終章 夜明け、そして旅立ち


 外は、夜だった。
 正確に言えば、もう夜明けが近い。東の空が白み、風が静かに吹きはじめている。
 聖跡に着いたときはまだ夕方だったのに。結局一晩、聖跡の中で過ごしたことになる。
 奈子は、ファージを腕に抱いたまま座っていた。ファージは全裸だったので、マントでくるんでやる。はたしてファージが風邪を引いた場合、聖跡はそれを治せるのだろうか…などと、どうでもいいようなことを考えながら。
 マントの生地を通して、ほのかに体温が伝わってくる。その温もりが、涙が出るほど嬉しかった。
 千年――奈子にしてみれば、それは想像を絶する時間だった。ファージはその間、いったいなにを考えて生きてきたのだろう。己の運命を、いったいどう受け止めてきたのだろう。
(…でもファージって、肉体的には十六歳でも、精神年齢は千歳以上ってことよね? とてもそうは見えないけどなぁ)
 再生の際、記憶は残るはずだが。精神的な成長も元に戻ってしまうのだろうか? でもまあ、そんなことはどうでもいい。その年齢に相応しく(?)老成したファージなんて、あまり嬉しくないから。
 ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。この不思議な響きの名を持つ少女と知り合ってから、いつの間にか一年以上たっていた。
 この一年、さまざまなことがあった。ファージと出会ったことで、奈子の人生は大きく変わってしまった。辛いこと、悲しいこと、傷ついたことも多い。
 それでも、後悔はしなかった。この世界に迷い込んで、ファージと出会ったことを、よかったと思う。
 きっかけは偶然だったにしろ、いま自分がここにいるのは、自分で選んだ結果なのだ。
 先刻の、クレインの言葉を思い出す。
『歴史を紡ぐのは、いま生きている者の役目だ』
 そう、自分はいま生きているのだから。
 先のことなんてわかりはしない。
 自分の心を信じて、その時その時を生きていくことしかできない。それでいい。
 ファージの出生の秘密とか、王国時代の出来事とか、そんなことはどうでもいい。ここにいるのは、一年前に知り合った親友でしかない。
 それでいい。ファージだって…そう、生きているのだから。
 ぴくっ
 ファージの睫毛が揺れた。
 ゆっくりと目が開かれる。
 大きな金色の瞳が、ぼんやりと奈子を見ていた。奈子は心底、その瞳が美しいと思った。
「ナコ…?」
「ファージ…」
 ファージはのろのろと上体を起こすと、奈子にぎゅっと抱きついた。
「…痛かったぞ」
 耳元でささやく。
「…ごめん」
 奈子も小さな声で言った。
「いきなり、あんな武器使うんだもんなぁ」
「…ごめん」
「…さすがの私も、あれだけはダメ。天敵なんだ」
「…ごめんね」
 奈子も、腕に力を込めてファージを抱いた。
「ナコには、二度も殺されかけたんだね」
「…憶えてるの?」
 驚いて顔を上げる。千年以上も前のことだというのに、憶えているのだろうか。
「…思い出した。いま、思い出した。初めて会ったときから、なんだか見覚えがあるような気がしてたんだ」
 ファージの両手が奈子の顔を挟む。ゆっくりと顔が近付いてくる。
 唇が重なる。
 かなり長いことそうしていて、やがて唇を離したファージは、奈子の胸に顔を埋めるような姿勢になった。
「…友達が、欲しかったんだ。ただ、心を許せる友達が」
「…友達なのに、こんなことするの?」
「だってナコ、キスが好きでしょ」
「あんただってそうじゃない」
 それから二人は、声を揃えて笑った。
 夜明けの荒野に、静かな笑い声がふたつ、響いていた。
 ファージのいまの言葉を聞いたとき、先刻の疑問の答えがわかったような気がした。クレインと別れるとき、奈子は訊こうとしたのだ。
『なぜ、ファージを不死の存在としたのか』と。
 でも、訊くまでもないことだった。「反抗的で…」とか言いながら、クレインはどこか楽しそうだった。
 それまでの四百年以上の間、彼女はひとりきりだったのだ。
「ファージ…」
「ん?」
「許して…くれる?」
「そうだね…」
 ファージは考えながら応える。
「今夜、一緒に寝てくれるなら」
 笑ってそう言った。
「ひとつ確認しておきたいんだけど…」
 奈子はおそるおそる訊く。
 答えを聞くのが怖いけれど、訊いておかないと後でもっと困ったことになりそうだった。
「寝かせてくれるんでしょうね?」
「…さあ、どうかな」
 金色の目を細めて、ファージはくすくすと笑っていた。



 夕陽は、やっぱり血の色をしている――。
 そう、奈子は思った。タイルで舗装された歩道を歩きながら。
 正面に、大きな夕陽が見えている。
 こうしてゆっくり奏珠別の街を歩くのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。結局、夏休みの後半はほとんど向こうで過ごしていたようなものだ。ちなみに、夏休みの宿題がほとんど手つかずだということは、すっかり忘れている。
 昨夜、家に帰ったのは明け方だった。すぐにでも由維に会いたかったが、さすがにその時刻に電話するわけにもいかない。仕方なくそのまま寝てしまったのだが、目が覚めたときはもう夕方近かった。
 由維のPHSに電話すると、街に出かけているというので、外で待ち合わせることにした。その方が、帰ってくるのを待つよりも早く会える。
 走り出したくなる気持ちを抑えて公園の中を歩いていた奈子は、かなり離れたところから由維の姿を見つけていた。



 公園の真ん中にある大きな噴水の縁に腰掛けて、由維は脚をぶらぶらと揺らしていた。
 どことなく、不機嫌そうな顔をしている。
 本当なら、顔中がにやけてしまいそうな状況だった。十日以上も音信不通だった奈子が、無事に帰ってきてくれたのだから。
 だけど由維はそんな喜びを無理に抑えて、不機嫌な顔を作っていた。
(なんの連絡もなしに二週間近くもいなくなっちゃうんだから…。私、夜も眠れないくらい心配したのに。謝ったくらいじゃ許してあげないんだから)
 そう、自分に言い聞かせていた由維は、聞き覚えのある足音に顔を上げた。
 奈子が、そこにいた。走っていって抱きつきそうになるのを必死にこらえ、ぷぅっと膨れてみせる。
「どこ行ってたんですか、奈子先輩。せっかくの夏休みなのに、私のこと放って!」
 奈子が、静かに微笑んだ。由維に限らず、奈子に憧れる後輩の女の子なら誰でも、たちまちとろけてしまうような笑顔で。
(…っ、だめだめ、あの笑顔に騙されちゃ! 今日は簡単には許さない…)
 自分も笑い返しそうになって、緩みかける顔の筋肉を引き締める。しかしそれと同時に、駆け寄ってきた奈子に抱きしめられた。一瞬前の決意がもろくも崩れそうになる。
「由維…」
 奈子は、力いっぱいに由維を抱きしめていた。なんの手加減もなしに。
「奈子先輩、痛い…」
 そんな由維の声にも構わずに。なんだか、いつもの奈子と違う、と感じる。
「二人きりになれるところ、行こう」
 真剣な表情で言われて、由維は耳まで赤くなる。しかし、
「…奈子先輩のエッチ」
「そ〜ゆ〜意味じゃないってっ!」
 そう叫んだときの奈子はいつもどおりの様子だったので、少しだけ安心した。


 結局、奈子の家へ戻ることにした。それがいちばん手軽に、そして確実に二人きりになれる場所だったし、奈子の様子がなんとなくいつもと違うので、家にいるのがいちばんいいと思ったのだ。
 街を歩いているときも、地下鉄に乗っている間も、二人はあまり口をきかなかった。ただ手をつないで、お互いの温もりを感じていた。
「そろそろ晩ゴハンの仕度しなきゃ。奈子先輩、なに食べたい?」
 家に着くと、由維はそう言ってキッチンへ行こうとしたのだが、いきなり背後から、奈子に抱きしめられた。
「奈子先輩…」
「そんなの、後でいいから」
 力強い、奈子の腕。おそらく偶然なのだろうが、手が、由維の胸の上にあった。
 鼓動が速くなるのを感じる。やっぱり、いつもの奈子とは様子が違う。
「痛い…」
 呼吸をするのも苦しいくらいに強く抱きしめられている。
「…いや?」
 そう訊かれて、由維は首を横に振った。痛いし、苦しいけれど、どちらかといえば、もうしばらくそうして欲しかった。
 それでも奈子は、ほんの少しだけ力を緩めてくれた。
 背中全体で、奈子の体温を感じる。
 奈子の吐く息が、耳をくすぐる。
(こんなコトされたら、ヘンな気分になっちゃうよぉ…)
 それが嫌なわけはない。むしろ、喜んでいるくらいだ。ここに奈子がいるという幸せな事実が実感できる。
 でも、それを受け入れてしまうと、自分の心に歯止めが効かなくなりそうで怖かった。いくつかの理由から、まだ、奈子との最後の一線を越えるつもりはなかったが、もしも今、このまま寝室へ連れて行かれたりしたら、拒めないような気がした。
 しかし奈子はじっと動かず、ただ黙って由維を後ろから抱きしめている。やがて由維は、奈子が、声を殺して泣いていることに気付いた。
 背中が、奈子の涙で濡れている。
「…なにか、あった?」
 前を向いたまま、小さな声で訊く。
「……」
 奈子は三十秒くらい黙ってたが、ぽつりと「いろいろ」とだけ答えた。
 それ以上は訊かなかった。その必要はない。二、三日して心の準備ができれば、きっと奈子の方から話してくれるに違いなかったから。
 そっと奈子の腕に触れると、すっと力が抜けた。解放された由維は、振り返って正面から奈子の顔を見据えた。
 涙で潤んだ瞳に、由維が映っている。
 由維は奈子の両頬に静かに手を当てると、そっと唇を重ねた。
 久しぶりに感じる、柔らかな感触。
 また、腕が身体に回される。今度は先刻のように乱暴ではなく、優しく包み込むように。
 大きくて弾力に富んだ、奈子の胸が押しつけられる。
(…これって…ちょっと気持ちイイかも)
 由維も、奈子の身体に腕を回した。全身で、奈子を感じていたかった。
 かなり長い間そうしていて、ようやく唇を離すと、奈子が耳元でささやいた。
「由維…」
 返事の代わりに、由維も奈子の耳元に唇を寄せ、軽く耳たぶを噛む。奈子はくすぐったそうに身をよじらせた。
「今度…一緒に行こう」
 そう言われたとき、一瞬なんのことかわからなかった。いったいどこへ…。
 それは、ひとつしかあり得ない。
 少し驚いた表情で奈子を見て、それから、ただ小さく「うん」とうなずいた。




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