雨が、降っていた。
冷たい雨。
八月の夜としては、気温はかなり低い。
奏珠別の街を見下ろす展望台。夜になると人気のなくなるこの場所に、奈子は倒れていた。
闘いで受けた傷のために、思うように身体が動かない。
出血と冷たい雨が、奈子の体力を奪っていく。
以前ファージから、怪我を治療する呪文のカードを貰っていたはず……と、何とか片手を動かしてポケットの中を探った。
やっと見つけたカードの魔法を解放すると、傷の痛みが急速に消えていく。しかしカードに封じられた魔法は傷を塞ぐためのもので、怪我によって失われた体力がすぐに回復するわけではない。何とか立って歩けるようになるまでには、それから三十分くらい休む必要があった。
いくらかふらつきながらも、奈子は立ち上がる。
目の前に、一本の樹があった。
幹に荒縄が巻きつけてあるその樹は、奈子が普段、空手のトレーニングで使っているものだ。
奈子は無言で、その樹を思い切り殴りつけた。それも、樹皮の部分を直接。
何度も、何度も。
拳から血が滲んできても、殴り続けた。
「……ちょっと強いと思っていい気になって。……肝心な時に友達を護れず、その仇も討てず……。何のための空手、何のための武道よっ! 何のための……」
その声はだんだん涙声になる。
「何のための……」
泣きながら、素手で樹を殴り続ける。
そのため、後ろから近付いてきた人の気配に気付かなかった。
「奈子先輩……」
突然の声に、驚いて後ろを振り返る。そこには、傘をさした由維が立っていた。
「やっぱり、向こうに行ってたんですね? また、ここに戻って来るんじゃないかって気がして……」
以前、由維にだけは話していた。異世界に迷い込んだ時のことを。
「また、あちこち怪我して……ひどい血。……奈子先輩……、泣いているの? いったい……?」
奈子の目から溢れる涙に気付いた由維が、心配そうに尋ねる。
「由維ぃ……」
「……いったい、何があったんですか……?」
奈子は、その問いに答えられず。
ただ由維にしがみついて、大声で泣くことしかできなかった。
それから数日間、奈子は家で寝込んでいた。
怪我のダメージに加えて、雨に降られて風邪をこじらせてしまったらしい。
ひどい高熱が何日も続いた。
両親は今東京にいるので、由維が毎日看病に来てくれた。
「先輩、お粥が出来ましたよ」
湯気を立てている土鍋を持って、由維が部屋に入ってくる。
奈子はベッドに横になったまま、返事をしない。
「奈子先輩、ごはんです」
「……食べたく……ない」
やっと聞き取れるような小さな声で応える。
「だめです。ちゃんと食べないと、良くなりませんよ」
由維は、外見に似合わず強い口調で言った。
「それに、昨夜もほとんど眠っていないんでしょう? それじゃ……」
「……だって眠ると、夢を見るんだもの。同じ夢を、何度も、何度も……」
ファージが死ぬ夢。
血塗れの、冷たくなったファージ、
あたりに立ち込める血の匂い。
その光景だけを繰り返す夢。
だから、眠るのが怖い。
「奈子先輩、そんなことじゃ……」
奈子はあれ以来、ただ横になっているだけで、ろくに睡眠も食事もとっていない。これでは身体を治すどころか、衰弱していく一方だ。
「アタシなんか、どうなってもいい……。由維も、アタシなんか放っといていいよ……」
「奈子先輩っ!」
自虐的な奈子の言葉に、由維は怒ったように大声を上げた。
「そんなの……。そんな言い方、先輩らしくない! そんなの、私の好きな奈子先輩じゃないっ!」
「……アタシには、人に好かれる資格なんてない……」
「奈子先輩!」
ファージの死のショックは、余りにも大きすぎたらしい。
身体よりも、心の傷の方が遥かに深い。
目の前で友達が殺されたのだから無理もないのだが。
奈子は、このまま立ち直れないのではないか――ふと、由維はそんなことを思った。
小さく溜息をつく。
長い付き合いの由維はよくわかっている。奈子はとても繊細な心の持ち主なのだ。
このままでいたら、本当に奈子の心は壊れてしまう。
由維は、説得の方法を変えることにした。どうやら、少しばかり荒療治をするしかないらしい。
こんな落ち込んでいる奈子を、いつまでも見ているのは辛かった。由維が好きなのは、強くて元気な奈子なのだ。
「きちんと食べて体力つけないと、ファージさんの仇が討てませんよ?」
「仇……?」
奈子は驚きの表情を浮かべた。まったく予想外のことを言われたように。
「仇って、あんた……」
「極闘流の門下生が、負けっぱなしで引き下がっていいんですか? いつか、北原先輩が言っていたじゃないですか、闘いってのは最後に立っていた者が勝ちだって。今日負けても、命があれば明日勝つこともできるって」
「……だって、勝てないよ。あんな奴……。アタシはあの時、死んだも同然……」
奈子の声には相変わらず元気がない。
「そうですか、わかりました」
対して、由維の声は力強い。声高に宣言する。
「奈子先輩が負けたのなら、私が、先輩の仇を討ちます!」
「あんた……が、仇って……。由維、何考えてんの?」
しかし由維はそれには答えず、奈子の机の方を向いた。机の上には、魔法のカードやファージのブレスレットなどがそのまま放り出してある。
「これですよね、呪文を封じ込めたカードって」
そう言うと、数枚のカードの中から一枚を引き抜いた。
「……由維、あんた、まさか……。何考えてんの、止めなさい!」
元々顔色の悪かった奈子の顔が、さらに青ざめる。しかし由維は、そんな奈子を無視した。
「えっと、転移魔法の呪文って何でしたっけ……?]
「由維!」
「……確か、オフンパロ……」
「由維っ! 止めてっ!」
金切り声を上げ、奈子がベッドから飛び起きる。
何日も寝たきりだったために一瞬足元がふらついたが、それでも由維の両肩をしっかりと捕まえた。
「由維……バカなことやめて」
泣きそうな声で懇願する。
「……ちゃんとご飯も食べるし、元気出すから。だからお願い、バカなことしないで……」
由維はにこっと笑うと、持っていたカードを奈子に渡した。安堵の息をついてカードを受け取る。
そして何気なく、そのカードに目を落として。
奈子の表情が強張った。
「由維……あんた……」
「えへへ……」
由維が悪戯な笑みを浮かべている。
「あんたはっ!」
奈子は拳を振り上げた。由維がぎゅっと目を閉じる。振り下ろされた拳は、コツンと軽く由維の頭を叩いた。
「この……バカ」
奈子が最初に異世界から帰ってきた時、由維には向こうの世界での出来事を詳しく話していた。
魔法のカードも実物を見せて、その使い方を説明している。
だから由維は間違えたわけではない。わざと、そうしたのだ。
由維が持っていたのは転移魔法のカードではなく、奈子の着替えをしまってある、物品収納用のカードだった。
(ファージの、仇……か)
由維が作ってくれたお粥を食べながら、奈子は考えた。
口で言うほど簡単なことではない。
由維も、本気で薦めているわけではないだろう。それとも、気付いていないのだろうか。
エイクサムに勝てるかどうか、という以前の問題がある
転移魔法のカードは、あと一枚しか残っていないのだ。
(家族も友達もみんな捨てて、向こうの世界へ……? そんなバカなこと……)
そんなことをしても何にもならない。ファージは、もう死んでしまった。
理屈ではそう思う。
だけど――
どこか、納得していない自分がいる。
(このままじゃ、いつまでも悪夢に悩まされ続けるんだろうな……)
お粥を口に運びながら、奈子はぼんやりと思った。
数日後、奈子は久しぶりに極闘流の道場を訪れた。
平日の午前中ということで、道場には誰もいない。
ただ一人を除いて。
「しばらく休んでみたいたけど、身体の方はもういいのか?」
そう訊くのは道場の先輩、北原美樹だった。
「はい、なんとか……」
道着に着替え、帯を締めながら、奈子が応える。
「じゃあ、遠慮はいらないな?」
「はい」
うなずきながら力強く応え、構えを取る。
「どっからでもかかってきな。一発でも当てられたら、帰りに『みそさざい』でスペシャルパフェをおごってやるよ」
腰に手を当て、余裕の表情で美樹が言う。『みそさざい』とは、道場の近くにある喫茶店だ。
「その言葉、忘れないでくださいよ」
言いながら、奈子はじりじりと間合いを詰めていった。
試合場で向かい合うと、美樹はすごく大きく見える。実際には奈子の方が数センチ背は高いのだが、全身から発している気が、美樹の身体をより大きく見せているのだろう。
奈子が、美樹とまともに試合をするのはこれが初めてだ。格闘技マニアの間で『女子格闘技では世界最強』とまで言われている美樹は、奈子にとってこれまで雲の上の存在だった。
この前の大会で優勝したおかげで、やっと試合をしてもらえるくらいには認められたのだと思うと、喜びがこみ上げてくる。
それにしても、美樹が持つこの迫力は一体何なのだろう。奈子は数週間前に異世界で闘った、炎を操る巨大な魔獣を思い出した。
美樹から感じる圧迫感は、あの化物と比べても遜色がない。
(この恐怖に打ち勝たなければ……)
奈子は思った。
エイクサムを倒すことなどとうてい叶わないことだ、と。
一気に間合いを詰めた奈子は右の中段突きをフェイントにして、一転、後ろ回し蹴りを放つ。
だが、美樹は蹴りをいとも簡単に腕でブロックすると、そのまま一歩踏み込んで、掌底で奈子の脇腹を狙ってきた。
それをなんとか右手で払い退けた奈子は、美樹の衿を両手で掴まえ、腹を狙って膝蹴りを繰り出す。
決まった、と思った瞬間、美樹の左腕がその膝を抱え込んだ。そして、右腕を奈子の首に回す。
気付いた時には、もう逃げられなかった。
美樹はそのまま、奈子を抱えて後ろへ反り投げをうつ。
(キャプチュード!)
その技の正体を悟った瞬間、奈子の頭は床に打ちつけられた。一瞬、意識が遠くなる。
それでも身体は無意識のうちに立ち上がって、構えを取った。
同時に、美樹が懐に飛び込んでくる。姿勢が低い。
(衝?)
かわしている暇はない、奈子は両腕で鳩尾をガードした。美樹は構わず、ガードしている腕の上から拳を叩きつけてくる。
ばんっ!
なにかが破裂したような音が響いた。
奈子の身体が、くの字になってその場に崩れ落ちる。
ガードの上からだというのに、すごい衝撃だった。まるで、太い杭で貫かれたようだ。
奈子は海老のように身体を曲げ、両手で鳩尾を押さえて痛みに耐える。
酸っぱいものが、胃からこみ上げてきた。
「ぐ……ぅ……」
「無理に動かない方がいいよ、そのまま休んでな」
美樹の声は、何処か遠くから聞こえるように感じた。
「……やっぱり強いな……。全然、かなわないや……」
奈子が悔しそうに呟く。
「奈子も、まあ、悪くなかったけど。後ろ回しのキレとか、良かったよ。でも、膝蹴りがまずかったな。もっと腕の引き付けで相手の体勢を崩さないと、こーゆー目に遭うってこと」
「ちぇ……。やっぱり北原先輩……強いや」
しばらく黙って、少し楽になってからまた口を開いた。
「……北原先輩、もし……、もしもの話しですよ。先輩にとって大切な人が、誰かに傷つけられたとしたら、先輩はどうします……?」
「それが誰であろうと、どんな事情があろうと、そいつをぶち殺す」
美樹は一瞬もためらわずに応えた。
その言葉には、何の気負いも感じられない。ごくごく自然な口調だ。
「……で、誰の仇? 相手は誰? 手伝ってやろうか?」
「だから、もしもの話ですってば」
「もしもの話、ね……。ま、そういうことにしとこう」
美樹が笑っている。まるで、奈子に何があったのか見透かされているようだ。
横になっている奈子の隣に、美樹が腰を下ろした。どこか、遠くを見ているような目をしている。
「私が、アメリカで生まれ育ったのは知ってる?」
「はい、聞いたことあります」
「私の父さんは、傭兵だった……」
奈子は驚いて、顔を美樹の方へ向けた。
美樹が自分のことを話すところなんて、これまで見たことがない。元々、口数の少ない人だ。
「物心つく前から、闘い方を教わっていた。空手の他、ナイフの使い方、銃の撃ち方。私にとって闘うことは、食べることや歩くことと同じくらい、当たり前のことだった」
一体、美樹は何を話そうとしているのだろう、
「父さんが死んだのは、私が十五の時。父さんの昔の仲間で、武器商人をしている男に裏切られて、殺されたんだ」
今度こそ本当に、心底驚いた。
そして、美樹がこの後なにを言おうとしているのか、何となく予想できた。
「その男は日系人で、日本で会社を経営していた。私が日本に来たのは、祖父がこっちにいるからじゃない。その男を追って来たんだ」
奈子は上体を起こした。真っ直ぐに美樹を見つめる。
「それで……」
その男はどうなったんですか? 奈子は、その言葉を飲み込んだ。
美樹が十五歳の頃といえば、もう三年も前のことだ。
「これ以上は、内緒だ。ここは法治国家、日本だからね」
美樹は笑って言う。
無論、その後のことは聞くまでもなかった。
「人を殺すなんて、誉められることじゃない。でも私は、闘いを否定することはできない。それは私の人生を否定することになるから。人からどう思われようと、それが私なんだ」
その言葉は奈子に語りかけるというより、むしろ独り言のように聞こえた。
「闘い続けるということは、敵を増やすということ。それ自体は別に気にもしないけど、それが原因で、私以外の誰か……私にとって大切な人が、危険な目に会うとしたら……」
美樹は、そこで言葉を切った。
微かに口を開いて、次の言葉を探しているように見える。
「だから私は、強くなることにしたんだ、誰よりも強く。世界中の人間が、北原美樹を怒らせるのは得策ではない、と思い知るまで」
「…………」
ちらりと、奈子の方を見る。
「闘いってのは、始めたら中途半端で止めることはできないんだ。それだけの覚悟がないのなら、闘うべきじゃない」
最後の言葉を言いながら、美樹は立ち上がった。柄にもなく、喋りすぎてしまった、という表情だった。
ほんの少し、顔が朱い。
「まあ、あんまり深く考える必要もないけどね。理屈じゃなくて、自分が今、何をしたいのかってこと」
それだけ言うと、美樹は道場から出ていった。
後に残った奈子は、ぼんやりとその後ろ姿を見送っていた。
(それが、北原先輩の強さの秘密……? それにしても……)
美樹は何故、こんな話をしたのだろう。
奈子の身に起こったことを、知っている筈はないのに。
それとも、何か気付いているのだろうか。
(ちょっと似ているな……。父親の仇を討つために、一人アメリカから日本へ……か)
しかし、異なる部分もある。
たとえ太平洋を隔てていても、それは、同じ星の上の国だ。
だが――
奈子が仇を追っていくのは、正真正銘の異世界だった。
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