終章 旅立ち


 その日の早朝。
 奈子は、居間のテーブルの上に手紙を置いて家を出た。
 手紙の文面はずいぶん悩んだのだが、どうにも上手くまとまらず、結局、極めてシンプルなものとなった。
『しばらく旅に出ます。いつか、きっと帰りますので、心配しないでください――奈子――』
 例によって両親が留守なのは幸いだった。
 今、両親の顔を見たら、決心が鈍ってしまうかも知れない。
 玄関を出たところで、一度、家を振り返った。生まれてから今日まで、十五年間暮らしてきた家。
 しかし今は、感傷に浸っている時ではない。奈子は歩きだした。
 穿き古したジーンズにTシャツ、持ち物は小さめのリュック一つというラフな姿で。
 必要な荷物は全てカードの中に封じ込めてあるから、荷物は少ない。
『旅の時には必需品ね』
 初めて会った時、ファージがそう言っていたのを思い出す。
 まだ早朝のため、人通りはほとんどない。たまに、犬の散歩をしている人がいるくらいだ。
 由維の家の前に差し掛かった時、奈子はもう一通の手紙を取り出した。
 それを、郵便受けに入れようとして、やっぱり思いとどまる。
 今、由維と顔を会わせるのは辛い。
 きっと、泣いて止めようとするに違いない。
 だけど、逃げちゃいけない。
 会っておかなければ、きっと後悔する。
 別に急ぐ必要はないので、由維が起きてくるまで待つことにした。
 そして、意外なことに。
 それほど待つ必要はなかった。
 五分としないうちに、由維が玄関から姿を現した。
「由維……」
「やっぱり、今日、行くんですね」
 それは質問というより、確認の口調だった。
「どうして……由維?」
「毎日奈子先輩の様子を見ていれば、なにか変だってわかりますよ。それに保存食とかミネラルウォーターとか、買い込んでるし……」
「バレバレ……ってわけか」
 奈子は肩をすくめた。
「私も……」
 由維がためらいがちに言う。
「私も連れていって」
 その言葉に、奈子が硬直する。
「……今、なんて言った?」
「私も一緒に連れてって!」
 由維の目は本気だった。
 目に涙を浮かべて抱きついてくる。
「これっきり、奈子先輩に会えないなんて嫌っ! 私も一緒に行く!」
 奈子はやや困惑した表情で、胸に顔を埋めて泣きじゃくる由維の肩を優しく抱いた。
「そんなこと、できるわけないじゃない……」
「だって……。今度向こうへ行ったら、もう帰って来れないんでしょう? そんなの嫌っ! 私も連れてって!」
 奈子は、由維の肩にかけた手に力を込めた。微かに手が震えている。
 今までずっと、冗談半分にじゃれついているものと思っていた。
 だけど由維は、由維なりに本気なのだ。
(由維と一緒なら……)
 ずっと心強い。一瞬、そんな考えが頭をよぎる。しかし、理性が辛うじてそれを押し止めた。
「それは……駄目。由維は、ここで待っていて」
「え……?」
 由維が顔を上げる。
「由維が待っていてくれるなら、アタシは、たとえ何年かかったって、きっと戻る方法を見つける……。だから……、待っていて」
 由維に……というよりも、自分自身に言い聞かせるような口調だった。
「奈子先輩……」
「アタシは、必ず帰ってくる。だから……ね?」
「……きっと、きっとですよ」
 由維はもう一度、奈子にぎゅっとしがみついた。


 いつもの、奏朱別公園の展望台。
 奈子は、早朝のこの場所が気に入っていた。
 朝靄に煙る奏朱別の街を見渡すことができる。
 奈子が生まれ、育った街。
 宮本由維と出会い、北原美樹と出会い、高品雄二と出会った街。
 その街並みを見ながら、転移魔法のカードを取り出した。
 目から、一筋の涙がこぼれる。
(感傷も、涙も、もうこれで最後……)
 手の甲でごしごしと涙を拭い、カードを高く掲げて呪文を唱えた。
(アタシには、まだ、やらなければならないことがある……)

〈第三話『黄昏の堕天使』に続く〉



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