二章 マイカラスの夜


 奈子を包んでいた光が徐々に薄れ、視界が回復してくる。
 そこは、見覚えのある地下室だった。
 石が剥き出しになっている床には複雑な魔法陣が描かれている。
 部屋の中には、幾つかの本棚と戸棚。
 本棚にはなにやら難しい本(そのうち何割かは、奈子には読めない文字で書かれていた)、そして戸棚には薬品の瓶が、それぞれぎっしりと並べられている。
 あとは、飾り気のない机が一つに、椅子が一脚。
「よし、成功」
 周囲を見回し、自分の身体をぽんぽんと叩いて、なにも問題がないことを確認した奈子は、満足そうに呟いた。
 なにしろ自力でこの世界へ転移するのはこれがまだ二度目、上手くいく自信などまるでない。おっかなびっくりの転移なのだ。
 転移魔法はもっとも高度な技術の一つで、誰にでもおいそれと出来るものではない。しかも奈子の場合、空間ではなく次元も移動しなければならないのだ。
 無論それは奈子一人の力では不可能で、それを可能にしているのが、ファーリッジ・ルゥがくれた魔法のカードだ。
 異世界の人間である奈子は、それ故にこの世界では強い魔力を持つが、その制御の仕方を学んでいないため、カードの助けなしには魔法らしい魔法は使えないのだった。
 奈子は地下室から出て、階段を昇る。
 そっと、居間の扉を開いた。
 室内では、ソレア――ソレア・サハ・オルディカ――が一人でソファに座って、お茶を飲んでいた。こちらに背を向けている。
「あの……こんにちわ」
 ためらいがちに声をかけると、ソレアは弾かれたように立ち上がって奈子の方を振り返った。
「ナコ……ちゃん?」
 突然の来客に驚いたのか、手からカップが滑り落ちそうになり、慌ててテーブルの上に置く。
「ナコちゃん、本当に来てくれたのね。会えて嬉しいわ」
 ソレアはぎゅっと奈子を抱きしめ、それから、頭をそっと撫でた。
「元気そうね。安心した」
「なんとか……元気でやってます」
 まるで母親に甘えるように頬ずりする。ソレアは、この世界での奈子の保護者だ。
「とりあえず座ってお茶でも……と言いたいところだけど。大変、もうこんな時間なのね。ナコちゃん、こっちに来て」
 ソレアは、奈子の手を引いて二階へと連れて行く。そこは、奈子がこの家に滞在した時に使っていた寝室だ。
「着ている物を全部脱いで」
 何の前置きもなく、部屋に入ると同時にそう言われた。
 奈子はびっくりして、服の胸元を手で押さえる。無意識のうちに、二、三歩後退った。
「服を脱げって……ソ、ソレアさんまでそっちの趣味? しかもこんな明るいうちから……」
「え?」
 こちらに背を向けてクローゼットを開けていたソレアが振り返る。
「ナコちゃん……何か誤解してない?」
 やや呆れたような口調で言う。
「すぐに出かけなきゃならないから、着替えてって言ってるの」
「は……?」
 一瞬、戸惑った奈子だが、やがて自分の勘違いに気付いてかぁっと赤くなった。
「や、やだなぁソレアさんったら……。それならそうと先に言ってくれればいいのに」
「なに言ってるの。ナコちゃんが勝手に勘違いしたんじゃない。それに『こんな明るいうちから……』なんて、ひょっとして暗くなってからならいいの?」
 ソレアがからかうように言うので、奈子の顔はよりいっそう赤くなる。
「そんなわけないじゃないですか。あれはちょっと言葉のはずみで……」
「とにかく、時間がないから急いでこれに着替えて」
 奈子の言葉を遮って、ソレアは言った。ビロードのような光沢のある、黒い生地の服を手渡す。前に一度だけ、奈子はこの服を着たことがあった。
「これって……騎士の礼服?」
 黒い生地に、金と銀の糸でマイカラス王国の紋章が刺繍されている。マイカラスの騎士団が、公式の行事などで着る礼服だ。
 マイカラスは小国だが、古い歴史のある国だった。トリニア王国時代の竜騎士の伝統を受け継ぐ騎士団は、少勢ながらも最強の戦闘集団として近隣の国々にも知れ渡っている。この漆黒の制服は、マイカラス国民の憧れの的だ。
 マイカラス王国で起こったクーデターの際、王子ハルティ・ウェルとその妹アイミィの命を救った功で、奈子は騎士の資格を授与されていた。もっとも、この礼服に袖を通したのは、その授与式の一度きりしかないのだが。
 服を手にしたままぼんやりしている奈子をよそに、ソレアは手早くベルト、短剣、マントといった、公式の行事で身に付ける装備を並べていった。
「あの、ソレアさん? これって……?」
 奈子にはまだ、事情が飲み込めていない。
 そもそも騎士の礼服など、普段着として着るものでもない。
 随分と急いでいるようだが、いったい何処へ行くというのだろう?
「ほら、急いで。これからすぐにマイカラスへ行かなきゃならないの」
「マイカラス王国へ? それって、正装しなきゃいけない用事なんですか」
「ああ、そういえば肝心なこと言ってなかったわね。今日はハルティ様の即位の式があるのよ。ナコちゃんは、騎士ではあっても臣下ではないから、出席しなきゃならない義務はないけれど、正式に招待されているし、行くのが礼儀でしょうね。それに、行きたいでしょう?」
「もちろん! 行きますよ」
 奈子は大きく頷いた。ハルティの即位の式だなんて、絶対に見たい。もっと早くに教えてくれればいいのに。
「ぎりぎりまで待ってもナコちゃんが来なかったら、無理矢理こちらへ呼び寄せるって、ファージは先にマイカラスへ行ってるの。ほら、こちらから呼ぶ場合は、魔法陣とか……準備がいるでしょう?」
 なるほどと頷いて、奈子は着替えを始めた。
 礼服といっても、それはそのまま実戦に出られる作りになっている。基本デザインは、腰までの深いスリットの入ったワンピース。この世界で女性の戦士が普通に着るものだ。
 生地は柔らかくて肌触りが良く、非常に軽い。しかし魔力を帯びた植物の繊維で織られたその布は、ちょっとしたナイフ程度では切ることも出来ず、火を近づけても簡単には燃えない。
 腰には厚い革のベルトを締め、ハルティから贈られた王家の紋章入りの短剣を差す。
 さらに、薄い金属板と革を張り合わせた胸当てと、金属製の小手を着け、騎士の証である白銀色の腕輪を左手首に填める。
「せっかくだから、少し、お化粧しようか?」
「え?」
 奈子の返事も待たず一方的に椅子に座らせると、引き出しから何種類かの化粧品を取り出し、奈子に化粧を施しはじめた。
 奈子はまだ中学生だし、そもそもおしゃれにはあまり興味がないから、口紅をつけるのも初めてだった。
「さ、出来た」
 化粧を終えたソレアは奈子を立たせ、最後にマントを着せかけた。
 マントには、赤地に青い竜を描いた、マイカラスの騎士団の紋章が付いている。それはもともと、千年以上も前にトリニア王国の竜騎士の象徴であった『紅蓮の青竜』と呼ばれる紋章を模したものだ。
「よし完璧。格好いいわよ、ナコちゃん」
 奈子の身支度を終えたソレアは満足げにうなずくと、奈子を姿見の前に立たせた。
「う……わぁ」
 鏡の中の自分を見て、驚きの声を上げる。
「これが……アタシ?」
「ナコちゃんは美人だし、スタイルもいいから、こういう格好が似合うわね」
 確かに、騎士の正装をした奈子は、自分でも惚れ惚れするくらい格好よかった。衣装がもう少し派手なら、ちょっと宝塚っぽいかも知れない。
 もともと実際の年齢より上に見られることの多い奈子だが、化粧のためかさらに大人びて見える。
「そっか……。へへ……カッコいいな」
 奈子は、嬉しそうに姿見の前でくるりと一回転する。
(由維にも見せてやりたいな、このカッコ……。あの子ならなんて言うだろ)
 ひょっとしたら、褒めるより先に抱きついてくるかも知れない。
 そんなことを考えて、ふふっと小さく笑った。
「さあ、それじゃあマイカラスへ行きましょう」
 いつの間にか、ソレアも服を着替えていた。
 ソレア本人の着替えは呪文一つで済むからあっという間だ。
 それはいつものシンプルなローブではなく、白いローブの上にレースを何枚も重ねたようなもの。
 ソレアの髪は腰の下まである美しい銀髪で、服の生地も真珠のような光沢があるため、まるで身体全体が光に包まれているように見える。
 お伽噺の妖精みたい……と奈子は思った。
「たまには、おしゃれしなくちゃね。さ、行きましょう」
 奈子を促して、地下室へと降りる。
 ソレアの屋敷があるタルコプの街からマイカラスの王都まで、まともに行けば十日以上の道のりだが、ソレア得意の転移魔法を使えば、それこそ瞬きするくらいの時間しかかからなかった。



「久しぶり、ナコ! 会いたかったー」
 転移が完了すると同時に、奈子よりやや小柄な、金髪、金瞳の少女が抱きついてきた。
「ファージ、久し……」
 しかし再会の挨拶すら、最後まで言わせてはもらえなかった。ファージが、逃げる隙も与えずに唇を重ねてきたからだ。しかも、一方的に舌を絡めてくる。
「ん……んっ……」
 三十秒ほどじたばたと暴れて、奈子はやっとファージを引き離すことに成功した。真っ赤になって叫ぶ。
「い、いきなりなにするの! 何度も言うけど、アタシはそっちの趣味はないって!」
「だって、久しぶりにナコに会えて嬉しかったんだもん」
 ファージが当たり前のように言う。
「あのねファージ、ナコちゃんは、明るいうちからこういうことするのは恥ずかしいんだって。夜まで待とうね」
「違うって言ってるっしょっ!」
 からかうように言うソレアを睨み付ける。
「まったく、久しぶりだってのに、ちっとも感動の再会になりゃしない」
「まぁまぁ、そう怒らないで。ファージも悪気があるわけじゃないんだし。それより、王宮へ急ぎましょう、遅れると失礼になるわ」
 ソレアが二人を促して、魔法人のある部屋を出る。
 そこはマイカラスの王宮ではなく、王都にあるソレアやファージの知り合いの魔術師、ラムヘメスの屋敷だった。ここにはソレアたちが使える転移用の指標があるので、容易に、しかも確実に転移を行うことができる。そもそも、王宮の敷地内には結界が張られていて、普通は外部から直接転移することはできないのだ。
 三人は、連れ立って外に出た。
 以前来たときとは街の雰囲気がずいぶん違うので、奈子は驚きの声を上げた。
 通りは人であふれ、様々な出店や、路上で見せ物をしている大道芸人などもいる。あちこちで、お祭りで使う爆竹が鳴っている。
「ずいぶん賑やかだね。まるでお祭りみたい」
 奈子が知っている王都はクーデターの戒厳令下で、兵士以外の人通りもほとんどなかった。
「まあ、お祭りみたいなものでしょう? 新王の即位は、おめでたいことには違いないわ」
「マイカラスは小国だもの。王の即位なんて、滅多にない大イベントだよ。国内だけでなく、他国から来ている旅行者も多いし、街の人にとっては商売のチャンスでもあるしね」
 なるほどファージの言う通り、明らかに外国人とわかる服装をしている者も少なくない。
「観光客や行商人の他に、近隣の国々の王や有力貴族の使者も多いよ。表向きは、新王の即位を祝うためだけど」
 含みのある台詞に、奈子はファージを振り返った。
「表向き?」
「本当の目的は、新しい王の値踏みってこと。隙あらばマイカラスを侵略しようって考えている国もあるかもよ」
「そんな、まさか……」
「隙を見せたらそこを攻められる。それが世の常でしょ? 今回のクーデターの真相は、関係者以外知らないもの。マイカラスではクーデターが起こるほど国政が乱れている、って思われても仕方ないよ」
「ハルティ様にとってはここが正念場よね。マイカラス全土をしっかりと掌握していて、他国が攻め入る隙などないってことを見せつけないと」
 奈子はなんとなく沈んだ気持ちになった。このめでたい日に、そんなことまで考えていなければならないなんて。
「でも、マイカラスに好意的な人は、また別な下心を持って来ているかも知れないわね」
 奈子の気持ちを察したのか、ソレアがわざと面白そうに言った。
「別な……?」
「ハルティ様が優れた人物で、マイカラスの前途が安泰なら、自分の娘を嫁がせよう……とかね」
「あ……」
 そうか。
 言われてみれば、そういうこともあるかもしれない。
「ハルティ様はあの通り美形だし、まあ政略結婚に顔は関係ないけれど。今、二十二……三歳だっけ? とにかく、もう結婚してもおかしくない歳よね。王位を継いだら、妻を娶って跡継ぎを作らなきゃならないでしょうし」
「ま、ハルティのあの顔なら、親の意向は無視して、自分から嫁ぎたいっていう娘も多いんじゃない? 騎士としての腕も一流だし」
 二人の言葉を聞きながら、奈子は前回、別れ際にハルティの妹のアイミィが言った台詞を思い出していた。
(いや、まさか……。いくら何でも自意識過剰だよね)
 そうこうしているうちに三人は、王宮の正門へとたどり着く。そこは前回、エイシスの魔法で倒壊していたはずだが、もうすっかり修復されていた。
 招待状を見せるまでもない。門番は無論、マイカラスを救った英雄の顔を覚えていて、これ以上はないというくらいの丁寧な対応だ。三人は顔パスで門を通る。
 奈子にとっては、ずっと年上の門番が、自分に対して敬語を使うのが何だかおかしかったが、一般の兵士にとって正騎士など雲の上の存在だ。
「ナコ・ウェル様、姫様がお会いしたいとのことです。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「姫様が……?」
 奈子はちらっとソレアたちを見た。
「私達たちちょっと用事があるから……。ここの宮廷魔術師にも挨拶しなきゃならないし。いいから、一人で行ってらっしゃい。後で会いましょう」
 小さく頷いて、奈子は案内役の兵士についていった。
 城の建物も、クーデターの際にかなり被害を受けたはずだが、こうして見る限りその傷跡は全く残っていない。
 奈子は、先刻のファージの言葉を思い出した。
(そっか……隙を見せちゃいけないんだ。即位の式の時に、半壊した王宮なんて見せられないもんね)
 きっと、最優先で修復したに違いない。
 魔法の助けを借りているとはいえ、大きな土木機械もないこの世界で大したものだ。
「ナコ・ウェル様をお連れいたしました」
 ハルティの妹、アイミィの部屋まで奈子を案内してきた兵士が、扉をノックする。中から、まるで小鳥のさえずりのように美しい声で返事がある。
「ナコ様、お久しぶりです!」
 部屋に入った瞬間、奈子はまたしても不意をつかれた。いきなり、アイミィが抱きついてくる。
「姫様……お元気そうで、なによりです」
 さすがにファージの時とは違って、キスはされなかった。ほっと安堵の息を漏らしながら、奈子は応える。
 アイミィは不満そうに口を尖らせた。
「姫って……ナコ様、そんな他人行儀な呼び方はやめて下さいって言ったでしょう?」
「だって……」
 奈子は、アイミィにだけ聞こえるように小声で言った。
「二人きりならともかく、他の人がいる場所で王妹殿下を呼び捨てってわけにもいかないでしょう?」
 案内してきた兵士だけではない。室内にはアイミィの侍女もいる。奈子は一応マイカラスの騎士であり、人前で一国の王女を友達扱いするわけにもいかなかった。
「それに、姫様だってアタシのことナコ様って呼んでるじゃないですか」
「え? それは……だって……」
 アイミィの頬がぽっと朱く染まる。
 何となくイヤな予感がした。
「だって、今日のナコ様って、とても格好いいんですもの。騎士姿がお似合いで……素敵です」
 うっとりした目でこちらを見つめるアイミィの仕草に、奈子は天を仰いだ。
(アイミィは、アイミィだけはまともだと思っていたのにー。あーもぅ、アタシってば罪な女!)
 ほとんどやけくその独白だった。自分に『そーゆー趣味』はないはずなのに、どうしてか周囲にはそんな女の子たちが集まってくる。
 それでもアイミィは、由維やファージのように直接的な行動に出ないだけマシと言えた。
「ナコ様、どうぞお掛けになって。今、お茶とお菓子を運ばせますから」
 平和的だ。これがファージだったら、椅子ではなくベッドに押し倒されかねない。
 お茶を楽しみながら、アイミィはいろいろと奈子のことを訊きたがったが、それはなんとか誤魔化して、奈子は自分がいない間のマイカラスのことなどを話題にする。
「お兄様も、ナコ様に会うのを楽しみにしているのですが、さすがに式の前は忙しくて……。多分、夜にはゆっくりできると思いますよ」
 ハルティに会うのは、奈子も楽しみだった。何といっても、見てるだけでも目の保養だ。
 美形で、強くて。しかも自分に好意を持ってくれているらしいのだから、強い男が好みの奈子としては、胸の高鳴りを押さえきれない。勿論、由維に対して多少の罪悪感も感じてはいるのだが。
「姫様、そろそろお支度をしませんと……」
 放っておくといつまでも話に夢中になっていそうなアイミィに、侍女がそっと声をかける。
「あら大変、もうそんな時間なの? それでは、ダルジィさんを呼んできて下さいな」
 侍女に呼ばれてやってきたのは、奈子と同じく騎士の礼服を身にまとった、背の高い女性だった。
 長く美しい銀髪をポニーテールにしていて、鋭い目が印象的だ。
 ダルジィ・フォア・ハイダー。代々マイカラスの騎士を務める名家ハイダー家の長女で、剣の腕前はマイカラスの騎士の中でもトップクラスといわれている。
 奈子は直接言葉を交わしたことはないが、特徴あるその容姿のため、彼女のことはよく覚えていた。
「ダルジィさん、私はこれから式の準備がありますので、その間、ナコ様を案内してあげて下さいな」
 アイミィの言葉に小さく頷いたダルジィは、奈子を促してアイミィの部屋を出た。奈子もその後に続く。
「お前……ナコだっけ? 歳はいくつだ?」
 廊下を早足で歩きながら、ダルジィが訊いてくる。
「今年、十五になります」
 奈子の答えに、ふんと小さく鼻を鳴らす。
「私が騎士に任じられたのは、十七の時だ。それでも若すぎると反対の声があったものだが……」
 どうも友好的な口調ではない。
「いくら陛下の推薦とはいえ、十五にもならん小娘が騎士とはな」
 明らかに奈子を見下したような、挑発的な口振りだ。
 この言葉にはさすがに奈子もかちんときたが、なにしろ相手は先輩である。ぐっと堪えて黙っていた。
「この国は確かに小国だが、それでも騎士団は長い歴史のある精鋭だ。そこへ、こんな小娘が名を連ねるなど、笑い話もいいとこだ」
「別に、歳は関係ないでしょう」
 城内で騒ぎを起こすのもまずいし、ここは大人しくしていようと思っていたにも関わらず、気付いたときには言い返してしまっていた。
 もともと奈子は、喧嘩を売られて黙っているタイプではない。頭に血が昇れば、相手が先輩だろうとお構いなしだ。
「それとも、マイカラスの騎士団とは、古い伝統に縛られた石頭の集団ですか?」
 ダルジィの眉がぴくりと動く。元々きつい目を、さらに吊り上げた。
「口だけは一人前だな。ならば、お手並み拝見といくか」
 二人いつの間にか、城の中庭に出ていた。そこは、剣や馬の訓練を行う練兵場になっている。
(なぁんだ、このヒト最初からやる気だったんじゃない。典型的な新人いじめってヤツね)
 よくいるんだよな、こーゆー先輩。
 奈子は、口に出さずに呟いた。
 ダルジィがカードの中から二本の剣を取り出し、一本を放って寄越す。奈子はそれを受け取ると、素早く鞘から引き抜いた。
 無論、真剣ではなく模擬戦用の刃引きの剣ではあるが、まともに当たれば怪我は免れないだろう。
「果たして、マイカラスの騎士を名乗るに相応しいかどうか、な」
「ガキに負けて泣くんじゃないよ、オバさん」
 奈子も挑発するように言った。既に、先輩に対する礼儀などは地平線の彼方へ消え去っている。
 最後の一言は、ダルジィの怒りに火を点けるには十分だったようだ。実際のところ、ダルジィはまだ二十二、三歳でしかない。女であれば、おばさん呼ばわりされて黙っていられるわけがない。
 ザッ。
 土煙を上げて、ダルジィが地面を蹴る。
 低く構えた剣が、斜め下から奈子の脇腹を狙う。
(……速い!)
 奈子は辛うじてその打ち込みを受け止める。
 火花が散り、硬い金属がぶつかり合う、耳障りな音が響いた。
「くぅっ」
 奈子は歯を食いしばった。
 ダルジィの剣は速く、そして重い。
 腕が痺れるのを感じながら、間合いを取ろうと後ろに下がるが、ダルジィは攻撃の手を休めない。素早く剣を持つ手を替えながら、左右どちらからでも自在に打ち込んでくる。
 奈子は、両手で剣を支えてそれを受け止めるのが精一杯だった。
 とても反撃する余裕などない。
(こ、こんなの反則よっ! 考えたら、向こうは剣のプロじゃない!)
 奈子の剣術は、あくまで現代の日本で習ったものでしかない。こちらでの一流の剣士と比べたら、遙かに見劣りする。
 今だって、ダルジィが比較的受けやすい角度で攻撃しているから、なんとか防いでいられるのだ。さすがにダルジィも、全力を出しているわけではないらしい。
 と、それまで息つく暇も与えずに連撃を繰り出していたダルジィが、ぴたりと手を止めた。剣を大上段に構える。
(――っ! まさか……)
 次の瞬間、剣が振り下ろされる。
 それは人間の目に見える速度ではなかった。
 奈子の目には、ダルジィの手と剣が消えたようにしか見えなかった。それでも、身体だけは無意識のうちに反応した。
 耳のすぐ横で、鼓膜が痛くなるほどの金属音が響く。
 ダルジィの剣が、そこにあった。右肩に触れる数ミリ手前で、奈子が構えた剣の柄に当たって止まっている。
 これを受けられたのは、ほとんどまぐれだった。コンマ一秒遅ければ、鎖骨を折られていたに違いない。
 二人の動きが止まる。奈子の背中に、冷たい汗が流れた。
「……この程度か」
 ダルジィが嘲笑を浮かべる。
(こんな、こんな一方的にやられて、引き下がるわけには……)
 そう考える頭とは別に、勝手に身体が動いた。奈子は自ら剣を手放すと、剣を持っていたダルジィの手首を掴んだ。同時に、その腕に自分の左腕を巻き付け、肘の関節を極める。
「な……?」
 ダルジィは腕を振りほどこうとするが、完全に極められた腕は動かすこともできない。
 腕を極めたまま、奈子は右足を高く蹴り上げた。
 立ち関節で相手の動きを封じての上段蹴り。
 類い希な運動神経と柔らかい身体を持っていなければ十分な威力は出せないが、しかしそれができるならば、身動きできない相手への上段蹴りは一撃必殺の破壊力を持つ。
 側頭部を強打されたダルジィは、奈子が腕を放すとそのまま地面に膝を着いた。
「この……」
 首を押さえて、ダルジィが呻く。
「不思議な技を使う、と陛下が仰っていたが……こういうことか」
 幾分ふらつきながらも立ち上がったダルジィは、刺すような視線で睨み付けた。奈子も負けじと睨み返す。
 奈子は決して、自分が勝ったとは思っていない。ダルジィは明らかに、奈子の腕試しのつもりで手加減していたのだから。
 それでも一方的にやられたのではなく、最後に一矢報いたことで溜飲を下げていた。
「盛り上がっているところ悪いんだけどね……」
 睨み合う二人が第二ラウンドを始める寸前、不意に低い男の声が割り込んできた。
 二人が同時に横を向くと、いつからそこにいたのか、騎士の正装をした大男が立っている。
「もう、式の始まる時間だぞ、ダルジィ。いつまでも持ち場を離れているんじゃない」
「ケイウェリ……」
 ダルジィが男の名をつぶやく。
 奈子も、その男のことはよく知っていた。
 ケイウェリ・ライ・ダイアン。
 マイカラスの騎士の一人で、若手の騎士の中ではリーダー格の男だ。
 ダルジィもさすがに彼の言葉には従わざるを得ないようだ。もう一度奈子を睨み付けると、ぷいと背を向けて足早に去っていった。
 ケイウェリはその様子を面白そうに見つめている。
「まあ、彼女も悪気があるわけじゃないんだ。新入りにはかならずあれをやるんだよ」
 奈子の傍に立って、ケイウェリは言った。
 彼は背が高い。
 身長は百九十センチ近くあり、筋肉質で体重も百キロはあるだろうか。プロレスラー並の体格だ。
 すぐ横に立つケイウェリの顔を見ようと思ったら、百六十センチちょっとの奈子は首が痛くなるほど見上げなければならない。
「あの……」
「君もなかなかやるね、ナコ・ウェル。ダルジィに膝をつかせるなんて、そうそうできることじゃない」
「……ひょっとして、ずっと見てたんですか?」
「最初からね」
 人なつっこい笑みを浮かべて言う。びっくりするような大男だが、この笑顔のお陰であまり威圧感は感じない。
「彼女のことだ、絶対やるだろうと思っていたからね。ハイダー家は確かに名家だが、ダルジィは特にプライドが高いんだ。弱いヤツが騎士団にいるのは許せないって。それにほら、君の場合は騎士になった経緯が特別だから……正直言って、僕らはみんな君に興味があるんだよ」
 奈子を城内へと案内しながら、ケイウェリは言った。
「全く素性の知れない女の子が、いきなり騎士に取り立てられるというんだから。しかも、その娘はまだ十四歳というじゃないか、気にならない方がおかしいだろう?」
「それで……、ケイウェリ様の目には、アタシはどう見えますか?」
「君は、不思議な娘だね。僕はまだ、評価を定められるほど君のことをよく知らない。でも、ダルジィによれば合格だそうだ」
「え?」
「先刻、彼女を本気にさせたろう?」
 悪戯っぽく言って、片目を瞑って見せる。
「ダルジィが本気になるってことは、正騎士に相応しい力を持っているということさ。さて、僕らも行くとしよう。式の間は僕の傍にいるといい、それならダルジィもちょっかいは出せないから」
 ケイウェリは奈子の背中を、ぽんぽんと軽く叩いた。



「せっかく遠くから来ていただいたのに、なかなかお話もできなくてすみません」
 マイカラスの新しい王、ハルトインカル・ウェル・アイサールはそう言うと、小さく頭を下げた。
 ここはハルティの私室。室内にいるのは、奈子とハルティの二人だけ。
 時刻はもう夜更けだ。
 即位の式と、それに続く宴はつつがなく終わった。
 奈子は幾度か、ダルジィが睨んでいるのに気付いたが、奈子の側には常にケイウェリかファージがいたのでトラブルはなかった。多分、ダルジィを見る時の奈子も、同じくらいにきつい目をしていたことだろう。
 式の間は無論ハルティに近寄ることもできず、やっとこうして話ができたのは、夜もずいぶん更けてからのことだった。
「ナコさんには、あんな式は退屈ではありませんでしたか?」
「いいえ陛下、とっても興味深かったです。こういった場に出るのは初めてなので」
 奈子は、やや固くなって答えた。どうしてもハルティの前では緊張してしまう。
 なにしろ相手は非の打ち所のない美形で、しかもこの国の王様なのだ。
「陛下はやめてください、今更……」
 ハルティが苦笑する。それを見て「やっぱり兄妹だな」と奈子は思った。アイミィと同じことを言っている。
「すみません、なんか緊張しちゃって……。この前は、アタシもいろいろ混乱してたから気付かなかったけど、冷静になってみるとアタシなんかが騎士としてお城の中にいるなんて、なんだか場違いな感じだし……。ほら、アタシはしょせん平民ですから」
「そういえば、ナコさんはどちらの出身なんです?」
 不意にそう尋ねる口調は何気ないものだったが、奈子は思わずぎくりとした。手に持っていたお茶のカップが、カチャリと音を立てる。
「え……と、その……」
「……考えてみると、私はナコさんのことを何も知らないんですね。出身も、家族も、これまでの経歴も……」
 奈子は返答に窮した。
 自分の正体については、ソレアやファージから固く口止めされているし、そうでなくとも簡単に説明できることではない。
「あなたが、ごく普通に育った街の娘などではないことだけはわかります。ナコさんには、随分と変わったところが多いですから。恐らく、遠い外国の方なのだろうと思っているのですが……」
 ハルティは言葉を切って立ち上がると、ゆっくり歩いて奈子の背後に回る。
「どうして、秘密にしているのですか?」
 口調は穏やかで、問いつめるような雰囲気はない。それでも、奈子は身体を強ばらせた。曖昧に誤魔化すことができないような雰囲気が漂っている。
「あ、あの……」
「あなたは正直な人ですね、嘘がつけない。隠し事をしようと思ったら、黙っているしかない」
 両肩に、背後からハルティの手が置かれる。反射的に、身体がぴくりと震えた。
「でも、あなたはずるい人だ。あなたはその気になれば、私についてどんなことでも知ることができる。でも、私はナコさんのことを何ひとつ知らない」
 耳元に息がかかった。
 ハルティが口を寄せてささやいている。奈子の頬が朱く染まる。
「私は、ナコさんのことを何も知らない。私が、どれほど歯痒い思いをしているかわかりますか?」
(ハ……ハルティ様ってばずるい! その顔で、その声で、しかもこんな体勢でそんなセリフなんて!)
 ハルティの体温を背中に感じて、奈子は心の中で叫んだ。心臓の鼓動が、信じられないくらい激しくなっている。
(考えてみれば、今、ハルティ様の部屋で二人っきりなんだ。これってひょっとして、嬉しい……じゃない、まずい状況?)
 肩に置かれていた手が静かに移動する。その手は奈子の頬に当てられ、そっと上を向かされる
 ハルティの顔が、すぐ近くにあった。
「ナコさん……」
「あ……」
(こ、このシチュエーションは……! でも、ハルティ様とならいい……かも)
 奈子は、黙って瞼を閉じた。他にどうしていいかわからなかったから。
 できることは、ただ成り行きに任せることだけ。
(ひょっとして、キスだけじゃすまなかったりして……。うわぁ、どうしよう。ゴメンね、由維……って、どうして由維に謝んなきゃなんないのっ! いや、でも……)
 緊張のあまり、頭の中がパニックになる。
 目を閉じていても、ハルティが近付いてくるのがわかる。
 唇が、微かに触れたかという瞬間。
「何をしてらっしゃるの、お・に・い・さ・ま?」
 その台詞の一語一語には、サボテンよりも太く鋭い棘があった。
 表情を凍りつかせたまま、ハルティがゼンマイ仕掛けの人形のようなぎこちない動作で後ろを振り向く。
 奈子も、そっと目を開いた。
 手を腰に当てて立っている少女の背後に、燃えさかる炎が見えたような気がした。口元は笑っているが、こめかみには青筋が浮いている。
「ど……どこから生えたんだ? アイミィ……」
「そんな、人を雨期のキノコみたいに。そこのカーテンの陰にひそんでいただけですわ」
 アイミィが指差した窓には、厚いカーテンが掛かっている。確かに、その後ろに立っていれば室内からはまず気付かれない。
「……で、私の邪魔をしたというわけか? よりによって一番いいところで……」
「だから、邪魔をしたんです。まったく危ないところでしたわ。あと一瞬遅ければ、私のナコ様の唇が奪われていたかと思うと……。お兄様ったら、女性に手が早いんですもの、油断も隙もありませんわね」
「誤解を招くような言い方をするな! まるで私が美しい女性と見ると、片っ端から手を出しているみたいではないか!」
「あら、違うと仰る?」
 アイミィは畳みかけるように言った。
「そうね、ナコ様にも聞いていただこうかしら。お兄様の華々しい経歴について」
 言葉遣いは丁寧だし、口元には微笑みすら浮かべている。が、二人の間には火花が飛び散っていた。
 奈子はひとり蚊帳の外、呆然と兄妹のやりとりを見つめている。
「……どうやら、兄に対する礼儀というものを教えてやる必要がありそうだね、アイミィ」
「できるものならやってご覧なさい。私も王家の娘、女たらし如きに負けはしませんわ」
 数秒間、黙って見つめ合っていた二人は、どちらからともなく壁に近付き、そこに飾られている剣を手に取った。普段は装飾だが、万が一の時は護身のための武器になる。
(アタシ……まだまだこの二人のこと、よく知らなかったみたい……)
 奈子はぼんやり、そんなことを考えた。
 ただの美形ではない、ただのお嬢様ではない。
 これまで抱いていたイメージが、ガラガラと崩れていく音が聞こえる。しかしむしろ、奈子にはこちらの方が親しみが持てた。
(この二人も、普通に兄妹ゲンカなんてするんだ……って、落ち着いている場合じゃないっ!)
 普通の兄妹ゲンカどころの騒ぎではない。
 二人は今まさに、真剣を抜こうとしているのだ。奈子がケンカの原因なのだから、黙って見ていていいはずがない。
「あ、あの、アイミィもハルティ様も落ち着いて……えっ?」
 ドォォォ……ン……
 慌てて止めに入ろうとした奈子の言葉は、突然城内に轟いた重々しい爆発音でかき消された。
「な、なにっ?」
 続いてもう一度、二度。
 低い爆発音が響き、強固な石造りの建物がびりびりと震える。
 最初に行動を起こしたのはハルティだった。瞬時に王の顔に戻り、部屋の扉を開けて叫ぶ。
「何事だ、誰か様子を見て来い」
 それに応えて侍従が廊下を駆けていくのと入れ違いに、一人の兵士が慌てた様子でやってきた。
「申し上げます。城内に賊が侵入した模様で、現在、警備にあたっていた者が追っております」
「賊は何人だ? 何者かはわからないのか?」
 目の前に跪いて報告する兵士に、ハルティが問いかける。
「は、まだそこまでは……」
「そうか。では、賊を追うのと同時に、手の空いている者は西館の警備に回せ。来賓の方々が多数滞在しているからな、万が一のことがあったら大変だ」
「はっ」
 そのやりとりを見ていた奈子は、不意に、言い様のない不安感に襲われた。
 何故、そんなことをしたのか理由を問われても言葉では説明できない。虫の知らせ、とでもいうのだろうか。
 奈子がハルティを半ば突き飛ばすようにして兵士との間に割り込むのと、兵士の手の中に銀色の刃が閃くのとはほぼ同時だった。
 一瞬後、右腕の肘の少し上の辺りに、鋭い痛みが走る。それでも奈子は動きを止めず、意外な邪魔者のために標的を仕留め損なって驚いている兵士の顔に、全体重を乗せた蹴りを叩き込んだ。
 兵士は転がるように壁に叩き付けられ、後頭部を激しく打って気を失う。
 ハルティとアイミィが事態を理解するには、何秒間か必要だった。
 気絶して倒れている男。
 緊張した面持ちの奈子。
 そして……奈子の右腕に突き立った手裏剣。
「な、ナコ様っ!」
「な……、この男も賊の一味か! 見かけない顔とは思ったが。いや、それよりナコさん、怪我は……」
「いえ、大したことありません」
 腕の傷を押さえ、痛みに顔をしかめながらも、奈子は平静を装って答えた。
 ハルティの喉を狙って投げつけられた手裏剣は小さな物だし、とっさに腕の筋肉を硬直させたので、かすり傷……とは言えないが骨には届いていない。
「ナコさんには、また命を救われてしまいましたね。すぐ医者を呼びます」
「平気ですよ、こんな……」
 こんな小さな傷。
 そう言おうとした言葉は、しかし途中で途切れた。
 突然、心臓が締め付けられるような感じがしたかと思うと、呼吸が息ができなくなった。一瞬後には目の前が真っ暗になり、意識が遠くなっていく。
 意識を失う最後の瞬間、奈子の名を呼ぶハルティとアイミィの声を聞いたような気がした。


「ナコさんっ!」
 ハルティは慌てて、倒れかかった奈子の身体を抱き止めた。顔から、血の気が失せている。
 すぐに事態を理解した。
 毒だ。
 暗殺が目的ならば、武器には毒を塗ってある可能性が高い。
「アイミィ、急いで医者を……いや、西館にソレア・サハがいるだろう、すぐに呼んできてくれ!」
 暗殺に用いられる強力な毒の中には、並の医者や魔術師では治療できない物も多い。しかしソレアならば、治癒の能力は大陸中でも指折りだ。
 ハルティは、そこに一縷の望みを託した。



 マイカラス王国の歴史は、千年ほど前まで遡ることができる。
 当時、マイカラスはトリニア王国の砦のひとつだった。
 トリニアとストレインの泥沼の戦争の末期、戦闘で手酷い損害を受けたひとつの部隊が、前線からマイカラスの砦へと退却してきた。
 指揮を執っていた将軍は、ここで戦力を立て直した後、また前線へと戻るつもりでいたのだが、結局それは実現しなかった。
 その前に、彼が仕えていた国が消滅したから。
 戻るべき国は既になく、彼らの多くはそのままこの土地で暮らすことになった。
 それが、マイカラス王国の起源である。
 マイカラスは決して豊かな土地ではない。
 西に聳える山脈が海からの風を遮るため極端に雨が少なく、国土の半分以上は乾燥地帯にある。
 乾期でも水が涸れない唯一の川の流域を除けば、乾燥に強い数種類の根菜類などがわずかに栽培されているに過ぎない。
 国内には小さな銀山があり、それがほとんど唯一の産業といえたが、その産出量もたかが知れている。
 だが、それがマイカラスにとっては幸運だった。
 山脈と砂漠に囲まれた国土は、直接国境を接する国も少ない。
 なんとか生きていくことはできるが、近隣の国々がうらやむほどには、危険を冒して侵略しようと思うほどには豊かではない。
 それが、マイカラスだった。
 王国時代の後の暗黒の時代、無数の国が生まれ、そして滅びていった時代に、大きな戦争に巻き込まれることもなく今日まで変わらぬ姿で在り続けたのはそのためだ。
 それ故に、昔の砦を土台にして築かれた、一度も戦火に巻き込まれたことのない王宮には、他所では遙か昔に失われてしまった、古い書物などが残されている。
 その中には、それを見る者によっては計り知れない価値を持つ物も少なくなかった。


 王宮の地下で、ファージは足音を立てないように慎重に歩いていた。
 この辺りは、城の土台となった古い砦がそのまま残っている。
 奥に、彼女が目的とする部屋があった。
 普段なら、そこは封印されて見張りが立っている筈だったが、先刻の騒ぎのためか今は誰もいない。
 上で何があったかは知らないが、これは好都合だ。そうファージは思った。まさか、奈子がハルティに言い寄られていたり、傷を負っているなどとは夢にも思わない。
 今なら、結界に小さな穴を開けても気付かれる可能性は少ないだろう。
 王家の者以外は見ることの叶わぬ、王国時代の書物。大いなる力の秘密を記した物が、そこにはあるかも知れない。
 最初の爆発が起こる前から、ファージはここに忍び込む方法を探っていた。そして、チャンスはやってきたのだ。
 一番奥の扉を開き、中を覗いた。
 普段は誰も入ることのない部屋。
 床には埃が厚く積もり、大きな書架がいくつか置かれている。
 小声で呪文を唱えると、ファージの身体が僅かに宙に浮かぶ。そのまま、普通に歩くのと変わらない足取りで部屋の中へと入っていった。これならば、埃の上に足跡も残らない。
 書架に並ぶ書物の背表紙を眺めながら、ゆっくりと歩く。他所では滅多に見つからない稀覯本も見受けられる。
「へぇ、『赤竜の書』が完全な形で残ってるんだ。それに『トリニア正史』の初版か……」
 取り敢えず一通りは見ておこうと、興味の引かれた本も手に取らずに、ファージは奥へと進む。
 そして。
 そこに、先客がいた。
 一瞬、驚いたような表情でファージの顔を見たその先客は、人なつっこい笑みを浮かべると、それまで熱心に読みふけっていた本を手に持ったまま、一言「やあ」と言った。
 若い男だった。
 まだ、少年の面影が残るその顔つきからすると、二十歳にはなっていないだろう。中肉中背で、外見にはこれといった特徴はない。この地方では珍しい、鮮やかな赤毛を除いては。
「何よ、あんた」
 ファージは、内心の動揺を表に出さないように注意して尋ねた。
 ここは、本来誰も立ち入ることの許されない場所の筈だ。
 では、この男はいったい何者だろう?
 ちょっと見には、どこかの学院の学生といった雰囲気だ。
 この城の人間ではない。
 ならば考えられることは一つ。ファージと同じ目的の持ち主ということだろうか。
「僕は、アルワライェ・ヌィ。初めまして。君は……? いや、言わないで、当ててみせるから」
 アルワライェと名乗った若者は、友達となぞなぞ遊びをしている少年のような口調で言った。自身の髪の色にも似た赤銅色の瞳が、好奇心で輝いている。
「この部屋に興味を持ち、ここの結界を破って侵入できるだけの力の持ち主。その美しい黄金色の髪と瞳。そして、今夜マイカラスにいる人物……」
 顎に手を当てて考えていたアルワライェは、手の中の本を書架に戻し、別な本を取り上げた。
「君、ファーリッジ・ルゥだろう? ほら、この本に……」
「キル・アィ!」
 ファージは、アルワライェに最後まで言わせずに呪文を唱えた。細い光の矢が無数に現れ、アルワライェに襲いかかる。
 だが、それが身体を貫く直前、アルワライェの姿がすぅっと消えた。
 転移魔法だ。
「逃げた……か、なかなか素速いね。ひょっとして、先刻の爆発音もあいつの仕業か? いったい何者だ?」
 あの男は、何を調べていたのだろう?
 ファージは、アルワライェが立っていた場所へ向かって歩き出そうとした。
 ……が。
 最初の一歩を踏み出したところで、ファージの動きが止まった。電流にでも打たれたかのように、身体がびくりと震える。
「……っ!」
 悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。
 ファージの首の後ろ、ちょうど延髄の部分に、深紅の光でできた短剣が深々と突き立てられていた。
 意識を失うまで、一秒とかからなかった。短剣が引き抜かれると、ファージの身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。


「誰が逃げたって? 失礼だなぁ」
 アルワライェは、ファージの傍らにしゃがみ込んだ。手の中の光の短剣が、ぱっと弾けるように消える。
 ファージの顔を覗き込む。
 首の後ろと口から血を流し、見開かれた目は瞳孔が大きく開いている。首に手を当てて、脈も取ってみた。
「意外と簡単だったね。墓守ともあろう者が……、もう少し手強いかと思ったけど」
 小さくつぶやいて立ち上がる。
「さて、騒ぎにならないうちに引き上げるか」
 そう言うと同時に、今度こそ本当に、アルワライェの身体が消えていった。


「ちくしょう……やってくれるじゃない」
 ファージが忌々しげにつぶやいたのは、それから三十分ほど後のことだった。
 首の痛みに顔をしかめながら身体を起こし、手の甲で口の回りに付いた血を拭う。
 微かに、目眩がする。
 まだ、身体が本調子に戻っていない。予想外のダメージだった。
 あの、アルワライェの魔力が結晶化した短剣が、普段のファージを凌駕しかねないほどの力を持っていたということだ。
 床に座り込んだまま、大きく深呼吸する。
「ったく、新しく作ったばかりのドレスなのに、血はなかなか落ちないんだぞ……」
 ドレスを気にしている場合ではないのだが、そんな呑気な台詞を吐いたファージは、実際には内心それほど落ち着いていたわけでもなかった。
(いったい、何者だ……? 転移の時、まったくく気配を感じなかった)
 並の力ではない。本来、転移魔法はもっとも検知しやすい魔法のひとつなのだ。
 ファージは唇を噛んだ。
 あれほどの魔術師を、これまで知らなかったとは。
(今までどうして見落としてたんだ? まだまだ世界は広いってことか……。でも、私を殺した報いは受けてもらわないとな)
 ファージは立ち上がる。
 そろそろ戻らないと、奈子が不審に思うかもしれない。
(ナコやハルティが一緒の時でなくてよかったよ。また、言い訳が大変だもんね)
 延髄を剣で貫かれても生きている自分の身体について、奈子たちに説明することはできない。
 ややふらつきながらも、ファージは歩いてその部屋を出ていった。



「すると、連中の真の目的は私の命ではなく、地下の古文書だったというわけか……」
 腕を組み、難しい表情をしたハルティが呻くように言った。
 その場にいるのは、全部で七人。
 ハルティとアイミィ。
 ソレアと、ソレアの手を借りてベッドの中で上体だけ起こしている奈子。
 襟の回りを血で汚したままのファージ。
 そして、騎士団のケイウェリとダルジィ。
 ソレアの治療が早かったため、奈子は大事に至らずに済んだ。もしも少し遅れていたら、命の危険すらあったのだが。
 事情を聞いたファージは、厳しい目でハルティを睨み付ける。
 ケイウェリやダルジィの前なので、口に出しては何も言わなかったが、ファージの言いたいことはハルティにはよくわかっていた。
 アイミィも、彼の横でずっと同じ目をしていたから。
 すなわち『あんたが側についていながら、ナコに怪我をさせるなんて!』と。
 だからハルティは、素直にファージとソレアに謝罪した。幸い奈子が無事だったので、ファージもそれ以上なにも言わない。
 ファージは、自分のことについては全てを話したわけではなかった。
爆発音の後、不穏な気配を感じて地下に降りてみたところ、侵入者と遭遇し、傷を負わされて取り逃がしてしまった。かすり傷だから大したことはない――と。
 ソレアは全てお見通しだが、他の者はそれで一応納得したようだった。
 そこで問題となったのが、賊が何を目的としていたのかということだ。ファージは地下から持ってきた、アルワライェが読んでいた本を取り出した。
「これ、だよ」
 ソレアがその本を受け取り、ぱらぱらとページを繰る。一瞬、驚いたように目を見開き、それからハルティを見た。
「陛下は、この本をご存じですか?」
「いいえ、私も、あそこへはほとんど足を踏み入れたことがないのですよ。地下のあの区画は永遠に封印する、代々そういうことになっているのです」
「そう……」
 微かに呟いたソレアは、隣にいる奈子に視線を移した。まだ幾分顔色が悪いが、一応普通に動けるくらいには回復している。大事をとってベッドに寝てはいるが。
「ナコちゃん、レイナ・ディのことは知ってる?」
「レイナ・ディ……デューン? 王国時代の、ストレイン帝国の竜騎士だっけ?」
 レイナ・ディ・デューン。
 王国時代末期の、もっとも名の知られた竜騎士の一人だ。奈子も以前、本でその名を読んだことがあった。
 しかしレイナは、有名な割には謎の多い人物でもある。
 ストレイン帝国の竜騎士で、二万以上の兵を率いる将軍でもあった彼女は、やがて、敵国トリニアに内通しているとの嫌疑をかけられて、処刑寸前にストレインを出奔している。
 そして後に、大陸の北部に自分の王国を築くことになるのだが。
「その時代、もうトリニアもストレインも力を失い、無数の小国に分裂していたわ。レイナ・ディは、それらの国々を制圧し、再び大陸を統一しようとしていたといわれている。当時既に失われていた『大いなる力』の助けを借りてね。結局、その計画を実行に移す前に彼女は病気で命を落としたとされているんだけど……」
 他の者なら今更聞くまでもない話なのだろうが、奈子のためにソレアは丁寧に説明した。奈子の事情を知らないハルティら四人が、やや不思議そうな表情をしている。
「それで、その古い本には何が……?」
「レイナ・ディの墓所は、今までどこにあるのかわからず、様々な説が唱えられているわ。でも……」
 そこで一旦言葉を切ったソレアは、その場の全員を見回した。それからまた、手の中の本に視線を戻す。
「これはどうやら、レイナ・ディの墓所の場所を知る手掛かりになりそうね」



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