「奈子ってば、柄にもなく緊張してるのぉ?」
そんな声と同時に、いきなり背後から胸を掴まれた。
思わず、悲鳴を上げて飛びあがる。
「め、め、め〜め先輩っ、いきなり何するんですかっ!」
振り返った奈子の前で、髪の長い、小柄な少女がくすくすと笑っていた。
「なんだか、すごく固くなってるからさ、緊張を解してあげようと思って、ね」
「だからって……、他に方法があるでしょっ? そもそも、緊張するなって方が無理なんですよ。初めての全国大会なんだから……」
そう、今日は総合空手協会主催の、日本選手権の日。奈子は中学女子の部の北海道代表として、ここ東京武道館に来ていた。
試合場は少年部から大人まで、大勢の選手でごった返しており、客席も、応援の門下生や一般の観客でほぼ満員状態だ。
これほど大勢の前で試合をした経験のない奈子にとっては、それもまたプレッシャーをいや増す一因となっている。
「だいたい、め〜め先輩のせいなんですからね。アタシが全国大会初出場なのは」
「そうやって、人のせいにするのは良くないなぁ。私に勝てなかった奈子が悪い」
奈子の前に立っている小柄な少女、め〜め先輩こと安藤美夢は、顔の前で人差し指を小さく左右に振った。
美夢の身長は百五十センチに満たず、体重は三五キロ弱。高校一年生の女子としてもかなり小柄でだ。奈子と並ぶと美夢の方が歳下に見える。
おまけに腰まで届くほどの、昨今の女子高生には珍しいストレートの黒髪に、優しく可憐な顔立ち。
それは『お人形さんのような』という形容詞がぴったりで、空手の試合場などにいるのは実に場違いな雰囲気だった。
だが、奈子の一年先輩のこの安藤美夢こそ、昨年まで中学女子の部で無敵を誇った選手なのだ。
二年生の時に全国優勝して以来二年間、公式戦無敗。もちろん、奈子もこれまで一度も勝てたことがない。
つまり、奈子は今まで地区予選で美夢に負け続けていたために、実力は全国クラスといわれながらも、これまで全国大会出場の機会に恵まれなかったのである。今年、美夢が高校に進学して、やっと奈子に出番が巡ってきたというわけだ。
美夢は今大会、高校女子軽量級の優勝候補筆頭に挙げられている。
「まぁ、初体験は緊張するのも無理ないけど、そんな大したものじゃないよ。終わってしまえば、なんだだこんなものか、って呆気ないくらい」
「め〜め先輩が言うと、なんか違う意味に聞こえますね?」
なんとなく下ネタっぽく聞こえるのは気のせいだろうか。
「とにかく、そんなカチカチになってちゃ勝てるものも勝てなくなるって。心配しなくても、奈子は十分に強いんだから」
美夢は気楽に笑って奈子の背中をぽんぽんと叩くが、それでも一向に緊張は解けない。
「そうだ。美樹さんの『絶対に勝てるおまじない』って、試してみる? 効果抜群だよー」
「え?」
奈子は一瞬、美夢の言葉が理解できずに首を傾げた。
美夢が言う美樹さんとは、北原極闘流の創始者の孫娘で女子空手界の女王、北原美樹のことだ。奈子もずいぶんと世話になっている。
(あの超実戦主義の北原先輩が、試合に勝つためにおまじないなんかに頼る……?)
北原美樹とおまじない。奈子の頭の中で、この二つの単語はどうしても結びつかない。
きょろきょろと周囲を見回していた美夢は、試合場の隅に美樹の姿を認めて大きく手を振った。
それに気付いた美樹がこちらへ歩いてくる。
「どうした? め〜め」
「奈子がね、初めての全国大会で緊張しててねー。このままじゃ実力が出せそうにないからさ、ほら、例のヤツ」
美夢が悪戯っぽく笑って片目を瞑る。
美樹は「ああ」と小さく頷いた。奈子の方を向いて言う。
「わかってると思うけど、我が北原極闘流はこの二年間、女子の部の全階級制覇を続けている。ここは当然、三連覇を狙うつもりだ。つまり……」
そこで一旦言葉を切った。
その微妙な間がどれほどの効果を上げるか、充分に計算しての行動だろう。
「負けたら、殺す」
「――っ」
目が、本気だった。
どう見ても、これ以上はないというくらいに本気だった。
ごくり……と咽を鳴らして、奈子は唾を飲み込んだ。冷や汗が一筋、頬を伝う。
「そ……そんな、余計にプレッシャーかけるようなこと言わないで下さいよ!」
「何がプレッシャーだ。敗北とはすなわち死、実戦なら当たり前のことだろ?」
特に気負った様子もなく、ごく自然に美樹は言う。
海外で傭兵をしていた父親に格闘技を習った彼女にとっては、それが常識なのだろう。物心つく前からそう教えられてきたと、奈子は以前聞かされたことがある。
「死にたくないか?」
「当たり前です!」
「死ぬのは、怖いか?」
「怖い……です」
「じゃあ、勝て」
それだけ言って、美樹は去っていった。
あとには、呆然としている奈子と、面白そうに笑っている美夢が残される。
「……絶対勝てるって、こういうこと……ですか?」
やや怯みながらも怒ったように訊く奈子に対して、美夢は笑いながらうんうんと頷いた。まったく悪びれる様子もない。
「これで、勝つしかなくなったっしょ?」
「もし負けたらどうするんですかっ!」
「その時はその時」
美夢はあっさりと言った。
「死ぬのがヤなら、勝つしかないね。それとも、美樹さんを返り討ちにするとか?」
「そっちの方が難しいじゃないですか!」
「じゃ、頑張って優勝しようね」
はあ、と大きく溜息をついて、奈子は肩を落とした。
まさか、こんなことになるなんて。
「命を懸けた闘いなんて、簡単なンだよ。所詮、自分一人の問題なんだから。奈子もそろそろ、誇りを懸けた闘いってのを、経験するべきじゃない? ほら、もうすぐ出番だよ」
背中が掌で軽く押された。
試合場では、既に一回戦が始まっている。
係員が奈子の名を呼んだ。
「頑張ってね、奈子」
美夢の掌が、背中をぽんぽんと叩いている。
「勝ったら、キスしてあげるから」
「いりませんっ!」
少々倒錯した趣味があるという美夢の申し出をきっぱりと断ってから、奈子は自分の試合場へと向かった。
とにかく、勝つしかないのだ。
一回戦の相手は、咬竜会の山根睦美。
奈子と同じく今年中学三年生で、二年生の時から全国大会に出ている強者だ。
(どーして、こんなことになっちゃったかなぁ)
審判の『始め』の声を聞きながら、心の中で嘆息した。
『向こう』での闘いならいざ知らず。
自分の世界の、たかが空手の試合が、どうして生死に関わることになるのだろう、と。
(たかが、空手の試合……?)
自分の言葉に「あれ」と首を傾げる。
(そうか……)
奈子はうなずいた。
考えてみれば、これはたかが中学生同士の、空手の試合でしかない。
向こうの世界で奈子は、正真正銘命がけの闘いを繰り広げてきた。
剣を持った荒くれ共。
獰猛な肉食獣。
異世界から召喚された魔獣。
手練れの傭兵。
そして、強大な力を持った魔術師……。
自分一人の力ではないとはいえ、そんな闘いをくぐり抜けてきたのだ。
(それと比べれば……)
こんな試合、楽な闘いのはずだ。
相手は、奈子と同い歳の少女でしかない。
武器を持っているわけでもない。魔法を使うわけでもない。ちょっと空手が上手いだけの、ただの中学生だ。
(楽な闘いじゃないの……)
そう思うと、急に気が楽になった。
肩の力が抜けて、身体が軽くなったように感じる。
意識が、集中していく。
相手の動きは、はっきりと見えていた。
野生の獣に比べれば、ずっと遅い。
向こうの世界の戦士に比べれば、隙だらけだ。
(中学生なんて、こんなもんだっけ?)
睦美の順突きを余裕を持って躱し、膝裏を狙って下段蹴りを叩き込む。
相手の体勢が大きく崩れたところで、近い間合いからボディアッパーの二連発。
それで終わりだ。
審判の右手がさっと上がり「一本!」の声が響いた。
数時間後。
決勝を終えた奈子は、更衣室でTシャツを替えて試合場に戻った。この後表彰式があるので道着はそのままだ。
試合場では既に、高校生や一般の試合が始まっている。
美樹や美夢はどこだろうか、と場内をきょろきょろと見回していた時、不意に背後から名前を呼ばれた。美夢や美樹ではない。男性の声だ。。
聞き覚えのあるその声に、奈子の頬が朱く染まる。
(大丈夫……だよね? もう大丈夫……普通に、話せるよね?)
自分に言い聞かせながら、ゆっくりと振り返る。
「……高品先輩、お久しぶりです」
「やったな、松宮。見てたぞ。一回戦から決勝までオール一本勝ちじゃないか」
百八十センチ以上ある逞しい体格の青年が、笑いながら奈子の頭に手を乗せる。
以前は奈子と同じ道場にいて、この春から東京の本部で指導員をしている高品雄二だった。
「先輩が、鍛えてくれたお陰です」
高品に触れられると、鼓動が早くなるのが自分でもわかる。奈子は、それが表情に出ませんように、と願った。
「いいセン行くだろうとは思ってたけど、まさかこれほどとはな。今なら、安藤や美樹ちゃんにも勝てるんじゃないか?」
「まさか……」
思わず苦笑いする。奈子にとって、あの二人だけは別格だ。
「それより、先輩の方はどうですか? 今回は、無差別級でのエントリーですよね?」
「おお、もう絶好調だよ。今年こそ、無差別級のタイトルを聖覇流から奪い取ってやる。女子が無敵なのに、男子がいつまでも二位に甘んじてるってのはカッコつかないからな」
もうじき試合だから、と高品は去っていった。
黙ってその背中を見送る。
「……やっぱりまだ、ドキドキする……。でも、普通に話せるようになったよね? うん、大丈夫」
心臓の鼓動を確かめるように左胸を押さえ、奈子はつぶやいた。
以前から、高品のことが好きだった。
実を言うと、今年のバレンタインに生まれて初めての告白をした相手だ。
ただし、その告白は初めから結果がわかっていた。高品には、学生時代から付き合っている恋人がいることを、奈子は知っていた。
ただ、けじめを付けたかっただけ。春になったら東京へ行ってしまう高品と、何も言わずに離れ離れになりたくなかった。
当時はいろいろとあったが、今日こうして、普通に先輩後輩として言葉が交わせたことが嬉しかった。
(今にして思えば……恋と言うより、憧れに近いものだったんだろうな)
小さい頃、八巻建志やフランシスコ・フィリョに憧れていたのと似たようなものだ。ただ、彼らよりずっと身近な存在だったために、恋愛の対象となっただけ。
(まあ、あれはあれで本気だったんだけど……、思い出すとちょっと恥ずかしいけどね)
それでも、いい想い出には違いない。思春期の女の子ならみんな通る道だろう。
あまり知られていないが、実のところ奈子は意外と惚れっぽい。好みのタイプは『強くてカッコいい男』。
今一番のお気に入りはマイカラス王国のハルティ王子だったが、それは口が裂けても人には言えない秘密だった。
「ちゃんと、男の人を好きになるンだもの、アタシはノーマルだよね。そりゃあ由維は可愛いし、キスした時はドキドキしたけどさ……」
台詞の後半はあまりノーマルとは言い難いのだが、自分ではそのことに気付いていなかった。
ようやく美樹を見つけたとき、彼女は美夢の試合を見ていた。
美樹は格闘技界では有名人で、こういう場所ではファンに取り囲まれてもおかしくないのだが、今は一人だった。
美樹の周囲に、常人には近寄りがたい殺気が漂っている。腕を組んで、厳しい目で試合場を見つめている。
試合の日には、いつもこうだった。
こんな時は、奈子でさえ近寄りがたい。美樹のことを全く怖がらないのは、女子では美夢くらいのものだろう。
「北原……先輩?」
奈子は、少し離れたところからそっと声をかけた。
気付いた美樹が側へ来いと目で促すので、ほっと息をついて隣に立った。。
「どうやら、生き延びたようだな」
目は試合中の美夢に向けたまま、美樹が言った。
「この歳で死にたくありませんから」
「悪くない試合だったな。うん、ずいぶん強くなったよ」
悪くない、これは美樹にしては最高の褒め言葉だった。
たとえ勝ったとしても、試合内容が悪ければ美樹を怒らせる可能性もあったのだ。奈子は、内心ほっと胸をなで下ろした。
「め〜め先輩は?」
「いま三回戦だ。勝つよ、今回の軽量級にあいつの敵はいない」
奈子も、美夢の試合に目を移した。
相手は、美夢よりふた回りくらい大きい。もっとも、いくら軽量級といっても美夢が小さすぎるのだ。
この大会のルールでは、女子軽量級は体重四八キロ以下となっている。三五キロしかない美夢はリミットよりも十キロ以上軽い。
選手の多くは四五キロ以上あるのだから、美夢はダントツで最軽量選手だった。
本来、このハンデはかなり大きい。
百キロ級の選手で十キロ差ならそれほどでもないだろうが、女子軽量級では体重の二割以上の差になる。例外はあるが、基本的に打撃格闘技では身体の大きい者、体重の重い者が有利だ。
リーチが長く、打撃に威力があり、耐久力が増す。
そのことを理解している美夢の対戦相手は、リーチの差を生かして、離れた間合いから突きと蹴りのコンビネーションで攻めたてていた。一見、美夢は防戦一方のようだ。
美夢は相手の重い攻撃を受けるのが精一杯で、反撃に移れずにいる……ように見えた。
「あのバカ、遊んでやがる」
美樹が苦笑する。
それは奈子も気付いていた。美夢は、奈子との練習試合でもよくこんな真似をする。奈子なら勝てる時に確実に勝とうとするが、美夢は試合そのものを十分に楽しんでから相手を仕留めるのだ。己の技量に絶対の自信があるからこそ、できることだった。
今だって追い込まれているように見えてるが、美夢は実は無傷、飄々と相手の攻撃を受け流しているだけだ。
「……奈子は、何のために空手をやっているんだ?」
「え?」
不意に、美樹が訊いた。
あまりに唐突だったので、一瞬それが自分に向けられた質問と気付かなかった。
何のために……?
奈子は最近、自分に対して何度かその質問をする機会があった。
「最近……それがわからなくなってきてるんです」
正直に答えた。
闘うことの意味。
闘いの中で人の死を目の当たりにして以来ずっと考えてきたが、答えは見つかっていない。
「ふうん……。ま、誰にもそういう時期はあるよな」
美樹は何となく、そんな奈子の答えを予想していたようだ。
「北原先輩にも?」
「ま、な」
「それで……、北原先輩は答えが見つかったんですか?」
「さあ、どうだろう」
美樹は首を傾げた。
別にとぼけている様子はない。それが本心なのだろう。
「はっきりしているのは、奈子も自分で、自分なりの答えを見つけなきゃならないってことだ。一つだけ言っておくけど、闘いってのは、きれい事じゃない。格闘技なんて所詮、人を傷つけるため、殺すための技なんだから。心身の鍛練とかなんとか、そんなこと言う奴がいるけど、私に言わせりゃ空手で精神を鍛えるなんて非効率すぎる」
美樹はそんな辛辣な台詞を吐いた。
「精神修養なら、山寺で座禅でも組んでた方がよっぽどいい。悟りってのは、その道を極めた者だけが得られるんだよ。闘いから何かを悟るためには、いったいどれほどの人を傷つけ、殺さなきゃならないものやら……。あ、終わった」
不意に美樹が顔を上げる。奈子も慌ててその視線を追った。
試合場では、美夢が場外ラインぎりぎりまで追いつめられていた。自分からこれ以上下がれば、減点となってしまう。
相手は、ここで決めようと猛烈に攻めたてる。
これまでか……と。美樹と奈子と、そして本人以外の誰もがそう思ったに違いない瞬間、美夢の姿が消えた。
いや、本当に消えたわけではない。ほんの五十センチほど、横へ移動しただけだ。
それが予備動作のない、あまりにも速い動きのために、闘っている相手には一瞬消えたように見える。
そして、目標を見失った相手の目が再び美夢を捉えるより早く、得意の上段回し蹴りが叩き込まれていた。
相手の身体は一撃で崩れ落ち、審判の手が上がる。一瞬遅れて、わっと歓声が沸き起こった。
「まったく……遊んでないでさっさと終わらせろよな。今日は後がつかえてるんだから」
「め〜め先輩って、ホント、楽しそうに試合してますね」
試合後の礼を済ませる美夢は、特にはしゃぐわけでもなく、いつものようににこにこと笑っている。
「私にも、アイツだけは何考えてるのかわかんね。でも、あのタイプは敵に回すと怖いよ。きっとあの表情のまま、人を殺せるんだぜ。あんな外見のくせに、詐欺だよな」
美樹は肩をすくめた。
「そういえば、今日はあのちっこいの、応援に来てないのか?」
「ちっこいの……って、由維?」
そんな名前だっけ、と美樹がうなずく。
由維はいつも、奈子の試合には応援に来ている。必ず、手作りのお弁当を持って。
札幌〜東京の距離など、由維の愛情の前にはものの数ではないように思えるのだが、今日に限っては由維は来ていない。
「ホントは、来るって言ってたんですけどね」
しかし昨日から熱を出して寝込んでいて、親から外出を禁じられたのだという。
「夏風邪か、あいつらしいと言えば、らしいな」
美樹の言葉に、奈子もぷっと吹き出す。
由維が、優勝祈願の水ごりをしていて風邪を引いたことは、奈子も知らなかった。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.