七章 仇敵


 大陸を西から東へ分断するように滔々と流れる大河、コルザ川。
 遠い昔から変わらずに流れている。
 その上流部に、その都市はあった。
 トゥラシ。
 中原と呼ばれるこの地方では最大の、そして大陸中でも十指に入る大都市だった。
 街の中心にある丘の上に建つ、ひときわ大きな神殿が目を引く。
 実際には、街の中心に神殿があるのではなく、神殿の建つ丘を中心に街が築かれたというのが正しい。
 現在の大陸で最大の勢力を誇る、トカイ・ラーナ教会の総本山。
 その丘は、アルンシルと呼ばれていた。



 初めて訪れる街に戸惑いながら、奈子はひとりで通りを歩いていた。
 しかし、たとえ知り合いと出会っても、それが奈子とは気づかないかもしれない。
 普段の女剣士風の服ではなく、普通の街娘が着るようなスカートを身につけ、左手にいつもはめている腕輪もはずしている。その上、金髪のかつらで髪型まで変えているのだ。
 いまエイシスは傍にいない。
 敵の目をごまかすためには変装だけでは足りない。別々に街に入った方がいいという判断からだった。
 街に入ったあとで、ある宿で落ち合うことにしていた。


『ファーリッジ・ルゥを狙ったのは、トカイ・ラーナ教会だ。アルワライェが関わっているとなれば、まず間違いない』
 そう、エイシスは言った。
 教会とはいえ、アルトゥルやハレイトンといった大国と肩を並べるほどの大勢力である。その実体はきれい事だけではすまされない。
 公にできないことなど、いくらでも隠されている。
 この地方の十カ国において、教会の力は絶対的だ。真の支配者は国王ではなく、トカイ・ラーナの教皇であるというのは、公然の事実だった。
 中原十カ国の実体は『トカイ・ラーナ帝国』といっても過言ではない。
 対立する他の教会や布教を認めない国への工作…それは時には強硬手段に訴えることもある。
 戦争…というのはわかりやすい手段だが、それとは別に「表には出ない」戦いもあった。
 そういった、特殊な任務を生業とする人間が存在する。
 アルワライェ・ヌィはそういった人間のひとりだと、エイシスは考えていた。
 以前、アルワライェに雇われていたことがあるから、いくらかは彼のことも知っている。
 もちろんアルワライェは自分の身分を明らかにしたりはしなかったが、それでもある程度は見当もつく。
 それに、エイシスにファージの暗殺を依頼してきた男、言葉のわずかな訛りから、中原の出身であることはわかった。そして、教皇の名を出したときに見せた、かすかな表情の変化。
 あれもおそらく教会関係の人間だ。
 だとしたら、ファージの仇はこの街にいるはずだった。教会の「裏の人間」は大陸中に散らばっているが、アルワライェほどの力を持った者なら、教会中枢部の直轄のはずだ。他に手掛かりはない。
 そうして、二人はトカイ・ラーナ教会の総本山のあるトゥラシへとやってきた。
 二人だけで、だ。
 あれから、一週間が過ぎていた。
 奈子が、ソレアの屋敷に戻ることを固く拒んだためだ。
 だから、エイシスはフェイリアと連絡を取ることもできなかった。それはつまり、トゥラシまで一気に転移することができないということだ。
 エイシスは奈子を連れてタルコプの隣街へ行き、そこで馬を手に入れた。あとは馬と、コルザ川を遡る船を利用して、一週間かけてここまで来たというわけだ。
 しかし考えようによっては、かえって良かったのかもしれない。
 直接トゥラシに転移したら、相手にこちらの存在を宣伝するようなものだ。ある程度力のある魔術師ならば、近くで行われた転移を察知するのは容易なことだから。
 アルンシルでは、トゥラシに入り込む不振人物を常にチェックしているに違いないのだ。
 徒歩の方が相手の裏をかく可能性はあった。こちらにはソレアもフェイリアもいるのに、まさか一週間もかけてまともに旅してくるとは思うまい。
 一週間という時間は、奈子にとっても良かったかもしれない。
 少なくとも見た目は、ずいぶんと落ち着いてきた。もちろん、まだ完全に正常とは言い難いが。
 目つきが、尋常ではない。
 自分でもわかっている。きっと、もう完全に以前の通りには戻れまい。
 あの瞬間から、自分の中でなにかが狂ってしまった。
 奈子の剣がファージを貫いたあの瞬間から…。
 この一週間の間にも、死のうとしたことが何度かあった。
 頭で考えての行動ではない。突然、発作的に身体が動いてしまうのだ。
 そのたびにエイシスが止めてくれてはいたが、どこか「余計なことを…」という思いがなかったわけでもない。
 考えてみると、あの男とこれだけ長く一緒に過ごしたのも初めてだった。
 その間、二人きりになれた夜は、いつもエイシスに抱かれていた。
 奈子の方から望んだことだった。
 ひとりで眠ることができなかった。
 肉体的な快楽に身をゆだねている間だけは、忘れていられた。
 夢も見ないくらいに疲れていなければ、眠ることができなかった。
 目を閉じると、血溜まりの中に倒れるファージの姿が浮かぶのだ。
 生気の失せた金色の瞳が、虚ろな目でこちらを見つめていた。



 見られている…。
 後をつけられている…。
 奈子は感じていた。
 トゥラシの街に入ってしばらくたった頃から、常に誰かの視線がつきまとっている。
 試しに、狭い路地をでたらめに歩いてもみた。
 はっきりと姿は見せないが、確かに、誰かが尾行している。
 頭は錯乱気味であっても、感覚はかえって鋭くなっていた。
 誰だろう。アルワライェだろうか。それともあの女か。
 それにしてはやり方がまだるっこしい気がする。
 どちらも、こっそりつけてくるよりは、堂々と目の前に姿を現す方が似合う性格だ。自分たちの力に絶対の自信を持っているのだから、隠れる必要もあるまい。
 だとしたら…?
 路地を出て、また大きな通りに戻った。
 その方が、いきなり襲われる危険は少ないだろう。
 通りを歩いていると、ガラス細工を扱う店が目に入った。
 奈子はその店に入る。
 手鏡を選んでいるふりをして、背後を映してみた。
 それらしい人影は、二人いた。
 一人は、ごく普通の商人風。
 もう一人は、アルンシル巡礼のために遠くからこの街を訪れた信者――トカイ・ラーナ教会の聖地であるこの街には、そういった人間の姿も多い――のようだった。
 つまり、この街を歩いていてもっとも普通の、不自然なところがない姿というわけだ。
(ふたり…か)
 もう一人くらいはいるような気がしたが。
 とにかく間違いない。
 奈子を監視している。
 正体がばれたのだろうか? いや、だとしたらもっと直接的な手段に出るように思われる。
 おそらく、どことなく怪しい、と思われている程度なのだろう。
 大陸最大の勢力を誇るトカイ・ラーナ教会は、それだけに敵も多い。
 他国の間諜、工作員の類には目を光らせているはずだ。
 いくらさりげない風を装っても、やはりこの世界では、奈子はどことなく不自然な立ち振る舞いをしてしまう。目を付けられてもおかしくはない。
 あの二人は外部からの侵入者を監視し、必要とあれば排除する、教会の『裏側の人間』なのだろう。
「…やるか」
 店を出た奈子は、口の中でつぶやいた。
 いつまでも後をつけられるのは面白くない。
 それで疑いが晴れるのならいいが、あまり期待はできないだろう。
 ならば先手必勝だ。人気のない路地に誘い出して叩きのめしてやろう、と考える。
 あるいは、うまくいけば連中からなんらかの手掛かりを得られるかもしれない。
 アルンシルについては、一般の信者にも開放されているごく一部を除き、内部の情報はほとんどない。
 それだけでも得られれば…。
 人目に付かない場所を探して、奈子が歩き出すのと同時に、
「リューナ、リューナじゃないですか!」
 そんな声と同時に、いきなり肩を抱かれた。
 男の声だ。若者…と言うほどでもないが、それほど歳を取ってもいない。三十歳前後くらいだろうか。
「久しぶりですね、お兄さんは元気ですか?」
 人違いだ…そう言いかけて男を見た奈子の顔が、驚愕に凍りついた。
 平均よりもやや背が高い。鼻筋の通った美しい顔立ちをして、長い金髪を腰まで伸ばしている。
 長い前髪が顔の半分を隠していたが、間違いない。
 その顔に見覚えがあった。
 忘れるはずがない。
 忘れられるはずがない。
「エ…」
 思わず叫びそうになった奈子を、男はぎゅっと抱きしめた。
 そして、耳元でささやく。
「大きな声を出さないで。私と話を合わせてください。あなた、狙われていますよ。ナコ・マツミヤ」
 それだけ言うと、奈子を放した。
 さも親しげに微笑む。
「よかったら、うちに寄っていきませんか? いいお茶があるんですよ」
 まだ事情がよく飲み込めていない奈子は、曖昧な表情でうなずいた。



『止めなさい、もう、死んでいます』
 それは決して大きな声ではなかったのだが、何故か、はっきりと耳に届いた。
 狂ったようにリューイを殴り続けていた奈子は、振り上げた拳を止めて顔を上げる。
 大広間の隅に、二人の男が立っていた。
 一人は体格の良い三十代の剣士、ハイディス・カイ。
 そしてもう一人は、もう少し若く、長い金髪の魔術師。
『エイクサム・ハル…』
 その名を口にしながら、奈子は、振り上げた手をゆっくりと下ろした。
『もう、いいでしょう? とっくに、死んでいますよ』
 エイクサムは、何処となく、悲しそうな声で言った。
『し…んだ?』
 まるで知らない単語を口にするかのように、奈子はつぶやいた。自分の下で、ぐったりとなっている男を見下ろす。
 その顔は原型を留めないほどに潰され、周囲には血溜まりが広がっている。
 握りしめた拳をそぅっと開くと、その手もべっとりと血に塗れていた。
『しんだ…、リューイ・ホルトは死んだ。そう…アタシが、殺した』
 無機的な声で呟く。
 再びエイクサムの方を向いて立ち上がろうとしたが、胸を貫いた剣の痛みに顔を歪めた。
 服は、自分の血とリューイの返り血とで、真っ赤に染まっている。
 少しでも身体を動かすと傷が広がり、鮮血が流れ出す。
 奈子は、それでも立ち上がった。
 やや上目使いに、じっとエイクサムを見据える。
『リューイ・ホルトは死んだ…。そう、アタシが殺した。次は…あんたの番だ』
『ナコ…、あなたにはわからないでしょうが、この世界は、力を必要としているのですよ。滅びつつあるこの世界を救うための、大きな力が…』
 エイクサムは、不思議な表情を見せていた。
 悲しみ? それとも憐れみ?
 少なくとも、いまの奈子には理解出来ない表情だった。
 奈子は、ゆっくりと歩き出した。エイクサムに向かって。
 脚に力が入らない。一瞬でも気を抜けば、倒れてそのまま立ち上がれないように思えた。
 慎重に、一歩一歩、ゆっくりと足を運ぶ。
『遠い昔…王国時代には、力があった。その力が、世界を支えていた。戦乱の中でその力が失われて以来、人間は、ゆっくりと滅びの道を歩みつつあるのです。人が住める土地は年々狭くなり、生まれる子供も減っている。ランドゥであろうと、ファレイアであろうと、世界に再び活力を与えるための力が必要なのです』
 真剣な表情で訴えるエイクサムを、ハイディスは、何故か怒ったような顔で見つめていた。
『ナコ、わかってください。ファーリッジ・ルゥは、王国時代の伝統に縛られ、ランドゥの力を認めようとはしない。他に方法はなかったんです。ナコ…』
 奈子は、何も応えない。ただ、少しずつエイクサムとの距離を縮めていくだけだ。
 彼女が歩いた後には、一筋の血の帯が残り、そして、一歩ごとに歩みは遅くなる。
『この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない。ファレイアとか、ランドゥとか、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ。ファージはアタシの友達だった。それだけだ…』
 抑揚のない声で、そう呟いた。
『ナコ…』
『いい加減にしろ、エイクサム!』
 突然、ハイディスが大声を上げて剣を抜いた。
『今更、何故この娘を殺すことをためらう? 前にも言った筈だ、生かしておけば、後で厄介なことになると。そして、リューイは殺された。今更なにを躊躇う? まさかお前…、この娘を…?』
『まさか』
 微かに苦笑したエイクサムだが、すぐに真剣な表情に戻る。
 少し考えて、
『…いや、そうかも知れませんね。最初に会った時から、私はあの瞳に魅せられていた。でも、その結果リューイが死んだのなら、私はけじめをつけなければなりません。ナコ…』
 エイクサムはもう一度奈子に語りかけた。
『これが最後です。考え直す気は、ありませんか? 理解し合うことは、出来ませんか?』
 奈子は黙っている。
 しかしその目が、言葉よりもはっきりとエイクサムの問いに答えていた。
『…では、お別れです』
 奈子の周囲に、三十個以上の青白い光を放つ光球が現れる。
 竜を倒すための、竜騎士の魔法。
 ファージが得意としていた魔法。
『ランドゥの、力…』
 奈子は他人事のようにつぶやく。
 先刻のリューイの魔法とは桁が違う、強大な力を感じていた。
 不思議と、何の感情も湧かなかった。
 エイクサムに対する憎しみも、死に対する恐怖も。
 リューイの死を認識した時、すべてが燃え尽きてしまったかのようだった。
 奈子を取り囲んだ光球から、一斉に光線が放たれる。
 自分に迫ってくるその光を、じっと見つめていた。
 時間が、とてもゆっくりと流れているように感じる。
 やがて、光は奈子に集中し、視界が真っ白になる。
 一瞬、激しい衝撃と痛みを感じ、その後は、なにもわからなくなった。



 それが、その男と会った最後だった。
 エイクサム・ハル・カイアン。強い力を持った魔術師で、かつてファージを殺し、王国時代の力を現代に甦らせようとしていた。
 奈子はファージの敵を討つために彼を追い、そして、仲間であるリューイ・ホルトを殺した。
 その後のことは、ファージやソレアから聞いていたに過ぎない。
 生きていることは知っていたが、まさか、こんなところで再会するとは夢にも思わなかった。
 一年前、エイクサムはファージを殺そうとしていた。
 そして今またファージが殺されたとき、この男と再会する。
 これはただの偶然なのだろうか。それとも、エイクサムもこの事件となにか関わりがあるのだろうか。
 気を許すことはできなかったが、きちんと話をする必要がありそうだった。
 敵意は感じられない。奈子はとりあえず、おとなしくエイクサムについていくことにした。
 エイクサムの家は、街の中心部から少し離れた閑静な住宅街の一角にあった。
 それほど大きくはないが、しっかりとした造りの、感じのいい建物だった。
 入口で奈子は一瞬躊躇したが、それでも、エイクサムに促されるまま中に入る。応接間に通され、いい香りのするお茶が出された。
「どうぞ、毒など入っていませんよ」
 笑いながら言う。奈子も別に心配はしていなかった。そんなことをするタイプとは思えない。
「今回も、あんたの仕業なの?」
 お茶を一口飲むと、奈子は単刀直入に聞いた。ややこしい駆け引きは彼女の得意とするところではない。
「いったいなんの話ですか?」
 穏やかな口調でエイクサムは訊き返した。その表情は、とぼけているようには見えない。
「そもそも、なぜあなたがこの街にいるのですか、ナコ?」
 そう言って、まっすぐに奈子の顔を見る。探るような目をして。
 奈子は黙っていた。どう言っていいのかわからない。
 まだ、この男が敵なのか味方なのか、それすらもわからない。下手なことは言えなかった。
「あんたは、ここでなにをしているの? やっぱり、教会の人間なの?」
 真っ先に確認すべきことはそれだった。たとえエイクサムが今回の事件に無関係だとしても、教会の関係者であれば今の奈子にとっては敵になる。
「いいえ。私は教会とは無関係、ただの個人営業の魔術師ですよ」
 エイクサムは笑って答えた。
「そんな質問をするということは、あなたは教会と敵対しているわけですか? 先刻は教会の人間に尾行されていましたね」
「それは…」
「ナコ・マツミヤ…いや、いまはナコ・ウェルでしたっけ」
 そう言われて、奈子は驚いて顔を上げた。
「知ってるの?」
 エイクサムと知り合った頃の奈子は、まだ「ウェル」の名を持っていない。ハルティからこの名を与えられたのは、あの事件が終わった後だ。
「今度会ったら殺す…と、ファーリッジ・ルゥに言われてましたからね、遠く離れたこの街で、静かに暮らしていたわけです。だけど、目も耳も塞いでしまったわけではない。その気になれば、情報を得ることはいくらでもできます」
 確かにその通りだ。
 マイカラス王国のことを少し調べれば、ナコ・ウェルの名はすぐにわかる。クーデターの際にハルティとアイミィの命を救い、最年少の騎士となった奈子は、マイカラスでは有名人だ。
「今のあなたは、一年前と同じ目をしていますね。憎悪に満ちた、獣の瞳…」
 びくっと奈子の身体が強張る。
「なにがあったのか、話してはもらえませんか?」
 エイクサムはあくまでも静かに言う。
 その顔をまっすぐに見つめた。
 やはり、敵意は感じられない。むしろ、奈子を慈しむような表情に見えた。
 どうしてそんな気になったのだろう。それはわからないが、奈子は話しはじめた。
 今回の件だけではなく、この一年間にあったことも交えて。
 なぜか、エイクサムが敵とは思えなかった。
 いや、それを言えば一年前だって、彼に悪意はなかったのだ。
 彼なりにこの大陸の行く末を憂い、その結果、最良と思われる行動を選択したに過ぎない。
 ただその価値観が、ファージとは相容れなかったというだけだ。
 だから、今のエイクサムは敵ではない。
 そう考えて、奈子は話したのだ。
 さすがに、驚いていた様子だった。
「…無銘の剣が千年ぶりに見つかったという噂は聞いていましたが、まさかあなたが…」
 エイクサムは今でもかなりの事情通ではあったが、それでも奈子の身に起こったことをすべて知っているわけではない。
 レイナの墓所のこと。
 聖跡のこと。
 マイカラスとサラートの戦のこと。
 そして、今回の事件のこと。
 話し終えた頃、お茶はすっかり冷めていた。
 エイクサムは席を立って、新しいお茶を淹れてくれる。
「よく、これだけのことを話してくれました。では、私も少しお返しをしましょう」
 今度は、エイクサムが話を始める。
 ファージに敗れてからこの街に落ち着くまでのことを簡単に話すと、話題はトカイ・ラーナ教会のことに移った。
 エイクサム自身は教会に属しているわけではないが、それでも、ときには仕事を依頼されることもある。それだけの力と深い知識を持った魔術師なのだ。
 だから、教会内部の事情にも通じていた。
「アルワライェ・ヌィ・クロミネルは、たしかに教会の人間です。教会の裏側の…ね。出身とか、詳しいことは不明ですが、かなり重要な地位にいて、おそらくは大陸でも有数の力の持ち主。そして…」
 そこでエイクサムは言葉を切り、奈子の顔を見た。
「アィアリス・ヌィ…それが、ファーリッジ・ルゥを殺した女の名です。名前でわかると思いますが、アルワライェ・ヌィの双子の姉です。アルワライェ以上に表に出ない人物なので、私も直接会ったことはありません」
「アィアリス・ヌィ・クロミネル…」
 奈子は、その名を心に刻み込む。
 決して忘れてはならない名。その名を持った存在をこの世から抹殺するまでは。
 エイクサムは少しの間、剣呑な目をした奈子を見ていたが、やがてまた口を開く。
「アィアリス・ヌィは…、アール・ファーラーナです」
「え…えぇっ?」
 奈子は思わず大声を上げた。
 アール・ファーラーナ――戦いと勝利の女神。古い神話に出てくる、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘。時として人間の娘の姿でこの世に現れ、世界を救うと信じられていた。
 それ故にトリニアの時代、エモン・レーナやユウナ・ヴィ・ラーナといった優れた力を持った女騎士は、アール・ファーラーナの化身と呼ばれていたのだ。
 もちろんそれは、伝説の中の存在でしかない。
 だが…
「本物…なの?」
「そうですよ」
 エイクサムは笑ってうなずく。
「ただし、教会にとっては…ですけどね」
「どういう…こと?」
「力の象徴が必要なんですよ。人心をひとつにまとめるために」
 エイクサムの説明はこうだ。
 トリニア王国において、アール・ファーラーナと呼ばれた騎士たちは、いずれも常勝不敗と讃えられた名将ばかりであった。
 アール・ファーラーナは、戦いと「勝利」の女神なのである。
 自軍を率いるのがアール・ファーラーナとなれば、兵たちの士気は大いに上がるであろう。
 士気の優劣は、戦の勝敗を左右する重要な要素だ。
 近年、大国間の緊張は高まりつつある。トカイ・ラーナ教会は近い将来、アルトゥル王国やハレイトン王国といった強国と衝突することになるはずだ。
 そのとき、教会の軍勢を率いるのがアール・ファーラーナであったとしたら…。
 味方の士気は大いに上がり、逆に敵兵は怖じ気づくであろう。
 ただ一人の女性の存在が、戦の行方を決めることになるかもしれなかった。
「でも…、それならどうして、アィアリスの存在を表沙汰にしないの?」
 アィアリス・ヌィはほとんど表に出ない存在だという。教会としては、むしろ積極的に宣伝するべきではないか?
 奈子は疑問をそのまま口にする。
「まだ、その時ではないから…ですよ」
 エイクサムは軽く笑った。
 トカイ・ラーナ教会、ハレイトン王国、アルトゥル王国といった大勢力の軍勢がぶつかれば、血で血を洗う激しい戦いになることは目に見えている。
 その最中、突如として現れた美貌の騎士が、圧倒的な力で敵を蹴散らし、トカイ・ラーナ教会を勝利へと導く。
 そうして初めて、アール・ファーラーナの存在を現実のものとして、大陸中に認めさせることができる…そんなシナリオだという。
 確かに、ただ口先だけでアール・ファーラーナを名乗ったところで、味方はともかく敵が本気にするはずもない。それなりの説得力が必要だった。
「でも、それって…」
「…そう。たとえ偽物だとしても、相当な力を持っていなければこんな計画は立てられません。大陸中の人間が、アール・ファーラーナだと認めるだけの力がなければ…ね」
「それだけの力を…持っているというの? あの二人は…」
「おそらくは。私も、彼らが本気を出したところなんて見たことありません。しかし教会内部では、王国時代の竜騎士にも匹敵する…と考えているようです」
「まさか…」
 奈子の声はかすかに震えていた。これから、その二人と戦わなければならないのだ。
 竜騎士の力がどれほど圧倒的なものであるか、よく知っていた。
 エモン・レーナの墓所、聖跡で見せられた過去の戦争の光景。何千、何万という兵をただ一騎で蹂躙する竜騎士。
 奈子自身、最強の竜騎士と謳われたクレイン・ファ・トームと刃を交えたこともある。奈子がどれほど本気を出したところで、クレインは遊び半分であしらうことができるのだ。
「ナコ。あなたは…アィアリス・ヌィと戦うつもりですね?」
 奈子はうなずいた。いまさら隠す必要もない。
「アルワライェは大陸中を飛び回っていますが、アィアリスは普段アルンシルの最奥部にいると思われます。外部の人間が入り込むことはまず不可能でしょう」
「あなたはなぜ、そんなことを話してくれるの? どうしてアタシに協力的なの? アタシのこと、恨んではいないの? アタシがリューイを…殺したんだよ」
 奈子は訊く。
 それとも、これも罠なのだろうか。しかしそうは思えなかった。
 エイクサムは、優しさと知性の感じられる笑みを浮かべている。別に、美形だから信用するわけではないが。
「…少し長い話になります。軽く食べるものでも用意しましょう」
 エイクサムは立ち上がると、奈子を食堂へ招く。新しいお茶を入れ、テーブルにミートパイとシチューの皿を手際よく並べた。
 まさか自分で作ったのだろうかと思ったが、聞けば通いのメイドがいるという。
 二人は席について、食事を始めた。エイクサムが話を再開する。
「…自分で言うのもなんですが、私は子供の頃から勉強が好きでしてね」
 特に魔法に関して。
 魔法への関心は、やがて必然的に大陸の歴史への関心につながる。多くのことを学んだが、学べば学ぶほど、新たな疑問も湧いてくる。
「…やがて、未来のことに思いをはせるようになりました」
 人間は、大陸は、そしてこの星はこの先どうなるのか。
 千年前の戦争の傷はまだ癒えていない。戦争で焼き尽くされた荒野はいまも生き物を寄せつけず、残された土地をめぐって国々は争いを繰り返し、人はゆっくりと、滅びの道を歩みつつある、と。
「力が必要だと思った。王国時代の強大な力を手にいれ、トリニアやストレインに匹敵する大帝国を築き上げれば…。戦をなくし、秩序を取り戻せば…とね。破壊の力は、また再生の力にもなる。荒野をよみがえらせることも可能だ、と」
 エイクサムは苦笑を浮かべる。
「まあ、その結果があれなわけです」
 奈子もつられて口元をほころばせた。
「少し考えを変えました。近年、どこの国も王国時代の知識の発掘に躍起になっています。その結果、たしかに魔法技術は向上しています。そのために…最近の戦争は、より激しいものとなりつつあります」
 千年前の竜騎士には及ばないにしても、近年、それに近い力を持った騎士たちが出現している。アルワライェ・ヌィがいい例だ。
 トカイ・ラーナ教会に限らず、ハレイトンにしてもアルトゥルにしても、国内最高の騎士や魔術師の力は、数十年前では考えられないレベルにまで達しているという。
「結局、力は力を呼ぶんです。その対立には終わりというものがない。そのうちに私は、力を得ることよりももっと興味を引かれることが出てきました」
 王国時代の歴史と、そして墓守のこと。
「完膚無きまでに負けて、それで興味が湧いた。ファーリッジ・ルゥとは、いったい何者なのだろう、とね。たとえば…ナコ、あなたは、魔剣オサパネクシを持っていましたね?」
 奈子はうなずいて、「今はもうないけど…」と付け足した。
 それは、最初にこの世界へ来たときに、ファージにもらった炎の魔剣。王国時代より後の作としては、最高の剣といわれた業物だ。
 しかし十ヶ月くらい前、レイナ・ディの墓所でアルワライェと闘ったときに折られてしまっている。
「あの剣は、長い間行方がわからなくなっていました。調べてみたところ、信頼できる記録に残っている最後の所有者は…ある地方貴族の息子で、パートリッジ・ルゥ・コーチマンという若い騎士。一見女性のような、美しい姿をした人物だったそうです。いまから百年以上も前の話ですが」
「はあ…」
 奈子は曖昧にうなずいた。
「その人物は、若くして命を落としています。なんらかの争いに巻き込まれたようで。その後、剣の行方はわからなくなっています。彼の恋人が持っていったと言われてもいますが…」
 どくん!
 急に、心臓が大きく脈打った。
 続きを聞くのが怖くなってきた。なにか、ひどくいやな予感がする。
「その恋人というのは、十五〜六歳の美しい少女だったそうです。鮮やかな金髪の持ち主で…ね。彼女をかばって、敵の刃の前に身を投げ出したとか」
 言いようのない衝撃が、奈子の身体を貫いた。一瞬、背筋が凍るような寒気を覚えた。
 これだけならば、昔話にはありがちな美談でしかない。しかし、奈子は聞いたことがあった。ソレアが話してくれた、あの剣にまつわる話を。
 オサパネクシは、ファージをかばって死んだ恋人の形見だ、とソレアは言った。ただしその時は、それがいつ頃の話なのかまでは確認しなかったが。
「…名前…は?」
 震える声で、奈子は訊いた。
 多分、その答えは知っている。本当は聞きたくない、聞くのが怖い。
 だけど、聞かなければならなかった。
「その…恋人の…名前…」
「本名はわかりません。調べてわかったのは、愛称だけ。聞きたいですか? あなたは、もう答えを知っているのではありませんか?」
 奈子の手から力が抜けた。フォークが床に落ちて音をたてる。
「墓守に関する古い資料は、驚くほど少ない。無理もないことです。墓守と出会って、生き長らえたものは皆無ですから。墓守は常に噂の中にしか存在しない」
 奈子は、落としたフォークを拾おうともせず、じっと俯いていた。
 握った拳を膝の上に置いている。その拳が、じっとりと汗ばんでいた。
「数少ない情報には、共通点があります。常に女性です。それも若い女性、二十歳より上という話は聞いたことがありません。そして、鮮やかな美しい金髪。あとひとつ特徴的なのは…」
 もう、聞くまでもなかった。
 以前から、薄々感じていたことではあった。
 しかし、それを認めるのには抵抗があった。
「金色の瞳…です。きわめて珍しい…というか、普通、そんな瞳を持った人間はいません」
 エイクサムは最後に、ただひとりを除いて…と付け加えた。
 それが意味することは、あまりにも途方のない話だった。
「だって…だって…」
 頭が混乱して、なにを言えばいいのか分からない。
「墓守の一族…、よく、そんな話を聞きます。遺跡を封印する使命を代々受け継ぐ、王国時代の竜騎士の末裔…」
 それはおとぎ話ではあるが、大陸中で広く信じられている話だった。
 墓守と呼ばれる者が存在することは、まず疑いようもない。しかし…
「だけど、それは代々受け継がれるようなものではなかったんです。墓守は初めから…」
「…一人しかいなかった?」
 絞り出すように、それだけ言うのが精一杯だった。他に、なにも言えなかった。
 あまりにも途方もない話だったが、しかしなぜか、それが真実であると感じていた。
「ファージは…ファージは…千年も前の人間なの…?」
 そんなことがあり得るのだろうか。ファージが、トリニアの時代の竜騎士だったなどと。
 竜騎士がどれほど常人離れした力を持っていたとはいえ、決して不老不死ではあり得ない。奈子が知る限り、その寿命は一般人とそれほど差はないはずなのだ。
「確証はありません。しかしいくつかの状況証拠は、そのことを示しています。ただ、王国時代の資料をいくら調べても、彼女に該当する竜騎士は存在しません。はじめから裏の世界の存在だったのか。それとも、歴史からその存在を抹殺されたのか…」
 エイクサムはそこで言葉を切った。
「墓守について私が知っていることはこれだけです」
 そう言って席を立つ。
 奈子ももう食事どころではなかった。エイクサムの後について、居間に移動する。
 外はもう薄暗くなっていた。エイクサムが魔法の明かりを灯す。
 奈子は黙っていた。頭が混乱している。
 考えなければならないことが、多すぎた。
「少し、違う話をしましょうか」
 エイクサムがわざと軽い調子で話題を変える。
「…あなたのことです」
「あ、アタシ?」
 ギクッ
 奈子の身体がかすかに緊張する。
「ナコ。あなたは、いったい何者ですか?」
 なんの駆け引きも前振りもなく、ストレートに訊いてきた。
 そして、奈子の回答を待たずに言葉を続ける。
「不思議な人だ。出身も、これまでの経歴も一切が不明。ソレア・サハの屋敷やマイカラスの王宮にいないときは、どこに暮らしているのかもわからない…」
 奇妙な格闘術を使う。
 一流の騎士にも匹敵する戦闘能力を持つ。
 きわめて強い魔力を持ちながら、魔法の技術は子供にも劣るほど未熟。
 知能は十分に高いのに、特に歴史や地理に関してはひどく無知だ。
 エイクサムは、奈子の奇妙な点をひとつひとつ数え上げていく。
「…そして、弱冠十六歳の少女でしかないあなたが、レイナ・ディの剣を受け継いだ」
「…ずいぶん、調べたんですね」
 奈子に言えたのは、それだけだった。それだけ言うのにも、声が震えないように精一杯の努力をする必要があった。
 この男はいったいどこまで知っているのだろう。
「王国時代の歴史を調べるのと同じくらい、興味深い存在です」
 エイクサムは笑って応える。
「最初に会ったときから、気になっていました。あなたには、人を惹きつける不思議な魅力がある。そういえば、マイカラス国王にも気に入られてるみたいですね」
 その不意打ちに、奈子の頬がわずかに赤くなった。それを隠すかのように俯く。
 エイクサムは小さく笑みを浮かべただけで、ハルティのことにはそれ以上触れず、話を続けた。
「私は、あなたによく似た女性を知っています。といっても、千五百年くらい昔の、歴史上の人物ですけど」
 そこで一呼吸の間をおくと、テーブルの上に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。
「彼女は美しい姿をしていて、不思議な力を持っていた。なぜか地理のこと、歴史のこと、そして一般常識について、ひどく無知な部分があった。出身も経歴も一切が不明。大陸では聞かない、奇妙な名を持っていた。
 彼女はある辺境の小国の王子と出会い、やがて結ばれた。その国は急速に勢力を伸ばし、まもなく大陸最大の帝国となった…」
 エイクサムは淡々と言葉を連ねる。「歴史上の人物」といったが、まるで自分で見てきたかのような口振りだ。
 奈子は、ひどく緊張していた。どこかで聞いたことのある話のような気がする。しかしそれがどこだったかは思い出せない。
 まっすぐに奈子の目を見ていたエイクサムは、ただ一言、その人物の名を告げた。
「エモン・レーナ」と。
 奈子の腕に、ざわっと鳥肌が立った。
「トリニアの王、エストーラ・ファ・ティルザーの妻。最初の竜騎士。大陸の歴史において、最大の謎を秘めた人物。古い神話に出てくる、戦いと勝利の女神アール・ファーラーナの化身と信じられていた。…どうです?」
「どうって…なにが…」
 よくない予感がする。しかし、エイクサムがなにを言いたいのか、まだ理解できていなかった。
「偶然と呼ぶには、不自然なほどの共通点がありませんか?」
「な、いきなりなにを言い出すのっ?」
 奈子は叫んだ。
 あまりにも非常識な話だ。話が飛躍しすぎている。
「アタシとエモン・レーナが? それこそ、ただの偶然だよ! アタシ、そんな大それたものじゃない。ただの…」
「ただの、十六歳の女の子…ですか?」
 エイクサムはさも愉快そうに笑った。言うべき台詞を先に言われてしまった奈子は、黙ってうなずくしかない。
「君はいったい何者だ。…竜を従えて現れたエモン・レーナに向かって、エストーラが最初に言った台詞です。なんて答えたか、知っていますか?」
 知っていた。奈子も本で読んだことがある。
 トリニア建国の時代を書いた歴史書には、必ずのように書かれているエピソードだ。
 奈子は、ゆっくりとうなずいた。
「見ての通り、十六歳の女の子です。――そう言ったそうですね」
 からかうようなエイクサムの口調に、奈子の顔がかっと赤くなる。
「じゃあなに? アタシが女神の化身で、エモン・レーナの再来だとでもいうの? 戦乱の世を治めて、ハルティ様に天下を取らせるとでも? 冗談にもほどがあるよ…」
 台詞が終わらないうちに、奈子は笑い出していた。もう笑うしかない。
 なにを言い出すのかと思ったら、まったくとんでもない話だ。想像力が豊かすぎるとしか言いようがない。
 しかし、エイクサムは本気だった。
「別に、女神の化身ではなかったかもしれませんよ」
「え?」
「ただ、ちょっと強い力を持っただけの女の子が、その力故に大陸の歴史に巻き込まれた――とは考えられませんか?」
 エイクサムは静かに微笑んでいる。自分の説にずいぶんと自信があるらしい。
 奈子は困ってしまう。なにしろ、この世界に来るまでは本当に、ちょっと空手が強いだけのただの女の子だったのだ。そもそもこの世界に来たのだって、きっかけは偶然でしかない。エイクサムの考えは、まったく見当はずれとしか思えなかった。
「まあ、エモン・レーナが『ただの女の子』でないのは確かでしょうけどね。少なくとも、この大陸で普通に生まれ育った者でないことは間違いありません。ところでナコ…」
 エイクサムは笑みを浮かべていた。からかうような…というよりも、悪戯を企んでいる子供の表情に近い。
「最後に会ったとき、あなたは面白いことを言いましたね。憶えていますか?」
「え?」
 なんの話だろう。心当たりはない。
 しかし、エイクサムはまだ切り札を隠し持っていたのだ。
「この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない。ファレイアとか、ランドゥとか、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ――と」
 奈子の表情が固まった。一瞬、全身の血が凍りついたように感じた。
 なんという失言。すっかり忘れていた。そんなことを口にしていたのか。
 まあ、あのときは精神状態が普通ではなかったから、うっかり口を滑らしていたとしても不思議はない。
 奈子の顔から血の気が引いた。
「…あ、あの…」
「その言葉がなにを意味しているのか…。実に面白い話だとは思いませんか?」
 奈子にとっては面白いどころではない。うまい言い訳はないかと考えても、何も思いつかない。
 まさか、こんなところで秘密を知られてしまうなんて。
 しかし意外なことに、エイクサムはそのことについてそれ以上追求しなかった。
 ただ、意味ありげな笑みを浮かべただけだ。
「まあ、それはいいとして…」
 ティーカップの底にわずかに残ったお茶を喉に流し込むと、「ところで…」と話題を変える。
「あなたはこれから、ファーリッジ・ルゥの敵を討つため、アルンシルに潜入しようとしている…そうですね?」
「え…、ええ」
 急に話題が変わったので戸惑ったが、奈子の正体についてこれ以上あれこれと詮索されるよりはいい。
 奈子は、小さくうなずいた。彼女の目的なんて、エイクサムは最初から分かっていたはずだ。いまさら隠すまでもない。
「…それ、少し延期する気はありませんか?」
「なぜっ?」
 思わず大声を上げる。
 ここまで来て、なにを言い出すのだろう。エイクサムの真意が分からない。
 もちろん奈子は、その言葉に従う気などこれっぽちもなかった。
 しかし
「先にやるべき事があると思います」
 そう、エイクサムが言った。
「やるべきこと?」
「聖跡へお行きなさい」
「聖跡…?」
 それは、エモン・レーナの墓所。最強の竜騎士クレイン・ファ・トームの亡霊に護られた、禁忌の地。
 そこから生きて帰った者はいないといわれる…ただし、それが事実ではないことを、奈子は知っていた。
「これは推測に過ぎませんが、ファーリッジ・ルゥと聖跡には、深い関わりがあるように思えます。それを見極めてからの方が、いいと思います。あそこの番人に、起こったことを知らせるべきでしょう」
「でも…」
 簡単には承服できなかった。
 せっかくここまで来たのに。敵は、すぐ目の前にいるというのに。
「ここまで来たんだから、アルワライェとアィアリスを殺すのが先」
「でも、復讐を果たしたら、あなたは死ぬつもりでしょう」
「――っ!」
 その言葉に、はっとエイクサムを見る。
 見抜かれていたのか。そこまでは話していなかったのに。
 そう。エイクサムの言うとおりだった。
 実際、何度も自ら命を絶ちそうになりながら、「仇の息の根を止めるまでは…」との思いでここまで来たのだ。
「死ぬのはいつでもできます。生きてる間に、できる限りのことをするべきでしょう」
 奈子は、無言で俯いた。
「個人的な希望として、あなたには少しでも長生きしてもらいたい。聖跡へ行ってみて、それから、その後のことを決めて下さい」
 エイクサムは窓の外を見た。
「聖跡のあたりはまだ明るいでしょう」
 聖跡は、このトゥラシの街よりもずっと西にある。
「私が、送っていきます」
「あ、でも…」
 奈子はまだためらっていた。しかしエイクサムは勝手に話を進める。
「行くなら、早い方がいい」
 その手に、オルディカの樹でできた魔術師の杖が現れる。杖を小さく振ると、奈子の周囲を、複雑な紋様の光の輪が取り巻いた。
 転移魔法の魔法陣だ。エイクサム自身は魔法陣の外にいる。
「あなたは?」
「私が行っても、聖跡には入れません」
 そうだった。
 聖跡は、恐ろしい力を持った番人――大陸最強の竜騎士と呼ばれたクレインの亡霊によって護られているのだ。
 正確にいえば、中に入ることは誰にでもできる。ただし、生きて帰ってきた者はない。
 もちろん何事にも例外はある。なんの気まぐれか、クレインが見逃した者もわずかながら存在した。例えば奈子やフェイリア・ルゥのように。
 とはいえ、エイクサムにその幸運を期待するのは無謀だろう。彼の判断は正しいといえる。
「あ、ちょっと待って」
 奈子はあわてて言った。既に呪文の詠唱がはじまっている。
「人と会う約束があるの。『青い鴉亭』って酒場を知ってる?」
 エイクサムがうなずく。
「そこで、エイシス・コットっていう傭兵と…。伝言を頼める?」
「ええ、わかりました。心配せずに、行ってらっしゃい」
 その言葉と同時に、奈子の身体は完全に光に包まれた。一瞬、目も眩むばかりに輝きを増すと、次の瞬間にはすぅっと消えていく。
 その時には、奈子の姿もその場から消えていた。



 玄関の扉が乱暴に開かれたのは、その直後だった。
 どかどかと大きな音をたてて、数人の兵士が駆け込んでくる。
「なんですか、挨拶もなしに」
 エイクサムは冷静に言った。
 兵士たちのリーダーと思しき男が、前に出る。
「ここに、ナコ・ウェルという娘がいるだろう?」
「誰ですか、それは」
 白々しくとぼけてみせる。
「誤魔化しても無駄だ。見ていた者がいる」
「私が連れてきたのは、古い友人の妹です。ナコなどという人は知りませんね」
 エイクサムのからかうような口調に、兵士が眉を吊り上げる。
 この男たち、街の治安兵の制服を着ているが、中身は別物だろうとエイクサムは考えた。
 そうでなければ、奈子のことを知るはずがない。
「第一、もう帰りましたよ」
「貴様、逃がしたな!」
「人聞きの悪い。遅くなったから、家まで送ってあげただけです」
「よくもぬけぬけと…」
 男がエイクサムの襟首をつかもうとすると、
「…やめなよ」
 背後から、若い男の声がした。
 兵士たちより少し遅れて入ってきたその男は、エイクサムの前に立つ。
 赤い髪と子供っぽい表情が特徴の、二十歳くらいの若者。
 アルワライェ・ヌィ・クロミネル。
 エイクサムの表情がわずかに緊張する。
「もう帰ったんだって? 家に?」
 親しげに聞いてくる。エイクサムはうなずいた。
「ええ」
「残念だな。会いたかったから、急いで来たのに」
「それは残念でしたね」
「…で、どこに帰ったんだって?」
「それはもちろん…タルコプの街でしょう?」
 アルワライェは、少しの間無言で、エイクサムの顔を見る。
 お互いに笑みすら浮かべているが、ふたりの間には緊張した空気がただよっていた。
「…帰るぞ」
 やがてアルワライェは小さく肩をすくめると、兵士たちに向かって言った。
「は…しかし、この男はこのままにしておいてもいいのですか?」
 兵たちが問う。
「こいつを連行したって無駄さ。少なくとも今日のところはね」
 アルワライェは、忌々しげに言ってエイクサムを見た。
「喰えないヤローだね、あんた」
「褒め言葉と思っておきますよ」
 出ていく兵士たちを見送りながら、エイクサムは静かに笑った。



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