剣が、ファージの胸を貫いていた。
心臓を、正確に。
その剣を握っているのは、奈子の手だった。
限りなく鋭く、限りなく強靱な刃。
無銘の剣――千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンが用いたという、大陸最強の魔剣。
奈子の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。
人形よりも無機的な顔で、ただ剣を握っていた。
しかし、奈子は感じていた。自分の手の中にある呪われた剣が、このファーリッジ・ルゥ・レイシャという存在に、本当の意味で致命的な傷を負わせたということを。
その刃は薄く、身体の傷は小さなものだ。
だが、剣に秘められた力は、ひとつの命を――不死身とさえいわれていたこの少女を支えていた魔力そのものを、ずたずたに切り裂いていた。
無銘の剣は、凄まじいまでの魔力を備えていた。「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」――そう言った少女を殺すのに充分すぎるほどの力を。
物理的な力ではない。それは命そのもの、魂そのものを破壊する力だった。
奈子の肩をつかんでいた手から、ふっと力が抜ける。
その美しい金色の瞳から、光が消えていく。
ゆっくりと、とてもゆっくりと。
ファージの身体は、その場に崩れるように倒れた。
周囲に、赤い染みが信じられない速さで広がっていく。
奈子の手から、剣が落ちた。
刃も、柄も、赤く濡れている剣。
人形のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。
「あ…」
足元に倒れている少女を見る。
その目が、大きく見開かれた。
「…な…によ…これ…」
自分の手を、顔の前に持ってくる。
血に染まった手。
「い…」
ぶるぶると手が震えていた。
記憶が甦ってくる。
声が聞こえる。あの女の声が。
倒れた奈子の耳元に唇を寄せ、歌うような声でささやいている。
心の奥底にまで染み通るような、不思議な響きを持った声だった。
『あなたに、お願いがあるのよ。それは、あなたにしかできないことなの…』
美しい…そう、ぞっとするくらい美しい声がささやいている。
『ファーリッジ・ルゥを殺しなさい。あなたの、剣で』
奈子の意識の中に、その声が浸み込んでくる。
『あなたにしかできないことよ。その剣でしか、ファーリッジ・ルゥは殺せない…』
声は、何度も繰り返す。
何度も、何度も。
奈子の心の奥底にまで、入り込んでくる。
『ファーリッジ・ルゥを殺しなさい…』
いつしか奈子の意識は、その声に支配されていた。
奈子はわずかに顔を動かした。ソレアと目が合う。
彼女もまた、突然の出来事に言葉を失って立ちすくんでいた。
それでようやく、奈子は自分がなにをしたのかを理解した。
両手で顔を覆う。
「い…い…、いやああぁぁぁっっっ!」
奈子の絶叫が、屋敷の中に響き渡った。
ソレアの屋敷を訪れようとしていた二人は、いきなり中から飛び出してきた人影とぶつかった。
「ナコ…?」
その名を呼ぶ二人の声が重なる。
男の声と、女の声。
赤い髪の、身体の大きな男。
長い銀髪の、凛とした表情の美女。
エイシスとフェイリアだった。
しかし奈子は二人に一瞬も注意を払わず、そのまま走り去ってしまう。
顔を見合わせた二人は、すぐに、なにがあったのかを理解した。呼び鈴を鳴らしもせずに、屋敷の中に飛び込む。
廊下を走る。居間の扉は開けっ放しだった。
部屋の中に入り…
そして、息を呑んだ。
そこにあったのは、ほぼ予想通りの、しかし、そうならないことを祈っていた光景。
床の上に、金髪の少女が倒れていた。
傍らに、血に濡れた剣が落ちている。
周囲の絨毯が、真っ赤に染まっている。
調べるまでもなく、少女が事切れていることはわかった。
生命の気配がまるで感じられない。
見開かれたままの金色の瞳が、光を失っていた。
ソファに、ソレア・サハが座っている。
蒼白な顔をして、両手で頭を抱えていた。
その手がかすかに震えている。
そして唇も。
「…どうして…どうして…、どうしたらいいの…」
茫然とつぶやいてる。
二人がそこにいることなど、まるで気付いてもいない。
エイシスが、室内の光景から顔をそむけた。
「…間に合わなかったか」
フェイリアは無言で、この惨状を見つめている。
ひどく、難しい表情をしていた。
「俺の…せいか?」
「…ええ、そうよ」
ゆっくりとエイシスの方に顔を向けたフェイリアは、きっぱりと言った。
責めるような目をしていた。
「本当にナコのためを思うのなら、言うべきだった。ちゃんと警告するべきだった。ファーリッジ・ルゥを狙う者がいること、そして、そのためにどんな手段を用いようとしているのかを」
厳しい口調だった。
エイシスがなにも言えずにいるうちに、さらに言葉を重ねる。
「ナコのためを思って? 知らない方が幸せだと思った? 笑わせないでよね。無知なこと以上の不幸なんかないわ。すべてを知った上で、自分がどうしたらいいのか考えるべきなのよ。あの子にはそれができるわ」
腰に手を当てたフェイリアは、自分よりも頭ひとつ背の高い男に向かって、鋭い言葉を投げつける。
「格好いいこと言って、結局あの子のことなにもわかっていないのね。あなたも、ハルティ・ウェルもそうよ!」
「フェア…」
「…なにをぼさっとしているの? やることがあるでしょう?」
フェイリアの口調は、まるで子供を叱る母親だ。実際、フェイリアの方が年上だし、エイシスが十三歳の頃からの知り合いだから、恋人というよりも姉と弟のような関係なのかもしれない。
「やること…?」
「さっさと連れ戻してきなさい!」
今さっき入ってきた扉を指差した。
誰を、とは言わなかったが、その相手はひとりしかあり得ない。
エイシスが外に飛び出していく。
ため息混じりにそれを見送ったフェイリアは、ソレアの方に向き直ると、顔に手をかけて強引に上を向かせた。
「…できれば、少し事情を説明してもらえないかしら?」
その口調に、優しさはみじんも感じられなかった。質問というよりも、詰問するような口振りで。
「フェイリア…ルゥ…?」
ソレアは、虚ろな、焦点の合わない瞳をしてつぶやいた。今になってようやく、そこにいる人物に気付いたらしい。
「…どうして、あなたがそこまで取り乱すの? こんなこと慣れっこではなくて? 私、ファーリッジ・ルゥは不死者だと思っていたのだけど、違ったのかしら」
その言葉に、ソレアは少しだけ驚いた表情をした。
しばらく黙ってフェイリアの顔を見ていたが、やがて、隠しても無駄と悟ったのか、ゆっくりと口を開く。
「…ええ、そう。その通りよ、普通ならね。でも…でも、今回は事情が違う…」
ふわりとした動作で立ち上がると、静かに息を吸い込んだ。
床に落ちている剣を指差す。
「…無銘の剣なのよ。黒の剣を別にすれば、大陸最強の魔剣…」
そこでいったん言葉を切ると、きっとフェイリアの顔を見る。
「竜騎士の魔法すら歯牙にもかけない、最強の武器! この世のあらゆるものを滅ぼすことができる武器! 相手がたとえ竜騎士だろうと、竜だろうと!」
残りの言葉を一気に吐き出したソレアは、力尽きたように座り込むと、また頭を抱えた。
「なにより…」
嗚咽混じりにつぶやく。
それに続く言葉には、さしものフェイリアも驚きを隠せなかった。
「…あの剣は、ファージを殺すために作られたのよ…」
あれからまる一日が過ぎていた。
とはいえ、いまの奈子には時間の感覚など残っていない。
彼女は、森の中を歩いていた――彷徨っていた、という言い方が正しいだろうか。
草木の茂った森の中を、夢遊病者のように歩いていた。
服は汚れ放題で、手足にはいくつもの切り傷、擦り傷があった。
ときどき、石や木の根につまずいて転ぶ。それで手や足、あるいは顔を擦りむいても構わずに、ただのろのろと立ち上がって、また歩き出す。
自分がなにをしているのか、まったく自覚していない様子だ。
その目には、まるで意志の光が感じられなかった。
心を持たない自動人形のように、足を引きずって歩いているだけ。
疲労も、痛みも、なにも感じずに。
片手には、短剣を握っていた。
奈子がいつも使っている、大振りの短剣。
その刃には、わずかな血が付いていた。
もちろん本人は、そんなことに気付いていないのかもしれないが。
どこへ行く、という目的があったわけでもない。
そんなことを考える心は、残っていなかった。
彼女の心を占めるのは、ただひとつのことだけ。
そして――
そんな奈子を追う、二人の人間がいた。
やがて、森を抜けて少し開けた場所に出た。
薄暗い森に慣れた目が一瞬眩んで、足が止まる。
そこに、彼女を待っていたかのように立つ人影があった。
奈子の姿を認めて、その人影はかすかな笑みを浮かべる。
「待っていたわ、ナコ・ウェル。迎えに来たのよ」
名高い歌姫にも劣らぬ、美しい声だった。
しかしその声には、優しさというものがまったく感じられない。
冷水よりも、氷よりも冷たい声。
声の主は背の高い、二十歳くらいの女性だった。
ややくすんだ赤い髪を、肩のあたりで切りそろえている。
腰には剣を差し、騎士らしき身なりをしているが、しかし、一般に騎士の証とされる左手の腕輪は見あたらない。
奈子はもちろん、その人物に見覚えがあった。
だからといって、なにか反応を示すわけでもない。
ただゆっくりと歩いていって、その女の前で立ち止まった。
「…なんだ、剣は置いてきてしまったの。肝心なところで役に立たないのね」
女は奈子よりもいくぶん背が高い。
奈子の髪をつかんで、乱暴に上を向かせる。
「まあいいわ。ファーリッジ・ルゥが死んだ以上、剣なんていつでも手に入るし」
唇が触れるくらいに顔を近づけて言った。
奈子の虚ろな目には、その顔すらも見えているのかどうか定かではない。
「それより、あなたを連れて帰らないとね。アルと約束したもの。生きたまま手足を切り落としたあなたをプレゼントするって」
女は剣を抜くと、奈子の腕に当ててすっと引く。
あとには赤い筋が残り、じわりと血が滲んできた。
「どう、素敵でしょう? 考えただけでぞくぞくするわ。あなたの血は、とても綺麗な色をしている」
自分でつけた傷に、舌を這わせた。流れる血を舐め取って、笑みを浮かべる。
狂気を感じさせる笑みだった。
それでいてなお、美しい表情だった。
奈子は、なんの反応も示さない。
女は、肩に手をかけた。まるで奈子をエスコートするかのように。
そして歩き出そうとしたとき、不意に、周囲の梢がざわざわと鳴った。今日は、風などほとんど吹いていないのに。
女ははっと顔色を変えると、奈子を突き飛ばし、自分もその場を飛び退いた。
一瞬遅れて、その場所を無数の稲妻が襲う。
同時に、森の中から飛び出した影があった。
それは、女と奈子の間に立って、大きな剣を構えた。
奈子を背中に庇うようにして。
「…今度はぎりぎり間に合ったな。こいつは返してもらうぞ」
女に剣を突きつけてエイシスは言った。
かなり長い距離を走ってきたのか、顔には汗が滴り、赤い髪が何本か額に張り付いている。
女はほんの少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに納得したように、ぽんと手を叩いた。
「あなた、エイシス・コットね。噂は聞いてるわ。ひょっとしてこの子、あなたの彼女?」
「…ああ」
エイシスは、奈子が正気だったら殴られそうなことを言った。
だが、いまはそんな細かいことを訂正している場合ではない。
「でも、駄目よ。アルがその子のことを気に入ってるからね」
「力ずくで連れていくか? できると思っているのか?」
低い声で言った。
エイシスの顔から、いつものにやにや笑いは消えている。
「言っとくが、俺は怒ってるぞ。楽には死なせないからな」
「お姫様を護る騎士ってわけね。かっこいいわぁ」
からかうように言う。
女はまるで面白がっているようだった。エイシスが放つ殺気など、気にもとめていない。
「あなたには感謝してるわ、エイシス・コット。あなたが教えてくれたおかげで、墓守を始末できたんだもの」
「貴様…」
エイシスは唇を噛む。呪文を声に出さずに、精霊の召喚をはじめた。
そうした下準備がなければ、精霊魔法は威力の点で上位魔法にかなわない。
精霊が呼びかけに応え、周囲の梢がざわめく。
「四大精霊の魔法…」
女は興味深そうにつぶやいた。
魔力の源となる精霊とは、実体を持たない存在だ。生命体であるのかどうかすら定かではない。
それは確かに存在するにも関わらず、大きさというものがない。
それ故に、物質の限界に束縛されずに次元の狭間を自由に移動することができ、そこからエネルギーを引き出せるのだ。
自然界に存在する精霊を利用するのではなく、強制的に精霊を召喚してより大きな魔力を導く魔法は、きわめて珍しいものだった。
魔法に関する知識の中では珍しく、王国時代よりも後に生まれたものだという。失われた知識、竜騎士の強大な上位魔法に代わるものとして。
それを駆使する者は、エイシスやフェイリアを含めても大陸中でせいぜい二十人というところだろう。
「やるわねぇ…」
女は短く口笛を吹いた。
「ここで戦ってもいいんだけど、せっかくの四大精霊の魔法、観客もいないところじゃちょっと盛り上がりに欠けるわね」
その身体が、すぅっと消えていく。
「またの機会にしましょう。アルには少し我慢してもらって。もっと相応しい舞台を考えておくわ」
そう言い残して、女の気配は完全に消えた。
エイシスは、それでもしばらくは警戒を解かなかった。
仮にあの女がアルワライェと同等の能力を持っているとしたら、引き上げたと見せかけて転移による奇襲を仕掛けてくる可能性もあった。
しかし、どうやらそんな気配はない。
大きく息を吐き出すと、召喚した精霊を解放する。
突風でも吹いたかのように、梢がざぁっと鳴った。
「おい、大丈夫か?」
エイシスは振り返ると、人形のように表情のない顔で立っていた奈子の、肩をつかんで揺さぶった。
その頭が、がくがくと揺れる。
「何故…」
どこを見ているのか、焦点の合わない目をしたまま小さな声でつぶやいた。
「え?」
「何故、助けたの?」
奈子の目は、エイシスを見ていない。
いつもの強い意志の光が失われた虚ろな目をして、独り言のように言う。
「何故って、お前…」
エイシスはこのときになってようやく、奈子の様子が普通ではないことに気がついた。
「ようやく、死ねるところだったのに…どうして、邪魔をしたの?」
奈子は小さく身体を振って、肩をつかんでいた手を振りほどくと、一歩後ろに下がった。
先刻からずっと手に持っていた短剣を両手で握りしめる。
そして…
その剣先を、こともあろうに自分の喉に押し当てた。
「お、おい…」
エイシスが前に出ようとすると、奈子は同じだけ後ろに下がる。
(こいつ…)
エイシスははっとした。
奈子の首筋にも、手首にも、いくつもの傷がある。
木の枝や棘でつけられた他の傷とは明らかに違う、鋭利な刃物の傷が。
短剣を握った手が、ぶるぶると震えている。
かなり力が入っている証拠だ。
「死のうとしたの! 何度も、死のうとしたのに…」
奈子の目から、涙が溢れる。
刃が押し当てられた部分から、一筋の血が流れた。
「なのに…どうしてもこれ以上手が動かないの!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、奈子は叫んだ。
かなり危険な状態だ、とエイシスは感じた。目に、狂気の色が浮かんでいる。
しかし、こうなることは予想するべきだった。
一年前、憎んでいた仇を殺したときでさえ、あれだけ傷つき、ショックを受けていた奈子が。
しかも今回は、親友を自らの手で殺したのだ。たとえそれが己の意志によるものではないとはいえ、手を下したのは自分だった。
あれから一日、いままで生きていたことすら奇跡に近い。
「お願い…この剣の柄を、押してくれない? ほんのちょっとだけでいいの…」
泣きながら懇願する奈子。しかしその口元は、かすかに笑みすら浮かべていた。
「ね…お願い」
「馬鹿なことをするな!」
一瞬の隙をついて、エイシスは短剣を奪い取ろうとした。
手首をつかんで無理やり手を開かせようとするが、常軌を逸した奈子の力は不自然に強い。
力まかせに強引に短剣をもぎ取る。
その反動で、奈子の身体は草の上に転がった。
「どうしてよっ! …お願いだから死なせてよ! お願いだから…」
地面に転がったまま、嗚咽を上げる。
草をぎゅっとつかんで、地面に顔をこすりつけるような格好で。
「アタシ…殺しちゃった…この手で…ファージを殺しちゃった…」
短剣を奪ったときに切ったのか、奈子の手から血が流れている。
血の赤と、草の緑が奇妙なコントラストを描いていた。
「ふ…ふふふ…」
急に泣き声が止んだかと思うと、奈子は笑い出した。
エイシスはぞっとする。もちろんそれは正常な笑いではない。狂気がもたらす笑い…泣いているよりもたちが悪い。
「…アタシの手は、血に染まってるの。こんな汚れた手じゃ…もう由維を抱きしめることもできないの…」
顔を上げる。
虚ろな目が、エイシスを見ている。
正確にいえば、エイシスの手にある短剣を。奪い返す隙をうかがっている。
思わず、エイシスは二、三歩下がった。
(くそ…どうすればいい?)
どうすれば、奈子を元に戻せるのか。
「…本当にファーリッジ・ルゥが死んだと思っているのか? 墓守が…不死者とすら言われているファーリッジ・ルゥがお前ごときに殺されると思っているのか?」
嘘をついてもいい。とにかくこの場をなんとか切り抜けなければ…。
「エイクサム・ハルだって、アルワライェ・ヌィだって、ファーリッジ・ルゥを殺したつもりでいた。でも、あいつは生きていたんだ」
ファージは実は死んでいない…そう、思わせようとした。
もちろん嘘だ。彼自身、自分の目で確かめた。
普通の剣なら、心臓を貫かれたところで彼女は生きていたかもしれない。ファーリッジ・ルゥの力なら、心臓が破壊されても血流を維持し、死ぬ前に傷を修復することすら可能だったかもしれない。
王国時代の竜騎士に匹敵するほどの力があれば、可能だったかもしれない。しかし無銘の剣の魔力は、それを許さなかった。
だが、奈子はそこまで気付いていないはず…。
そう考えた。
「…死んだわ」
しばらくエイシスを見つめていた奈子は、ぽつりとつぶやいた。
「ナコ…」
「レイナの剣だったのよ! そりゃあ、目に見える傷は小さいかもしれない。でも、はっきりと感じたわ! もっと根本的な部分で、あの剣はファージをずたずたに切り裂いたの! 竜の命ですら一撃で奪う剣なのよ!」
一気にそれだけ叫ぶと、また声が小さくなる。
「…あのとき初めて、心の底からあの剣が怖いと感じた。悦んでいたわ。あの剣…悦んでいたの。意志を感じた…他の誰でもない、ファージの命を望んでいた…。そのために…作られたんだって…」
両手で顔を覆ってすすり泣く。
エイシスも、なにも言えずにいた。
奈子の言うことを、すべて理解できていたわけではない。錯乱した頭が生み出した幻想だ、と思っていた。
ソレアとフェイリアが交わした言葉を、このときの彼はまだ知らなかった。
しばらく無言で、うずくまって泣いている奈子を見おろしていた。
どうすればいいのだろう。
たとえ強引に連れ帰ったところで、なにも解決しない。
このままでは、奈子の精神はそう長くは保たないだろうと思われた。
なにか、支えになるものが必要だった。
どんなことでもいい。奈子に生きる力を与えてくれるものなら。
「…俺のせいだ」
エイシスはぽつりとつぶやいた。
奈子は、なんの反応も見せない。
「俺は知っていた…ファーリッジ・ルゥが狙われていることを。この間、暗殺を依頼されたことは話したな? その標的ってのが、ファーリッジ・ルゥだ。断ったけどな」
奈子がゆっくりと顔を上げた。まだ、なんの表情も浮かんでいない。
少しは驚くかと思ったのだが、そんな様子はない。
「…そうだと思った」
驚いたのはエイシスの方だった。
だが、すぐに気付く。ひとりで彷徨っている間に、その結論に達したのだろう。
ことが起こった後なら、少し考えればわかることだった。
しかし、このことは知らないだろう。
「…依頼主が訊いた。ファーリッジ・ルゥを殺すのは不可能だと思うか、とね。俺は答えたよ、手はある――ってな」
ぴくり。
奈子の肩がかすかに震えた。
まっすぐに、エイシスの顔を見る。
エイシスは小さく深呼吸すると、言葉を続けた。
「俺はそれしか言わなかった。だが相手は俺が思っていた以上に、多くのことを知っていたんだ。かなり調べたんだろう」
ただ強いだけでは、ファージは殺せない。
墓守は不死者だ――そんな噂すらあるくらいだ。
少しくらい傷つけたところで、殺すことはできない。墓守には、想像を絶する魔力の裏付けがあるから。
そして…
「その上、ファーリッジ・ルゥは絶対に隙を見せないんだ。俺やフェイリアはもちろん、ソレア・サハに対しすら、決して気を許してはいなかった。お前は気付かなかっただろうが…」
かすかに、ほんのかすかに、奈子の顔に驚きが浮かんだ。
そう、奈子は気付いていなかった。
だがそれこそが、ファーリッジ・ルゥを殺すことが難しいという最大の理由だった。
誰にも、心を許さない。
誰にも、隙を見せない。
しかし――
唯一の例外があった。
「一人だけ…たった一人だけ、ファーリッジ・ルゥを確実に殺せる人間がいた。心を開くただ一人の相手で、しかも、彼女の魔力を凌駕する武器を持った人間が…な」
ファーリッジ・ルゥを殺す方法…それを考えたときに、辿り着いた答えだった。
「不用意な一言だった。あれだけで答えを見つけるなんて思いもしなかった」
そう、たしかに不用意だった。
それは認めなければならない。
奈子は、彼のことを恨むだろうか。
それでもいい。
怒りも、憎しみも、ときには生きる力となり得る。
「ファーリッジ・ルゥを殺す方法はある…俺がそう言っただけで連中は気付いた。多分それ以前から、お前の存在を知っていたんだ。お前が、無銘の剣を持っていることすら知っていたんだろう。そう、アルワライェなら知ってるはずだったな」
奈子が、ゆっくりと立ち上がった。
エイシスの前へと進んでくる。
「あんたが…」
口を開くと同時に、いきなり飛びかかった。
バランスを崩して倒れたエイシスに馬乗りになると、思い切り顔を殴りつける。
「お前のせいだっ! お前が…お前が余計なことを言ったから!」
立て続けに何発も殴り、エイシスの手から短剣を奪って振り上げた。
「殺してやるっ!」
短剣は、エイシスの左肩に深々と突き刺さった。
小さくうめき声を上げたエイシスは、短剣を握った奈子の手首をつかむ。
「殺してやる…殺してやる…! お前を殺して、アタシも死ぬ…」
エイシスの服に、赤い染みが広がっていく。
「そうだな…」
傷の痛みに顔をしかめながらも、いつものにやにや笑いを浮かべて言った。
「お前と心中するのも、いいかもな…。だが、それだけでいいのか?」
奈子は、まだ力を緩めない。
「俺の責任だ…、そしてお前にも責任がある…。だが、もう一人、ファーリッジ・ルゥの死に責任を負わなければならない人間がいるはずだ。そうだろう? そうでなきゃ不公平だ」
奈子の目がかすかに光る。
流れ出した血で、エイシスの手が滑った。
奈子は力ずくで短剣を引き抜くと、もう一度振りかぶる。
一瞬動きを止めて、それから渾身の力で振り下ろした。
短剣は、根本まで埋まった。
エイシスの頬をかすめて、その横の地面に。
「誰よ…」
奈子がつぶやく。
相変わらず、狂気の色が浮かんだ目。
しかしその顔からは、はっきりと怒りの感情が読みとれた。
奈子にとっては怒りこそ、闘う力の源なのだ。
「誰なのよ…ファージを殺そうとしたのは…」
エイシスは気づかれない程度に、かすかに安堵の息をもらした。
少なくとも少しの間、二人とも生きながらえたことを悟ったから。
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