二章 再会


 奈子が目を開けると。
 すぐ目の前に、見覚えのある濃い色の金髪と、金色の瞳があった。
 周囲の風景はいつの間にか夜の住宅地から、真昼の、深い森の中に変わっている。しかし奈子が置かれた状況は、先刻までとさほど変わらない。
 相手の腕は奈子の首に回され、唇は今にも触れ合わんばかりの距離にある。
(一難去ってまた一難……てゆーの?)
 思わず天を仰いで、自分の運命を呪う。
「……久しぶり、ファージ。再会は嬉しいけど……一体これは何のつもり?」
「また、言葉が通じなかった時のために」
 金髪の少女は、にっこりと微笑んで答えた。
 それは紛れもなくファージ――ファーリッジ・ルゥ・レイシャだ。
 半月くらい前、次元転移の魔法の実験に失敗して、奈子を異世界に引きずり込んでしまった魔導師。
 最初、言葉が通じなかった二人は、ファージの魔法――唇の接触によって、テレパシーのように思考を直接伝える――で会話をしていた。
 しかし、奈子が精神的負担の大きいその魔法をひどく嫌がったため、ファージは別の魔法で、この世界の主要言語であるアィクル語の知識を、奈子の脳に擦り込んだのだ。
「残念でした。ちゃんと覚えているよ、こっちの言葉は」
 奈子は流暢なアィクル語で答える。
 しばらくそのまま見つめ合っていた二人は、やがて同時に吹き出した。
「ははは……。また会えるなんて思ってなかった。どうしたの、一体……?」
「ふふ……。ちょっと、ナコに会いたい事情ができてね。魔法で呼び寄せたんだ」
「じゃあ、魔法で自由に次元を越えることができるようになったの?」
 前回は、ファージの魔法では奈子をうまく元の世界に帰すことができず、強力な魔力を持った魔物の力を利用して、なんとか帰ったのだ。
「ううん、まだ自由に行き来するってわけには。でも、これのお蔭でナコを呼ぶことはできるようになったの」
 ファージは自分の耳につけた、紅い宝石のピアスに触れた。
 同じものが奈子の耳にもついている。前回の別れの時、ファージから記念に貰ったものだ。
「この、ピアス……?」
 奈子も自分のピアスに触れる。
「この『紅い石』には不思議な性質があって、一つの原石から削り出された石は、遠く離れていてもお互いに魔法的に引き付け合うの。それを利用して、転移魔法の指標に使われているんだ。石の導きに従えば、遠く離れた場所にも正確に転移することができるってわけ」
「じゃあ……ファージ、初めからそのつもりで、このピアスをアタシにくれたの?」
「えへへ……。あの時は確信はなかったけど、次元転移にも応用できるんじゃないかなって、思ってた。で、試してみたらこの通り」
 少し照れたような表情でファージは言った。
「……で、転移魔法はまだ不完全なんだけど、この石の力を借りれば、ナコをこの世界に呼ぶことはできるわけ」
 なるほど……とうなずきかけた奈子は、一つの問題に気が付いた。
「で、どうやって帰るの?」
「え?」
「二つの石は引き合う性質があるから、アタシはここに来ることができた。でも、この世界に来たアタシは、どうやって元の世界に帰るの?」
 ファージはきょとんとした表情で奈子を見ている。
「ま、まさか……」
 あまり聞きたくない気もする。が、それでもおそるおそる尋ねてみた。
「そこまで考えてなかった?」
「え……えへ……、転移魔法が完成するまで、またこっちで暮らすってのは……ダメ?」
「ファージ!」
 奈子は思わずファージに掴みかかった。
「この前、無事に帰れたのだって偶然みたいなものなのに、どうしてくれるのっ!」
 ファージの襟首を掴み、力一杯に揺さぶる。頭の横で結んだ金髪が、大きく前後に揺れた。
「じ、冗談だって。ちゃんと帰れるから、興奮しないで」
 首を締められながら、それでもファージは笑って応える。
「え……?」
「ナコと別れた時、この石と同じものをこっそりあの場所に埋めておいたの。だから、ナコはいつでも二つの世界を行き来できるよ」
「お……脅かさないでよ。どうしようかと思った……」
 奈子はほっと安堵の息をつく。それから、ふと思い付いた。
「じゃあ、ファージがアタシの世界に来ることもできるの?」
「それが、どうもうまくいかないんだ」
「どうして? アタシが行き来できるなら、こっちの世界からだって同じことができるんじゃない?」
「うーん……そうだなぁ。崖の上と下、って言えばわかりやすいかな」
 ファージは奈子にも理解できる比喩で、次元転移が片道である理由を説明してくれた。
 つまり、高い垂直な崖があって、奈子の世界はその上に、ファージの世界は下にあるようなものだ、と。
 上にいる人間が下に降りることは比較的簡単だ。しっかりしたロープを結びつけておけば、それを辿って戻ることもできるだろう。しかし下の人間が、なんの手掛かりもない崖を登ることは容易ではない。
「ふーん。つまり、この紅い石がそのロープの役目なのね?」
「そーゆーこと」
「……で、どうしてアタシをここに呼んだの? なにか事情があるんでしょ?」
「ん。この近くに、王国時代の神殿の遺跡があって、それを調べるのに、手を貸して欲しいの」
 ファージが言うには、その遺跡自体はかなり以前から知られていたものなのだが、最近になって、今まで知られていなかった地下室の存在を示す古文書が見つかったのだそうだ。王国時代の魔法技術の資料を探して旅をしているファージにとって、これは見過ごすことができない情報である。
「古い時代の遺跡って、物騒なところも多いからね、腕の立つ戦士がいた方がいいなぁって」
「それがなんでアタシなの? ファージの方がずっと強いじゃない」
 ファージが剣を使えるかどうかは知らないが、魔術師としての力は相当なもののはずだ。
「やっぱり、背後を護ってくれる人がいないと不安だし」
「だからって、わざわざ他の世界から魔法も使えない平凡な女の子を連れてくる? 剣士くらい、こっちの世界で調達したらいいでしょ?」
「平凡な……どこが?」
 奈子の反論を、ファージは笑って受け流した。
「それに……。もう一度ナコに会いたかった……じゃ、ダメ?」
「え……?」
「私、ナコのことが好きだし、ナコなら信頼できると思ってる。だから、力を貸して欲しいの。お、ね、が、い」
 大きな金色の瞳が、縋るように、真っ直ぐに奈子を見つめている。
 なんとなく、由維のことを思い出した。
(なんでアタシの周りって、こんなんばっか……)
 奈子はこんな目に弱い。
 我侭を言われても、つい許してしまう。
「だめ?」
 ファージは潤んだ瞳で、やや上目遣いに奈子を見ている。
 これは反則だった。
「……わかった。でも、一度家に戻っていいっしょ? こっちの世界の服とか貰った剣とか、持ってこなきゃならないし」
 やっかいごとに巻き込まれた、という気がしないでもなかったが、少しわくわくしたのも事実だった。
 また、冒険の始まりだ。



「これでよし、と」
 荷物を取ってきた奈子は、こちらの世界の服に着替え、腰のベルトに短剣を差した。
 剣は邪魔になるので、魔法のカードの中にしまったままにしておく。必要となれば、呪文一つでいつでも取り出すことができる。
 女戦士の服に、剣。隣にいるのは、金色の瞳の魔術師。奈子は、自分がファンタジー小説の主人公にでもなったような気がした。
「あ、これ、渡しておく」
 準備を終えた奈子に、ファージが二枚のカードを差し出す。
「何これ?」
「次元転移魔法の呪文を封じ込めたカード。これがあれば、万が一私とはぐれてもナコ一人で帰れるから」
 そう言って、カードの使い方を説明してくれる。呪文を封じ込めた魔法のカードの使い方は難しくない。魔法の知識がない奈子でも、問題なく使うことができる。
「まあ、使わないに越したことはないけど……。それで、その遺跡っていうのは、ここから遠いの?」
「歩いて十分くらいかな」
「どうせなら、着いてから呼んでくれれば楽だったのに……」
 奈子はぶつくさ文句を言いながら、ファージの後について歩く。
 まるで、熱帯のジャングルにでもいるようだ。しかしこの森は、広大な砂漠の中の大きなオアシスに過ぎないらしい。
 しばらく行くと、森の中に、石造りの大きな建造物が見えてきた。
「これがそう? ずいぶん大きいのね」
 奈子は感心したように言う。
 神殿という言葉で、奈子は古代ギリシャの遺跡のようなものを想像していたのだが、眼前に広がるそれは、歴史の教科書に載っていたアンコールワットの遺跡に似ているように思われた。周囲が森ということも、その印象を強めている。
「王国時代の建築技術は、ずっと進んでいたからね」
 ファージには道がわかっているのか、大きな遺跡の中の入り組んだ道を、迷うことなく歩いていく。
 そこは神殿と言っても単一の建物ではなく、複数の建造物からなる、ちょっとした街のような造りになっていた。
 部分的に崩れているところがあるものの、全体としては保存状態は良く、とても千年以上前に建設され、長い冬の時代と幾多の戦乱を越えてきたものとは思えない。
 何より驚いたのは、石造りと思われるこの遺跡の表面に、風化の痕がまったく見られないことだ。高度な魔法技術を誇ったトリニアの時代に建てられたものだから、おそらく、ただの石ではないのだろう。
「神殿って言うけど、ここは何を祭っているの?」
「トリニア王国で信仰していたのは、太陽神トゥチュや、大地の女神シリュフを中心とする、ファレイアと呼ばれる神々。ここもファレイアの神殿の一つよ」
 質問に答えたファージは、さらに続ける。
「対して、ストレイン帝国の信仰は『虚無より生まれ出ずるもの』ランドゥの神々。ファレイアの教義では、ランドゥは世界に破滅をもたらす暗黒神だけど、逆にランドゥの教えでは、ファレイアの神々はランドゥの下僕に過ぎない。トリニアとストレインは、信仰の上でも対立していたのよ」
 宗教問題が戦争を引き起こすのは、この世界も一緒らしい。奈子は少し悲しく思った。
「それにしても、こんな古い遺跡に一体何があるっていうの?」
「それを調べに行くんでしょ? 言い伝えによれば、最初の竜騎士エモン・レーナは、トゥチュとシリュフの間に生まれた娘、闘いと勝利の女神アール・ファーラーナの化身。彼女が、何人かの人間に『竜騎士の力』を授けたというわ。後の王国時代の竜騎士は全て、エモン・レーナ本人か、彼女から力を授けられた者たちの子孫。ファレイアの神々こそが、竜騎士の力の源なの。竜騎士の力の秘密に迫るには、王国時代のファレイアの神殿を調べないわけにはいかないもの」
「竜騎士の力、ねぇ……」
 奈子は、辺りを見回しながら嘆息した。
「竜騎士竜騎士って大騒ぎするけど、それが一体どれほどのものだっていうの」
 すべては大昔の伝説ではないか――と。その言葉に、ファージはむっとしたような表情を見せる。
「ナコは全然わかってない。たとえ一万の兵がいたって、最高の称号『青竜』を持つ竜騎士一人を倒すことは出来ないんだよ。竜騎士の力って、それほど圧倒的なものなの」
「……それで、竜騎士の秘密を解き明かし、その力を手に入れたとして、それで一体どうするの? 王国時代の魔法技術の大半が失われたこの時代にそんな力を持てば、文字通り世界最強ってことよね? 世界征服でもするの?」
 皮肉めいた口調で訊く。
「私は……」
 言いかけて、ファージは口を閉ざした。
 少し考えて、逆に問いかけてくる。
「それじゃあナコは、何のために闘いの技術を学んでいるの?」
 今度は、奈子が返答に窮する番だった。
 何のために武道を学んでいるのか。以前から時々考えている命題であるが、いまだに明確な答えは出ていない。
「ナコ。人は、力を求めるものだよ。ストレインやトリニアのような強大な帝国も、そうして生まれたんだ」
「力を求め続けて……。最後に残ったのが、これ?」
 奈子は、周囲の遺跡を見渡した。
 王国時代の偉大な魔法技術によって、千年経ってもほぼその原型を留めている神殿。しかしそれを築いた人々は、今はもう何処にもいない。
「千年後に残ったのが死に絶えた廃虚だからといって、千年前の人々の行いが、無駄なことだったと思う?」
「それは……。そんなことはない……と思う……けど……」
 奈子は、それきり黙ってしまった。
 わからない。
 これは、そう簡単に答えの出る問題ではないように思われた。


 二人は無言のまま、遺跡の中心部にあるもっとも大きな建物に入って行った。
 中は真っ暗だが、すぐにファージが魔法の明かりを作り出したので歩くのに不自由はない。
 通路は石造りで、一抱えもありそうな石が隙間なく組み合わされている。
 奈子が見る限り、石と石の間には、紙一枚ほどの隙間もなさそうだった。王国時代の建築技術の高さが伺える。
「ねえ、こういうところって、やっぱり、怪物とかが棲んでいるの?」
 真っ暗な遺跡の通路には、不気味な雰囲気が漂っている。由唯に借りて最近はまっているロールプレイングゲームのダンジョンを思い出して、奈子は不安げに訊いた。
 なにしろここは『剣と魔法の世界』で、魔術師や、恐ろしい魔物が実在するのだ。
「怪物や魔物? んー、その遺跡にもよるけど、ここは大丈夫」
「そっか、よかった……って、いるところには、いるわけね」
 一応、胸をなで下ろす。
 しかし。
「ここは、それほど手強い奴はいない筈だから」
 という言葉に、足が止まった。
「……いるの?」
「いるよ。当然じゃない」
 ファージは平然と言う。当たり前だ、と言わんばかりに。
「当然、って。そんなあっさり言われても……」
 ちょっと困る。ここでの常識がどうであれ、こちらは、魔物も魔術師も、ゲームか物語の中にしか存在しない世界の出身なのだから。
 しかしファージは、そんな奈子の都合などお構いなしだ。
「ここのように強い魔力の残る遺跡には、魔物たちが寄って来るんだよねー。なんていうかな……夜の灯りに集まる虫みたいなもの?」
「魔物、って……この間、ルキアの街で闘ったような?」
 たった一頭で、街をひとつ壊滅させそうになった魔物を思い出した。腕に鳥肌が立つ。
「だから、そこまで手強い奴はいないって」
 ファージは笑って応えながらも、最後にからかうように「多分」と付け加えた。
「……もしかして、アタシを怖がらせて楽しんでる?」
「いや、ホントのこと」
 通路の奥を指差しながら、ファージが応える。そちらに視線を向けた奈子の身体が、一瞬硬直した。
 何かが、動いている。
 蠢く影が三つ、こちらへ近付いてくる。
 大きな生き物だ。その姿は……。
「……なに、あれ? トカゲ?」
 確かにそれは、トカゲに似ていた。但し大きさが尋常ではない。奈子が近所の山で見たことのある掌に乗るようなトカゲと比べれば、ミミズとニシキヘビほども違う。
「この辺に多い、魔物の一種。ま、トカゲの親戚には違いないね」
「魔物……って……」
 外見はどう見ても大トカゲだ。奈子の世界でも東南アジアかアフリカにでも行けば、このくらいのサイズのトカゲはいるかもしれない。
 しかし、それが口をぱっくりと開いた瞬間に納得した。口の中に並んだ牙がやたらと長い。しかも、姿形は爬虫類のくせに妙に素速い。
「あれは、ナコに任せたから」
 ファージがぽんと、奈子の背中を叩く。
「いや……任せたって言われても……」
 大トカゲと闘った経験なんてない。過去、牛や熊と闘った空手家はいたが、果たしてトカゲと闘った物好きはいただろうか。
(そういえば、コモドオオトカゲの牡同士って、レスリングみたいに組み合って闘うんだっけ。全長三メートルだもんなぁ。全盛時のカレリンだって勝てないぞ……)
 幸い……というべきか、目の前の相手はコモドオオトカゲほど大きくはない。せいぜい一メートル半くらいか。
「ねぇ、ファージ……」
 やっぱりファージがやっつけてよ……と言おうとして魔物から視線を逸らした瞬間、先頭の一匹が顔めがけて飛びかかってきた。今まで床の上を這っていたとは思えない跳躍力だ。
 人間の頭を丸飲みできそうなほどに開いた口が、迫ってくる。
「いやぁぁぁっ!」
 反射的に、右の拳をフック気味に叩き込んだ。続けて、真下から突き上げるようなボディアッパー。
 魔物の身体がまだ宙にあるうちに、その後を追うように奈子は石の床を蹴った。
 腹への空中二段蹴り。
 バレー部員が羨む跳躍力を持つ奈子ならではの技だ。
 そのまま、仰向けに落ちた魔物の頭に、全体重をかけて膝を落とす。ぐしゃりと、骨が潰れる感触が伝わってきた。
 考えるまでもなく、勝手に身体が動いた。繰り返し繰り返し練習してきた動作を、身体は無意識のうちに再生する。
 自分が何をしたのか気付いたのは、飛び散った青い体液を見た後だった。。
 吐き気がこみ上げてくる。
「うぇぇ……なにこれ」
「さっすがー。でも、次が来るよ」
 ファージは少し下がったところに座って、すっかり観客と化している。
 その声ではっと気付いた奈子は、弾けるように立ち上がった。
 背後から飛びかかってきた魔物に、振り返りざま裏拳を叩き込む。
 やや遅れて前から来たもう一匹には、つま先が突き刺さるような前蹴り。
 しかし床に落ちた二匹は、何事もなかったように起き上がってくる。やはり爬虫類、痛みには鈍感なのかもしれない。
 突きや蹴りで倒すのは難しそうだ。敵わないと見て逃げてくれればいいのだが、先刻の一撃はどうやら連中を怒らせる効果しかなかったらしい。
(壁に追いつめて連打を叩き込むか……。先刻みたいなニードロップは、石の床の上で自爆したらヤだし。爬虫類って、締め技にも強そうだよなぁ)
 人間相手ではない闘いには、やはり戸惑いがある。
 初めてこの世界に迷い込んだばかりの時に闘った、豹に似た魔物を思い出した。同じ哺乳類の分、あの時の方が闘いやすかった。少なくとも、急所は人間と大差ない。
 しかし爬虫類となるとずいぶん勝手が違う。
(尻尾を切ったって、その尻尾がまだ生きてるような連中だもんなぁ……。そういえばオオサンショウウオは、身体を半分に切っても生きてるからハンザキとも呼ばれるんだっけ)
 妙な知識のある奈子だったが、オオサンショウウオは爬虫類ではなく両生類であることは失念していた。
(いや、そんなこと考えてる場合じゃないか)
 とにかく、やりにくいことこの上ない。
 先刻のように向こうから飛びかかってくれば別だが、四つん這いになったトカゲに対してこちらから仕掛けられる攻撃といえば、ローキックぐらいしかない。奈子は目の前にいる魔物の頭を狙って蹴りを放った。
「――っ!」
 しかし相手も、普通のトカゲよりずっと素速い。大きな口を開けて、蹴り足にがっぷりと噛みついた。
 鋭い歯が肌に食い込む。
「こ、このぉっ!」
 ぐずぐずしてはいられない。このまま動きを封じられていては、もう一匹に襲われてしまう。
 奈子は噛みつかれた足を高く上げて魔物の身体を浮かすと、軸足で床を蹴って、跳び蹴りの要領で喉のあたりを蹴り上げた。それでも噛みついたまま床に落ちた魔物の首を、力一杯踏みつける。
 骨の折れる感触が伝わってくる。それでも魔物は噛みついた牙を離さない。むしろ、断末魔の痙攣によるものか、より深く奈子の足に食い込んでくる。
「く……ぅ……」
「ナコ、剣!」
 背後からファージの声がする。
 そうだ。忘れていた。
 前回、ファージからもらった魔剣。魔法のカードの中に封じたまま、今も持ち歩いている。
 あれを呼び出すには……。
「オサパネクシ! エクシ アフィ ネ!」
 奈子は叫んだ。
 その手の中に、一振りの剣が現れる。青い炎に包まれた剣が。
 ファージからもらった炎の魔剣、オサパネクシだ。
 しつこく食らいついて離さない魔物の頭に、刃を突き立てる。声にならない叫びを上げて、魔物は足を離した。一度大きく全身を痙攣させ、そのまま動かなくなる。
「後ろ!」
 反射的に、振り返りながら剣を横に薙ぎ払う。奈子に飛びかかろうとしていた魔物の最後の一匹が、真っ二つに両断された。
 それでもなお動いている魔物の頭に剣を突き立て、とどめを刺す。
「お見事ー! 鮮やかだね。さっすがナコ!」
 パチパチパチ……。
 結局最後まで観客だったファージが、楽しそうに拍手している。いや、一応アドバイスしてくれたからセコンドか。
「……気楽だね、あんたは」
 奈子は大きく溜息をつくと、剣をしまった。
「ファージがやれば、簡単に終わったんじゃない?」
 そう訊く声が、不機嫌なものになる。魔物に噛まれた足首が、ズキズキと痛んだ。歩く時、微かに足を引きずってしまう。
「まあ、確かにそうかもしれないけど。ナコにはいいウォーミングアップになったでしょ?」
「なにがウォーミングアップよ! アタシは痛い思いをして……」
 ファージは苦情を無視して、奈子の足下にしゃがんだ。怪我をした足首にそっと触れる。
「ちょ……ファージ……」
 触れられた部分が暖かい。いや、熱いくらいだ。
 じーんと痺れたような感覚が広がる。
「まだ、痛い?」
「……いや」
 ファージの手が傷に触れた瞬間、痛みは霧散していた。懐炉でも当てているような、心地よい暖かさがある。
 足首を撫でている優しい手の感触が、痛みと、怒りを忘れさせてくれる。
 数分後には、傷は跡形もなく消えていた。それでもファージは、奈子の脚を撫でている。
「……これも、魔法?」
「うん。怪我の治療は基本中の基本。奈子も憶えておけば? 役に立つよ」
「てゆーか。役に立つような目には遭いたくないけど……ファージ、なにやってんの?」
 ファージの手が、気付かないくらい少しずつ上ってきていた。膝上十五センチのところではっと気付いた奈子が、慌てて跳び退く。
「えへへ……見つかっちゃった」
 ファージがぺろっと舌を出した。
 まったく油断がならない。奈子はただでさえ同性に好かれるし、ファージはどうやら同性が好きらしい。前回の別れの時、唇を奪われたことは忘れていない。
「……ったく。ファージってば」
「それにしても、一度使っただけのその剣を、よくそれだけ使いこなせるね?」
 奈子の怒りを逸らすためか、ファージは話題を変える。奈子は一瞬返答に詰まった。
「……実は、その……、こんなかっこいい剣、しまっておくのは勿体ないなって、向こうにいた時、ちょっと……練習を」
「そうだと思った。なんだかんだ言って、やっぱりナコ、こーゆーの好きなんじゃない」
 機嫌のいい時の猫のように目を細めて、ファージが笑う。
「う……、まあ、嫌いじゃ……ない、かな。でもこの剣、向こうで試した時は、炎も微かにしか出なかったよ?」
「当然。こっちにいる時のナコの魔力は、桁違いに強くなってるんだから。前に言ったでしょ、魔力の源は、多相次元における位置エネルギーだって」
 以前、魔法の理論は一通り教わってはいる。しかし正直な話、その半分も理解してはいなかった。
「今、ナコの身体はこの世界にあっても、魔力は、ナコ本来の世界に隣接する次元から導き出されているんだよ。だから、魔力の強さだけなら、ナコは平均的な人間よりもずっと上。ただ、魔法の使い方を知らないからね……。さ、ウォーミングアップも済んだところで、お宝目指して行くとしましょーか」
 二人はまた、遺跡の奥へと進んでいった。



 しんと静まりかえった建物の中に入って、どのくらい歩いただろうか。
 通路が複雑に入り組んでいるためにはっきりしないが、多分地下三、四階分くらいは降りたはずだ。
「ねぇ、この通路はまだ続いてるの?」
 いい加減歩くのに飽きてきた奈子が尋ねる。先刻の大トカゲを倒した後は退屈になるくらい平和だ。別に、どんどん魔物が出てくればいいと思っているわけではないが、拍子抜けしたのも事実だ。
「うん、まだまだ。この辺までは前に私も来たことあるし……あれ?」
 ファージが、前方に何か見つけたらしい。
「なに? また、魔物?」
「違う……人間だよ。……エイクサム?」
 やや驚いた様子でファージが呼びかける。見ると、一人の人間が立っていた。
 二人の声に気付いて、こちらを振り向く。
「おや、ファーリッジ・ルゥじゃありませんか。珍しいところで会いますね?」
 人懐っこい笑みでそう言ったのは、長い金髪の男性だった。歳は二十代後半くらいだろうか。
 優しそうで美しい、そして知性的な顔立ちをしている。なかなかハンサムだ。
「ね、ファージ、知り合い?」
 奈子が小声で訊く。
 こんなところで知り合いに会うなんて、ファージも顔が広い。しかし考えてみれば、同じように古い遺跡を調べている知り合いであれば、こんな場所で会うのも不思議ではない。
「エイクサム・ハル・カイアン。私の同業者よ」
「同業者ってことは……魔術師?」
 ファージがうなずく。
「ついでにいうと、王国時代の遺跡を発掘している学者」
 なるほど。確かに、ゆったりとしたローブを身にまとい、物静かな雰囲気のエイクサムは、ファージなどよりずっと魔導師とか、賢者といったイメージにぴったりだ。
「相変わらず耳が早いですね、ファーリッジ・ルゥ。まさかあなたが、ここのことを知っていたとは。がっかりですよ、今回こそは出し抜けたと思ったんですけどねぇ」
 口では悔しそうに言うが、エイクサムの表情は穏やかだ。
「エイクサムこそ。私が一番乗りだと思ってたのに……」
「あなたはあまり、マイカラスへは来ないでしょう。この辺りのことは、私の方が詳しいですから。ところで、そちらの方は? 私は初対面ですよね?」
 台詞の最後の部分は、奈子を見て言ったものだ。
「私の友達のナコよ。ナコ・マツミヤ」
「初めまして、ナコ。エイクサム・ハルです」
「は、初めまして、奈子……です」
「この辺りの方ではありませんね? 雰囲気からすると、南のサイル地方の出身かな?」
「いえ……あの……」
 奈子が言い淀む。こんな時は、どう説明したらいいのだろう?
 困っている奈子に変わって、ファージが助け船を出してくれた。
「レディのことを、あれこれと詮索するのは失礼だよ、エイクサム」
「……それもそうですね」
 それでエイクサムはあっさりと引き下がる。
「でもあなた、いい目をしている。凛々しくて……、まるで、王国時代のユウナ・ヴィや、レイナ・ディみたいですよ」
 ユウナ・ヴィ・ラーナ。
 レイナ・ディ・デューン。
 奈子も、その名は知っていた。前回来た時に、本で読んだことがある。
 どちらも王国時代末期の、有名な竜騎士の名だ。
 女性の竜騎士というのは、この大陸の長い歴史の中でもそう多くはないが、いずれも後世に名の残る一流の騎士だったという。彼女らに似ているというのは、この世界では女性に対する最大の賛辞であるらしい。
「珍しいですね。あなたが、こういうところにソレア・サハ以外の人間を連れて来るなんて」
「うん!」
 エイクサムの疑問に、ファージは嬉しそうにうなずいた。
「ナコは、見た目がレイナ・ディに似ているだけじゃない。ホントに強いんだから」
「それはすごい。まさにレイナ・ディ・デューンの再来だ」
「でしょでしょ。ナコって、すごい格好いいんだよ。もう、ひとめ惚れって感じ!」
「はは……」
 ファージのはしゃぎっぷりに、エイクサムは苦笑する。
「本当に、珍しいですね」
 エイクサムが何気ない様子で、一歩横にずれた。
 その瞬間。
 神殿の通路に、一条の青白い光線が走った。
「本当に珍しい」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「ファーリッジ・ルゥ。あなたが、こんなに無防備になるなんて」
 表情も、口調も変えずに言った。
「でも、連れがいてよかったですよ。あなたをきちんと埋葬してくれる人間が、いるということですからね。こんなところで野垂れ死にして、魔物の餌になりたくはないでしょう?」
「……え?」
 奈子には、何が起こったのか理解できなかった。
 ファージが、目の前に倒れている。
 そして――
 石畳の通路に、紅い血の染みがすごい速さで広がっていった。



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