血の色をした太陽が西の岩山の陰に没した頃、戦の勝敗はほぼ決していた。
戦闘はまだ続いているが、数の上では遙かに敵を凌駕するトリニア軍の戦線は分断され、孤立した部隊がまとまりのない散発的な反撃を行っているに過ぎない。
既にストレイン軍の先鋒は、トリニアの王都マルスティアへ侵入していた。
本来、王都を護る軍勢はトリニア一の精鋭であるが、現在はレイナとトゥートが画策した陽動作戦のために、主力が王都を離れていた。その隙に一気に王都を攻め落とそうというのが、レイナの目論見だった。
正直な話、レイナ自身は今回のマルスティア攻略にはあまり乗り気ではない。本国からの命令に、仕方なく従っているだけだ。
現在、トリニアの国力はストレインを大きく上回る。緒戦の勝利は相手の不意をついただけであり、トリニア軍が態勢を立て直して本格的な反攻に出てくれば、これまでのような簡単な戦いではなくなることを、レイナはよくわかっていた。
それなのに、トリニア領内の橋頭堡の確保も充分でないうちに王都へ攻撃を仕掛けるなど、褒められた戦略ではない。
だから、今回は取り敢えず、もっとも楽な方法を選んだ。とにかく一度マルスティアを陥としたという事実さえあれば、レイナ自身の面目は保つことができる。
「レイナ様……」
それまでレイナの隣で黙って立っていた副官のトゥートが、不意に声をかけてきた。その声は小さく、二人の周囲を固めている旗本隊の兵士たちの耳には届かない。
「……来ました。思ったより早いですね」
「ほう……」
レイナは感心したように、北の空に目を移した。トゥートの目は人並みはずれて良く、レイナにはまだ何も見えない。
それでも、強い『力』が近付いてくるのは感じる。
「私にはまだ見えん。何騎だ?」
「まずいことになりました。四騎、います」
トゥートの表情が曇る。それに反比例するように、レイナは笑みを浮かべた。
「よし、トリニアの竜騎士のお手並み拝見といくか。行くぞ、ナゥケサイネ!」
レイナの呼びかけに応えるように、遠くから低い咆哮が響いた。ほんの、瞬きを数回する間に、二人の頭上に巨大な影が現れる。
それは、二頭の赤竜。
レイナとトゥートの騎竜だ。
赤銅色のトゥートの竜。
そして血の色をした、一際大きなレイナの竜。
ストレイン帝国の中心である北の大地の竜は、どれも赤い鱗を持っているが、個体によってその色には随分と差がある。
空中で一瞬制止した二頭の竜は、それぞれの騎士の眼前に着地した。二頭とも、首の付け根の部分に鞍が取り付けられ、その左右には大きな剣が一振りずつ括られている。
「行くぞ」
レイナが、自分の竜に飛び乗る。トゥートもそれに続く。
「四対二で勝てますか?」
その危惧も無理はない。たとえ一万の兵がいても竜を倒すことは叶わないし、竜騎士同士の一騎打ちは、勝っても負けても無傷ではいられない。
竜騎士の数の差はそのまま戦の勝敗を決める、というのが常識だった。
だが、レイナはとんでもないことを言った。
「四対二じゃない。私一人でやる」
「……! まさか!」
トゥートは心の底から驚いた。竜騎士同士の戦いは、二対一でもほとんど勝ち目はないというのに。
確かに、レイナは優れた竜騎士だ。その実力はストレイン帝国一といっても過言ではない。
だが、トリニアの青竜の騎士が決して油断のならない相手であることも、また事実だった。
「トリニアの竜は私が引き受ける。お前は地上の戦闘を支援しろ。兵数は向こうの方が多いんだ、竜の援軍が来たことで勢いづかれるとまずいからな」
レイナはこともなげに言った。
その目は本気だった。最強と謳われるトリニアの竜騎士四騎に対して、ただ一騎で立ち向かおうというのだ。
しかし、レイナの言うことにも一理ある。
今のところ、ストレインの軍はトリニア軍を一方的に攻めたててはいるが、とにかく兵数ではトリニアが大幅に上回っているのだ。これで竜の数もトリニアが有利となれば、今は敗走している兵たちも士気を盛り返して、反撃に転じてくる可能性が高い。
士気が互角で正面からぶつかり合えば、兵数で上回り、地の利もあるトリニア軍が有利なのは言うまでもないことだ。
それ故に、レイナは自分一人で敵の竜騎士に立ち向かい、トゥートには地上軍を支援させようと考えたのだ。
「しかし、レイナ様……」
「こんな面白い闘い、人にやらせられるか。私が敵の竜騎士を押さえたらお前も出ろ。行くぞ、ナゥケサイネ!」
レイナの騎竜、ナゥケサイネが逞しい脚で地面を蹴り、巨大な翼を広げる。耳元で風が呻り、一気に高度が上がる。
レイナは、鞍に結ばれたベルトで身体を固定した。これで、どんなに激しい動きでも落ちることはない。
騎竜には、手綱はついていない。
声に出して命じる必要もない。
空を駆けるとき、騎士と竜の心は一つになる。
騎士は、ただ竜に乗るのではない。
竜と融合するのだ。
騎士の心は、竜の心。
竜の身体は、騎士の身体。
騎士と竜の力が一つになり、最強の存在『竜騎士』となる。
竜騎士こそが、この世で最強の生命体。
かつてないほど、心が昂揚する。
翼を広げ、風を切り裂き、思うままに空を駆ける。
鋭い鈎爪で、牙で、そして剣で敵を八つ裂きにする。
それは、悦び。セックス以上の快感。
竜騎士であること以上の悦びなど、あろうはずがない。
強大な敵を倒すために生まれた、この世で最強の存在なのだ。
ナゥケサイネは雲に届くほどの高度まで昇ったところで、水平飛行に移った。
鷹や鷲よりも遙かに良い竜の目が、はっきりと敵を捉えている。
トリニアの象徴である青い竜。
その映像はレイナの心にも伝わる。
相手が一騎と見たトリニアの竜騎士たちは、レイナを取り囲むように大きく散開する。
「ふん、遅いな……」
小さくつぶやく。あるいはそれは、ナゥケサイネの心のつぶやきだったかもしれない。
ナゥケサイネは並の竜より一回り大きく、その翼の逞しさは比類ない。
一番近い敵に目標を定めた。一瞬にしてさらに数百メートル高度を上げると、相手が追撃の体勢に移る前に、敵に向かって一直線に急降下した。
レイナは、鞍に取り付けられた大きな剣を抜く。
大竜刀と呼ばれる刃渡り三メートル近いその剣は、竜騎士同士の戦闘のために特別に鍛えられた物だ。並の剣では、鎧よりも硬い竜の鱗を貫くことはできない。
剣を大上段に構える。相手の騎士も大竜刀を抜くが、反応が僅かに遅い。
二頭の竜が空中ですれ違う。
瞬きするよりも短いその一瞬に、レイナは剣を振り下ろす。
血が、霧状になって広がった。
騎士の身体ごとその首を両断された竜は、くるくるときりもみ状態で落ちてゆく。
「まず、一騎」
翼を広げて降下を止めたナゥケサイネは、次の敵に向かうために再び高度を上げる。
レイナは、手の中の剣を鞘に戻した。今の一撃で、大竜刀はボロボロに刃こぼれしていて、もう役には立たない。
竜の鱗は恐ろしく硬い。竜を斬るために特別に鍛えられた大竜刀に竜騎士の腕を持ってしても、一撃でこうなるのだ。
これも、一人で多数の竜を相手にできない理由の一つで、そのため鞍の両側に二振りの大竜刀が備えられている。
勝負が一瞬でつかずに何合も斬り合うことになれば、一騎の竜相手にこの二振りとも駄目にしてしまうことだって珍しくはない。
残った三騎の敵のうち一騎は、まだ遠い。
近い二騎が、前後から挟み撃ちにするように展開する。
「……来るか」
研ぎ澄まされたレイナの感覚が、敵の気の動きを察知する。
次の瞬間、空一面に、一つ一つが一抱えほどもある、青白く光る光球が無数に出現する。
その数は百個以上もあるだろうか。瞬時にはとても数え切れない。
だが、レイナはいつまでもそれを見てはいなかった。光球を確認した瞬間、ナゥケサイネがその巨体を素早く翻す。
直後、光球の一つから青い光線が放たれ、一瞬前にナゥケサイネがいた空間を貫いた。
それを合図とするかのように、他の光球から、ほんの僅かな――百分の一秒ほど――の間隔で、ナゥケサイネを狙って次々と光線が放たれる。
その、あまりの高エネルギーに周囲の大気が電離してプラズマ化し、空間は青い光に包まれる。
だが、ナゥケサイネとレイナは、目にもとまらぬ動きでその光線を全てかわしていった。その巨体からは信じられないことだが、竜はハチドリよりも俊敏に飛び回ることができるのだ。
なにしろ、竜の身体を貫くことのできる数少ない魔法だ。一発でも当たれば只では済まない。
五十発くらいは、並の竜騎士でもかわすことができる。だが百発を越えたら、かわしきることはまず不可能だ。
だから、百数十発の光線を全てかわしてナゥケサイネが眼前に現れたとき、その騎士は心底驚愕した。
それでも、身体は無意識のうちに反応し、大竜刀を抜いてぎりぎりのところでレイナの斬撃を受け止める。
こぼれた刃の破片が、ぱっと飛び散った。
ナゥケサイネの鋭い爪が、相手の翼の付け根に喰い込む。
二頭の竜は、牙が並んだ口を開き、相手に噛みつく隙を窺う。
ほんの一瞬、互いの動きが止まった。レイナの口元が綻ぶ。
「お返しだ。チ・ライェ・キタィ!」
「まさかっ?」
レイナが唱えた呪文に、トリニアの竜騎士の表情は凍りついた。
それは、トリニアの竜騎士の使う呪文。
ファレイア魔導語と呼ばれる言語で、ストレイン帝国では決して使われることのない呪文だった。同等の魔法でも、ストレインの騎士は違う呪文を唱える。
周囲に、青白い光球が三十個ほど出現した。
この場合、数はあまり重要ではない。二頭の竜は組み合って、身動きできない状態なのだから。
光球から放たれた光線は次々と、竜と、騎士の身体を貫く。
ほんの一瞬のことだった。
その青い鱗を真っ赤な血で染めて、竜は地上へと落ちていく。
だが、レイナはそれを最後まで見ていることはできなかった。レイナを挟み撃ちにしていたもう一騎が、この隙に頭上から突っ込んできたからだ。
初めて先手を打たれたレイナは、大竜刀で相手の攻撃を受け止める。しかし相手の剣は運悪く、先の戦闘で刃こぼれしていた箇所に当たり、レイナの大竜刀は鈍い音を立てて中心部から二つに折れた。
一瞬の躊躇もなく折れた剣を捨てると、レイナは腰に差していた普通サイズの剣を抜く。相手は、勝利を確信した表情で、二撃目を繰り出した。普通の剣と大竜刀では、間合いも強度もまるで違う。
だからこそ、次の瞬間騎士の表情は一転した。大竜刀の強靱な刃は、何の抵抗もなく根本近くで切り落とされていた。
折れたのではない。砕けたのでもない。
切り落とされたのだ。
滑らかな刃の断面を目の当たりにしても、彼には信じられなかった。驚愕のために動きが止まり、直後その身体は二つに両断されていた。
さらにレイナは、返す刀で竜の首に斬りつける。剣は、鋼よりも硬い竜の鱗を、溶けたチーズを切るかのようにあっさりと切り裂いた。それでいて、その薄い刃には傷一つついていない。
「認識が甘いな。竜を斬ることのできる剣は、なにも大竜刀ばかりではない」
嘲笑混じりにつぶやきながら、レイナは最後の敵を目で追った。
やや年輩と見受けられるその騎士は、さすがにすぐには斬りかかっては来ず、一定の距離を置いてレイナの周囲を旋回している。
「見事な腕だな、名は何という?」
相手の騎士が問いかけてくる。レイナもその騎士の方に向き直った。
相当の地位と力を持った竜騎士なのだろう、騎竜も見事なものだ。
ナゥケサイネにはやや及ばないものの、先の三騎よりも一回り大きな青銅色の竜。
首の回りにに刻まれたいくつもの古傷が、くぐり抜けてきた戦いの数を物語っている。
「ストレインの竜騎士マウェ・ディ・デューンの娘にして、征東第七軍の将、レイナ・ディ!」
叫ぶと同時に、レイナは相手に斬りかかる。だが、相手は紙一重のところでその剣をかわした。
「うむ、若いに似ず近頃まれに見る腕の持ち主。竜も見事だ」
感心したように、その老騎士は言う。
「儂は、トリニアの騎士シアトゥカ・シ。では、少しばかりこの年寄りに付き合ってもらうとするか」
シアトゥカは、大竜刀を身体の前に構える。さすがにその構えには年期が感じられ、隙がない。
レイナとシアトゥカは、互いに牽制するように、相手の回りを旋回した。
シアトゥカの方からは打ち込んでこない。レイナが何度か斬りかかるが、シアトゥカはレイナの打ち込みをことごとくかわしていく。
今のレイナは大竜刀でない分、どうしても間合いの点では不利だった。
「どうした、何故打ち込んでこない?」
苛立たしげなレイナの叫びに対し、シアトゥカは飄々と応える。
「貴公の『無銘の剣』相手に、まともに斬り合ったのでは剣が何本あっても足りぬであろう?」
「……、この剣の由来を知っているのか」
その声には、やや驚きの色が含まれていた。先刻レイナが倒した騎士は、この剣を知らなかったはずだ。
この剣の力とその由来を知る騎士は、トリニアにも一握りしかいないはずだった。
「伊達に歳はとってはおらぬよ。若い者より物知りでなければ、年寄りの価値などあるまい」
長く生きてる分、戦い方は知っておる――そう言って笑う。
「なるほど……な」
苦虫を噛み潰したような表情でレイナは呟いた。
シアトゥカが何を考えているかわかった。時間稼ぎをしているのだ。トリニアの兵が、無事に撤退を済ませるまでの。
もしここでシアトゥカが破れれば、ストレイン軍の二頭の竜がトリニア軍を蹂躙する。そうでなくとも、トリニアの象徴である青竜の騎士が倒されたとなれば、トリニア軍は大混乱になる。
だが、まだ竜騎士が残って頭上を守っているとなれば、兵士たちも秩序を保って退却するに違いない。
この老騎士は、三騎の竜を失った今の時点では戦況を覆すのは無理と判断し、次の戦いに備えて可能な限り兵力を温存しようとしているのだ。
シアトゥカがここにいる限り、レイナはこの場を動けないし、トゥートも常にこちらに注意を払わなければならない。
(……確かに、伊達に歳はとっていないな)
これだけ老練な竜騎士に守りに徹されると、レイナとナゥケサイネの力でも倒すのは難しい。無理な攻撃をすれば、逆に反撃の隙を与えることになる。
(トゥートをこちらに呼ぶか……? いや、じじぃに手こずって助けを呼ぶなどできるか!)
それは、レイナのプライドが許さない。
たとえ二騎であっても、この男の守りを突き崩すのは難しそうだった。
装備が完全ならばまた事情は違ってくるだろうが、大竜刀を二本とも失った今の状態では、どうにも攻め口が見つからない。
(さすがにトリニアの青竜の騎士……というべきか)
取り敢えずこの場は退くことにした。
とにかく、今日の戦闘では既に目的を達している。マルスティアを攻め落とした後、トリニアの軍が相当の戦力を保ったまま撤退することも予定のうちだった。
どうせ、近いうちに再戦することになる。ならば、別に無理をすることもない。
レイナも無理な打ち込みは止め、二頭の竜はゆっくりと互いの回りを旋回する。
トリニア軍がマルスティアから撤退するにつれてその距離は徐々に開いていき、ついには視界から消えていった。
レイナは静かに微笑んだ。やはり、トリニアにも手強い騎士はいる。
やがて、トゥートの竜が近くへとやってきた。
「敵は完全に撤退しました。マルスティアは我が軍の支配下にあります」
「すぐに伝令を出したとして、本隊の到着はいつ頃になる?」
「早くて、明日の夕刻でしょう」
他の部隊の動きも完全に把握しているトゥートは、淀みなく答える。
「ならば明日と明後日、兵には交代で充分な休息を取らせろ。三日後の朝には出発することになる」
「はい」
何故とも、何処へとも尋ねない。それは既に打ち合わせ済みだ。
「トリニアが反攻に出る前にここを離れないとな。ここではあまりにも、向こうに地の利があり過ぎる。それに本隊の馬鹿共と一緒では、勝てる戦も勝てん」
レイナの皮肉めいた笑みを、トゥートがたしなめた。
「仮にも皇子殿下に対して、馬鹿共はないでしょう」
言いつつ、トゥートも微かに笑っている。立場上一応諫めはしても、今は高空を飛ぶ竜の上。誰にも聞かれる心配はない。
「馬鹿を馬鹿と呼んで何が悪い。マルスティアを陥としました、どうぞご入城下さいと言えば、喜び勇んでやってくるだろう。私が命じられたのはマルスティアを占領するまで、後のことは知らん。たとえ馬鹿共が全滅したとしても、な」
二頭の竜は並んで地上へと向かう。
もう、夕陽の残照もほとんど残っていない。
東の空に昇った二つの月が、その明るさを増しつつあった。
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