十章 黄昏の堕天使


「…どうして、こんなもの見せるのよっ! アタシは見たくなかった!」
 奈子は泣きながら叫んだ。
 立ち上がると、クレインの襟首をつかむ。
 やつあたりかもしれないが、それでも言わずにはいられなかった。
「こんなもの、見たくなかったのに…」
 唇を噛んで呻く。
 あの、狂気に満ちた過去の幻影は、もう消えていた。奈子がいるのは先刻までと同じ、聖跡の深部にある部屋の中。
「聖跡は、大陸の歴史を記憶している。それこそ、あらゆる歴史をな」
 クレインは平然と応えると、奈子の手首をつかんだ。恐ろしい握力で、襟をつかんでいた奈子の腕を締め上げる。奈子は苦痛の声を上げて手を離した。
「…これは何? いったい何のために…あんたいったい何様のつもりよっ?」
 赤い痣が残った手首を押さえ、目に涙を浮かべて叫ぶ。
 聖跡は単なるエモン・レーナの墓所ではなく、密かに、大陸の歴史を記録し続けている。そのことは知っていた。以前訪れたときにも、様々な過去の幻影を見せられていたから。
 けれど、今回のはあんまりだった。
「記憶…だ。聖跡が持つ記憶に過ぎない。私も、ファーリッジも」
「記憶…? 幻影ってこと? これまでさんざん見せられたような?」
 そんなはずはない。ファージは、実体だった。触れることができた。抱きしめることができた。その点では、普通の女の子だった。
「ハレイトンにある、レタルマ城を見たことがあるか?」
「え?」
 いきなり、クレインが話題を変えた。奈子はその意図が理解できず、戸惑いながらもうなずく。
 ハレイトン王国は大陸南部にある、古い歴史を持つ国だった。千五百年前、ストレイン帝国の侵略を受け、トリニアやその他の小国と手を組んで、ストレインに対抗したのだ。
 レタルマ城は、ハレイトン王国そのものと同じくらい古い城だった。しかし、純白の石で表面を飾られたその城は、大陸中でももっとも美しい建築として名高い。
 奈子も以前、ファージやソレアに連れられて、見物に行ったことがあった。小高い丘の上に建つ純白の城は、古い言葉で白馬を意味するその名にふさわしいものだった。
「あの城は、ストレインの侵攻で一度破壊されている。現存する建物は、ストレイン滅亡後に再建されたものだ」
 奈子は首を傾げた。
 クレインは何故いきなりこんな話をはじめたのだろう。まさか、奈子に対して観光ガイドを務めているつもりでもないだろうが。
「再建された城は、以前のものと寸分違わぬものだった。精密な図面が保管されていたから、まったく同じものを作り上げることができた」
 その言葉に、はっとした。なにを言わんとしているのか、理解できた気がした。
 思わず、背後にある光の柱を振り返る。そこにあるのは、クレインとファージの、本物と見紛うばかりに精密な立体映像だった。
「まさか…」
 ファージの言葉、クレインの言葉。パズルのすべてのピースが、ぴたりとはまった気がした。
 人間の身体は、数十兆個の細胞からできているという。そのひとつひとつ、いや、分子のひとつひとつまで正確にその配置を記録しておけば、まったく同じ人間を作り上げることは可能なのではないか。
 魔法の力でシナプスの結合を再現すれば、記憶だって移植できる。そのことはファージと初めて会ったときに体験済みだ。
 肉体を形作る細胞のすべてを、思考を司る神経結合のすべてを記録しておき、必要なときにそれを再構成することができれば…。
 たとえ肉体が滅びても、聖跡にその記録がある限り、いつでも、同じものを『作る』ことができる。
 それが、ファージやクレインの『不死性』の真相だった。本当の意味での不老不死というのとは少し違う。何度殺されても、以前とまったく同じ状態で甦ることができるのだ。
 ファージは、千年以上前に生まれた。しかしその肉体は…。おそらく一年前、エイクサムに殺された後に作り直されたものなのだ。きっとこれまでに何度も、同じようなことがあったに違いない。生身の人間が、千年も生き続けられると考える方が不自然だ。
(だけど…)
 奈子はクレインの顔を見た。相変わらず、無表情に奈子を見つめている。
(なぜ…?)
 ここにある映像の秘密はわかった。しかしまだ、理解できないことがあった。
 クレインがここにいる理由はわかる。エモン・レーナの願いを聞いて、聖跡の番人になることを選んだのだ。永遠に聖跡を護り続けるために、不死の存在となった。
 では、ファージは?
 ファージは、クレインやエモン・レーナより四百年以上も後の時代の人間だ。反逆者として、トリニアから追われていた。それがなぜ、クレインと共に聖跡に保存されているのだろう。
「なぜ…?」
 奈子はその疑問を口にした。
 クレインはその問いには答えず、曖昧な笑みを浮かべていた。
 答える気はないのだろうか。それとも…
 奈子がもう一度質問しようとしたとき、一瞬早くクレインが口を開いた。
「助けたいか?」
「え?」
「いや…、助けるという言い方は正しくないか。千年以上も前に滅んだ存在には。…あれを、再構成したいか? どうだ?」
 奈子は、その言葉の意味を考える。
 助ける…? 再構成…? それはつまり…
「助けられるの? ファージを、助けられるのっ?」
 クレインに掴みかからんばかりの勢いで聞き返した。クレインは少しも表情を変えず、淡々と続ける。
「お前は、それを望むのか?」
「当たり前じゃない!」
 考えるまでもない。奈子は即答した。
 しかし。
「ファーリッジは、それを望むと思うか?」
「え?」
「千年の間生き続けるというのがどういうことか、考えたことがあるか? 死ぬことが許されずに、だ。ファーリッジが、好きで生きていたと思うか?」
 クレインがかすかに、悲しみの表情を浮かべたように感じたのは気のせいだろうか。
 奈子は、ファージの言葉を思い出していた。
『私が、好きで墓守なんてやっていると思う?』と。
 そう言っていた。
『私は死なないんだ』と言ったときに見せた、悲しみと諦めの表情。
 千年――奈子にしてみれば、想像を絶する時間だ。
「それでも、お前は望むのか?」
 クレインが繰り返し訊ねる。今度は、すぐには返答できなかった。
 奈子は考えていた。ファージはこのまま、永遠の眠りについた方が幸せなのかもしれない。もう、充分すぎるくらい生きてきたのだ。
 幸せ…? 幸せって、いったいなんだろう。
 生き物にとって、死が幸せなどということがあるのだろうか。
 生きるってなんだろう。死ぬってなんだろう。
 生物は、なんのために生きているのだろう。
 生きることの目的とは…。
 そんなものはない――と、心の奥で囁く声がした。
 なにかの目的のために生きているのではない。生きること、それ自体が目的なのだ。生きているものはすべて、生き続けようとすることが当然だった。猛獣の牙も、人間の知能も、すべては少しでも生存に有利になるための、悲しいあがきだった。
(だけど…)
 奈子にはまだ答えがでない。
 生きていれば、それで幸せなのだろうか。死だけが救いということもあるのではないか。あの時の自分のように…。
 そもそもファージの場合、『生きている』と言えるのだろうか。
 もともと、『作られた』存在だった。そして今のファージは、聖跡に保管された『図面』から忠実に再現された、『作り物』でしかないのではなかろうか。
 しかし、分子ひとつに至るまで原型とまったく同じなのに、それを偽物と呼べるだろうか。「まったく同じ」それはつまり、オリジナルそのものではないのか? 遺伝子だけが同じクローンなどとは訳が違う。
 奈子は混乱していた。
 どうすればいいのかわからなかった。
 どんなに考えても、答えがでない。
 どうしたらいいのだろう。
(…だいたいアタシ、考えることって苦手なんだ)
 もともと、考えるより先に行動してしまうタイプである。いつも由維や亜依に「脊髄でものを考えている」とからかわれているくらいだ。
 だから、深く考えるのは止めた。考えたからといって、答えが出るとは限らないから。
(もっと、簡単に考えりゃいいんだよな…)
 そうしたら、たちまち結論が出た。
 まっすぐに、奈子の答えを待っているクレインの顔を見た。
「…ファージはアタシの友達だもの。そばにいてほしい」
 それが結論だった。
 必ずしもファージのためではない。結局は自分のためだ。
 だけど、確かに自分の心はそれを望んでいる。奈子の魂がそう望んでいる。
「…大切な友達だもの」
「人間でなくても、か?」
 クレインがさらに訊く。奈子は一瞬、返答に詰まった。
「人間ではない、造られた存在。何万という人間を殺した、呪われた魔物。それでもお前は、ファーリッジを友と呼ぶのか?」
 奈子の心に、先刻の光景が甦る。
 炎に包まれる街。見るも無惨な死体。そしてイルミールナとその父親。
 奈子が知っているファージも、聖跡で見た王国時代のファージも、闘っているときはどこか嬉しそうだった。敵の命を奪うことに、悦びを感じていた。
 人間ではないから? だから、人間の命などなんとも思わないのだろうか?
 だから、ひとつの都市を滅ぼすようなことも平気でできるのだろうか?
 だけど…
 だけど…
「だけど…友達だもの」
 涙ぐんでそう答えたとき、ふと思い出した。
「ふ…ふふ…」
 思わず、笑いがこぼれる。クレインが怪訝そうな表情を見せた。
「ふふ…。クレインは、アタシが何者か知ってるんだよね?」
 笑いながら、奈子は訊いた。
 知っているはずだ。ここには、大陸の歴史のすべてが収められている。王国時代から、現代まで。
 奈子のことだって例外ではないだろう。
 そして予想通り、クレインは静かに頷いた。
「ふふ…は…ははは…」
 笑いすぎだろうか、涙まで出てきた。
「一年前にも、同じようなことがあった。アタシ、言ったんだ。エイクサムに、さ」
 手の甲で涙を拭い、言葉を続ける。
「この世界がどうなろうか、知ったこっちゃない――ってね」
 きっぱりと言った。
「何万人死のうが、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ。ただ、ファージはアタシの友達だった――って」
 奈子は、ファージが元通りになることを望んでいる。
 それは事実だった。
 非難されるかもしれないが、見知らぬ一万人より、ファージ一人の方が大切だった。
 それに、ファージがどちらを望むかなんて、ここでいくら考えても答えの出ることではない。
 だから、自分の心に従うことにした。
 だから、少しだけ自惚れることにした。
「ファージだって、きっと、またアタシに会えたら喜ぶよ」
 クレインは一瞬、驚いた表情で奈子を見たが、やがて笑い出した。いつもの冷酷な笑みではなく、可笑しくてたまらないといった様子で。
「ひどく勝手だが、それはそれでひとつの考えだ。面白い」
 クレインは言った。
「だが、責任は自分でとるんだ。ただで、というわけには行かんぞ?」
「条件があるの?」
 クレインは奈子の目の前まで来ると、顔に手をかけて上を向かせた。クレインの方が十センチくらい背が高い。奈子は見上げる形になる。
「身体で、払ってもらうとしよう」
 ずざざ〜っと、奈子は瞬時に三メートルほど後ずさった。
「あ、あ、あんたまでっ、そ〜ゆ〜シュミ? エモン・レーナと不自然に仲がいいと思ったら…」
 額に冷や汗を浮かべて叫ぶ。クレインは平然としたものだ。
「軽い冗談のつもりだったが…。今の時代、こういう冗談は流行らんのか?」
「…あ、あんたの時代にだって、流行ってはいなかったと思うよ…」
「しかしお前は、こんなシチュエーションが好きだろう?」
 クレインが笑う。奈子は反論できなかった。
 冗談はこのくらいにして…と、クレインがどこからともなく剣を取り出して奈子に渡した。
 奈子は受け取った剣を観察する。白銀色に輝く、平均的な長剣よりもやや短めの剣だった。通常の剣とはどこか違った魔力を感じる。
「無銘の剣の魔力は凄まじい。ファーリッジの肉体だけでなく、魔法的につながったここの記憶にまで致命的な傷を付けた」
 クレインは、光の柱の中にあるファージの姿を指した。胸の部分にぽっかりと、大きな穴が開いている。それはちょうど、奈子が無銘の剣で貫いた位置だった。
「ここにある情報は、もはや不完全なものだ。このままでは修復できない」
 必要な情報が失われてしまった。だから、ファーリッジ・ルゥの身体を再生することができない。
 では、どうすればよいのか。
 クレインが、するべきことを伝える。
「そんな…」
 思わず驚きの声を上げるが、その言葉が終わらないうちに、奈子の身体は眩い光に包まれていた。



 気がつくと、森の中に立っていた。
 普通の転移とは、なにか少し違う感覚だった。むしろ、この世界と奈子の世界を行き来するときの次元転移に近いような気がした。
 奈子は息を殺し、周囲の気配を探る。それは、すぐに見つかった。それだけの強大な魔力を、見落とすはずもなかった。
 奈子は小さく深呼吸すると、その方向へ向かって歩き出した。
 十分と歩かないうちに、目的のものを見つけた。それは、大きな樹の根本に座って休んでいた。
 血に染まった服を着た、金髪、金瞳の少女。
 ファーリッジ・ルゥがそこにいた。
 奈子は思わず駆けだしそうになるところを、辛うじて思いとどまる。
 そこにいるのは、奈子の知っているファージではない。奈子のことを知っているファージではない。
 千年前の、正真正銘、生前のファージ。
 奈子は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 これから、ファージと闘わなければならない。それが、クレインの指示だった。
 考えてみれば、とんでもないことだった。大陸最強と謳われたトリニアの竜騎士をものともしないファーリッジ・ルゥ・レイシャを相手に、一人で闘わなければならない。
 しかも…
 奈子は、勝たねばならないのだった。
(クレインってば…、もっと穏便な方法はなかったの…?)
 腕に鳥肌が立つ。寒気がした。
 向こうは、本気なのだ。
 ファージはすぐに、こちらに気がついて立ち上がった。もちろんここにいるファージは、奈子のことを知らない。
 ファージの服は、血に染まっている。その大半が他人の血だ。怒りの色が浮かんだ金瞳で、奈子を睨め付けている。追っ手と思っているのだろう。
 奈子は無言で、五メートルほどの距離をおいて立ち止まった。
「竜騎士…じゃないな。知らない顔だもんな。…緑竜?」
 ファージが言った。奈子はその言葉の意味を考える。
 トリニアの時代、本当の意味での竜騎士とは、青竜の称号を持つ者だけ。その数はトリニア王国連合全体でも三十名に満たない。
 緑竜の騎士とは、ファージや、ファージと闘ったエイシードのような、青竜の騎士に継ぐ力を持つ、竜騎士の候補者たちに与えられる名で、実際に竜を駆るわけではない。その数は数百名にはなるから、とても全員の顔など覚えてはいないだろう。
 ファージは、奈子のことをトリニアの追っ手だと思っている。しかし、騎士の制服を着けていないためにその正体を判断しかねて、戸惑ってもいるようだった。
 奈子は、自分が意外なくらい落ち着いているのを感じていた。口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
 知らず知らずのうちに、笑っていた。
 どうしてだろう。
 どうして笑っているのだろう。
(悦んでいる…? 何故…)
 これから、ファージと闘わなければならないというのに、どうして。
 悦んでいる? アタシが?
 違う、アタシじゃない。
 アタシじゃない。
 だけど――
 松宮奈子ではない、もうひとつの魂が、歓喜に震えていた。
 強敵と闘うことを、至上の悦びと感じていた。
「ファージを捕まえに来たわけではないわ。ただ…」
 奈子の言葉が終わるより速く、ファージが動いた。光の矢が奈子を襲う。
 上体をひねってそれをかわしながら、一気に間合いを詰めた。低い姿勢から、腹を狙って右の正拳を打ち込む。ファージの身体が大きくよろめいた。すかさず左右の下段蹴りで相手の足を止め、とどめの後ろ回し蹴りへとつなぐ。
 ファージはぎりぎりのところで蹴りをかわすと、大きく後ろへ飛んだ。それを追う奈子は、クレインから受け取った剣を抜く。
 キィンッ!
 鋭い音とともに、火花が飛んだ。赤い光の剣が、奈子の打ち込みを受け止めていた。
「…妙なこと、してくれるじゃない?」
 怒りの表情も露わに、ファージが言う。
 この世界では、徒手による格闘術は一般的ではない。わけのわからない攻撃でダメージを受けたことに戸惑いつつ、腹を立てているのだろう。
 二人の動きが止まった。剣を持つ手だけが、かすかに震えている。体格差を考えれば奈子の方が力がありそうだったが、実際には、押されているのは奈子だった。
 一度間合いを取るか、それとも蹴りでファージの体勢を崩すか、一瞬迷う。それが、命取りになった。
 ファージの光の剣が、突然はじける。その破片は無数の鋭い針となって、奈子の身体を貫いた。倒れる奈子に追い打ちをかけようとする。奈子は地面を転がりながら、ベルトに差していたたナイフを投げ、ファージがそれをかわしている隙に立ち上がって剣を拾った。
「まだまだこれからだよ、ファージ」
 奈子は笑みすら浮かべて言った。全身に傷を負ったが、痛みは感じなかった。痛みが気にならないくらい、精神が高揚していた。
「ファージ…?」
 そう呼ばれた少女が、首を傾げる。
「それって私のこと? 気安く呼ばないでよね」
 むっとした様子で言う。その手に、再び赤い剣が現れた。今度はファージの方から斬りかかってくる。
 奈子はその打ち込みを受け流し、返す刀で反撃する。完璧なタイミングだったはずだが、ファージはその刃をほんの数ミリのところで見切ってかわした。同時に、真下から跳ね上がるような変則的な軌道で、ファージの剣が襲いかかってくる。かわしきれないと見た奈子は、ファージの膝を蹴ることで剣筋をそらした。刃先が頬を掠め、赤い筋が残る。
 下から上へ剣を振り上げたため、ファージの脇ががら空きだった。奈子はほとんど密着するくらいまで踏み込むと、掌底で左胸を狙う。そこは、イルミールナの剣による傷が残っているはずだった。
 しかしファージは、流れる風のような動きでそれをかわす。空振りした奈子は、勢いを利用してそのまま回転し、後ろ回し蹴りを放った。
 狙ったのはファージの身体ではなく、その手。剣を持った手だった。柄を蹴られた赤い剣が宙に飛ぶ。
 ファージは一瞬、飛ばされた剣を目で追った。コンマ一秒が生死を分けるこの闘いの最中、致命的なミスといえた。奈子は躊躇しなかった。渾身の衝でファージの戦闘力を奪おうと飛び込む。
 しかし、その拳はファージには届かなかった。拳がファージの身体に触れる寸前、一筋の光が、奈子の身体を貫いていた。奈子は衝撃で三メートルほど飛ばされて転がる。
「く…ぅ」
 奈子はそれでも、剣を放さなかった。呻き声を上げながら、剣を握った手を地面について起きあがろうとする。片手で腹の傷を押さえると、ヌルリとした暖かい感触が伝わってきた。
 脚から力が抜けていく。それでもなんとか立ち上がることはできた。
 息を整え、真っ直ぐにファージを見据えた。
「なによ、その目は」
 ファージは不快感を露わにして剣を構えた。奈子の表情に、戸惑いを覚えている様子だ。
 無理もない。奈子は、これまでの追っ手とは根本的に違う。
 殺意、使命感、そしてファージに対する怖れ。
 他の者たちが見せたそういった感情を、奈子は持っていない。
 強いて言うならば、悲しみ。その瞳は、深い、深い悲しみだけを湛えていた。
 ファージが、ゆっくりと近付いてくる。その手には剣が握られている。
 しかし奈子は、もうまともに動けなかった。脚に力が入らず、立っているのがやっとだ。
 奈子は覚悟を決めた。チャンスは一度しかない。
「お前はいったい何者? なんでそんな目で見るのよ!」
 叫びながら振りかぶった剣が振り下ろされる。
 その剣は、奈子の防御結界を突き破り、右の鎖骨を断ち切り、しかしそこで止まっていた。
 金色の瞳が見開かれる。
 信じられないといった表情で。
 本来ならば、奈子の身体は両断されるはずだった。ファージの魔力が結晶化した赤い剣は、並みの竜騎士が持つ魔剣よりもよほど鋭い切れ味を持つ。青騎士でもない人間に、防げるはずがないのだ。
 しかしその一瞬だけ、奈子の防御結界が剣の力を凌駕していた。それでも肩の傷は深く、血が噴きだしているが、それは致命傷ではない。
 そして、奈子の剣が――
 ファージの胸を貫いていた。
「…ごめん」
 奈子は小さな声で謝った。
「ごめん、ファージ。でも、こうするしかないんだ…」
 それが聞こえていたかどうかはわからない。ファージの身体はゆっくりと倒れた。
 奈子はその傍らに膝をつくと、胸に手を当てて傷の様子を確かめる。
 大丈夫。剣は、ぎりぎり心臓を外している。ファージはまだ生きていた。
 奈子は、ふぅっと安堵の息を漏らした。
「…憶えていてね、アタシのこと」
 そう言うと、急に涙があふれ出してきた。傷の痛みのためではない。それよりもずっと、心が痛かった。
「クレインのバカ…。アタシにこんなことさせないでよ…」
 涙声でつぶやく。
 親友の身体を剣で貫く感触なんて。一度だって堪らないことなのに。
 涙が止まらなかった。
 不意に、周囲の景色が歪む。涙のせいかと思ったが違う。光る霧が、奈子を包んでいた。
 その光がだんだん強くなる。
(転移…? また)
 取り囲む光が消えたとき、奈子は廃墟にいた。
 あの、都市だ。ファージが滅ぼした…。
 まだ、それほど時間は過ぎていないように思える。
(また…幻影だ…)
 今までの、ファージとの闘いは現実だった。どうやったのかは知らないが、クレインは奈子の身体そのものを千年前に送り込んで、ファージと対決させた。
 転移魔法は空間を越え、次元を越える。ならば、時を越えることも不可能ではないのだろう。おそらく、聖跡の力だけがそれを可能とするのだろうが。
 今度は、これまでさんざん見てきたような、聖跡が記憶している過去の光景だった。奈子の意識だけがそこにあって、実体はない。
 ここでは、奈子は傍観者だった。なにも干渉できずに、ただ、過去に起こったことを見ていることしかできなかった。



 廃墟と化した街の中を、二人の男が歩いていた。
 トリニアの騎士団長、ヴェルジュレス・ヴィ・ラーナと、彼の副官だ。
 ヴェルジュレスは四十代の半ばで、がっしりとした体格をしている。彫りの深い顔には、悲痛な表情が浮かんでいた。
「なんということだ…」
 瓦礫の山と化した街を見渡し、重々しく呟いた。あまりの凄惨な光景に、傍らを歩く部下も言葉がない。
「これが…ファーリッジ・ルゥの力か…」
 一人のドールが引き起こした破壊の光景は、二人に大きな衝撃を与えていた。これは明らかに、竜騎士の力を越えている。
 一人の狂った魔術師が、竜騎士を越える力、大陸で最強の存在を作り出してしまったのだ。
 二十年ほど前までは、ドールの研究は盛んだった。先王がそれを奨励していたから。
 しかし期待したほどの成果が得られなかったことと、生命を弄ぶような行為に非難が集まったために、やがて衰退していった。
 元はといえば、トリニアの国策だったのだ。
「その結果が、これ…か」
「しかし、罪は罪です。たとえどんな理由があれ、こんなことが許されるはずがありません」
「そうだ。しかし、ファーリッジ・ルゥだけの罪ではない。…だが、いまさら言っても遅いな。死んだ者は返らん」
 二人は、ギガル家の屋敷跡までやってきた。工房の中で、息絶えている男を発見する。
「ギガル殿…」
 ヴェルジュレスはもちろん、ディングとは面識があった。トリニア最高の刀匠。彼の剣もこの男の作だ。
 ディングが抱きしめるように持っている剣に気付き、それを手に取る。瞬間、ヴェルジュレスの顔が強張った。
「これは…」
「どうしました、将軍?」
 副官の問いを無視して、ヴェルジュレスは剣を見つめた。額に脂汗が滲む。その表情はどこか、怯えているようにすら見えた。
「ギガル殿…なんということを…」
 震える声で呟いた。彼は瞬時に、それがどんな剣かを理解していた。剣に込められた、恐ろしいまでの執念が伝わってくる。
「…このようなものは、封印せねばならん。いいか、この剣のことは他言無用だぞ」
 副官は、事情がまったく飲み込めずにいながらも頷いた。
「それよりもファーリッジ・ルゥだ。その後の足どりは?」
「コルトン・シラルの隊が追跡を続けています。ベルトランの隊は…全滅です。」
 その報告に、ぴくりと眉が動いた。これで、竜騎士の被害は十一名になる。この数字は、トリニアの存亡にも関わる問題だった。
 彼は、ひとつの決心をした。



 王国時代、聖跡の周囲は深い森に包まれていた。それが、千年後との一番大きな、そして唯一の違いだった。
 この辺り一帯が荒野と化したのは、トリニアと後ストレイン帝国との最終戦争で、大陸の気候そのものが大きく変化してしまった後だ。
 一頭の大きな竜が、森の上空を飛んでいた。青銅色の鱗の、トリニアの竜。聖跡の上で大きく円を描くと、近くに着地した。首の付け根につけた鞍から、ヴェルジュレスが飛び降りる。
 彼は躊躇いもせずに聖跡の中へ入ると、少し行ったところで立ち止まった。たとえトリニアの騎士団長といえども、これ以上奥へ進むことは許されていない。
 やがて、彼の前に小さな光が現れる。夜の海に浮かぶ夜光虫を思わせるような、小さく、ちらちらと瞬く光。
 それがだんだん数を増やして集まっていき、人の形となっていく。
 それは、若い女性の姿。背が高く、美しい銀髪を長く伸ばしている。目つきは鋭いが、その顔は確かに美しかった。
「クレイン・ファ・トーム…」
 ヴェルジュレスはその名を呼んだ。今から四百年以上も前の時代の竜騎士。そして聖跡の番人。
 この時代ですら、彼女の存在は伝説だった。実際に会ったことのある者など、ヴェルジュレスを含めても五人に満たない。
「この私になにか用か?」
 無表情に、抑揚のない声で言った。いつも通りのクレインの反応だ。
「白々しいことを言わんでいただきたい。いま王国になにが起こっているのか、全部知っているのだろう。私が、なんのためにここに来たのかも」
「トリニアの竜騎士も堕ちたものよな」
 クレインは嘲るように言った。
「自分たちで手に余る魔物を造り出しておいて、その始末に死者の手を借りようとは」
「まったく面目ないことだ…。だが、他に方法はない」
「私は聖跡に封じられた身。いったいどうしろと?」
「意地の悪い言い方を。貴女に頼みたいことはひとつしかない。私が身代わりとなって、聖跡の束縛を引き受ける。私でも半日くらいは耐えられるだろう。その間に、ファーリッジ・ルゥを…殺してくれ」
「ほう、自分の命を削るようなことをするか」
「私が送った騎士たちが死んだ。私だけがのうのうと生きているわけにはいくまい」
「……まあ、いいだろう。退屈していたところだ。久しぶりに、いい運動ができそうだな」
 クレインはそう言うと、心底楽しそうな笑みを浮かべた。



 そこは、コルザ川が作ったコルシア平原の南部に広がる草原だった。
 樹が、疎らに生えている。
 ファーリッジ・ルゥは、一本の樹の根本に座っていた。
 これまでの疲労と、闘いのダメージが蓄積している。身体を休めながら、ぼんやりと考えていた。
 自分の身に起こったこと。
 これからのこと。
 いったいどうなるのだろう。自分はこの先、何をしたいのだろう。
 特になにも、思いつかなかった。
 例えば、ストレイン帝国に亡命するというのはどうだろう。トリニアと敵対するストレインなら、彼女を受け入れてくれるのではないだろうか。
 それは現実的ではあったが、何故かその考えには少しも心を動かされなかった。
 トリニアのことを恨んではいるが、これまでトリニアの騎士として教育を受けてきたファーリッジは、ストレインに身を寄せる気にもなれなかった。
 では、いつまでもトリニアの追っ手と戦い続けるのだろうか。いつか、この身が滅ぶときまで。
 ――それもいいかもしれない。
 トリニアの竜騎士が滅びるのと、自分が死ぬのとどちらが先か。
「ふ…ふふ…」
 そんな考えに、思わず笑いがこぼれた。
 それから、ふと思い出した。
 あの変わった少女のことを。
 最初はトリニアの追っ手だと思ったが、違うのだろうか。ファーリッジを倒しておきながら、どうしてとどめも刺さずに姿を消したのだろう。どうして、あんなに悲しい目をしていたのだろう。
 妙に気になった。
 まったく知らない人物だった。なのに、妙に親しげで。ファーリッジには及ばないにしても、竜騎士並みの力を持っていた。
 いったい何者なのだろう。
 草の上に寝そべってそんなことを考えていたファーリッジは、不意に身体を起こした。
 いつの間に転移してきたのか、少し離れたところに一人の女性が立っていた。
 長身で、長い銀髪をなびかせた女騎士。鋭い目でこちらを見ている。
 竜騎士であることは間違いない。それも、とびきり強い力を持った。その女性からは、並はずれた力を感じる。
 しかし――
 ファーリッジが殺した者も含めて、トリニアの竜騎士は二十九名しかいない。その中に、この女に該当する容姿の持ち主はいなかった。
 それでも間違いなく、トリニアの青竜の騎士だ。その服には、赤地に青い竜の紋章――『紅蓮の青竜』と呼ばれる、竜騎士のみが着けることを許された紋章が描かれている。
(また、正体不明の追っ手か…)
 心の中でつぶやきながら立ち上がる。
 相手が声の届く距離に近づいたところで訊いてみた。
「お前、いったい何者?」
 女は立ち止まらず、ゆっくりと歩きながら唇の端を上げた。
「呆れたな。竜騎士になろうとしていた者が、この私を知らぬのか?」
 軽蔑したように、呆れたように言う。
 ファーリッジは考えた。
 いったい誰だろう。あの口振りからすると、かなり高名な騎士であるはず。しかし見覚えはない…いや。
 どこかで見たことのある顔だ。直接会ったことはないが。本の挿絵か、それとも肖像画か…。
 女性にしてはかなりの長身。長い銀髪。鋭い目と不適な笑み。そして、並の竜騎士を大きく凌駕する力の持ち主。
 記憶の中に一人だけ、該当する騎士がいた。しかしそれは、こんなところにいるはずのない人物だった。
「…まさか」
 そうつぶやいた声は、震えていた。女が笑う。
「やっと気付いたか」
「…クレイン・ファ・トーム。聖跡の番人…?」
 聖跡の伝説、エモン・レーナとクレイン・ファ・トームに関する言い伝えは、トリニアの人間ならば子供でも知っている。しかしもちろん、実際にその姿を見たことがある人間などいるはずもない。
 ファーリッジの顔が蒼白になる。全身から汗が噴き出す。それでも、虚勢を張ることだけは忘れなかった。
「…実在したの。四百年以上も前の亡霊が、いったいなんの用?」
「聞くまでもなかろう」
 そう言って笑うクレインの手に、銀色の光が現れる。それは長い剣の形となった。ファーリッジの赤い剣と同様、クレインの魔力が剣の形で実体化しているのだ。
 確かに、聞くまでもなかった。やることはひとつだけだ。
 ファーリッジは腕を振って、魔法の矢を放った。扇状に放たれた無数の赤い光がクレインを襲う。
 しかしクレインはわずかな動きで光をかわし、それが難しいようなら剣ではじき飛ばした。
 ファーリッジにとってこの一撃は牽制だ。これでクレインを傷つけられるなどとは思っていない。クレインが気を取られている間に距離を詰め、至近距離から雷光を放つ。
 それをかわすクレインの動きは見えなかった。気がついたときには、気配は背後にあった。
 ファーリッジは後ろを確かめもせずに、大きく前に跳んだ。背中ぎりぎりのところで、風を斬る鋭い音がする。地面を転がりながら呪文を唱えた。
 人間の頭大のオレンジ色の光がいくつも、クレインの周りに出現すると同時に爆発した。炎が周囲を包んで視界を奪っている隙に、ファーリッジは間合いを取って呼吸を整える。すぅっと息を吸い込むと、次の魔法に意識を集中する。
「チ・ライェ・キタイ!」
 眩いほどの青白い光を放つ球体が数十個、クレインを取り囲んだ。それぞれの光球から、ほんのわずかな時間差で、青い光線が放たれる。
 次々と放たれる青白い光。それはトリニアの竜騎士が竜を倒すために用いる魔法で、生身の人間がかわすことはまず不可能。そしてそれぞれの光線が、竜に致命傷を与え得るだけの破壊力を秘めていた。
 しかしクレインは、死の光線が降り注ぐ中、平然とファーリッジに向かって歩いてきた。竜を貫くほどの魔法を、クレインの防御結界は完全に跳ね返していた。
「そ…んな…」
 愕然とつぶやくその声はかすれていた。自分の目で見ても、信じられるものではない。
 クレイン・ファ・トームこそが史上最強の竜騎士――多くの歴史書はそう伝える。だからといって、こんなことがあり得るはずもない。
 クレインは余裕のある表情で近づいてくる。ファーリッジはぎゅっと唇を噛んだ。その手に、赤い光の剣が現れる。
 ファーリッジの方から先に動いた。渾身の力で剣を振る。小細工などない。向こうの方が経験は上なのだ。技術的な駆け引きでは敵うまい。強大な魔力にものをいわせて、剣ごと、結界ごとクレインを両断するつもりだった。
 しかしクレインの剣は、易々とその斬撃を受けとめた。流れるような動きでファーリッジの剣圧を受け流す。腕が伸びきって一瞬動きが止まったところに、今度はクレインの剣が襲いかかる。目の前で、きらりと銀色の閃光が瞬いたようにしか見えなかったが、一瞬遅れて、ファーリッジの肩から血しぶきが舞った。
 大きく後ろに飛び退こうとする。身体が空中にあって無防備になるその瞬間、クレインが放った銀色の光がファーリッジの身体を貫いた。大きくバランスを崩しながらも、なんとか倒れずに着地する。ここで倒れたら一巻の終わりだ。
 クレインが飛び込んでくる。その動きはまさに銀色の疾風だ。
(右? 左?)
 目で見ていてはクレインの剣の動きは追いきれない。打ち込みの方向を予測して防ぐしかない。
 右から来る、と思った剣が突然消えた。次の瞬間、その刃は左から襲いかかってくる。反応がわずかに遅れた。
 痛みは、感じなかった。
 どさりという音とともに、ファーリッジの左腕が地面に落ちた。その上に、ぼたぼたと血が滴る。
 ファーリッジは茫然と、立ち尽くしていた。
 右手に握っていた剣、逆を衝かれながらもなんとかクレインの斬撃を受け止めたはずの剣は、根本から折られていた。
 そして喉元には、白銀色の刃が突きつけられている。
 ぴくりとも、動けなかった。
「少しばかり、プライドが傷つけられたぞ」
 驚いたことに、そう言ったのはクレインの方だった。
 ファーリッジに剣を突きつけたまま、鋭い目をして、残忍な笑みを浮かべている。
「真っ二つになると思ったが、よくも腕一本で凌いだものだな。そんな真似ができる奴は二人しかいなかった。エモン・レーナと、そしてドレイア・ディ・バーグ、四百年前のストレインの皇帝だ」
 クレインの目が、かすかに細められる。
「その力に免じて、すぐには殺さずにいてやろう。もう少し生きているがいい」
 突然、クレインの剣がはじけたように見えた。それは無数の、糸のように細い光の筋となって、ファーリッジの身体に突き刺さった。
「ぐ…あぁっ!」
 まるで身体中を針金で貫かれ、縛り上げられたようなものだ。全身から血を吹き出しながら、ファーリッジはのたうち回った。細い光は、しかし鋼線よりも強靱に、ファーリッジの身体を締め上げる。あちこちで皮膚が破れて新たな血が飛び散った。
「あ…ぅぅ…、あぁっ!」
「これは捕虜を拷問するには一番なんだがな。一度エモン・レーナの前でやったら禁じられてしまった。あいつ、あれで意外と神経が細い…」
 面白そうにそう言ったクレインは、途中で言葉を切ると、おやっという顔になった。ファーリッジの目から、まだ戦意が失われていなかったからだ。
 ファーリッジは苦痛に喘ぎながらも、殺意に満ちた目でクレインを睨んでいた。瞳の光も失われていない。
 許せなかった。こんな一方的に負けることが、許せなかった。
 人間ではない代わりに、力では誰にも負けないと、そう思っていた。それだけが唯一の救いだったのに。
「くそぉ…くそぉ…」
 瞳の金色がより強くなる。その瞳で、真っ直ぐにクレインを見ていた。
 クレインの目の前に、ぽつんとひとつ、光る点が現れた。針の先ほどの小さな、しかし眩い光を放つ点。
 クレインの口元がほころぶ。
 その瞬間、光がはじけた。
 灼熱の光球は、一瞬で数テクトの大きさにまで広がる。その範囲内にあったものは、炎を上げる間もなく素粒子に分解されて消滅した。それより外側の広い範囲で、熱線が草原を炭に変え、爆風が樹々を薙ぎ倒した。
 それは、ひとつの街を破壊し尽くし、数万人の命を奪った力と同じものだった。その力が、クレイン一人に向かって放たれた。
 手応えはあった。光が消えたとき、そこには何もなかった。大きなクレーターの中心に、ファーリッジだけが横たわっていた。遙か遠くで、クレーターを囲むように煙が上がっているのが見える。
 クレインの姿はなかった。ファーリッジを束縛していた光も消えた。
「ふ…ふふふ…」
 笑いがこみ上げてきた。身体を起こしながら、ファーリッジは声を上げて笑う。
 あの、クレイン・ファ・トームに勝ったのだ。エモン・レーナの親友、大陸史上最強の竜騎士と謳われたクレインに。
「あは…ははは…はははははは…」
 笑いが止まらない。いつまでも笑い続ける。
 なにもない荒野に、笑い声だけが響いていた。
「あは…はは…は…?」
 笑うファーリッジの視界に、妙なものが映った。最初は目の錯覚かと思ったが違う。
 どこからともなく、ちらちらと光る粒子が集まってくる。それはどんどん数を増やし、集まって人の形になる。
 ファーリッジの目が見開かれた。それは紛れもなく、いま殺したばかりのクレイン・ファ・トームの姿だった。
 信じられるはずもない。クレインの身体は、原子はおろか素粒子のレベルにまで分解されたはずだ。
「なかなかのものだな、この四百年間、これほどの力を持った者はいなかった」
 軽い調子でそう言ったときには、光も消え、すっかり元の姿になっていた。身に着けていた服まで元のままだ。
「な…ぜ…」
 絞り出すように、それだけ言うのが精一杯だった。ファーリッジが行使することができる、最大の力を用いたのだ。もう、彼女にできることはなにも残っていなかった。
「私は不滅だ。聖跡ある限り、な」
 クレインは、ファーリッジの目の前までやってきた。その手に、白銀色の剣が現れた。
 ファーリッジは動かなかった。動けなかった。なにをしても、すべての抵抗が無駄だと感じていた。
 それは、生まれて初めて感じる絶望だった。
 左胸に突き立てられた剣が、ゆっくりと身体を貫いていく。冷たい刃の感触を感じながら、ファーリッジはただ黙って立っていた。剣先が彼女の心臓を貫き、その動きを止めるのを、まるで他人事のように感じながら。
「だが、なかなか面白い。このまま捨てるには惜しいな。いずれ使い道もあるだろう」
 クレインがそんな独り言をつぶやいたとき、ファーリッジ・ルゥは既に息絶えていた。



 奈子が我に返ると、元の場所にいた。
 あの、聖跡の地下だ。
 目の前に、クレインが立っている。
 奈子の手には、血で濡れた剣が握られていた。ファージの胸を貫いた剣が。
 奈子は黙って、剣をクレインに渡した
 言いたいこと、訊きたいことは山のようにある。しかし、いったい何から言えばいいのか分からなかった。まだ、自分の頭の中も整理できていない。
 何度か大きく呼吸をして、今回見た幻影の中に現れなかった人物のことを訊いた。
「…ソレアは? ソレアはいったいどういった立場にいるの? ファージや聖跡と、どんな関わりがあるの?」
 ここにはソレアの姿はない。光の柱の中にあるのは、クレインとファージだけ。つまりソレアは不死の存在ではないということだ。
「あれが、本来の墓守だ。代々、力と知識を受け継ぐ者たちの末裔…あれが最後のひとりだがな。墓守の目的は、王国時代の力の復活を阻止すること。ちょっとした気まぐれで、ファーリッジを戦士として与えてやった」
 墓守は、戦う力を封じられているから…とクレインは言った。
 言われてみればそうだ。ソレアはきわめて強い力を持つ魔術師だが、人を直接傷つけたり、殺したりすることはできなかった。彼女自身は、破壊のために力を用いることはできないのだ。
 ファージは墓守ではなく、墓守に与えられた『武器』だった。
 もちろんファージの力は、その大半が封印されている。墓守であるソレアだけが、その封印を緩和することを許されていた。その必要があるときだけ、竜騎士に匹敵するファージの力を解放することができた。
 それでも、竜騎士を遙かに越える『最強のドール』としての力は封じられたままだ。それは永遠に解き放たれることはない。なにしろ、ストレイン帝国との戦争を除けば、トリニア王国に最大の被害を与えた魔女の力なのだから。
 そういった説明を聞いて、奈子は納得した。ファージとソレアが、付き合いの長そうな割には決して仲が良くないことを。
 ファージがいつも、魔法のカードを大量に持ち歩いている理由も理解できた。一度に何十枚ものカードを使いこなす人間は、奈子が知る中ではファージしかいない。普通の人間は、いくらカードで魔力を補ったところで、それだけの力を制御することはできないから。
 封じられているのは、ファージの魔力のみ。それを制御する力は生前のままだ。カードで魔力を補えば、ほぼ無制限にその力を増すことができる。制御力にはいくらでも余裕があるのだから。
「カードに魔力を蓄えるというのも、元はといえばあいつが考え出したことだ。五、六百年くらい前だったかな。あいつはどうにも反抗的で、暇さえあれば私に復讐することばかり考えている」
 クレインは言った。その口調にファージを責めるような様子はなく、むしろ愉快そうだ、と奈子は思った。
 奈子がクレインに返した剣は、いつの間にか彼女の手の中でぼんやりとした白銀色の光の塊になっていた。それは空中を漂っていき、ファージの姿が収められた光の柱に吸い込まれる。大きな穴の開いた胸の部分で形を変え、欠損部を復元していった。
「お前に、失われた情報を手に入れてきてもらったというわけだ」
「ファージは復活できるのね?」
「そうだ、腕を前に」
 奈子は言われるとおり、両腕を前に差し出した。その上に、ちらちらと光る細かな粒子が現れ、徐々にその数と密度を増していく。
 霧のような光の粒子はだんだん濃密になり、やがて、人の形を取り始めた。
 それは懐かしいファージの姿。完全な姿が再現されると、いきなり奈子の腕に重みがかかる。
「ファージ…」
 名前を呼ぶと、不意に、涙があふれ出してきた。堪えようとしても止まらない。
「じきに目を覚ます。その前に連れて行け。外への道順は…もうわかるだろう?」
「…どうして? ここにいてはいけないの?」
「先刻も言った通り、私とそれとは、お世辞にも仲がいいとは言えないからな」
 考えてみればその通りだ。ファージにしてみれば、クレインは自分を殺した相手なのだ。ファージの性格からして、仲良くできるはずもない。
 そう納得して、ファージを抱きかかえたまま部屋を出ようとしたところで、
「忘れ物だ」
 そう、クレインに呼び止められた。
 振り返ると、クレインが一振りの剣を持っていた。一瞬、奈子の顔がこわばる。
 それは、無銘の剣だった。
 ファージを刺したとき、そのままソレアの家に置いてきたはずなのに、どうしてここにあるのだろう。
「…でも…その剣は…」
 奈子の声はかすかに震えていた。
 それは、ファージを殺すことができる剣。
 その目的のために、狂気の中で生まれた。
 無数の死体から生み出された、呪われた剣。
「…いらない。もう、いらない」
 奈子は首を横に振った。
 これからもこれを持ち続けることは、辛い。
 この剣を力はあまりにも大きすぎる。また、誰かを殺してしまうかもしれない。
 そんなこと、したくない。
「だから…聖跡に封印しておいて。ここなら安全でしょう?」
「武器を持たなければ、殺さずに済む…か。根本的な解決とは言えんな」
 クレインが微かに笑う。
「いいの」
「どうしてもと言うのなら、預かってもいいが…無駄だと思うぞ? これは、お前の剣だからな」
「アタシの…剣?」
 わずかに眉をひそめて、奈子は訊き返した。
「これくらいの剣になると、剣の方で所有者を選ぶものだ。過去、無銘の剣に選ばれたのはレイナしかいない」
 クレインは手の中の剣を見おろしながら答える。
「まあいい。必要になるときまで、私が預かっておこう」
「お願い」
 うなずいて歩き出そうとした奈子だが、ふと立ち止まる。
「まだ、訊きたいことがあるんだけど…」
 でも、クレインは答えてくれるだろうか。
 もしかしたら、明かしてはならない秘密なのかもしれない。
 それでも、一応訊いてみた。
「…聖跡は、なんのために造られたの? 単なる墓所なら、こんな仕掛けも、歴史を記憶する必要もないんじゃない? いったいなにが目的なの?」
 実際のところ、答えをそれほど期待していたわけではなかった。クレインは少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。
「…聖跡は、見守るためのもの。エモン・レーナの墓所であり、揺りかごでもある。いまはただ見守るだけ。それ以上でも、それ以下でもなく、歴史への干渉は許されていない」
 クレインは、暗記している文章を読むような調子で、淡々と語る。
「…実際のところ、今となってはさしたる目的などない。ただ存在するだけ。歴史を紡ぐのは、いまを生きている者の役目だ」
「じゃあ、なぜファージの件に干渉したの? あなたが関わらなければ、違った結末になっていたんじゃない?」
 見守るだけなどと言いながら、実際のところ、あの時トリニアを救ったのはクレインだ。
「違った結果…例えばもっと凄惨な結果に。そして、お前がファーリッジに会うこともなかった」
「それは結果論だよ。あなたが関わった理由ではない」
 さらに追求すると、クレインには珍しく、ばつの悪そうな表情を見せた。そんな顔をすると、クレインもとたんに人間くさく見える。
 それで、彼女も決して人間味をすべて失ってしまったわけではないとわかる。
「…暇つぶしだ。私だって気まぐれを起こすこともある」
「あと、もうひとつ。あなたはなぜ…」
 途中まで言いかけて、しかし奈子は口をつぐんだ。
「…やっぱり、いい。いろいろと教えてくれて、ありがと。やっぱり、辛いことでも知らないよりは知っていた方がいいもの」
 静かに微笑んで、一度は外に向かおうとした奈子だったが、最後にもう一度振り返った。
「…また、来ても…いい?」
 おそるおそる訊ねる。本来ならば、聖跡はそう気軽に訪問できる場所ではない。
「まあ、…たまにはいいかもな」
 クレインも小さく笑った。奈子は満足げにうなずくと、今度こそ外へ向かって歩き出した。
 最後にひと言、「またね」と言い残して。



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