序章 黄昏の刻〜千年前〜


「全軍、前へ」
 彼女はただ一言、それだけを命じた。
 隣に立っていた長身の副官が、大きな声で指揮官の命令を全軍に伝える。
 ほとんど間をおかず、彼女が率いる二万の兵は、一糸乱れぬ陣形で前進を始めた。彼女が立っているなだらかな丘の上からは、兵の動きを手に取るように把握できた。
 前方では、敵軍が慌てて陣形を整えようとしている。その左手には、大陸でも有数の大河コルザ川が滔々と流れており、下流へ目を移すと、敵トリニアの王都マルスティアがある。 
 陽は、既に大きく西に傾いている。普通ならば、これから戦端を開く時刻ではない。
 彼女は、喉の奥でくっくと笑った。
 敵軍の慌て振りがはっきりと見える。
「甘いな。このくらいで慌てるようでは。夜討ち朝駆けだけが戦ではあるまい」
「レイナ様、戦闘も始まらないうちから勝った気になって笑うのは、少々早すぎるのでは?」
 彼女の隣に立っていた副官のトゥートが眉をひそめる。
 彼が心配するのも無理はない。
 レイナ・ディ・デューンが率いるストレイン帝国の軍は約二万。対して眼前のトリニア軍は五万を越えている。
 無論、必勝を期すために様々な策を練ってはあるし、彼もその一端を担っている。が、だからといって全く不安がないといえば嘘になる。
 しかし、レイナは己の勝利を微塵も疑っていないようだった。
 レイナは、女騎士の中でも決して大きな方ではない。長身のトゥートの横に立てば、背はその肩にも届かない。だが、人の目に映るレイナは、それより遙かに大きかった。
 全身にみなぎる気迫と自信。
 強い光を持った鋭い目。
 そして何より、最強の騎士としての誇り。
 それらが、彼女を他の誰よりも大きな存在としているのだ。
 レイナが「勝つ」と言えば、その言葉を疑う者はこの軍にはいない。
「馬鹿なことを言うな。実際に戦ってみるまで勝敗がわからないような奴を『無能』と呼ぶんだ。ほとんどの戦いは、始まった時には既に勝敗は決しているんだよ。刃を交えるのは、相手にその事実を知らしめるためでしかない。それとも……」
 レイナは横目で心配性の副官を見た。
「トゥート、お前は敵に私以上の指揮官がいるとでも言うのか。ん?」
「そんなことはありませんが、しかし……」
「心配は要らん、見ろ」
 レイナに促されて、トゥートは前線に目をやる。
 最前線は二キロほど先だが、鷹にも劣らない、といわれる彼の目は、はっきりと戦況を捉えることができた。
 そこでは両軍の先鋒同士が激しくぶつかり合っていた。敵の陣形は早くも崩れつつある。
 今日のこの時刻の攻撃のために昨日から準備していたストレイン軍と、戦闘開始は翌朝と踏んでいたトリニアの軍、序盤ではその用意の差がはっきりと現れたようだ。
 それに何より、トリニア侵攻開始より三ヶ月、連戦連勝で勢いづいているレイナの軍勢と、建国以来五百年、初めて王都で敵を迎え撃つトリニア軍とでは、開戦前から士気に雲泥の差があった。
「明日は、噂に名高いトリニアの王都、光の都マルスティアをゆっくりと見物できそうだな」
「……ですが、トリニアが竜を投入してくれば、戦況はまだわかりません」
「その前に終わらせる。連中、うまいこと陽動に引っかかってくれたからな。竜騎士が戻ってきた頃には、王都は我々の手に陥ちている、というわけだ」
 もっとも……、とレイナは付け加える。
「私としては、その前に戻ってきて欲しいところだ。半ば伝説と化している青竜の騎士、ぜひ手合わせしてみたい。竜騎士を倒したことはあるが、あの時は竜を駆ってはいなかった」
「私はごめんですね」
 トゥートは肩をすくめた。
「どうせなら楽に勝てる方がいいです。トリニアの竜騎士なんて、考えただけで鳥肌が立ちますよ」
 副官の弱気な言葉に、ふっとレイナは笑みを洩らす。その言葉が決して本心ではないことを、彼女はわかっていた。
 トゥートは、見た目は背だけがひょろりと高い優男だが、いざ戦いとなれば安心して背中を任せられる男だった。
 そもそも無能な者、臆病な者が、ストレイン帝国の竜騎士の中で一、二を争う実力の持ち主であるレイナ・ディ・デューンの副官でいられる筈がない。
「トリニアの先鋒は、一刻と持たなかったな」
 総崩れとなった敵の前線部隊を見て、レイナが目を細めた。
「作戦通り、このまま兵を進めますか?」
「当然だ。日没まで時間がない、一気に敵を蹂躙しろ」
 末端まで指令が行き届いている軍は、陣形を変え、敵の本陣へと突入していった。



 この世界は、二つの大陸と、大小無数の島々で成り立っている。
 大陸の一つは南極付近に位置し、人間は住まない。
 そしてより大きな、人が住むただ一つの大陸は、コルシアと呼ばれていた。
 それは、この世界の古い言葉で『大地』を意味する。
 コルシアの中央部には、大陸を南北に分断する巨大な山脈が聳え、その西側には広大な不毛の砂漠が広がっている。
 山脈の東側も、高緯度の最北部は気温が低すぎるために居住には向かず、実際のところ、人間が住む土地は大陸の三分の一程度でしかない。
 それでも、人間が支配するには広すぎる大地であった。狭義では、この人が住む土地を指してコルシアと呼ぶ。
 有史以来、大陸には無数の国が栄え、そして滅びていった。
 初めてコルシアの過半を支配下に置いたストレイン帝国、そして、後にストレインを凌駕する大勢力となったトリニア王国連合、これらの国が栄えていた約七百年間は、後に『王国時代』と呼ばれるようになる。
 それは高度な魔法技術と、竜騎士が栄華を誇った時代。
 コルシアの歴史の中で、もっとも力と光に満ち溢れていた時代。
 しかしトリニアとストレインの全面戦争により、光の時代は終わりを告げた。
 コルシアの全土を焦土と化すほどの凄惨な戦いと、それに続く長い冬。
 人口は激減し、王国時代の偉大な知識も力も失われ、そうして、いつ果てるとも知れない闇の時代が訪れた。

 そして――
 それから千年。
 王国時代の繁栄には及ぶべくもないが、少なくとも、滅亡の危機は去った時代に。
 コルシアとは少し異なる世界からやってきた、一人の少女の物語が始まる――



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