夕陽は、血の色をしている――。
奈子はそう思った。
それは限りなく純粋な、深い赤。
鳥肌が立つほどに美しく、そして、恐ろしい。
大きな太陽が、間もなく西の地平線に隠れようとしている。
空は東の方から徐々に灰色の影に覆われ、気の早い星が瞬きはじめていた。
一本の草すら生えていない赤茶けた地面に、長く伸びた影が黒々と横たわっている。
奈子の位置からは、その建物は逆光になっていて、黒い塊のように見えた。なにもない荒野の中で、そこだけ石畳の舗装がなされている。
もし空から見おろすことができれば、それは直径百メートル強の正八角形をしているはずだった。その中心に、王国時代の神殿風の建物がある。
建物自体はそれほど大きなものではない。ここは、地下の広がりの方がはるかに大きいのだ。
奈子は、建物に向かってゆっくりと歩いていった。
周囲に、動くものはなにも見えない。動物も植物も、生きているものはなにもない。
風も吹いていない。完全な静寂に包まれた世界。
奈子の足音と息づかいだけが響く。
ここを訪れるのは、およそ五ヶ月ぶりだった。
以前来たときと、なにも変わっていない。内陸にある上に赤道に近いこの地では、季節の変化もほとんどない。
聖跡――いまから千五百年前の時代の竜騎士、エモン・レーナの墓所。
最初の竜騎士、闘いの女神の化身が眠る地。
普段は、近付く者もいない。
大陸の歴史上、最強と呼ばれる騎士の亡霊に護られた、禁忌の地。
それは、大陸の歴史を見守り続ける。
永遠なるもの。
千五百年前から変わらずにここにあり、そしてきっと千年後もそうなのだろう。
おそらく、ここにはすべての答えがあるのだ。
大陸の歴史、竜騎士の力の秘密、そしてランドゥやファレイアといった神々について。
しかしいまの奈子にとって、それはたいして重要なことではない。
奈子は、一人で立っていた。
影がどこまでも長く伸びている。
しばらくそこにたたずんでいたが、聖跡にはなんの変化も見られない。別に、聖跡の番人の出迎えを期待したわけでもないが。
日が沈むと、風が吹きはじめた。静かに、音もなく流れる風が奈子の頬を撫で、髪を揺らす。
「…頭…痛い」
眉間にしわを寄せてつぶやくと、奈子は頭を押さえた。
頭の奥に、鈍い痛みがあった。ここに来たときからずっと。まるで、脳の中心が痛みを訴えているような気がする。妙な話だ。人間の脳には痛覚などないというのに。
何度か、深呼吸をする。
そして思い出した。そうだ、あのときの痛みと同じだ。
この前、由維と水族館へ行ったときに感じた頭痛。あのときほど鋭い痛みではないが、同じものに違いなかった。
(なんなんだ…いったい)
脳の中に腫瘍か出血でもあるというのか。
いいや、違う。そんな物理的な痛みではない。
これはもっと…そう、心理的なものだ。
なんだろう。なにかを忘れている。
前にここに来たとき、いったいなにがあっただろうか。
聖跡の中に入る前、出てきた後のことはちゃんと憶えている。
しかし、聖跡の中のことは…。
ところどころ、ぽっかりと記憶に穴が空いていた。
忘れている。なにかを忘れている。
失われた記憶…。大切なもの。それはおそらく、聖跡の番人によって封じられたのだ。
だとしたら、それを知るために再び聖跡へ入ることを、クレインは許すだろうか。
でも、行かなければならない。
ここへ来てわかった。
エイクサムに言われたからではない。
奈子は、ここへ来なければならなかったのだ。
建物の壁に、ぽっかりと黒い穴が開いている。聖跡の地下へと続く通路が。
足を踏み入れようとした奈子は、自分がまだトゥラシで変装したときのままの姿であることに気付いて、着替えることにした。
変装のためのかつらを取り、町娘風の服も脱いだ。幸いここでは、人目を気にする必要はなかった。どうせ誰も見ている者は誰もいないのだから、着替えのためにいちいち物陰に隠れなくてもいい。
誰も見ていない…? そうだろうか。
きっと、聖跡の番人は見ているに違いない。しかし隠れても同じことだ。
大陸中どこにいても、聖跡の目が届かない場所などない。ここには、この千五百年間のすべての歴史が記憶されているのだから。
まあとりあえず、聖跡の番人が女性だというのは幸いだったかもしれない。
奈子はカードの中から、いつも着ている腰までのスリットの入った、動きやすい服を取り出した。
左手首に騎士の腕輪をはめ、腰のベルトに二振りの短剣と、五本の小さな投げナイフを差す。
最後に、一部分だけ長く伸ばした髪を、邪魔にならないように朱いリボンで結んだ。由維にもらったリボン――この世界での闘いでボロボロになっては、そのたびに新しいリボンをもらって。この一年間で、これが五代目だった。
これが奈子の普段の格好であり、そして闘いに赴くときの姿であった。
不意に、目に涙が滲んできた。
由維に会いたい――と、そう思った。
だけど…
今はそんなときではない、そう思い直す。
この件に決着をつけない限り、今の自分には由維を抱きしめる資格などないのだ。
奈子の目の前に、聖跡の地下へと続く通路が口を開けている。
扉も、もちろん鍵もない。その気になれば誰でも入れる。ただし、出てきた者は皆無だが。
入口に立って、奥を見た。中は真っ暗で、なんの気配も感じない。
「クレイン!」
奥に向かって奈子は叫んだ。石造りの通路に、声が反響する。
「知りたいことがあるの! 大切なこと! 入らせてもらうよ!」
こだまが消えると、あとには静寂だけが残る。
一応は断りを入れておいた。無意味なこととわかってはいる。こんなことで聖跡への不法侵入が許されるなら苦労はない。
聖跡は過去千五百年の間に、何百あるいは何千という侵入者の命を奪っているのだ。
財宝目当ての墓荒らしたち。好奇心旺盛な学者。そして竜騎士の力の秘密を求めた国家規模の発掘。
いったいどれほどの血が流れたことだろう。五ヶ月前にも、三百人の命がここで失われているのだ。
奈子は、通路を進んでいく。それは緩やかな下りになっていて、知らず知らずのうちに地下へ下りることになっていた。
中は真っ暗だ。以前来たときは先行者がいたため、明かりが残されていたのだが。
奈子は呪文を唱え、魔法の明かりを灯す。オレンジ色の光が、黒っぽい石の通路を照らし出した。
奈子の足音が反響する以外、なんの音もない。
頭痛は相変わらず続いているが、それほどひどいものではない。
通路は時折曲がりながら、どこまでも続いている。
奈子はあてもなく歩いていた。入り組んだ聖跡の内部の構造など、一度入ったくらいで憶えられるものでもない。そもそもあの時は、クレインが作りだした死体の山を目にして取り乱し、闇雲に走り回って迷ってしまったのだ。
そのときの光景を思い出す。
為す術もなくクレインになぶり殺しにされる、アルトゥル王国の兵士たち。
血の海となった床。
立ちこめる、錆びた鉄の臭い。
何十人もの死体が折り重なっていた。彼らだって本来はアルトゥル王国の精鋭、近隣諸国の兵が震え上がるほどの猛者揃いだったはずなのに。
それほどまでに、竜騎士の力は圧倒的なものだった。その力が失われた現在では、どれほど優れた騎士だろうと魔術師だろうと、竜騎士にかなうはずもない。
そもそもトリニアの時代においても、クレイン・ファ・トームは最強の名を恣にした竜騎士なのだ。その力は、闘いの女神の化身エモン・レーナをも凌ぐといわれるほどの。
今の時代の兵が何千人いたところで、クレインに立ち向かうことなどできるはずもない。
聖跡の中で見せられた、過去の幻影の記憶が甦る。
竜を駆るクレインとエモンの姿。
それは心奪われるほど美しかった。しかしそれは、限りなく危険な美しさだ。
竜の炎に焼かれる、何百という兵士。
竜騎士の魔法によって消滅する砦。
あまりにも惨たらしい戦いだった。
それだけの力が存在した時代の、最後の戦争…トリニア王国連合と後ストレイン帝国の戦い。それは、大陸の…いや、この星の環境すら変えてしまった。
核兵器にも等しい、人間には過ぎた力…。
不意に、思い出した。
王国時代末期の竜騎士、レイナ・ディ・デューンと交わした言葉を。
『自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな、この、魔法というやつは…。
先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が、平和だったとは思わんか?』
『…それでも、戦争はなくならないと思います。魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて…、きっと、戦い続けます』
『そうだな…しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ。
だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ、種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった。竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな…』
それは、もう一年近くも前、レイナの墓所の中で交わされた言葉。それはもしかしたら夢だったのかもしれないが、奈子は現実だったと信じている。
きっと、墓所に残されたレイナ・ディの残留思念のようなものだろう。それが、奈子に無銘の剣を譲った。もっとも、その意図は未だにわからないが。
どこまでも続く地下の回廊。
奈子は歩き続ける。
奈子以外に、生きているもの、動くものの気配はない。この前は、クレインが死体から作りだした魔物の、あまり嬉しくない出迎えを受けたのだが。今回はそれもない。
もしかしたら、黙認してくれているのかもしれない。そう思うと少し希望が湧いた。
出来ることなら、あの無敵の竜騎士とは二度と闘いたくはない。聖跡の番人も、その下僕の魔物も姿を現さないのは、救いだった。
そんなことを考えながら、どのくらい歩いただろう。もう時間の感覚もなくなる頃、奈子は見覚えのある場所に出た。
周囲はこれまでと同じ、黒い石造りの通路。そして正面には、金属製の重々しい扉があり、その上にひとつ、魔法の灯りが周囲を照らしている。
背後を振り返ると、真っ黒な通路がどこまでも続いていた。
そう、確かに以前、ここに来たことがある。
封印された記憶が、少しずつ甦ってくる。
あの時、この扉を開けて中に入った。
そして…
そして…
先刻から続いている頭痛が、ひどくなったように感じだ。それはつまり、
(ここが、ゴールか…)
ここに、答えがある。
奈子は扉に手をかけた。
ズキン!
頭の痛みに顔をしかめる。
それでも扉を開けようとして、ふと思いとどまって自問する。
本当にいいのだろうか。いったい、この中になにがあるというのだろう。
本当に見てもいいものなのか。後悔するのではないか?
知らない方がいいことなのかもしれない。
急に、見るのが怖くなった。
まだ、中でなにを見たのか思い出せない。それでも、無意識のうちにそれを確認するのを怖れているようだった。
(本当にいいの?)
自分に問いかける。
(…いい)
そう答える。
知らなければならない。そのためにここまで来たのだから。
以前、ソレアに言ったではないか。「知らない方がいいことなんてない」と。
奈子は、ゆっくりと扉を開けた。
力を込めて押すと扉はかすかに開いて、隙間から淡い朱い光が漏れてくる。
ちらっと中を覗いて、動くものの気配がないことを確かめると、奈子は中へ入った。
広い部屋だった。小さな体育館くらいはある。
これまで歩いてきた通路とは造りが違っていた。聖跡の他の部分は、黒い石を組み合わせて造られている。しかしこの部屋は違った。
壁はもっと明るい灰色をしていて、継ぎ目がまったく見当たらなかった。
まるで溶接された金属…いや、金属らしい光沢はない。むしろ、陶器のようにも見えた。
床も天井も、同じ材質らしい。
天井は高い。奈子の身長の三倍以上はあるだろうか。
部屋全体が、やや紫がかった赤い光に照らされている。
(そうだ、この部屋だ…)
ここで、すごく大切なものを見た。
それは…
部屋の中央部には、床から天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本立っていた。それが、他に光源のない室内をぼんやりと照らしている。
三本の柱は、十メートル強の間隔で正三角形の頂点となるように配置されていて、その三角形の重心に、一抱えほどもあるなにかの結晶――水晶のような――が浮かんでいた。
奈子は扉の前に立ち、息を殺して室内を見渡す。
やはりなんの気配もない。
(そうだ、あの時と同じだ…)
以前来たときも、こうやってここで室内の様子を調べた。それから、あの光の柱を調べに行ったのだ。
慎重に周囲に気を配りながら、一番近くにある柱に近付いていった。
それがネオンランプのような自ら発光する中空の管なのか、それともレーザーのような実態を持たない純粋な光なのか、間近で見てもよくわからない。
(そう、そしてこの中に…)
頭痛はいよいよひどくなり、そして、記憶が戻ってくる。
目の前にある光の柱の中に、人影が浮かんでいる。
それは、髪の長い長身の女性。
全裸で、光の中に浮かんでいる。まるで水の中を漂うように。
美しい女性だった。見事なプロポーションと、足元まで届く長い銀髪が特徴的だ。
奈子は、その女性のことを知っていた。
クレイン・ファ・トーム。
聖跡の番人。
今から千五百年も前の時代の、最強の竜騎士。
ここにあるのは、その精密な立体映像だ。
目を凝らすとわかる。クレインの身体を透して、ほんのわずかに向こうが透けて見える。
これは、ホログラムのような立体映像なのだ。
しかしそれがわかったところで、「なんの目的で」という根本的な疑問は解決しない。
そうっと、手を伸ばしてみる。あの、クリオネの水槽でそうしたように。
光の一番外側に触れたところで、それ以上手を進めることはできなくなった。
ガラスやアクリルのような固体の感触ではない。なんらかの力が、外部からの侵入を拒んでいた。
奈子はふぅっとため息をついた。なにも変わっていない。
光の中のクレインの映像は相変わらず美しく、神秘的で、そして謎に包まれていた。
これがなんであるのか…おぼろげながら理解できたような気がする。
同じような光の柱は、あと二本ある。
左手にある光柱の中は空だ。何もない。
どうして空なのか。その理由もなんとなく想像できるが、今はどうでもいいことだった。それはもう、過去の問題だ。
より重要なのは、右手にある三本目の柱。
その中にも人影らしきものが浮かんでいるのが見える。
ゆっくりと近づいていく。それがなんであるか、もう、思い出していた。
それでも足が震える。掌がじっとりと汗ばむ。
心臓の鼓動が激しくなる。
五ヶ月前に見たあの光景は、あまりにも衝撃的だった。むしろ、今まで記憶を封じられていたことが幸せだったかも知れない。
小さく深呼吸をして、意を決して進んでいく。
三本目の柱の中にも、全裸の女性の姿があった。
クレインよりもずっと若い。見たところまだ十代半ばの少女だ。
奈子よりも少し背が低い。
歳のわりに胸は大きく、それでいてウェストは細い。肌は白く、腰の曲線が艶めかしい。
奈子は、この裸体を違う場所で見たことがあった。それも一度や二度ではない。
髪は赤みがかった濃い金髪で、背中の中ほどまである。普段は縛っているので、それほど長く感じないのだが。
そして…
いちばん特徴的なのは、その瞳だった。
ガラス玉のような、焦点の合わない作り物めいた瞳がこちらを見つめている。
それは…鮮やかな金色の瞳だった。
「――っ!」
わかっていたことではあるが、それでも事実を目の当たりにして、奈子は小さく息を呑む。
光の中に漂っているのは――
ファージ…ファーリッジ・ルゥ・レイシャの姿だった。
「ファージ…」
光柱に手をついて、小声で名前を呼んだ。
もちろん、反応があるはずもない。これは実体ではない。細部まで完璧に再現された立体映像でしかないのだ。
ひとつだけ、五ヶ月前とは違うところがあった。
大きな違いだ。
光の中に浮かぶファージの、その左胸の部分が崩れたようになって、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
(…………)
もしかしたら、これを見るまでは淡い期待を抱いていたかも知れない。
しかし、その希望は失われた。
これが…無銘の剣の力だった。
「捜し物は見つかったか? レイナ」
その声にはっと我に返って、後ろを振り返った。
いつからそこにいたのだろう。すぐ背後に、背の高い、長い銀髪の美しい女性が立っていた。
「……クレイン…」
クレイン・ファ・トーム。聖跡の番人だ。
奈子の驚いた顔を見てが笑みを浮かべる。
「…あ、アタシはレイナじゃないわ。わかってるんでしょう、それくらい」
「今はナコ・ウェル…だったか」
そう言って小さく肩を震わせる。笑っているのだ。
「な…何がそんなにおかしいのよ! 笑ってるヒマがあったら、客に茶の一杯でも出したらどう?」
聖跡に侵入したものは決して許さないといわれる、恐るべき力を持った番人に対する台詞としては、ずいぶんな暴言だった。しかし、こんな小馬鹿にしたように笑われるのは我慢がならない。
怒るかと思ったが、クレインは意外なことにそんな奈子の様子を可笑しそうに見ているだけだった。
「あいにくと、ここには生者のための食べ物も飲み物も用意していない。それよりも、もっと面白いものがあるぞ。見ていくか?」
その言葉に奈子が応える間もなく、突然、周囲は闇に包まれた。
木が疎らに生えた高い丘の頂上に立って、彼女は下を見おろしていた。
纏っている服は血に染まり、刃物で切られたと思しき傷がいくつもある。しかしファーリッジはそれを気にもとめず、ただ丘の下を見おろしていた。
丘を取り囲んでいる騎兵は、千騎ほどもいるだろうか。
「ふん…たかが千騎…」
感情のこもらない声でつぶやく。
彼女の金色の瞳だけが、獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いていた。
兵たちは、こちらを警戒しながら徐々に包囲の輪を狭めてくる。
ファーリッジは、唇の端を引きつらせたような笑みを浮かべる。口の中で呪文を唱えかけて、しかしそれを中断すると、ふと空を見上げた。
なにかが、近付いてくる。強大な力を持ったなにかが。
突然、青白い灼熱の光がファーリッジの立っていた場所を引き裂いた。その場に生えていた草は炎を上げることもなく消滅し、土塊が朱い溶岩と化す。
一瞬遅れて、衝撃波がその場を襲った。
「青竜の騎士…か…。やってくれる」
もうもうと土埃の舞う中、ファーリッジはゆっくりと立ち上がった。
その左腕が、焼けただれておびただしい血を流している。防御結界を張りながら飛び退いたのだが、一瞬遅れてかわし損なったのだ。
竜の炎は、生半可な結界では防ぐことができない。
頭上を通り過ぎた竜が戻ってくる。風を切り裂いて、その速度にはどんな鳥も足元にすら及ばない。
それでも、今度はファーリッジにも余裕があった。意識を集中する。
鼓膜を破るほどの破裂音と同時に、また、竜の炎がファーリッジをを襲った。あまりの高熱に、周囲の空気が爆発的に膨張して発する音だ。
衝撃波が地面を裂き、土埃を舞い上げる。
それでも、ファーリッジはその場に立っていた。彼女の結界は、竜の炎を完全に防ぎきっていた。
頭上を通り過ぎて飛び去る竜の後ろ姿に向かって、それぞれが杉の木ほどもある巨大な光の槍を立て続けに放った。
微妙に角度を変えて目標を襲う槍は、とても避けられないように思えたが、竜は、信じられない機動でその全てをかわす。
それは、鳥だろうと蝙蝠だろうと、竜以外のどんな生物にも不可能な動きだった。竜は、この世界のどんな生物よりも速く、俊敏に、そして高く飛ぶことができた。
第一波を全てかわされたファーリッジは、二十本以上の魔法の槍を同時に放つ。しかし竜は、それすらも易々とかわしてみせた。だが、それは彼女も予期していたこと。計算のうちだった。
全ての槍をかわしきった竜と兵士は、水平飛行に戻ったところで、前に浮かぶ小さな光に気付いた。
それは、指先よりも小さな点。しかし、眩い光を放っていた。
彼らが不審に思うよりも早く。
――光が弾けた。
地上の兵士たちは、自分の目を疑った。
無敵を誇る竜が、目の前でずたずたになって墜落してゆく。
それは、常識では考えられない光景だった。
いくら竜騎士並みの力を持っているとはいえ、竜を駆る正騎士が、竜を持たない相手に敗れるなど。四百年以上続くトリニアの歴史の中でも、そんな話は聞いたことがなかった。
息絶えた竜の巨体が森の樹をなぎ倒し、地響きを立てて墜落する。
その音で我に返った兵士たちは、我先にと逃げ出していた。
あってはならないことだった。青竜の騎士が敗れるなどということは。
トリニアの竜騎士こそは大陸最強…国民は誰もがそう信じていた。いや、敵国の兵ですらそう信じて、トリニア軍を怖れる者が少なくないのだ。
それなのに、たった一人で、竜も持たずに青竜の騎士を倒せる人間が、この世に存在していいはずがない。
化け物だ――誰もがそう思った。
兵士たちが恐怖に支配されて逃げ出したのも当然のことだった。
しかし…
そこから無事に逃げおおせた者は、ただの一人も存在しなかった。
「ふぅ…」
イルミールナ・コット・ギガルはため息をついた。
この憂鬱極まりない任務に唯一の救いがあるとしたら、それは、久しぶりに父親に会えたことだろう。
竜騎士の仕事というのもこれでなかなか忙しい。実家に戻るのは一年ぶりだ。
ファーリッジ・ルゥの逃走先と思われる街に、イルミールナの父親が住んでいるというのは幸運な偶然といえた。
とはいえ、それもあまり慰めにはならない。この後やらなければならないことを考えると、気が重い。
ファーリッジ・ルゥの逮捕。あるいは、生かしたまま捕らえるのが困難であれば処刑。
実際のところ、無傷で捕らえるのは不可能だろうと、イルミールナですら思っていた。
その目的のため、イルミールナを含む五人の竜騎士がこの街へ来ている。前代未聞だった。たった一人のために、五人もの竜騎士が駆り出されるなどということは。
ファーリッジ・ルゥは、既に竜を駆る騎士を倒していた。念には念を入れるというのもわからなくはない。
しかし…
再びため息をつく。
確かに、竜騎士四人を殺害して逃走したことは重い罪だ。しかし、元はといえば悪いのはフェイドーアたち、サントワ派の騎士たちだった。なのに、ファーリッジの言い分などまるで聞こうともしない。
もちろんイルミールナは試合場でのことを話した。しかし、対戦相手のエイシードと、他の四人の騎士が死に、闘技場が消滅した今となっては証拠がない。
そして、最初に差し向けられた追っ手は返り討ちにあった。一人の竜騎士と一頭の竜、そして多くの兵の命が失われた。
だからといって、ただファーリッジを処刑すればいいというものでもあるまい。まだ、話をする余地が残されていてもいいはずだ。
しかし、そんな雰囲気ではなかった。仲間を殺されて、他の竜騎士たちもいきり立っている。
「はぁ…」
いったい今日何度目のため息だろう。もう数え切れない。
「怖れているんだよ。竜騎士たちも、王宮の連中も」
父親のディングが言った。その言葉に、イルミールナが顔を上げる。
ディングは、刀鍛冶だった。それも、国内に数えるほどしかいない、『竜騎士の魔剣』を鍛えることのできる名匠だ。
もっとも、今ではほとんど引退同然で、新たに鍛える剣は年に一振りほどでしかない。竜騎士の剣を作るには、途方もない体力と精神力、そして魔力を消耗するのだ。
イルミールナに母親はいない。彼女が小さい頃に病死している。父親が唯一の肉親だった。
一人娘が竜騎士として王都マルスティアへ赴任して以来、ディングはこの屋敷でわずかな使用人と弟子と共に暮らしていた。
「怖れている…? ファーリッジ・ルゥを、ですか?」
問い返すと、ディングは小さく首を振った。
怖れているのはファーリッジ・ルゥという個人ではない、と。
「自分たちを超える力が存在することを怖れている。竜騎士は最強の存在であるが故に」
トリニアの竜騎士こそがこの世で最強の存在。長い間、そう信じられてきた。トリニア国内だけではなく、この大陸中で。
その神話が、トリニアの繁栄をもたらした。光の帝国、と讃えられるほどに。
その信仰が崩れ去ることを怖れている。それはすなわち、トリニアの繁栄の終焉を意味することになる。生身でいとも簡単に竜騎士を倒せる者の存在を、許すことはできないのだ。
「それならむしろ、ファーリッジの罪を赦し、青竜の称号を与えるべきではありませんか?」
イルミールナは言う。
「そうすれば、ファーリッジは最強の騎士として、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームの再来と讃えられ、トリニアの竜騎士こそが大陸最強という事実を、諸外国にも見せつけることができるでしょうに」
「確かに。ファーリッジ・ルゥが竜騎士であれば、そうもできただろう」
ディングは重々しい声で言った。
「しかし、あれは竜騎士の血を引いてはいない」
「え?」
イルミールナは思わず大きな声を上げた。驚きに目が見開かれる。
そんなはずはない。竜騎士の血を引かない者が、竜騎士に匹敵する力を持てるはずがない。
トリニアよりも前の時代、人間の魔力は現在よりもはるかに劣るものだった。エモン・レーナが竜騎士の力をもたらしたことによって、すべては始まったのだ。
以後、トリニアの竜騎士はすべて、エモン・レーナ自身、あるいは彼女から力を授けられた者の末裔であるはず。そして、竜騎士の強大な力を研究することにより、他の人間たちの魔法技術も向上してきたのだ。
わずかでも竜騎士の血を受け継いでいなければ、あの、人智を超えた力が得られるはずがない。第一、どうしてディングはそんなことを知っているのだろう。
「…お父様は、ファーリッジ・ルゥのことをご存じなんですか?」
「ああ。あれの…父親とは親しかったからな。もう二十年近くも昔のことだが…」
当時のことを思い出しているのか、ディングは遠い目をして応えた。
「あいつは…狂っていた。少なくとも、最後に会ったときは」
「お父様…?」
「イルム。お前は、ドールというのを知っているか?」
何故いきなりそんなことを聞くのか。訝しみながらもイルミールナはうなずいて応える。
「人間が生み出した、魔法生物のことでしょう」
ドール――それは、自然界に存在する生物に、魔法的に手を加えて人工的に生み出した魔物。一般に、天然の魔法生物よりも強い力を持つ。
過去、数多くのドールが造り出された。あるものは純粋に魔法技術の研究のために、あるものは生命の起源を探るために、そしてより多くものは、戦争の道具として。
ドールというのは、そういった生物の総称だった。
「二十年くらい前までは、ドールの研究はずいぶんと盛んだった。国が力を入れて後押ししていたからな」
その最終目的は、最強の生物を生み出すこと。そう、竜を越える力を持った存在を。
その理想にかなり近づいた成果もあった。亜竜と呼ばれるドールがそれだ。しかし、それでもオリジナルの竜を越えることは出来なかった。やがてドールの研究は停滞し、多くの魔術師が手を引いていったが、それでも研究を続けた者もいた。
その男も、その一人だった。
宮廷魔術師の地位を追われ、田舎に引きこもって研究を続けていた男。
その屋敷を訪れたときのことを思い出すたびに、ディングは身の毛もよだつ思いがした。
研究室の棚に、無数に並んだ大きなガラス瓶。薬品と標本。そして…中で蠢く実験体。
正常な感性の持ち主であれば、あまり長居はしたくない場所だった。
ひときわ大きな容器の中にいる物を目にしたとき、目を疑った。
周囲のグロテスクな実験体に比べれば、それはごく当たり前の、見慣れたものだった。しかしそれ故に、ある意味この部屋でいちばん不気味な存在だった。
薬品で満たされたガラス容器の中で、どう見ても人間の赤ん坊としか思えないものが浮かんでいた。
恐る恐る近づくと、その気配を感じたのか赤ん坊が目を開けた。
ディングは思わず、一歩後ろに下がった。
大きなその瞳は、人間のものではなかった。
金色に輝く瞳。それはまるで肉食獣のような…いや、それは、まさしく竜の瞳だった。
「あれは…人間ではないよ。狂った魔術師が生み出した、地上最強の魔物だ」
そう言うと、壁に掛かっていた一振りの剣を手に取り、イルミールナに差し出した。
「人間ではない。だから、なんの躊躇いもなしに人間を殺すことができる。儂らだってそうだろう? 人間を殺すことに比べたら、獣を狩ることの罪悪感など無きに等しい」
イルミールナは黙って剣を受け取る。それを鞘から抜いてみて、感嘆の声を上げた。
それは並の剣ではなかった。彼女がいま携えている剣も、父の手による竜騎士の魔剣だったが、いま渡された剣はまるでものが違う。
これほどの力を秘めた剣を、彼女はいままで見たことがなかった。父の作品の中でも、おそらく最高の品だろう。
「お父様、これは…」
「おそらく、それくらいの剣が必要となるだろう。あれを、人間の娘と思ってはならない。闘うときは、情けをかけてはならない。お前の気持ちも分からないではないが、その覚悟ができないうちは闘ってはならない」
イルミールナは剣を鞘に戻すと、静かにうなずいた。
「ファーリッジ・ルゥは警告を無視して街に入ってきた。市街戦になる。竜は使えんな」
今回の作戦の指揮を執る騎士、ライアントが言った。他の四人の顔に緊張が走る。
人口の多い都市部での戦闘となれば、竜は使えないし、もちろん大規模な魔法も同様だ。剣で決着をつけることになる。
結界でファーリッジ・ルゥの動きを封じ、剣でとどめを刺すしかない。それは、イルミールナの役目だった。剣技に関してはこの五人でもっとも秀でているためだが、今回ばかりはそのことを少し恨んでもいた。
残りの四人が結界を張り、ファーリッジを封じ込める。勝機は十分だった。
「戦意を失わせて生きたまま捕獲できればいいが…、それが困難なようなら、殺せ」
ライアントは淡々と言うと、他の三人を連れて持ち場に向かう。イルミールナ以外の騎士がいることを知られない方がいい。
「逮捕」ではなく「捕獲」という言葉を使ったことに、イルミールナは気付いていた。上層部は、ファーリッジの秘密を知っているのだろうか。
ほどなくして、イルミールナの目にファーリッジの姿が映った。悠々と通りを歩いてくる。この通りは現在封鎖していて、他に人影はない。イルミールナは通りの真ん中に立って、ファーリッジを待ちかまえた。
「ファーリッジ・ルゥ。抵抗はやめて、おとなしく私達と一緒に来なさい。それがあなたのためよ」
そう言うのと同時に、他の四人による結界がファーリッジを包み込んだ。歩みが止まる。
イルミールナも範囲内にいるのだが、結界はファーリッジだけを対象としたもので、彼女は影響を受けない。
「イヤだって、言ったら?」
金色の瞳でまっすぐにイルミールナを見据え、ファーリッジは言った。挑発的な笑みを浮かべている。
「…わかっているんでしょう?」
「私を殺す? あんたたちが? はっ」
鼻で笑う。イルミールナを見下したように。
「五対一なら、勝てると思った?」
そう言うと同時に、ファーリッジの右手に赤い光が生まれる。それは瞬時に剣の形となった。あの、闘技場で見せたのと同じ力だ。
「止めなさい、ファーリッジ・ルゥ!」
そんな警告を無視して、ファーリッジは飛び込んできた。朱い剣が風を斬る。しかしイルミールナも一流の竜騎士、彼女の剣はファーリッジの打ち込みを受け止めていた。
ファーリッジは飛び退いて距離をとる。
イルミールナは内心、舌を巻いていた。魔力の強さではともかく、剣の技術では自分の方がはるかに勝っていると思っていた。しかしどうだろう、ファーリッジの剣技は、正規の竜騎士にまったく引けを取らないものだった。これでは、簡単には決着はつかないだろう。本気になる必要があった。
イルミールナは剣を構えた。先刻、父親から受け取ったばかりの剣。これまで使っていた剣とはまるでものが違う。おそらく、大陸中を探してもこれに匹敵する魔剣は三振りとあるまい。
父親は、この剣が必要になると言っていた。確かにそうかもしれない。ファーリッジの力を考えれば、少しでも優れた剣を使うに越したことはない。
「これが最後の警告よ。抵抗は止めなさい、ファーリッジ・ルゥ」
もちろんファーリッジがその言葉に従うはずもない。滑るような足捌きで間合いを詰め、剣を打ち込んでくる。イルミールナはその攻撃を剣で受け流し、返す刀で相手の足元を薙いだ。
飛んでかわしたファーリッジは、空中で身体をひねって斜め下から斬りつけてくる。イルミールナはそれをかわさず、自ら前に踏み込んで、剣の根本で受け止める。そのまま密着した体勢から、魔法を放った。
一瞬、閃光が走る。イルミールナの魔法はファーリッジの防御結界に跳ね返された。驚くべきことだ。この至近距離で、竜騎士の魔法をはじくとは。しかしイルミールナは立て続けに魔法を放つ。さすがに、この距離で続けざまに撃たれると防ぎきれないと思ったのか、ファーリッジは後ろに飛んだ。
その隙に乗じ、イルミールナは初めて自分から仕掛けた。退がるファーリッジに劣らぬ速度でその後を追う。疾風の如き動き。その渾身の打ち込みを、しかしファーリッジの剣は正面から受け止めた。
信じられないほどの力だった。これだけの魔剣とイルミールナの剣技を組み合わせれば、鋼すら両断し、竜にだって深手を負わせることができるだろうに。
ファーリッジが持つ光の剣は、彼女自身の魔力を実体化させたもの。竜騎士四人による結界の中にいるファーリッジは、その力を大きく削がれるはずなのに、それでもなおイルミールナの剣を受け止めることができるのだ。そもそも、これだけの結界の中では、並みの竜騎士では動き回ることもままならないだろうに。
その力に、イルミールナは心底恐怖した。魔力の強さ、という点ではまるで敵わない。
しかし青竜の騎士としては、竜騎士でない者に負けるわけにはいかない。それが、青竜の称号を持つ者の誇りだった。少なくとも、剣のキャリアではイルミールナの方が上なのだ。
一度下がって、距離を取った。
ファーリッジの力は確かに強い。その剣には勢いがある。それならそれで、相手の力を利用した闘い方があるはずだった。まともに仕掛けていては、強大な魔力の裏付けがあるファーリッジの守りは崩せない。
まったく、恐ろしいまでの力だった。
狂った魔術師が造りだしたという、最強のドール。
確かにそれは、竜騎士を遙かに越える力を持っていた。外見は、活発で可愛らしい十六歳の少女でしかないというのに。本人だって、これまでそう育てられてきたのだろうに。
そこでふと、疑問に思った。ファーリッジは、自分の出生の秘密を知っているのだろうか? 物心つく前にレイシャの家に引き取られ、以来ずっと普通の娘として育てられてきたはずなのだが。
おそらく、知っているのだろう。すべてではないにしても、ある程度のことは。
いったい、ファーリッジはそのことをどう受けとめているのだろう。
しかしイルミールナには、それについてじっくりと考えている余裕はなかった。
ファーリッジが飛び込んでくる。それをぎりぎりのところで見切って致命傷を避ける。ファーリッジの剣は胸を掠め、血飛沫が散った。同時に、イルミールナは剣を突き出していた。それはファーリッジの身体を貫いた。
本当は、心臓を狙ったつもりだった。ほんの少し、手元が狂ってしまった。最後の瞬間、わずかな迷いが生じてしまったのだ。
ファーリッジの身体を貫いたイルミールナの剣は、心臓をわずかに外していた。
一瞬、驚いたような表情を見せたファーリッジの瞳が輝いた。鋭い音を立てて、胸を貫いていた剣が砕け散る。
「――っ!」
破片が、イルミールナの身体を貫いた。よろけて後ろに下がる。そこを狙って、ファーリッジが斬りつける。なんとかかわした、と思った瞬間、魔法による衝撃波をまともにくらって、イルミールナは激しく壁に叩きつけられた。意識を失った身体が、その場に崩れ落ちる。
「ふん…、『剣姫』イルミールナ・コットもこの程度?」
つまらなそうにつぶやく。その手の中で、ファーリッジの剣は赤い光の塊に戻っていた。それを頭の上に掲げる。
軽い破裂音と共に光が弾けると、ファーリッジの力を抑えるためにその場を包みこんでいた結界が消滅した。
そのことを確認して満足そうに微笑むと、ファーリッジは転移でその場を立ち去った。後には、ファーリッジとイルミールナが流した血の痕だけが残っていた。
ファーリッジが転移したのは、街から逃げ出すためではない。反撃の体勢を整える時間が欲しかったのだ。
街の中心部の人気のない路地に、ファーリッジは立っていた。
胸の傷から流れる血を、左手で押さえている。足元がふらついて、背後の壁に寄りかかった。
「ふぅ…」
小さくため息をつくと、自分の手を見た。べっとりと血で濡れている。流れ出た血で、胸元が真っ赤に染まっていた。
それを見て、なぜか可笑しそうにくすくすと笑った。
「それでも、血は赤いんだよね…」
口の中でつぶやく。
ファーリッジの手に、小さな短剣が現れた。その刃を、左の手首に当てる。すっと短剣を動かすと、一本の朱い筋が残った。そこからすぐに、血が流れ出してきて地面に滴る。
下に落ちた血は、不思議なことに土中に染み込まず、まるで水銀のように地表を転がり流れる。
その流れは糸のように細く、幾筋にも別れ、周囲に広がってゆく。文字のような、記号のような、複雑な文様を描きながら。
それは、大きな魔法陣を描き出していた。
その様子をじっと見つめていたファーリッジは、ふと顔を上げた。彼女の周囲に、また、結界が張られていた。
四人の騎士が、周りを取り囲んでいる。
「抵抗は止めろ。もう逃げられん」
騎士の一人が言った。
四人とも、剣を抜いている。そして四人が同時に、異なる方向から斬りかかれるような位置に立っていた。一人や二人ならかわせても、四人の攻撃をすべてかわすのは至難の技だった。
「殺す気? 私を殺すの? 私が人間じゃないから」
静かな声で言った。わざと感情を押し殺したような、冷たい声だった。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。
「でも、だとしたら私は、人間の法によって裁かれる理由もない」
「死にたくないのなら、おとなしく我々と一緒に来てもらおう」
先頭に立つライアントが言った。
「イヤだと言ったら?」
「連れて帰るのは死体でも構わん」
そう言って剣を突きつける。
それまで無表情だったファーリッジの口元がほころんだ。口の端を上げて、歪んだ笑みを浮かべる。
金色の瞳が、まっすぐに四人を見つめていた。
「連れて帰る? ここで死ぬ人間が、どうやって?」
四人には、その言葉の真意を考える暇もなかった。
閃光がその場を包みこんだ。
純白の光が、一瞬後には街全体を覆うほどに広がっていた。
すべてを無に帰す力を持った光。それはまるで、地上に出現した太陽だった。
周囲の建物も、付近にいた人間も、瞬時に蒸発した。無論、ライアントら四人の竜騎士も例外ではない。
少し離れたところでは、猛烈な爆風が強固な石造りの建造物をも粉砕していた。
ほとんどの人間が、なにが起こったのかと訝しむこともできずに即死した。数万の人口を抱えていた都市が滅びるのに要した時間は、本当にわずかなものだった。
街の建物の大半を倒壊させた爆風によって、爆心地は真空状態となり、今度は逆に周囲の空気が猛烈な勢いで流れ込んでくる。その突風が、破壊の最後の仕上げをした。
爆心地に戻ってきた空気の奔流は、ぶつかり合って上昇気流となり、稲妻をまとわりつかせたキノコ雲が立ち昇る。
やがて、雨が降り始めた。汚れた黒い雨が、一帯を染めていく。
街の中心部には、なにも残っていなかった。
ぽっかりと円く、黒い地面が広がっている。緩やかなすり鉢型にえぐられ、表面は高熱で熔けて、ガラス状になっていた。
周辺には、倒壊した建物の残骸が残っていた。一部がくすぶって、煙を上げている。
爆心地からさらに離れると、ようやく人の死体が目につくようになった。しかし原型を留めているものはほとんどない。
形もわからないほどに焼け爛れているもの。
爆風でばらばらに引き裂かれたもの。
生きているものの気配はどこにもない。それは、あまりにもあっけない、滅びの光景だった。
一人だけ、滅びた街の中を歩く人影があった。
イルミールナ、だった。
全身血塗れで、汚れた雨に打たれながら、足を引きずるようにして歩いている。
街の外れまで来ると、いくらか形を残している建物も目に付くようになった。そのうちのひとつ、半ば崩れかけた父親の屋敷へと入っていく。
中に入ると、部屋のひとつは外から見るよりは原形を保っていた。壁に掛かっていた何振りもの魔剣が、ファーリッジの魔法に対する障壁として働いたのだろう。イルミールナが即死を免れたのと同じように。
この部屋にいた者は、生きている可能性が高い。そうでなければ絶望だろう。
床に倒れている父親の姿を見つけ、ほっと安堵の息をもらした。傍らに屈んで抱き起こす。
ディングは、程なくして目を開けた。
「イルム…?」
呻くようにしてつぶやくと、イルミールナの顔を見上げてかすかに笑った。ひどい火傷を負っているが、致命傷ではなさそうだった。自力で身体を起こす。
父親の無事な姿を見届け、イルミールナも小さな笑みを浮かべた。緊張していた身体から力が抜ける。
そして、
「…お父様…ごめんなさい」
そうつぶやくと、ゆっくりと倒れた。
「イルム!」
ディングがその身体を受け止める。しかしイルミールナは、二度と目を開けることはなかった。
「イルム…イルム…」
冷たくなってゆく娘の身体を抱きしめて、ディングは絶叫した。しかしその声を聞く者は、誰も残っていなかった。
「や…めて…」
奈子は、頭を押さえてうずくまっていた。
涙を流しながら。
頭の痛みは、耐え難いほどになっていた。しかし、泣いているのはそのためばかりではない。
「やめて…。もう、見せないで…、見たくない」
ぎゅっと唇を噛む。血が滲むほどに。口の端から、涎が糸を引いていた。
奈子は知っていた。この後、なにを見ることになるのか。
思い出していた。聖跡を訪れたときに目にした、もっとも凄惨な光景を。
二度と忘れられないであろう、狂気に満ちた光景を。
あんな光景をまた見せられたら、本当に狂ってしまう。
見たくない。
見たくない。
思い出したくない。
しかし、そんな奈子の願いは叶わなかった。
傍らに立つクレインが、無表情に見おろしていた。
炉は、真っ赤に熔けた金属で満たされていた。工房全体が、息の詰まるような熱気に包まれている。
扉を開けて、一人の男が入ってきた。顔は憔悴しきって、血走った目だけがぎらぎらと不気味な輝きを放っている。
男は、死体を引きずっていた。外から運んできたのだ。
炉の傍まで来て、その死体を中に投げ込む。死体は一瞬だけ炎を上げ、たちまち溶けた金属の海に沈んで見えなくなった。
それを見届けると、男は外に出ていく。そして間もなく、また死体を持って戻ってきた。
何度も何度も繰り返す。
朝から晩まで。
いつまでもいつまでも続けられる。
時間など無意味だった。
何時間、それとも何日が過ぎたのか。
無数の死体を炉に投げ込んで、ようやくその作業は終わった。
男は次に、剣を投げ込んだ。彼自身がこれまでに鍛えてきた剣のうち、屋敷に残っていた物をすべて。
竜の炎にも熔けることのないはずの竜騎士の魔剣が、たちまち炎に飲み込まれていく。
炉の中で燃えさかっているのは、常軌を逸した炎だった。陽炎が立ち昇り、空気が揺らめいて、朱く染まった室内の光景を歪ませる。それはまるで、空間そのものが歪んでいるようにも感じられた。
すべての剣を処分した後、男は、屋敷の中から別のものを運んできた。
それは、死してなお美しかった。
自分の娘を腕に抱えた男の顔に、笑みが浮かんでいる。
しかしそれは不自然に引きつった、狂気の笑みだった。
「…生まれ変わるんだ。永遠の、不滅の存在に…」
震える声で、男は言った。
「…この世でもっとも美しく、そして強きものに…」
男は、泣いていた。
口元に引きつった笑みを浮かべながら、涙を流していた。
「ひ…ひひ…ひぃ…」
男は突然、甲高い笑い声を上げた。明らかに常軌を逸した声だった。
「…そうとも、儂は狂っている…。そうでなくて、どうしてこんなことができるものか。あの、狂気に満ちた化け物を倒せるのは、それ以上の狂気だけだ…」
笑い声は止まらなかった。
笑いながら、男は、自分の娘の身体を炉に沈めた。
イルミールナの身体が溶けた金属に飲み込まれて見えなくなる頃には、笑い声はほとんど悲鳴に近いものになっていた。
狂気の炉から得られた鋼で、男は剣を鍛えていた。鋼の塊を、鎚で打ち延ばしてゆく。
一時も休むことはない。取り憑かれたように鎚を振るい続ける。
鋼は、薄く、薄く、延ばされて、鋭い刃へと形を変えていく。
「まだだ…まだだ…もっと強く、もっと鋭く…この世の全てのものを切り裂けるほど…。そうでなくては、あの魔物は倒せん…」
血走った目で、鎚を握った手から血を流しながらも、男は手を休めようとはしない。
いったい、どれだけの時間が過ぎただろう。
その剣は、だんだんと形になってゆく。
薄く、紙よりも遙かに薄く、透けるほどに薄い金属。
しかしそこに秘められた魔力は、過去の名だたる名匠が鍛え上げたどんな名剣ですら足元にも及ばない。
鎚の最後の一振りと同時に、男は初めて満足げな笑みを浮かべた。
限りなく薄く、しかしそれ故に無限の鋭さ誇る刃。強大な魔力に支えられた刃は、決して曲がらず、折れず。
それは、もっとも純粋な、敵を滅ぼすための存在だった。
「…やっぱり、お前は美しいよ。イルム…」
一振りの剣に己の全生命をそそぎ込んだ男は、やがて剣を抱えたまま、ゆっくりと倒れた。
その顔には先刻までの狂気の影はなく、この上なく幸せそうに微笑んでいた。
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