八月上旬の、ある日曜日。
札幌市豊平区にある北海道立総合体育センター――通称きたえーる――では、日本総合空手協会主催の、北海道大会が開催されていた。
試合場ではちょうど、中学女子の部の決勝が行われているところだ。
決勝に進出した選手の一人は、古流武術の流れを汲む黒川道場の、広井裕子。そしてもう一人は言うまでもなく、北原極闘流北海道支部の松宮奈子である。
裕子は、奈子の周りを軽快なフットワークで周りながら、徐々に間合いを詰めてくる。
対して奈子はじっと動かず、相手の動きを観察していた。
相手の動きを目で見てから反応したのでは遅い。目に頼らず、肉体ではなく気配の動きを感じ取らなければならない。
攻撃を仕掛けてくる瞬間には必ず、身体が動くよりも先に気の流れに変化が生じるものだ。
研ぎ澄まされた奈子の神経は、その変化をはっきりと感じとることができた。
(来る!)
考えるより先に、身体が反応する。
一歩踏み込んで、裕子が繰り出そうとした蹴りを片手で抑え込み、渾身の中段突きを打ち込む。
裕子はその突きを手で払ったため、上段のガードに隙が生じた。
瞬間、奈子は身体を翻し、上段の後ろ回し蹴りを放つ。
完璧なタイミングだった。
奈子の踵がこめかみを直撃する。祐子の頭部がぐらりと揺れ、一呼吸の間を置いてゆっくりと崩れ落ちるように倒れていった。
「一本っ! それまで!」
主審の手が上がる。
試合を見守っていた極闘流の門下生や指導員たちの間から、わっと歓声が上がった。
「奈子先輩、すごーい! かっこいー!」
試合後の礼を終えて戻った奈子を、後輩の女の子達が取り囲む。
「よし。いい試合だぞ、松宮。この調子なら全国大会も期待できるな」
と、満足そうに言うのは、道場の師範代の早川。その台詞は、取り巻きの女の子たちにもみくちゃにされている奈子の耳には届いていない。
しかし。
「大したもんだな、奈子。ちょっと見ない間に、よくここまで強くなったもんだ」
少し離れたところから聞こえたその声は、決して大きなものではなかった。それでも、きゃあきゃあと騒いでいた女の子たちが、一斉にしんと静まり返る。
「……北原先輩。見ててくれたんですか?」
声のした方を見た奈子は、驚いたように、そしてちょっと嬉しそうに言った。
壁に寄り掛かって立っていたのは、北原極闘流の創始者の孫娘で、女子空手界の女王と呼ばれている北原美樹だった。
周囲の女の子たちが、急に黙ってしまったのも無理はない。
なにしろ、プロレスラーに喧嘩を売って圧勝したとか、三十人相手のストリートファイトに無傷で勝利したとか、まだ高校三年生でありながら、伝説には事欠かない人物である。
奈子にとってさえ近寄り難い雰囲気を持っているのだから、他の後輩たちではなおさらだ。
「いつ、こちらへ?」
夏休み中は東京の本部道場へ行っていた筈だけど……、と思いながら尋ねた。
「つい先刻着いたところ」
奈子に近付きながら、美樹は答える。
そして耳元で、周囲には聞こえないように小声で付け加えた。
「試合の様子を見てきてくれって、頼まれたんだ、高品さんに」
「え……?」
予想外の台詞に、奈子の頬がぽっと朱く染まる。
「愛弟子の闘いぶりが気になるんだろ。美夢が高校の部に移ったんだから、優勝は決まってるって言ったんだけどね、私は」
この春大学を卒業して本部道場の指導員になった高品雄二は、奈子の憧れの先輩で、さらにいえば片想いの相手でもある。北海道にいた頃は、よく稽古をつけてもらっていた。
「おやおや、朱くなっちゃって。意外と可愛いところもあるんだ?」
「べ、別に……アタシはそんな……」
からかうような美樹の言葉を、必死に否定する。しかし言葉とは裏腹に身体は正直で、耳まで真っ赤になってしまう。
「でも真面目な話、ちょっとの間に、こうも変わるとは……」
美樹は何か考えるような表情になり、小声で言う。
「何があった?」
「は?」
「とぼけんなよ。以前の奈子とは、雰囲気が全然違うもの。いくら稽古を積んだところで身につくものじゃない。命のやりとりの中でだけ、会得できるものだよ」
美樹の表情は厳しいが、責めるような口調ではない。
「べ、別に……。ちょっと、まあ、いろいろ……」
奈子は曖昧に言葉を濁した。
「そういえば、一週間くらい失踪していたそうだけど……、その時?」
「……はい」
自分ではあまり自覚がないのだが、異世界での命を賭けた闘いは、奈子に大きな影響を与えているらしい。
「でも、本当に強くなったな。近いうちに、一度手合わせしてみたいね」
そう言い残して、美樹は試合場から去って行った。
その日、奈子が家路についたのは、夜の九時過ぎだった。
大会の後、奈子の祝勝会という名目で、道場の女の子たちと喫茶店やカラオケボックス、ゲームセンターなどをはしごしていたためだ。
近所に住んでいる後輩、宮本由維と二人で、地下鉄駅からの道を歩いていく。
「由維……」
「はい?」
ゲームセンターで、奈子とツーショットのプリクラを撮りまくっていた由維は、ご機嫌な表情でこちらを見た。
「アタシ、そんなに変わったかなぁ?」
「え……? 奈子先輩はいつだって、カッコ良くて素敵ですよー」
ニコニコと笑いながら、由維は答える。
こいつに訊いたアタシが馬鹿だった、と小さく溜息をついた。
「でも、試合の時の奈子先輩はカッコいいんだけど……、前よりも迫力があって、なんか恐いみたい」
「恐い?」
「えっとぉ。試合や組手の時の雰囲気が、ちょっと、北原先輩に似てるような気がするんですぅ」
なるほど、と奈子は思う。
確かに、北原美樹の空手には、背筋が凍るような殺気がある。
あれでも、昔に比べたらずいぶん性格は丸くなったんだけど……と道場の先輩は言っていたが、奈子はその当時のことはよく知らない。
「でも、ちょっと恐い雰囲気がまた素敵というか……。私、奈子先輩のこと、ますます好きになっちゃいました」
頬を赤らめた由維の言葉に、奈子は頭を抱えた。
自分では理由がわからないのだが、由維に限らず同性の後輩には妙な人気がある。
「そういう台詞は、あんまり女同士で言うものじゃないと思うんだけど……」
「男同士ならいいんですか?」
「いや、あのね、そうじゃなくて……」
どう言えばいいんだろう? 言葉を探す奈子に対し、由維はきっぱりと言い切った。
「恋愛に、性別なんて関係ありません」
「思いっきり関係あると思うぞ、アタシは」
奈子自身には同性愛の趣味はない。恋愛観はいたってノーマルだ。少なくとも、本人はそのつもりでいる。ただ、周囲が放っておいてくれないだけだ。
しかし、ちょっと困った性格の由維ではあるが、決して悪気があるわけではないから、奈子としても余り邪険にはできない。幼稚園に入る前からの付き合いでもあるし。
「だって、友情って、基本的に同性の間で成立するものですよね。そして日本では、結婚は異性でなければならないでしょ。だったら、その中間にある『恋愛』は、性別不問でいいじゃないですか」
「……そーゆーものなの?」
「そーゆーものです」
その言葉には一片の迷いもない。
このままこの話題を続けていたら、強引に説得されてしまいそうだ――奈子がそんな不安を抱いた時、幸いなことに二人は由維の家の前に着いた。
「じゃ、おやすみ」
奈子よりも二十センチ近く背の低い由維の頭に、ぽんと手を乗せる。
「はい、おやすみなさい」
そう言いながら由維は軽く上を向き、目を閉じた。
二人の間にしばし、気まずい沈黙が流れる。
「……なんの真似?」
「おやすみのキス……待ってるんですけど?」
奈子は思わず、自分のこめかみに手を当てる。
そしてまた沈黙。
やがて目を開けた由維が、軽く首を傾げた。
「恥ずかしがらなくても、今なら誰も見てませんよ?」
小さく首を傾げて言うと、背伸びをして両腕を奈子の首に回してくる。
「いや、あの、恥ずかしいとかじゃなくて。それ以前の問題……」
そうこう言っている間にも、由維の顔が近付いてくる。
(うう……。これは、可愛いぞ……)
大きく、潤んだ瞳。
微かに開かれたピンク色の唇。
(どうしてこの娘、一年生のくせにこんなに色っぽいのっ!)
奈子自身はあくまでもノーマルだ。自分ではそう思っている。しかし、由維が時折見せる表情に、どきっとすることがあるのも事実だった。
奈子は、由維の身体を離そうとするが、華奢な外見の割に意外と力は強い。
そして、二人の唇が、触れようとした瞬間、
突然、白い光に包まれた。
あまりの眩しさに、由維もたまらず目を閉じる。
やがて光が消えて由維が目を開けた時、そこに奈子の姿はなかった。
「ずいぶん器用な逃げ方しますねぇ。奈子先輩……」
ぼんやりとした表情で周囲を見回すと、由維は小さな声で呟いた。
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