六章 炎と雷の獣


「虫の知らせっていうのかな、何かヤな感じがしてね。それで外に出たら、食堂のおばさんが慌ててこっちに走ってくるところ」
 ファージが言った。
 街でちょっとした乱闘騒ぎがあった日の午後、二人は初めて出会った山の中にいた。
 奈子を元の世界に返す転移魔法を試してみるためだ。
 森の中に五十メートル四方くらいの草原が開けている場所があって、その中心に、ずいぶんと古いものと思われるストーンサークルがある。その中だけは草も生えておらず、赤茶けた土が剥き出しになっていた。
 ファージの話では、王国時代の古い遺跡のひとつなのだそうだ。
「それにしても、ファージが来なかったらどうなっていたか……助けてくれてありがと」
「うーん……。ナコ一人でも大丈夫かな、とも思ったんだけどね」
「え?」
 ファージの台詞には、なにか引っかかるものがあった。奈子は問いかけるような表情でファージを見る。
「……そういえば、ずいぶんとタイミング良く現れたよね?」
「へへへ……」
 鎌をかけると、ファージはばつが悪そうに笑った。
「実は、ちょっと前から見てた。ナコって強いんだね」
 それを聞いて、奈子の顔が曇る。
「じゃあ、なに? アタシが闘っていたとき、ファージはただ見ていたの?」
「最後は助けてあげたじゃない」
「だったら最初から助けてよ! 人が苦しんでいる時に……」
「だってナコ、楽しそうだったし」
「楽しい?」
 思わず、大きな声で訊き返した。
「あ・の・ね! アタシは必死だったのよ?」
「でも、楽しんでいた」
 ファージは断言する。
「ナコは楽しんでいたよ。自分の持てる力を振り絞って闘うのって、楽しいよね?」
 それは問いかけではなく、確認の言葉だった。
 ファージは微笑みながら、大きな瞳でまっすぐに奈子を見つめている。まるで、心の奥底までも見透かしているような瞳で。
「そんな、こと……」
 そんなことない。そう、否定しようとした。
 しかしファージの言葉は、一部は確かに真実だった。
 これまで試合や組み手の中でしか使えなかった技を、実戦で思う存分に繰り出すこと。それは気持ちのいいことだ。
 恐怖を伴った、背徳的な快感。背筋がぞくぞくするほどの。クラスメイトに頼まれて痴漢退治をしたときの緊張感など、比べものにならない興奮。
 しかし、認めるのには抵抗があった。
(別にアタシは、喧嘩のために空手を習っているわけじゃない……)
 そう思う。しかし「では何のために?」と問われれば、すぐには明確な答えが見つからない。極闘流の道場に通いはじめたきっかけだって、もう憶えていない。
「すぐに助けなかった理由はもうひとつ。ナコの技に興味があったから」
「アタシの……技?」
「すごいね、あんなの初めて見た。いったいどーゆー技なの?」
 ファージが興味津々に目を輝かせている。
「あれは、カラテっていう……」
 格闘技、と言おうとした奈子は、それに相当するアィクル語の単語を知らないことに気付いた。
 一番近い単語は『体術』だろうか。しかしこれはどちらかといえば、剣で闘うときの体捌きを意味するらしい。
「アタシの国に古くから伝わる、素手で闘うための技。もちろん、魔法にも頼らずにね。……ねぇ、ひょっとしてここには、そういう技が存在しないの?」
 その技術が存在するのなら、それを表す言葉があるはずだ。
「魔法も武器も使わずに闘う? 何のために?」
 不思議そうに問い返すファージを見て、奈子は気付いた。
 人間にとって、歩き、話すのと同じくらいに当たり前に『魔法』が使える世界。その上、武器の所有も特に制限されていない世界。
 それでは、徒手格闘術が発達する必然性はない。
 先刻の男たちの一人が「奇妙な技」とか言っていた理由がようやくわかった。力自慢の大男ならともかく、奈子のような女の子が、剣も魔法も使わずに大の男を倒すなど、彼らの理解の範囲外だったのだろう。
「アタシの世界には魔法なんてものは存在しないし、民衆は、支配者によって武器の所有を制限されることも多かった。だから、肉体だけで闘う技術ってのが発達しているの」
「じゃあ、私たちが魔法を使うのと同じくらいに、当たり前のものなんだ?」
「そこまで一般的なものじゃない。普段の生活にも役立つ魔法と違って、闘いのためだけの技だし……。それを教える学校……のようなものがあって、アタシはそこに通っているの」
「ふぅん。じゃあ、ナコは自分の世界でも強いんだ?」
「ん……まあ、同じ年代の女の子の中では、そこそこ強い……かな?」
 正直に言えば、これは謙遜だ。実際のところ、北海道内の中学あるいは高校の女子で奈子と互角に闘える相手など、他流派を含めても五指に満たない。
「そっか、ウン、そうだよね。闘っている時のナコ、カッコ良かったもの。すっごく素敵だったよ」
「えへへ……、そぉ?」
 奈子の顔が赤くなる。
 それは、後輩の女の子たちにもよく言われる台詞だ。「闘っている時の奈子先輩って素敵」と。言われ慣れていることではあるが、それでも面と向かって言われれば、やっぱり照れてしまう。
(ん……? 後輩の子たちと同じってことは……)
「ナコのこと、ますます好きになりそう」
 ファージが嬉しそうに言う。赤くなった顔が、一瞬にして青ざめた。
(……! もしかしたらって思ってたけど……ファージってやっぱり、そっちの気があるの? こんなのと毎晩同じベッドで寝てたなんて……)
 貞操の危機を感じる。同性には妙に人気のある奈子だったが、しかし本人はノーマルである。
(高品先輩、信じてください。アタシの身体は、先輩だけのものです!)
 思わず、心の中で叫んでいた。片想いの男性に向かって。
「なに、空を見上げてんの? 始めるよ」
 ファージの声で我に返った。
 そういえば、転移魔法を試すためにここへやってきたのだ。
 ストーンサークルの中心に立ったファージは、持っていた袋の口を開き、その中身――純白の砂を足元にばらまいた。
 それから両手で印を結び、奈子には聞き取れないくらいの小さな声で、呪文を唱えはじめる。
 すると地面にまいた砂が、まるで磁石に操られる砂鉄のように、ざわざわと動き出した。最初は無秩序に動いているように見えたそれは、やがて地面に複雑な幾何学模様を描き出す。
「魔法陣……?」
 奈子は小声でつぶやいた。
 砂はファージを中心に同心円状に広がり、なにかの文字のような形にまとまっていく。
 呪文の詠唱は二十分ほど続いた。ファージが大きく息を吐き出した時、地面には直径五メートル以上ある、複雑極まりない魔法陣が完成していた。
「魔法陣には、魔力を集中して力を増幅する効果があるの。さあ、始めようか。ナコは魔法陣の中心に立って」
 言われるままに、奈子は魔法陣の中に入った。魔法陣を描く砂は、まるで糊かなにかで固めたようになっていて、踏んでもその形は崩れない。
 もう、太陽は山の陰に沈みかけていて、奈子の影が魔法陣の上に長く伸びている。
 奈子は、やや不安げに周りを見回した。
「本当に大丈夫? また、変な世界に飛ばされたりしない?」
「平気だって。もし失敗したとしても、ここでの滞在があと何日か延びるだけ」
 ファージは自信満々だ。その言葉を信じるしかない。
「ならいいんだけど……」
「心配なら、念のためにこれをあげる」
 ファージは、ポケットから数枚のカードを取り出した。
「なに、これ?」
「金貨に、食べ物。それから色の違うカードは、簡単な怪我の治療の魔法を封じ込めたもの。これがあれば、万が一私とはぐれてもしばらくは大丈夫でしょう? その間に、私がナコを見つけだしてあげる」
「そう、うまくいくのかなぁ?」
「大丈夫、どこにいたってわかるよ。私とナコは、固い愛の絆で結ばれているんだから」
「いや、それはないと思うけど」
 奈子は即座に否定した。いったいファージはふざけているのか、それとも本当に同性が好きなのか、いまだによくわからない。
「さて、始めようか」
「……もしもうまくいったら、ファージともこれでお別れ……なんだね」
 自分の世界に帰れることはもちろん嬉しい。だけど、これっきりファージと会えなくなるのは少し残念だった。友達としてなら、好きなタイプだったのに。
「まあ……、魔法がうまくいって、ナコの世界との間に道が開いてからでも、お別れを言う時間くらいはあるけどね」
「……うん」
 ファージは魔法陣の外で奈子と向き合う形で立ち、両手を前に差し出した。その手の中に、一本の杖が現れる。長さは一メートル半くらい。瘤のたくさんある、奇妙な木の杖だ。
 杖を掲げて、呪文を唱えはじめる。
「シカルト トゥ シルカ ハンペ コィカルニ オフンパロ チサルラ……」
 やがて、魔法陣の中心に立つ奈子の身体を、淡い、白い光が包み込む。光は次第に強くなり、目を開けていられないほどになった。周囲は白一色で、ファージの姿も見ることができない。
(これで、帰れるのかな……。この一週間、なんだかすごく刺激的というか……もう二度とできない体験なんだろうな……)
 急に、重力がなくなったかのような浮遊感を覚える。足下の、地面の感触も消えている。
 そして……。
「えっ?」
 不意に、そんな声が聞こえた。ファージの声だ。
 同時に、ばんっと大きな破裂音が響き、奈子を取り巻いていた光が消えた。
 光に眩んでいた視力が戻ると、そこは先刻と同じ、ファージの作った魔法陣の中だった。目の前ではファージが、なにか戸惑っているような表情を見せている。
「……なに? いったいどうしたの?」
「失敗……した。というか…、なにかが、私の魔法に割り込んできたみたい」
 一語一語、考えながらファージが応える。
「割り込んで……?」
「私が開いた道に、外から入り込んできた奴がいる……。ナコの時と同じように、たまたま位相が重なっていたのかな……」
「じゃあ……、また誰かが、この世界に迷い込んできたってこと?」
 ファージはこくんとうなずいた。
「誰か……というか、何か……だね。この気配は、人間じゃないな」
「で、それはどこに?」
 意識を集中しているのか、ファージが目を閉じる。一分ほどそうしていて、やがて、静かに目を開けた。
「ファージ?」
「まいったな……よりによって」
「どこ?」
 ファージは、かすかに顔をしかめて応えた。
「街……だ」



 二人が戻った時には、既に夕闇が街を包み込んでいた。
 しかしところどころ、不自然に明るい部分がある。
「――っ!」
 奈子は、驚きの声を飲み込んだ。
 街が、燃えていた。
 あちこちで火の手が上がり、街の人々が逃げ回っている。時折、爆発音らしき音が響く。
「なにこれ! いったい、何があったの?」
「さて……」
 ゆっくりと周囲を見回していると、ファージの名を呼ぶ声が聞こえた。
「ファーリッジ・ルゥ! どこに行っていたんだ? 力を貸してくれ!」
 二人揃って、声のした方を見た。四十歳くらいの男が、こちらに駆け寄ってくる。
 その男には、奈子も見覚えがあった。確か、ファージが通っていた神殿の神官だ。
「いったい、何があったの?」
「あれだ」
 揃って、神官が指差す方向を見る。
 百メートルほど離れたところに、動くものがあった。人間ではない。それよりもずっと大きなものだ。
 それは、一頭の獣だった。姿形はライオンかトラに似ている。しかしその体躯は、もっとも大きなライオンの二倍以上は優にあった。全身は美しい金色の毛皮に覆われ、頭に二本の短い角がある。
 これが、普通の獣であるはずがない。
「なに、あれ……?」
 奈子が小声で訊ねると、ファージは肩をすくめた。
「私も見たことない」
「あいつは、少し前に突然街に現れたんだ。私たちの魔法がまるで効かない上に、奴自身が強力な炎の魔法を使う」
 その台詞が終わらないうちに、獣が唸り声をあげる。その声に応えるように、三人の傍らの建物が突然燃え上がった。
「なるほど」
 ファージは妙にのんきな口調でつぶやいた。
「で、私にあれを退治しろ、と?」
「頼む。今、この街にはあんた以上の魔術師はいない」
 神官が頭を下げる。
「ま、いいけどね」
「ね、ファージ。ひょっとして、あれって……」
 奈子は、ファージにだけ聞こえるように小声で囁いた。
 ファージがうなずく。
「あいつが、そうみたいだね。他の世界に棲む魔獣……ってところかな?」
「じゃあ、この騒ぎは……アタシたちのせい?」
「事故よ事故、不可抗力。私がちゃんと退治するから、心配しないの」
 あっけらかんと言うファージの手に、また、杖が現れる。
 杖を高く掲げて、ファージは呪文を唱えた。
「アール・ファーラーナと、ファーリッジ・ルゥ・レイシャの名において命ずる。
 天と地の精霊、炎を司る者たちよ、
 我が声に応え、我の下へ集え。
 炎を支配する力、我に与えよ。
 我の前に立ち塞がる者を、滅びの炎にて焼き尽くさん!」
 呪文の最後の一言と同時に、魔獣の身体が炎で包まれた。
 昼間の乱闘で男の手を焼いた魔法に似ているが、その規模は何百倍も大きい。
 しかし炎が消えたとき、魔獣は、何事もなかったかのようにそこに立っていた。
 ファージの方を見て、大きな唸り声を上げる。
 突然、近くの数軒の建物が同時に火を噴いた。
 あの唸り声は、魔獣にとっての呪文の詠唱なのだろうか。
「ちょっとファージ、効いてないよ?」
 奈子の声がうわずっている。
 ファージは小さく舌打ちをした。
「……ちっ、これだから精霊魔法って奴は……」
「……どうするの?」
「まだまだ、これからが本番」
 ファージの表情には、まだ余裕が感じられた。再び、杖を掲げる。
「オカラスヌ ウェイテ アパニ ク ネ!」
 今度の呪文は、奈子には意味がわからない。ただそれが、上位魔法と呼ばれる戦闘用の魔法であることだけはわかる。
 魔獣の周囲に、直径が五十センチ強の、朱く輝く光の球が五、六個出現した。一瞬後、それは一斉に大爆発を起こす。
 その一帯二、三十メートルの範囲が爆炎に包まれ、爆風は奈子たちのところまで届いた。奈子は思わず両手で耳を塞ぐ。
「どう? これが本当の攻撃魔法っていうものよ」
 胸を張って言うファージの表情が、しかし一瞬後には凍りついた。奈子も引きつった表情で、それを指差す。
 爆炎の中から現れた獣は、相変わらず無傷のように見えた。炎を反射して朱く光る目で、こちらをじっと見ている。
 魔獣は、ゆっくりとこちらへ歩きながら、これまでとは違った唸りを上げた。
 奈子たちの周囲に、十個以上の、朱色に輝く球体が出現する。たった今、ファージが放った魔法とまるで同じ光球が。
「ナコッ!」
 大きな声で叫びながら、ファージは奈子を抱きしめる。同時に、周囲の光球が大爆発を起こした。肌が焼けるような熱気に包まれる。髪が焦げる匂いが鼻を突く。傍にいた神官のものらしき悲鳴が聞こえた。
 それでも炎が消えたとき、奈子はこれといった怪我は負っていなかった。ファージも同様らしい。彼女が、魔法の防御結界を張ってくれたのだろう。
 だが、二人の傍らには、全身が焼けただれた男が倒れていた。奈子は思わず顔をそむける。
「ナコを護るだけで精一杯だった……」
 奈子を抱きしめたまま、ファージがつぶやいた。
「ファージ……」
「もう、手加減はしない」
 そう言うファージの手に、数枚の魔法のカードが握られていた。物品の収納に使っているカードではない。魔法の呪文そのものを封じたカードだ。
「これが、カードの本来の使い方さ。オカラスヌ ウェィテ アパニ ク ネ!」
 カードを宙に放りながら、呪文を唱える。
 小さな閃光とともにカードは消滅し、同時に、魔獣の周囲に、また朱い光球が出現した。
 但し、今度の光球は直径約一メートル以上、その数も二、三十個はある。
「ナコ! 耳塞いでっ!」
 ファージが叫ぶ。奈子が両手を耳に当てるのと同時に、爆発が起こった。
 爆発の規模も先刻とは桁違いだ。百メートル近く離れた奈子たちも、爆炎に包まれる。
 奈子はファージの魔法で護られているから火傷もしないが、それでもむっとした熱気に包まれて息が詰まる。
「さあ、これでも平気でいられる?」
 どことなく引きつった笑みを浮かべて、ファージが言う。
「でも、これじゃ街もめちゃくちゃだよ……」
 奈子の言葉通り、今の魔法の爆心地付近にあった建物は、すっかりその姿を消していた。
「いいじゃない。どうせ放っておけば、あいつにめちゃくちゃにされる街なんだから」
「そんな、乱暴な……」
 言い終わらないうちに、獣の唸り声が響いた。
 二人の周囲でいくつかの建物が爆発を起こし、燃える木片が降り注ぐ。
「まだ……生きているの?」
 生きているどころではなかった。あれだけの爆発にも関わらず、瓦礫の陰から姿を現した魔獣には、まるでダメージを受けた様子がない。
「なんと、まあ……」
 さしものファージも呆れたように言う。
「なんて丈夫な……じゃないか、かわしてる……のか?」
「ファージ……大丈夫?」
「しゃあない。必殺技を使うか」
 ファージの右手が、数枚のカードを投げる。同時に、先刻とはまた違う呪文を唱える。
「チ ライェ キタィ!」
 魔獣を取り囲むように、今度は青白く輝く光球が四、五個出現した。それらから一斉に青白い光線が放たれて、魔獣の身体を貫いた。
 甲高い叫びを上げた獣の身体が、ぐらりと傾く。
「これは効くでしょ」
 ファージは勝ち誇った笑みを浮かべている。
「遠い昔、竜騎士たちが敵の竜を倒すために使った魔法……。ま、本物はこれの何倍もの規模があるんだけど……」
 そう言いかけたファージの顔が、突然歪んだ。ファージの恐怖の表情なんて、奈子は初めて見たような気がする。
「――嘘だっ!」
 叫びながら、ファージは奈子の身体を突き飛ばした。
 十数個の青白い光球が、二人を取り囲んでいた。
 そこから放たれた灼熱の光は、ファージに集中する。
「ファージ!」
 転んだ奈子が、慌てて身を起こす。
 ファージは、その場に膝をついていた。服があちこち裂け、額や腕、肩などから血を流している。
「ファージ、大丈夫?」
 急いで駆け寄って、身体を支えてやる。
「……三つ四つなら、防げるんだけどな」
 ファージは、血の混じった唾を吐き出した。
「あいつ……私が使った魔法は、一度見れば真似できるみたいだね。しかも、魔力は私より強いよ……」
「本当に大丈夫? ファージ……」
「次をくらわなければ、ね」
 奈子の腕に支えられながら、ファージは立ち上がった。
「こんな撃ち合いを続けていたら、身体がもたないよ。向こうの方が丈夫なんだから。効く呪文がわかった以上、一撃で勝負をつけてやるさ」
 彼女は一体、どれだけのカードを持ち歩いているのだろう。ファージの両手に、二十数枚のカードが現れた。それを一斉に放り投げる。
 ファージが鋭い声で呪文を叫ぶ。魔獣の周囲に出現した光球は、今度は三十個を越えていた。
 ファージは、勝利を確信する。この大陸の歴史において、竜以外の存在があれをかわしたことはない。
 しかし。
 三十数条の、致命的な傷を負わせるはずの光線が魔獣を貫こうとする瞬間、その巨体がすぅっと消えていった。まるで、闇に溶けるかのように。
「え……?」
「ファージ! 後ろっ!」
 奈子が叫ぶ。その声に促されてファージが振り向くのと同時に、背後の闇の中から魔獣が姿を現した。
 一瞬前まで、二人の前にいたはずなのに。
「……転移魔法?」
 驚きに目を見開いて、ファージがつぶやく。
「ファージ! 逃げるよ!」
 奈子は、ファージの手を引いて走り出した。獣の咆哮とともに、一瞬前まで二人が立っていた場所を、青白い光線が貫いた。
 なんとか建物の陰に隠れた二人は、大きく深呼吸する。
「転移魔法……そういうことか。私が転移に気付かなかったってことは、普通の空間転移魔法より、ずっと遠い次元を通過してるってこと……。そうか、そういうことか…」
 ファージが微かな笑みを洩らした。
「どうしたの?」
「わかったよ。あいつは元々、かなり強い転移の能力を持っている獣なんだ。あいつの転移と、私の転移魔法が共鳴して、この世界に現れたんだよ。あれだけの魔力を持っているのも、多分ナコの世界よりも遠い、あいつの故郷の次元との接続が、まだ保たれているからなんだ。そこから流れ込む膨大なエネルギーが、あいつの魔力の源ってわけ」
「それで……どうするの? あいつを倒せる?」
「倒せるっていうか……」
 ファージは曖昧に語尾を濁し、なにか考えるような表情になる。
「……よし、これしかないか。でも、時間稼ぎが必要だな……」
「アタシに、なにか手伝えることはある?」
 奈子が訊くと、ファージはまっすぐに奈子の顔を見た。
 いつになく真剣な表情で。
「ナコって……、剣は使える?」
「え? 一応、少しは……」
 奈子の専門は空手だが、剣術の道場にも足を運んでいる。一応、真剣を扱った経験もあった。
「じゃあ……お願い。少しの間、時間を稼いで」
 ファージの手の中に、一振りの剣が現れた。それを奈子に渡しながら言う。
「この剣なら、あいつの魔法にも対抗できるはず。お願い、魔法陣の準備をする時間を作って」
 こんなに真剣に、懇願するようなファージは初めて見た。これまでの、奈子に対するファージの態度から考えると、奈子の身に危険が及ぶかもしれないことを頼むというのはよほどのことだ。
 他に、手はないということなのだろう。
 奈子は大きくうなずいた。剣の柄をしっかりと握りしめる。
「わかった。この剣なら、あいつと闘えるのね?」
「うん」
 ファージがうなずくのと同時に、ごぅっという音とともに剣が青い炎に包まれた。
 めらめらと燃える赤い炎ではなく、ガスバーナーのような勢いのある炎だ。
「炎の魔剣オサパネクシ。この剣の力とナコの精神力が合わされば、あいつの魔法にもしばらくは対抗できるはず。でも、無理しないでね」
「大丈夫。まかせて」
「気をつけて」
 ファージはそう言うと、短剣を抜いた。その刃を自分の手首に当てる。
 奈子は驚いて目を見開いた。
 短剣をすっと引くと、手首に紅い痕が残る。血が、ぽたぽたと地面に滴り落ちた。
「ファージ! 何やってんのっ!」
「強力な魔法陣を、一番早く描く方法なんだ」
 見ると、流れ落ちた血は地面に染み込んではいなかった。机にこぼした水銀のように、地面の上を流れている。それはまるでアメーバのように動いて、複雑な模様を描きはじめていた。
 その動きは確かに、砂で魔法陣を描いたときよりもずっと速い。しかし、大きな魔法陣を描くためには、いったいどれほどの血を流さなければならないのだろう。
「ファージ……」
「大丈夫。魔法陣が描き上がるまで、あいつをここから遠ざけて。準備ができたら、合図するから」
「うん、まかせて」
 力強くうなずくと、奈子は剣を片手に建物の陰から飛び出した。
 すぐ目の前に、魔獣がいた。
 剣を構えるよりも早く、唸りを上げる。
 すかさず、奈子は横に飛んだ。一瞬遅れて、背後で爆発が起こる。
 奈子はそのまま走った。この魔獣をファージから遠ざけるために。
 背後で咆哮が上がるたびに方向転換する。炎や、青白い光線が奈子の身体を掠めていく。
 時間は、イライラするほどゆっくりと流れている。
(逃げ回るだけじゃ、きついかな……)
 走り回っているうちに、開けた場所に出た。先刻、ファージが魔法で建物を吹き飛ばしたところだった。人がいるところ、まだ被害を受けていないところを無意識に避けていたためだろう。ここでは隠れる場所がない。
(よし!)
 奈子は、立ち止まって振り返る。
 後を追ってきた魔獣が口を開こうとした瞬間、地面を蹴った。真っ直ぐ魔獣に向かってダッシュする。
 魔獣は唸り声を上げるが、奈子が急に方向転換したために狙いが外れたのか、爆発は奈子の背後で起こった。
 その隙に剣の間合いに飛び込んで、剣を振りかぶった。力いっぱいに炎の刃を叩きつける。
(あ、浅い?)
 致命傷を与える一撃……のつもりだったが、獣の反射神経を甘く見ていたようだ。剣は、身をかわした魔獣の肩のあたりを、浅く切ったに過ぎない。
 奈子は迷わず、思い切ってもう一歩踏み込んだ。
 魔獣が前足を振り上げる。長い爪が、周囲の炎を反射して朱く光っている。
 奈子は、振り下ろした剣を、今度は上へ向かって突き上げた。青い炎に包まれた刃は、まるで溶けたチーズでも切るかのように、魔獣の身体に深々と突き刺さった。
(やった!)
 手応えはあった。深手を与えたはず。
 しかしそれと同時に、奈子の左腕に灼けるような痛みが走った。
「――っっ!」
 奈子は悲鳴を上げて飛び退いた。魔獣の爪の間合いから離れる。
 左腕を見ると、肩から肘のあたりまで、皮膚が裂けている。あの鋭い爪によるものだろう、傷口から、真っ赤な肉がのぞいていた。
 顔から血の気が引く。
 左手の指先の感覚が全くない。傷がかなり深い証拠だ。
 血が、溢れるように流れ出している。
「――くっ……ぅ!」
 奈子は、炎に包まれた刃を左腕に当てた。あまりの痛みに声も出ない。肉が焼ける匂いがする。
 荒療治だが、一応の止血になる。あのまま血を流していては、たちまち失血で動けなくなってしまう。
 奈子の怪我はかなりの深手だったが、それは相手も同じだったらしい。剣を抜いた傷口から流れ出る赤黒い血の染みが、金色の毛皮に広がっていく。魔獣も足元がふらついている。
 もう一度間合いを詰めようとしたとき、また、青白い光球が周囲に出現した。
 慌てて横に飛んで光線を避けるが、左腕が動かないためにバランスを崩してしまう。
 転びそうになった奈子に体勢を立て直す隙を与えず、今度は朱色の光球が現れる。一点を狙う光線ならともかく、広範囲の爆発では避けることができない。
(……剣よっ!)
 奈子は、剣を持つ右手に意識を集中した。
 刃を包み込んでいた青い炎が大きく広がり、盾のようになって奈子を護る。
 一瞬遅れて、光球が爆発した。目の前が赤い炎に覆われる。爆風に煽られて、奈子の身体が地面に転がった。
 しかし、爆炎が直接奈子に触れることはない。炎の盾は、今の爆発を防ぎきっていた。
 次の攻撃が来る前に、奈子は急いで立ち上がる。
 その時、背後から声がした。
「ナコ、こっち!」
 ファージが手を振っている。奈子はそちらへ向かって走り出した。
 魔獣も後を追ってくる。しかし傷のためか、先刻までの素早さはない。
「ナコは、私の横に立って。私の手をしっかり掴んでいて。」
 血の気のない、真っ白い顔でファージが言う。
 その足元には、紅い、血で描かれた魔法陣が完成していた。
 手首の傷は塞がっているらしく、乾いた血がこびりついている。
「さあ……来い!」
 魔獣が、距離を詰めてくる。
 ファージは右手を高く掲げて、呪文を唱えはじめた。
「シカルト トゥ シルカ ハンペ コィカルニ……」
「ファージ、これって……」
 聞いたことのある呪文だった。攻撃魔法ではない。あの、転移魔法の呪文。
 魔法陣の中心から、白い光が広がってゆく。
 魔獣が、二人に迫ってくる。
「オフンパロ チサルラ……」
 光はすぐに直視できないほどに強くなり、奈子は目を閉じた。
 ファージが、呪文の最後の音節を発音する。
 目をしっかりと閉じているはずなのに、視界が真っ白だった。
 やがて上下の感覚もなくなり、奈子は、自分がどこにいるのかもわからなくなった。
 なにも聞こえず、なにも見えず。
 時間の感覚もなく。
 自分が起きているのか眠っているのか、それさえもわからない。
 ただ、しっかりと掴んだファージの手の温もりだけを感じていた。



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