三章 敗北


「え……?」
 奈子は何が起こったのか理解できずに、呆然と立ち尽くしていた。
 傍には、エイクサムが静かな笑みを浮かべて立っており、足元には、血溜まりの中に倒れているファージがいる。
「ファー……ジ?」
 うつ伏せに倒れているファージを見つめ、それからエイクサムを見、そしてまたファージに視線を戻す。
 ファージはぴくりとも動かない。
「……ファージ……?」
 やっと奈子にも、事態が飲み込めてきた。
「ファージ! ちょっと! しっかりして、ファージ!」
 慌ててファージの側に屈み、ファージの身体を抱き起こす。その身体は、胸から腹にかけて血で真っ赤に染まっていた。
「ねえ! ファージ! ねえ! 目を開けて!」
 何の反応も示さないファージの身体を、奈子は激しく揺さぶる。
「無駄ですよ。あれは本来、竜を倒すための魔法ですから。いかにファーリッジ・ルゥといえども、無防備ではひとたまりもありません」
 エイクサムが、静かに言う。
 奈子の叫びがぴたりと止んだ。
「……どういう……こと?」
 ファージを見つめたまま、呟く。
「どうもこうも、言葉通りの意味です」
「誰が……、やったの?」
「ここには、私とあなたしかいません」
 エイクサムの声音は、ファージが倒れる前となんの変化もない。しかし、場の雰囲気は大きく変わっていた。
「あなた……が?」
「正確に言うと、奥に私の友人がいるのですが。私が目の前で呪文を唱えたのでは、不意打ちにならないでしょう?」
「――っ!」
 それを聞いてもまだ信じられなかった。否、信じたくなかった。
 先刻までのファージとエイクサムは、どう見ても友人同士であったのに。
 顔を上げて、エイクサムを見た。
 相変わらず、優しげで静かな笑みを浮かべている。
 しかしその真剣な目は、これが、嘘でも冗談でもないと語っていた。
「……何……故?」
「この遺跡の秘密を、ファーリッジ・ルゥに知られると困るんです。彼女は、墓守……こういう問題に関しては、私たちの敵ですから」
「どういうこと? 一体……?」
 エイクサムが何を言っているのか、奈子には理解できない。ただ心の奥底から、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。
「あなたは知らなくていいことです、ナコ。このまま大人しく引き返して、友達を埋葬してあげるべきでしょう。そうでないと、あなたまで殺さなければならなくなる。無益な殺生は好みません」
「どういうつもり! あなた一体何を……」
 奈子の言葉が終わる前に、エイクサムの身体は背後の闇に溶けるようにすぅっと消えていった。空間転移の魔法だ。
「あ……?」
 口を開いたまま、暫しエイクサムがいた空間を見つめていた奈子だったが、やがて思い出したようにファージに向き直る。
「ファージ……」
 血の気のない顔。
 真っ赤に染まった服。
 少しずつ体温が失われていく身体。
「うそ……でしょう……? ファー……ジ……」
 嘘だ。
 嘘だ。
 こんなこと、嘘に決まっている。
 奈子の目に、涙が溢れてきた。
「うそ……だよ、そんな……。つい先刻まで、笑ってたじゃない……」
 涙声で呟く。
 十五歳の少女の多くがそうであるように、奈子はこれまで身近で人の死を体験したことがなかった。まだ平均寿命の五分の一も生きていない者にとって、死というのはそれほど現実味を持った言葉ではない。
 しかし。
 今、奈子の腕の中にあるもの。
 それは紛れもない、現実の『死』だった。
「どうして……、ファージ……」
 溢れ出る涙のために、視界がぼやける。
 そのため、最初に『それ』に気付いた時は、目の錯覚かと思った。
 だが、見間違いではない。
「え……?」
 ファージの身体が、だんだんと透き通るように消えていく。
「ファージ?」
 ファージを抱いていた腕が、ふっと軽くなる。
 カツン……。
 乾いた音を立てて、ファージのピアスが床に落ちた。
 ピアス、服、ブレスレット。
 身に着けていたものはそのままに、ファージの身体だけが消えてしまった。
「ファージ……何処? ファージ? ファージ!」
 奈子は、すっかり混乱していた。
 目の前で、次々と理解を超えたことが起こる。
 狼狽えながら、特に考えもなしに目の前に墜ちていたブレスレットを手に取った。
 その時。
『ナコ……』
「ファージ?」
 ファージの声が聞こえたような気がした。
『ナコ。ナコがこのメッセージを聞いているということは、つまり、私の身に何かが起こったということでしょう……』
 声は直接、頭の中に伝わってくる。
『私の我侭でこっちに来てもらったのに、その上、トラブルに巻き込んでしまってごめんなさい。もしもこっちの世界で何か困ったことがあれば、タルコプの街で占い師をしているソレア・サハ・オルディカという女性を訪ねてください。私の古い友人で、力になってくれるはずだから……』
「あ……」
 やっと気が付いた。
 これはファージが万が一のために、奈子に宛てて残したメッセージなのだ。
『……でも、ナコにとって一番いいのは、そのまますぐに元の世界に帰ること……。そして私のことも、この世界のことも、忘れてしまってください。それが多分、ナコにとって一番安全です。本当にごめんなさい……。さようなら、ナコ。』
 メッセージはそれで終わっていた。そして短い沈黙の後、また、最初から同じメッセージを繰り返す。
 奈子はしばらくの間、呆然とブレスレットを見つめていた。
「……このまま元の世界に帰って、全て忘れろって……?」
 ふと思い出して、ポケットの中を探った。数枚のカードを取り出す。
 先刻受け取った、転移魔法のカードだ。これがあれば、奈子一人でも元の世界に帰ることができる。
「……それが一番いいことだって? ううん、違う。違う。そうじゃない……」
 奈子は、ゆっくりと立ち上がった。
 多分、ファージのメッセージの通り、このまま自分の世界に戻るのが正解なのだろう。
 だが……。
 厳しい表情で、通路の奥を見つめる。
「事情は、よくわからない。けど、さ……」
 一つだけ、わかっていることがある。
 奈子には、まだ、やらなければならないことがあった。



 神殿の地下通路は、ずっと奥まで続いていた。
 時々、下へ降りる階段がある。
 どのくらい歩いただろうか。奈子はいつの間にか、通路の造りが変わっていることに気が付いた。
 先刻までは、白っぽい石で造られた広い通路だったのに、今は濃い灰色の石で、二人が並んで歩くのが精一杯くらいの幅になっている。
 造られた年代が違うのだろうか。石の組み合わせ方も異なっているようだ。
 そんなことを考えていると通路は突然途切れ、広い部屋に出た。
 ちょっとした体育館くらいの広さがあって、隅の方には明かりも届かない。天井も高く、ここが地下だとはにわかには信じ難い。
 壁や床には、何か、文字のような模様が彫られている。
 そして広間の中央には、三つの人影があった。
 奈子は隠れることもせず、そちらへ歩いていった。
 一人は遠目にもエイクサムだとわかる。
 もう一人はもっと身体が大きく、剣を帯びている。
 最後の一人はエイクサムと同じようなローブをまとっているが、エイクサムよりは年輩だ。多分、四十歳くらいだろう。
 奈子の姿を見て、最初に口を開いたのはエイクサムだった。
「やれやれ、やっぱりここまで来てしまいましたか。大人しく帰るように言ったでしょう?」
 奈子はその言葉に応えず、エイクサムの目の前まで来て足を止めた。他の二人が動きかけたが、エイクサムが手で制止する。
「ハイディス、リューイ、手出しは無用です」
 どうやら、剣士がハイディス、年輩の魔導師がリューイという名らしい。
「今からでも遅くはない。このまま立ち去ってください。無益な殺生は嫌いです」
 エイクサムの言葉には、脅すような雰囲気はない。あくまでも優しい声だ。
「……お芝居かと思ってたけど、それが、あんたの地なんだ。悪い人には見えないのにね?」
 引きつった笑みを浮かべて奈子が言う。
「まあ、善悪の判断なんて、人によって変わるものですし……」
「でも、アタシから友達を奪ったことには変わりない。無益な殺生は嫌い? じゃあどうしてファージを殺したの?」
 奈子の声が低くなる。
「あなたには、済まないことをしたと思います。しかし……」
 その言葉が終わる前に、奈子が動いた。
 それは完全に、人の反射神経を凌駕した動きだった。
 エイクサムの身体に、拳を叩き込む。
 足首と手首の捻りを利用して、通常の突きよりもはるかに近い間合いから繰り出す縦拳。北原極闘流特有の『衝』と呼ばれる強力無比な突きだ。
 タイミングが難しいため、奈子もこれまで試割り以外では成功したことがない。
 しかし今回は。
 奈子の拳に、肋骨が砕ける感触がはっきりと伝わってきた。
 エイクサムが声にならない叫びを上げる。
 とどめとばかりに顔面に肘を叩き込もうとした奈子は、背後に殺気を感じて反射的に横へ跳んだ。
 一瞬前まで奈子がいた空間を、鋭い音を立てて剣先が通り過ぎる。
 間一髪で剣をかわして振り向くと、剣士風の男ハイディスがいた。奈子に体勢を整える隙を与えず、間合いを詰めて剣を振りかぶってくる。
 上体を傾けて相手の剣をぎりぎりでかわし、拳の間合いに入ろうとした奈子だったが。
「つっ!」
 左肩に鋭い痛みが走った。
 完全に見切ったつもりだったが、ハイディスの剣は奈子の予想以上に疾かったらしい。剣先は肩を掠め、血が滲んでくる。
 一度体勢を立て直そうと、肩を押さえて後ろに跳び退いた。同時に、奈子を取り囲むように長さ三十センチほどの鋭い魔法の矢が数十本出現する。
 相手はもう一人いることを失念していた。これはかわしようがない。
 もう一歩後ろに跳びながら、奈子は両腕で頭部をガードした。意識を集中する。
 魔法を使えない者でも、気の集中で相手の魔法をある程度防ぐことができる。ファージからそう教わっていた。たとえ完全に無効化出来なくとも、直撃を受けるよりはましだ。
「あぁっ!」
 光の矢の数本が、同時に奈子に突き刺さった。
 激痛が全身を貫く。
 脚にも何本か刺さったらしく、膝に力が入らなくなって奈子はその場に倒れた。倒れた奈子の上に、青く光る光球が現れる。
「待った……、殺す必要はありません」
 一瞬、死すら覚悟した奈子だったが、エイクサムの言葉に、魔術師リューイは放ちかけた魔法を解除した。光が消えていく。
「何故だ、エイクサム。お前はいつも甘すぎる」
 殴られた胸を押さえながら立ち上がったエイクサムに向かって、リューイは言った。
「そうだ。この娘、只者ではないぞ。今だって、並の娘なら死んでいる筈だ。生かしておけば、後々うるさいことになるかもしれん」
 とハイディス。
「ならばその時に……殺せば済むことです。今、殺す理由には……なりません」
 傷が痛むのか、苦しそうに息をしながら、エイクサムが応える。
「第一、将来のことなら……心配はいらないでしょう? ……ファーリッジ・ルゥはいない。私たちは、力を手にするのですから」
「まあ、確かにその通りだが」
 リューイがうなずくと、エイクサムは奈子に向き直った。
「ということです、ナコ。……今回は、見逃してあげます」
 まだうずくまって、呻き声を上げている奈子に向かって言う。
「……誰が……あんたの、情けなんか……」
 その声からは、まだ闘志は失われていない。しかし今は、身体も満足に動かせない状態だ。
「では……ここで死にますか? それを望むなら私は別に構いませんが……。あなたがこんなところで死んで、ファーリッジ・ルゥが悲しみはしませんか?」
「う……」
 奈子は言葉に詰まった。
 確かに、ファージはいつも奈子の安全を一番に気にかけてくれていた。
『今すぐ、自分の世界に帰り、全てを忘れなさい』
 今回だって、わざわざメッセージを残してくれたのに。
 奈子はそれを無視し、そして無様に負けたのだ。
 恥ずかしかった。
 自分が情けなかった。
 いっそ、このまま死んでしまいたい。
 しかしそれでは、ファージの思いを踏みにじることになる。
 唇をぎゅっと噛みしめた。
 血が滲むくらい強く。
 そして、絞り出すような声で呪文を唱えた。
「……オフンパロ……サイ……レ……」
 ポケットの中で、一枚のカードが閃光を発して消滅し、奈子の周囲に光の魔法陣を描き出す。
 驚く男たちの眼前で、奈子の身体は白い光に包まれ、そして消えていった。



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