が破裂し、骨まで衝撃が響いた。
 まるで、木刀で殴られたのを受け止めたような感じだ。痺れた腕は、しばらくまともには動かせまい。
 奈子が魔法による攻撃をかわせないことを悟ったのか、男の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。またゆっくりと掌を奈子に向けた。
「く…」
 奈子は唇を噛んだ。
 昨日、ファージが言っていた。
 魔法による攻撃は、同じく魔法による防御結界で防ぐことができる、と。そして魔法を使わなくとも、精神力の集中によって、自分に向けられた魔法の効果はかなり軽減できるのだとも。
 魔力の源は異なる次元が持つ空間のエネルギーだが、それをこの世界に引き出すためには、精神の働きが大きく関わっているためだという。
 かといって、この状況でそれを試してみるわけにもいかない。こんなことなら、ファージにもっと詳しく訊いておけばよかった。
 今は、自分が身につけている知識と技術だけで闘わなければならない。だが、剣ならともかく、魔法を使う相手との闘い方など教わったことがあるはずもない。
(いや、まてよ……)
 あれを、魔法と考えなければどうだろう。
 そう、ただの飛び道具だと思えば。
 男の手の中に、また光球が現れる。その瞬間、奈子の手は傍らにあった椅子を掴んでいた。
 それを、男に向かって投げつける。椅子は、光球に当たってばらばらに砕けた。
 椅子を投げると同時に、奈子は床を蹴って大きくジャンプしていた。空中で一瞬身体を丸め、背筋力に全体重を加えた後ろ回し蹴りを叩き込む。
 北原極闘流で、もっとも威力があるといわれる蹴り、飛鷹脚だった。
 顔面をまともに蹴られた男は、もんどり打って倒れる。奈子は両腕を広げて、バランスをとって着地した。
 着地の衝撃が傷に響く。
 しかし、まだ終わってはいない。
 あと一人、残っている。
 奈子は、小さく深呼吸した。
 最後の男が、ゆっくりと立ち上がる。身体も大きく、この四人の中ではリーダー格といった雰囲気だ。
「小娘と思っていたが……、なかなかやるな」
 男は面白そうに言うと、傍らにあった剣を抜いた。刀身はやや短めだが、肉厚の刃だ。
 屋内で長い剣を振り回すのは意外と邪魔なもので、その点、この選択は正しいと言える。椅子やテーブルといった障害物も多いのだから、肉厚の刀身の方が有利だ。切れ味重視の細身の剣では、障害物に当たった時に簡単に折れてしまう。
 奈子は緊張した面持ちで構えをとった。心の中で、以前習った「武器を持った相手との闘い方」を復唱する。練習はしたものの、普段は使う機会のない技だ。うまくいく自信はない。
 だが、男が剣を構えた瞬間。
 その右手が突然、炎に包まれた。
 男は悲鳴を上げて剣を落とした。炎は一瞬で消えたが、手は赤黒く焼けただれていた。
「いったい、何をしているの?」
 その声は奈子の背後、店の入口の方から聞こえてきた。奈子をはじめ、店の中にいた人間が一斉にそちらを向く。
 鮮やかな金色の髪を揺らして、小柄な少女が立っていた。
「ファージ!」
「って、てめえは! ファーリッジ・ルゥ!」
 そう叫ぶ男の声が、微かに震えているように聞こえた。見ると、顔には恐怖の色が浮かんでいる。
「ナコは、私の友達だよ。彼女になにか用?」
 冷たい、そして殺気のこもった声だった。普段の陽気なファージからは想像もできない。
 鋭い目で、男を睨んでいる。強い光を持った瞳。金色の瞳が、さらにその色を濃くしているように見える。
「え、いや……お、俺たちは別に……」
 火傷した手を押さえながら、男はしどろもどろに言い訳する。
 男を見つめていたファージが、すぅっと目を細める。
 ただそれだけで。
 次の瞬間、男は血を吐いて倒れていた。



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