四章 諍い


「奈子先輩、起きて。駅だよ」
「ん……ぁ」
 由維の声に起こされ、奈子はぼんやりと目を開けた。暗かった目の前が急に明るくなる。地下鉄は、ちょうど駅のホームに入ったところだった。
「ああ……もう着いたのか……」
 他の乗客に混じって、奈子と由維も電車から降りた。もう九時過ぎなので、ホームの人影もまばらだ。
(夢……か。また随分とリアルな……)
 大通り駅から奈子たちの家のある西の台駅まで、二十分とかからない距離なのだが、その割にはずいぶん長い夢を見ていたような気がする。
 細部まで思い出すことができる。それは、向こうの世界の、王国時代の夢。
 夢の中で、奈子は竜騎士レイナ・ディ・デューンだった。
 巨大な赤竜を駆って、トリニアの竜騎士と闘っていた。
(すごい臨場感……SFX映画なんてメじゃないね。あの、竜と一体化する昂揚感といったら……)
 そんな夢を見た理由はわかっている。
 こちらに戻ってくる直前まで、ファージやソレアからレイナ・ディや竜騎士の話を散々聞かされていたからだ。
 奈子たちは、マイカラスの王宮に侵入した敵を追って、レイナ・ディの墓所へ向かうことに決めた。
 奈子やファージは、自分を傷つけた相手を許す気はなかったし、ハルティとしても、自分の城で好き勝手やられてこのまま引き下がるわけにはいかない。
 敵の正体は分からないが、一つだけ手掛かりがあった。
 それが、レイナの墓所。
 強大な力を持っていた竜騎士レイナ・ディ・デューン。その力の秘密が隠されているであろう墓所。
 連中が、レイナの墓所の正確な位置を調べるために王宮の地下室へ忍び込んだのなら、必ずそこへやってくるはずだった。
 さすがに国王であるハルティが自らそこへ行くわけにはいかないが、奈子とファージ、そしてマイカラスの騎士ダルジィとケイウェリがその任に就くことになった。
 そこで問題となるのが、墓所の正確な場所だ。ファージが見つけた書物の記述は、謎めいた暗号になっていて、そのままでは何のことかわからない。今頃は、ファージやソレア、マイカラスの学者達が解読に必死になっていることだろう。
 今のところ奈子は役に立たないし、そうそう学校を休むわけにも行かないので、一旦帰ってきたというわけだ。墓所が見つかれば、ファージが呼んでくれる手筈になっている。
「ふわぁぁぁぁ……」
 駅から外に出たところで、奈子はもう一度大きく欠伸をした。強引に腕を組んできた由維が、奈子の顔を見る。
「奈子先輩、そんなに眠いの?」
「帰ってくるなり有無を言わさず連れ出したのは誰だよ。まったく……」
「私は、ちゃんと朝になってから行ったもん。今日は一緒に買い物に行く約束だったじゃない」
 転移の際、数時間の時差が出ることもあって、奈子は丸一日以上寝ていなかった。向こうでいろいろあって、家に戻ってゆっくりと眠ろうと思っていたらこっちはもう明け方で、一眠りしたと思う間もなく由維がやってきたというわけだ。
 家への道を歩きながら、何度も欠伸を繰り返す。
 九時を過ぎた住宅街は人通りもない。
「そんなに疲れてるんだったら……」
 悪戯な笑みを浮かべて、由維が言った。
「ちょっと、休んでいきましょーか?」
「え?」
 由維が指差した先を見て、奈子の顔が瞬時に真っ赤になる。
「あ、あんたはっ、何考えてンのっ!」
「何って……、そりゃこの状況で考えることは一つだけでしょ?」
 そこには妙に派手なデザインの建物があり、ライトアップされた看板には『ご休憩・三五○○円』の文字が書かれている。
「な、何考えてンのっ? 女同士で……」
「おねーちゃんから聞いたんだけど、こーゆーところって男同士の利用はダメだけど、女同士で入るのは構わないんだって」
「アタシは思いっきり構うわっ! だいたい何で美咲さんはそんなこと知ってんのっ?」
 奈子が怒鳴るのも気にする様子もなく、由維はにこにこと笑っている。
 別に、エッチなことしなくてもいいんですよ――と。
「だって、興味あるじゃないですか。好奇心旺盛な年頃だしぃ、どんなところか見てみたいなぁって。これも一つの社会勉強ってヤツ?」
 その言葉を信じる気はなかった。ここでホテルに入ってしまったら、逃げ道がなくなるのは目に見えている。
「なにが社会勉強よ、あんたにはまだ早すぎる! それに第一、別に面白いものでもないっしょ。単にベッドとお風呂があるだけじゃない、あとビデオとカラオケと……。あ、でもお風呂は広くてけっこう快適だったっけ。それからさ……」
 突然のことに動揺していたためか、それとも眠くて頭がぼんやりしていたためか、奈子は自分の失言に気付かなかった。
 それまではしゃいでいた由維が急に黙り、険しい表情になったのを見て、はじめて自分が口にしてしまったことの重大さに気が付いた。
 はっと自分の口を押さえる。
「奈子……先輩?」
 由維の表情が妙にぎこちない。
「誰と、入ったんですか?」
 台本を棒読みにするような、感情のこもらない声でゆっくりと訊いた。
 奈子の顔から血の気が引き、冷たい汗が背筋を流れる。
「奈子先輩……」
 今更「人から聞いた話」なんて言い訳は通じないだろう。
「いつ……誰と入ったんですか?」
 今度の台詞には、はっきりと怒りが含まれていた。奈子に詰め寄った由維は、両手で服の襟を掴む。
「誰と入ったんですかっ!」
 ここまで本気で怒っている由維を見るのは初めてだ……ぼんやりと、そんなことを思った。
 怒りながら、泣いている。
「あ、あの……」
「言って下さい! 一体誰とっ?」
「……ゴメン、言えない……」
 言えるわけがなかった。
 これは、誰にも言えない。
 永久に自分の胸の中にしまっておこうと決めたこと。
 奈子自身のためにも、相手の男性のためにも。
「奈子先輩っ! どうしてっ? ひどいじゃないですかっ、教えて下さいっ!」
「……アタシが誰と何しようと、あんたには関係ないでしょ!」
 顔をくしゃくしゃにして詰め寄る由維に向かって、奈子は思わず怒鳴ってしまった。
 そんなことを言ってはいけないとわかっているのに。
 他に言うべき言葉が見つからなくて。
 つい口が滑ってしまった。
(これじゃ、八つ当たりだ……)
 奈子を掴んでいた手を離し、由維は二、三歩後ずさる。
「……ひどい……奈子先輩……」
 その時の由維の顔をまともに見られなくて、奈子は顔を背けた。
「……、奈子先輩の、バカァッ!」
 由維はそのまま回れ右すると、一目散に走り去っていく。
 反射的にその後を追おうとしたが、すぐに思いとどまった。
 追いついたとしても、そこで何を言えばいいのかわからなかったから。
「アタシってば、最低……」
 由維の足音が遠ざかっていく。
 夜道に消えていく由維の背中を呆然と見ながら、奈子はつぶやいた。
 どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。由維が傷つくのは、わかっているのに。
 一人取り残された奈子は、とぼとぼと歩き出した。
 九月の北海道の夜は、もう肌寒い。
 心なしか、道路脇の草むらから響くエンマコオロギの声も寂しそうに聞こえる。
「アタシってば、最低ぇ……」
 奈子はもう一度繰り返した。
 堪えようとしても、涙が溢れてくる。
 恋は盲目……とはよく言ったものだ。
 絶対、後悔はしないと思っていた。
 半年ちょっと前、初めて男の人と過ごした夜。
 一度だけ、という約束だった。その人には、付き合っている恋人がいたから。
 それでも、後悔はしない筈だった。
 だけど――
 そのことが、由維を傷つけることまでは考えなかった。当時から、由維の気持ちは知っていたのに。
(由維、本気で怒ってた。本気で泣いてた……)
 今日、奈子は初めて半年前の自分がしたことを後悔した。
 また、由維を泣かせてしまった。一番悲しませたくない相手を、泣かせてしまった。
 重い足取りで、奈子は家路を辿っていた。


 家に着いた奈子は、自分の部屋に入ると同時に電話に手を伸ばした。
 謝ろう、今すぐに。
 時間をおいたら、いっそう謝りにくくなる。
 受話器を取り、ボタンを押して登録してある番号を呼び出す。
 数回の呼び出し音の後、受話器の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。
『はい、宮本です』
「あ、松宮です。こんばんは……」
 電話に出たのは、由維の姉の美咲だった。奈子の声を知っている美咲は「ちょっと待って」と言って電話を保留にする。
 しかし、三十秒くらいして保留のメロディが途切れたとき、聞こえてきたのはまた美咲の声だった。
『あの……ゴメンね。出たくないって言ってる』
「あ……」
『ひょっとして、ケンカでもした?』
「……はい、ちょっと……。あ、またかけ直します」
 受話器を置いた奈子の手は、微かに震えていた。
 知らないうちに、涙が頬を伝っている。
 今まで、こんなことはなかった。
 二人は長い付き合いだから、これまでも喧嘩くらい何度もしている。
 でも、すぐにどちらかが謝って仲直りするのが常だった。
 だから、こんなことは初めてだった。
 謝罪の電話にも出てくれないなんてことは、一度もなかった。
 ドサッ!
 奈子はベッドに俯せに倒れ込んだ。枕に涙の染みが広がっていく。
 やがて、声を上げて泣き出した。
 どうせ、家には誰もいない。どんなに大声を出して泣いても聞かれることもない。
(アタシ、今、独りぼっちだ……)
 広い家に一人きり。
 仕事の関係で両親が留守がちでも、奈子は寂しいと思ったことなどほとんどなかった。
 いつも、由維が一緒にいたから。
 由維が傍にいてくれたから。
 なのに、今は独りぼっち。
 由維を、一番大切な人を、裏切ってしまったから。
「由維……ゴメン……。お願い、アタシを一人にしないで……」
 声を上げて、奈子はいつまでも泣き続けた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.