青竜の騎士――それは、トリニア王国における最高位の称号だ。
竜を駆ることを許された、本当の意味での竜騎士。
その数は現在、トリニア及びその同盟国を合わせても三十名に満たない。トリニア王国連合の青竜の騎士の定数は三十二だから、ここ数年は常に定数割れの状態が続いていることになる。
しかし今は平時であり、それが問題になることもない。それだけの力を持たない者を、竜騎士として認めるわけにはいかないのだから。
青竜の騎士になるには、家柄も身分も関係なく、必要なのはただ己の力のみ。とはいえ、竜騎士の血をまったく受け継がない者にその力が発現することはあり得ないため、必然的に、代々の竜騎士の家系から輩出されることが多かった。
青竜の騎士を選ぶための試験は、毎年行われる。それに挑戦するのは、有力貴族の子弟や、士官学校の生徒たちがほとんどだ。
いくつもの予備試験が行われ、候補者が絞られる。その予備試験すら、合格するのは至難の業だった。
事実、ここ五年間はひとりの合格者もいない。しかし今年は珍しく、二人の人間が最終試験まで残った。
トリニアでも有数の名家、サントワ侯爵家の長男エイシード・ファン。
今年二十二歳になる若者で、騎士と呼ぶに相応しい、よく鍛えられた体躯の持ち主だ。周囲の評価も高い。
そしてもう一人は、ずいぶん前に引退した竜騎士ヴェストフ・ツォイ・レイシャの養女、ファーリッジ・ルゥ。
まだ十六歳になったばかりの少女だ。若すぎるという声も多いが、その力は間違いなく他の竜騎士候補たちを圧倒していた。
最終試験は、この二名によって行われる。
その方法は、当人同士による一対一の決闘。
それはひどく野蛮で危険な、しかしもっとも確実な方法だった。
戦って、勝ち残ったものでなければ意味がない。竜騎士は、戦うための存在なのだ。
普段なら一万人以上の観客を収容できるこの闘技場だが、今日いるのは七名のみだった。
ファーリッジ・ルゥとエイシード・ファン。そして五名の立会人。彼らはみな、正規の竜騎士だ。
立会人たちは闘いの行方を見届けると同時に、闘技場全体を結界で覆い、外部に被害が及ばないようにする役目もある。
竜騎士並みの力を持つ二人がまともにぶつかり合えば、闘技場はおろか街にも大きな被害を及ぼしかねない。それを回避するためだ。
そしてこの結界にはまた、決闘する者たちの身を守る目的もあった。使用される武器も立会人が魔法を施したもので、よほどのことがない限り、致命傷を負うことはない。
若い二人が、闘技場の中心に立った。
立会人の代表、初老の騎士フェイドーア・サイルが二人に剣を渡す。
残りの四人は、それぞれ東西南北に別れ、最前列の席に着いていた。既に結界が闘技場を覆っている。
「トリニアの騎士として、青竜の騎士として、その名に恥じない闘いをするように」
最後にそう言って、フェイドーアも試合場から出た。
あとには、青竜の騎士の座を目指す二人だけが残される。
ファーリッジとエイシードは、剣を構えてお互いに向かい合った。
「なんだかなぁ…」
立会人五人の中で、ただ一人の女性であるイルミールナ・コット・ギガルは、他の四人を見回して嘆息した。
これが公正な試験といえるだろうか。明らかに意図的なものを感じる人選だった。
偏りがある。
トリニアほどの大国の中では、貴族や騎士たちの間に派閥が生まれるのも必然であり、それぞれの派閥は自分たちの勢力を伸ばそうとするのも当然だ。
そして今回の立会人は、五名のうち三名までがサントワ家寄りの人間だった。フェイドーアは遠縁の親戚である。
もう一人は、表向きはどの派閥にも属してはいないが、どちらかというと長い物には巻かれろというタイプの人間で、実際のところはサントワ派といってもいい。
これはもう、誰かが裏で手を回したのは間違いない。
青竜の騎士を輩出することは、その一族にとって大変な名誉であり、国内での発言力も増す。久しぶりの竜騎士を、自分の派閥から出したいと思うのは当然であろう。
立会人の中では唯一、イルミールナだけがサントワ家とはなんの関わりもないが、それは彼らが精一杯公正なふりをした結果だ。
いくらなんでも、五人全員をサントワ派で固めてしまっては、モリト家やラーナ家、ダーシア家といった他の有力貴族が黙ってはいまい。サントワ派ではない騎士の中で、もっとも邪魔にならない人間を選んだということだろう。
イルミールナはまだ若い上に、ギガル家は古くからの騎士の家系ではない。故に、国の中枢での発言力などほとんどないに等しかった。
彼女の父親は、刀鍛冶だ。
腕はいい。竜騎士のための優れた魔剣を数多く手がけている。
その功績が認められたことと、娘のイルミールナが竜騎士となったことで、爵位を与えられたのだ。
そして、ファーリッジ・ルゥのレイシャ家は…。
当主のヴェストフ・ツォイは高齢のために既に引退しているが、一応は竜騎士の家系だ。
しかしファーリッジ・ルゥは養女であり、レイシャ家の血は受け継いでいない。彼女は、ヴェストフ・ツォイの古い友人で、病気で死んだ魔術師の娘という話だった。
若い頃はトリニアの宮廷魔術師だったそうだが、サントワ派に与しなかったために、地位を追われることになったらしい。そんな政争があった当時、イルミールナはまだ小さな子供で、そのあたりの事情など詳しくは知らない。
いずれにせよ、サントワ家にとってはファーリッジ・ルゥが竜騎士になることはなんとしても阻止したいところだろう。たとえエイシードの件がなかったとしても、だ。
中立ならまだしも、自分たちの政敵となる竜騎士を増やすわけにはいくまい。
そんな事情で選ばれた、今回の立会人たちだった。
イルミールナは小さくため息をついた。
もっとも、それほど気にすることはないのかもしれない。
この闘いの決着が、判定でつくことなどまずあり得ない。周囲の立会人たちの思惑がどうであれ、結局は当人同士の力で勝負はつくのだから。
だから、モリト家やラーナ家も、表立って異論を唱えはしなかったのだろう。
イルミールナは、試合場の二人に目を移した。今まさに、闘いが始まろうとしているところだ。
エイシード・ファンとファーリッジ・ルゥ。二人がどの程度の力を持っているか、おおよそのところは知っていた。
公平に見れば、力はファーリッジの方がやや上だろう。とはいえ、相手を圧倒できるほどの差ではない。どちらが勝つか、予想は難しかった。
公正であるべき立会人にはあるまじきことかもしれないが、
イルミールナは同じ女性として、そしてサントワ家に権力が集中することに反発を覚える者として、内心ファーリッジを応援していた。
そのくらいは許されてもいいだろう。他の四人はエイシードの味方なのだから。
ファーリッジは、剣を斜め下に構えた。この変則的な下段の構えは彼女の癖だ。
ふっと小さく息を吐き出すと同時に、地面を蹴って一瞬で間合いを詰める。
キィンッ!
剣と剣がぶつかり合う甲高い音が響き、二人の間に火花が散る。
最初の打ち込みが受け止められるのは計算のうち。ファーリッジは飛び退きながら、立て続けに三本の魔法の矢を放った。エイシードの防御結界がそれを跳ね返す。
さらに続けて魔法の矢を放ち、それを牽制に使って、再び死角から間合いを詰めようとする。しかしファーリッジの目の前に突然炎の壁が出現し、その進路を塞いだ。
横に飛んで炎を避けたファーリッジを、エイシードが放った火球が追う。ファーリッジは剣で炎を薙ぎ払った。
それと同時に、エイシードの周囲の地面が爆発する。閃光が試合場を包みこみ、魔法の余波で結界がビリビリと震えた。
とはいえ、正規の竜騎士四人の手による防御結界が、竜騎士予備軍の二人の力で破られることはあり得ない。だからこそ当人たちはなんの遠慮もなく、全力を出して戦えるのだ。
その結界はさらに、二人の力をいくらか抑えてもいた。そうでなければ、これだけの力を持った者同士の戦いでは、確実に死者が出てしまう。
ファーリッジ・ルゥは少しばかり戸惑っていた。小さく舌打ちする。
本来の力が出ない。
試合場を包む結界によって力を抑えられているし、手にしている剣もそのための魔法がかけられている。
そういう決まりだから仕方がないが、どうにも勝手が違うことは否めなかった。
竜騎士を選ぶための戦いとはいえ、それによって優秀な人材を失うことを恐れてのことだろう。
ばかばかしい、と思う。
結局のところこの措置は、弱い側の命を守るためのものだ。
力の劣る者が生き残ってどうするというのだ、と。
ファーリッジは、ひどく腹を立てていた。
思う通りの力が発揮できないことに対して。そして、この程度の相手をさっさと始末できずにいる自分に対して。
エイシード・ファンなど、彼女にしてみればなんということのない相手のはずだった。
なのに、試合が始まってからずっと、ファーリッジはむしろ押され気味なのだ。
納得がいかない。
(どうしてよ…!)
力を抑制されたこの場所で、エイシードはどうしてこれだけの動きができるのか。ファーリッジを襲う魔法は、むしろ普段より力を増しているようにすら思えた。
懐に飛び込んで剣を振る。エイシードは難なくそれを受け止める。
ファーリッジが知っているエイシードの動きよりも速い。
なにか…変だ。
なにかが…。
一瞬、試合の行方を見守っている、立会人の一人の顔が視界に入った。
(まさか…!)
まさか。
一瞬の驚愕。そこに、わずかな隙が生まれた。
ファーリッジの。はしばみの瞳が見開かれた。唇の端から、一筋の朱い液体が流れる。
エイシードの剣が、ファーリッジの身体を貫いていた。
「――っ!」
そんなはずはない。力を抑えられたこの剣が、ファーリッジの防御結界を破って身体を貫くなど…。
あり得ない!
ファーリッジの口から、血が溢れ出す。
「レイシャの血を引いているわけでもない、どこの馬の骨とも知れない小娘が竜騎士になろうだなんて、図々しいにも程がある」
エイシードの口元に、歪んだ笑みが浮かんでいた。
それで、すべてを悟った。
ファーリッジの手から剣が落ちる。
「そう…いうこと…」
エイシードが剣を引き抜く。血が飛び散った。
立会人の一人が、血相変えて立ち上がるのが見えた。
他の者たちは…
笑みすら浮かべている。
(…そういうことか)
薄れゆく意識で考える。
レイシャ家の養女であっても、しょせん自分は「どこの馬の骨」だったわけか…。
そうか…。
ファーリッジの中で、なにかが砕け散ったように感じた。
「ふ…ふふ…ふ…」
唇から、小さく笑いがもれる。
エイシードの顔を見上げた。突然笑い出したファーリッジを見て、怪訝な表情を浮かべている。
まっすぐにエイシードを見る。
その瞳は…
はしばみの瞳の奥が、金色の光を放っていた。
「ファーリッジ・ルゥ!」
イルミールナは立ち上がって叫んでいた。
なんということだろう。
まさか、フェイドーアたちがここまで露骨なことをするとは思っていなかった。
結界も、剣も、すべて細工されていたのだ。
後でイルミールナがそのことを訴えたとしても、当のファーリッジが死んでいては誰も不正を証明できまい。
ここまで露骨なことをするとは…
前代未聞だった。サントワ家とは対立するラーナ家もモリト家も、まさかここまでは予想していなかっただろう。
イルミールナは思わず、試合場の中に駆け込もうとした。
そのとき…
見ていた者には、一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。
ぐらりと傾いてそのまま倒れるかに見えたファーリッジが、エイシードの顔に手をかけた。
次の瞬間。
遠目には、空中に紅い花が咲いたかのように見えた。花火のような紅い飛沫が周囲に飛び散る。
頭部を失ったエイシードの身体が、ゆっくりと倒れた。
ファーリッジが顔を上げる。
少し前までと、なにかが違っていた。
胸から血を流しながら、口元に引きつった笑みを浮かべている。
そしてその瞳が、金色の光を放っていた。
金色の瞳で、そこにいる五人を順に見回す。
鮮やかな金色の輝きは、人間のものとは思えなかった。豹のような肉食獣…あるいは、そう、竜のような。
「ファーリッジ・ルゥ! 貴様…」
我に返ったフェイドーアが駆け寄る。
「いったいどういうつもりだ。エイシードを…」
言葉は、そこで途切れた。
ゆっくりと、
ひどくゆっくりと、その身体が崩れ落ちる。
ファーリッジの手に、剣が握られていた。
赤い、光の剣。
純粋な魔力の結晶が、刃の形を取ったもの。その力は、最高の魔剣にも匹敵する。
ファーリッジはなんの躊躇いもなく、その剣を倒れたフェイドーアの背中に突き立てた。
剣から手を離し、腕を上げて胸の前でボールでも持っているかのような形を作る。
両手の間に、小さな、光る点が生まれた。よく見なければ気付かない、針の先ほどの光点。
ファーリッジの口元に笑みが浮かぶ。
手の中の光は、その輝きを急速に増していた。
「…っ! やめなさい、ファーリッジ・ルゥ!」
なにをしようとしているのか。それに気付いたイルミールナが叫ぶのと同時に、光が弾ける。
次の瞬間、闘技場全体が真白い閃光に包まれていた。
街の人々ははじめ、地震かと思った。しかしすぐに、街の外れから立ち昇るキノコ雲に気付く。
そちらに気を取られていたため、通りにいきなり現れた人影に注意を払う者は少なかった。
「どういう…こと…?」
血塗れの身体で、イルミールナはつぶやいた。
バランスを崩してよろけつつも、背後を振り返る。一瞬前まで彼女がいた闘技場を。
転移は、ぎりぎりで間に合った。ひどい火傷を負ったが。
脱出できたのはおそらく彼女だけだ。エイシードもフェイドーアも既に事切れていたし、他の三人は爆発に巻き込まれたようだった。
そこには、なにもなかった。わずかな瓦礫が残っているだけ。
巨大な闘技場の建物が、跡形もなく消滅して、黒いキノコ雲がむくむくと空に昇っていた。
イルミールナは力尽きたように、その場に座り込んだ。もう、立っているのも辛い。
肉体的なダメージはもちろんだが、青竜の騎士である彼女にとっては致命傷というほどでもない。それ以上に、精神的なショックが大きかった。
見ているものが信じられない。
いったいなんだったのだろう、あの力は。
フェイドーアがファーリッジの剣に斬られたときでも、まだ闘技場を覆う結界は有効だった。結界の中で、あれだけの力を行使できるはずがない。
あそこにいたのは全員、正規の竜騎士だったというのに。その結界ごと、闘技場全体を破壊するだなんて。
並みの竜騎士を遙かに凌駕する力だった。
常軌を逸している。
あの、十六歳の少女が。
あまりにも桁外れだ。
もしかしたら、四百年以上も昔の、今では伝説として語り伝えられている竜騎士、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームにも匹敵するかも知れない。
ほんの、十六歳の少女が…。
街の中に、ざわめきが広がりつつあった。
イルミールナは、傷の痛みに顔をしかめながらも立ち上がる。
いずれにしても、このまま放っておくわけにはいかなかった。
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