終章 一週間の物語


「……ナコ。ナコ」
 遠くから、ファージが呼ぶ声がする。
 いや、遠くというのは錯覚だろう。奈子の右手は、まだファージの手を握っている。
 視界は真っ白だった。まるでミルクの中にでもいるかのように。
 なにも見えない。
 しかし、いつの間にか上下の感覚は戻っていた。足の下には、固い地面が感じられる。
「ファージ……、ここ、どこ?」
「もうすぐ、周りが見えてくるから……」
 今度の声は、すぐ耳元で聞こえた。
 ファージの言葉通り、濃い霧が晴れるように、徐々に周りの風景が見えてくる。
 しかし、すぐには見ているものが信じられなかった。
 奈子は、その風景に見覚えがあった。とても、なじみ深い景色だ。
「奏珠別公園の……展望台?」
 間違いない。
 霧のような白い光を通して見えるそれは、一週間前に奈子がいた場所だ。奈子の世界だ。
 ファージと過ごしたルキアの街も、あの魔獣も、どこにも見えない。
「どうして、いったい何があったの?」
 隣に立っているファージに訊く。
 ファージは奈子を見て、にこっと笑った。
「転移魔法の応用。あいつの魔力を利用して、あいつの故郷の次元までの道を開いて……。強制送還ってわけ」
 では、あの魔獣も元の世界に帰ったのだろうか。
「で、私たちもそれに便乗してきたの。ナコはここで途中下車。助かったよ。私の力だけじゃ、ここまで来ることもできなかったからね」
「じゃあ、帰ってこれたの? アタシ……」
「うん……」
 ファージはうなずくと、寂しそうな表情になった。
「お別れだね、ナコ……」
「……うん……今まで、ありがとう」
 奈子も、寂しかった。せっかく仲良くなれたのに。
 だけど二人は、文字通り違う世界の住人なのだ。いつまでも一緒にはいられない。
「あ、これ……返す」
 その時になって、奈子は左手に、ファージから受け取った剣を持っていたことに気付いた。もう、刃を包んでいた炎は消えている。
 剣をファージに差し出した。怪我をした左手の感覚はほとんどないが、それでも少しは動かすことができた。
「ううん。あげる、それ……。私には剣は必要ないし。それより、左手を出して」
 ファージの手が、獣の爪に引き裂かれた左腕に触れた。呪文を唱えると、傷は見る間にふさがっていき、あとには十年以上も前の古傷のような、わずかな傷跡だけが残った。
「ごめん。時間がないから、傷跡を完全に消している暇がない」
「別に、気にしないよ。このくらい」
 実戦空手を学ぶ奈子は、普段から生傷が絶えないのだ。そんなことを気にする性格ではない。
「それから……これ、あげる。思い出に……」
 ファージは、自分が付けていたルビーのような紅い宝石のピアスを片方外し、奈子の耳に付けた。
 そのまま奈子の顔に手を当てて、まっすぐに見つめ合う形になる。
「ナコ……」
「ファージ……」
 なんだか、涙が出そうになった。
「もう、時間がないから。この道が閉じる前に、私も戻らないと……」
「うん……」
「この一週間、楽しかった。会えて良かったよ、ナコ。さよなら……」
「さよな……」
 お別れを言いかけたところで、唇をふさがれた。ファージの唇に。
 それはほんの一瞬のことで、ファージはすぐに唇を離す。
「ファ、ファージ!」
「さよなら、ナコ」
 唇を奪われたことに文句を言うヒマもなかった。ファージの身体が、周囲の白い光に溶けこむように薄れていく。
「ファージ……」
 奈子の頬を、涙が伝っていた。
「さよなら、ファージ……」
 もう一度つぶやいたときには、ファージの姿は完全に見えなくなっていた。同時に、霧のような白い光も急速に薄れていく。
 そして、暗さを取り戻した夜の公園に、一人奈子だけが残された。



「ソー・オ・ネ」
 公園の茂みに隠れて元のジャージに着替えた奈子は、向こうの世界で身に付けていた衣類と剣を、カードの中にしまい込んだ。
 驚いたことに、魔法のカードはこの世界でもちゃんと使うことができた。
 こうして自分の世界の服に着替えると、急に、これまでのことが幻のように思えてきた。この一週間、長い夢でも見ていたような気がする。
 しかし、手の中にある数枚の魔法のカードと、最後にファージがくれたピアス、そして、身体に残ったいくつかの傷は紛れもなく現実だった。
「……なんか、信じられない」
 指先でそっと、唇を押さえる。まだ、柔らかなファージの唇の感触が残っていた。
「あの子ってばやっぱり、そーゆーシュミだったんだ……」
 だけど何故だろう。少しも、イヤな気はしなかった。
 それにしても、いったい何日くらい留守にしていたのだろう。ふたつの世界で時間の流れが同じなら、ちょうど一週間のはずである。
 奈子としては、それ以上の時間が過ぎていないことを祈らずにはいられない。両親は仕事の都合で留守にしていて、八日後に帰ることになっていたから。
 もしも親が戻っていたら、いろいろと苦しい言い訳をしなければならなくなる。
 本当のことを言う気はなかった。どうせ、言っても信じてはもらえまい。だから、自分の心の奥にしまっておくつもりだ。
 明日からはまた、普段通りの生活が始まる。
 今はちょうど夏休みだから、親にさえばれなければなんの問題もない。友達から電話くらいはあったかもしれないが、旅行に行っていたとでも言えば済むことだ。
 自分の家が近くなって、窓に明かりが見えないのを確認し、奈子はほっと安堵の息をつく。
 しかしすぐに、家の前に小柄な人影があるのに気がついた。
 足を止めて様子をうかがう。
 その人影は玄関のチャイムを何度か押し、返事がないので諦めて引き上げるところらしい。それが誰か、奈子にはすぐにわかった。
 よく知っている人物だった。
 忘れていた。一人だけ、奈子の失踪を知っている相手がいたことを。
「……由維」
 小さく、名前を呼ぶ。
 その人影は、弾けるような動作で顔を上げた。
 宮本由維。近所に住んでいる奈子の幼なじみで、空手道場の後輩でもある。格闘技好きの奈子と違って、由維の場合は奈子を追っかけて入門したようなものではあるが。
 由維は、固まったようにその場に立ちつくしていた。
「奈子……先輩?」
「えっと……、久しぶり?」
 奈子は、ちょっとばつが悪そうに言った。いったいどうやって誤魔化したものだろう。
「奈子先輩! いったいどこに行ってたんですかっ?」
 叫びながら、奈子に抱きついてくる。
 その目から、涙が溢れている。
「心配してたんですよぉ。急にいなくなって、いつまでも帰ってこないし……」
 奈子にしがみついて、泣きじゃくっている。奈子はその頭をそっと撫でてやった。
「心配かけてゴメン。ちょっと……、まあ、いろいろとあってさ……」
「……そういえば、あちこち怪我して……ますね?」
「ん。まあ、かすり傷だから」
「いったい……?」
 小柄な由維は、奈子の顔を見上げて首を傾げている。涙に濡れた大きな黒い瞳で、まっすぐに奈子を見つめている。
 こうしてまっすぐにこちらの目を見るのは由維のクセで、奈子はこの目に弱い。
「説明して、くれますよね。奈子先輩?」
「やっぱ……、話さなきゃ、ダメ?」
「ダメです!」
 由維はきっぱりと言いきった。
 奈子は小さくため息をつく。仕方ないな……と。
 確かに、あれを誰かに話すとしたら、その相手は由維しか思いつかない。由維なら、きっと信じてくれるはず。
「えっと……じゃあ、家に上がりなよ。長い話になると思うし、お茶でも淹れてくれない? 久しぶりに、由維の淹れたお茶が飲みたいな」
 そう言って、由維の背中をぽんと押した。由維は小さくうなずくと、ポケットから合い鍵を取り出して玄関を開ける。
 そんな由維の姿を見ながら、奈子は考えていた。
 さて、この子に、どうやって話したものだろう。
 この、不思議で刺激的な、一週間の物語を。



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