序章 黒剣の王


 彼女の周囲には、生命の気配のない荒涼とした大地が広がっていた。
 これまで通ってきた砂漠とは明らかに違う、えもいわれぬ不気味な雰囲気が漂っている。
 灰色の土は乾ききっているのに、地面に届く陽光は驚くほど弱々しい。
 大気が澱んでいる。雲がかかっているわけではないが、見上げる空は大地の色を映しているかのように灰色がかっていて、太陽までもがぼんやりと歪んで見える。
 腐臭が漂っている。
 どこからというわけではない。この一帯すべてが、死んだ空間だった。
 普通の人間が入り込めば即死してしまうであろう、瘴気に覆われた世界。
 その中をただ一人、若い女性が歩いていた。トカイ・ラーナ教会の紋章が刺繍された、騎士の礼服を身にまとっている。
 アィアリス・ヌィ・クロミネル。それが、彼女の名だ。
 肩のあたりで切り揃えた朱い髪が、歩くのに合わせて微かに揺れる。
「あまり、居心地のいい場所とは言えないわね」
 そんな独り言以外、物音はしない。足音は砂に吸収され、澱んだ大気はそよとも動かない。
 まるで夢の中を歩いているような、現実感の喪失を味わっていた。
 物事に動じないアィアリスには珍しく、顔にははっきりと不快な表情が浮かんでいる。
 こんな土地を何日も歩かされるというのは不本意だった。
 しかし、歪んだ魔力の影響が濃いこの地では、転移魔法による移動もできない。
 進むに従って、瘴気はその密度をいや増していく。
 こんなところで平然と生きていられるのは、王国時代の竜騎士並みの力を持つ彼女のような人間か、あるいは……。
「――っ!」
 アィアリスは振り向きざま、右手を大きく振った。真白い閃光が大気を切り裂く。
 一瞬の絶叫の後、小さな地響きが起こった。大きな――最も大きくなる種類の鰐くらいの大きさがある――蜥蜴に似た魔物が地面に転がる。
 胴体を真っ二つに両断されながら、それでもなお大きな口を開き、短剣のような歯をガチガチと鳴らしてアィアリスを威嚇していた。
「……だんだんと大きくなる。道は間違っていないというわけね」
 アィアリスの手の中に、杏ほどの大きさの赤い光球が生まれる。それは宙を漂って横たわる魔物の上まで行くと、爆発してとどめを刺した。
 同時に、アィアリスの左右の地面から土が噴き上がった。何物かが地中から飛び出してきたのだ。
 アィアリスの両手に、瞬時に赤い光の剣が現れる。腕を左右に大きく広げるように振り、彼女に襲いかかろうとしていた敵を一刀で斬り伏せた。
「……ふん」
 小さく鼻を鳴らす。
 体長の割に妙に胴回りの太い蛇が二匹、まったく同じ角度で斬り殺されていた。
「まったく……」
 進むに従って、魔物の数が増えてくる。
 この地を覆う魔力に惹き寄せられてきた連中だ。
 何が目的というわけではない。明かりに群がる蛾のように、本能の衝動に突き動かされているだけの存在。
「……まあ、それは私も似たようなものか」
 小さく呟いて、珍しく自嘲めいた笑みを浮かべる。
 それからふと気付いた。独り言が増えるのはいい傾向ではないな、と。
 こんな異様な地に何日もいたのでは、精神の平衡を保つのも難しい。あるいは、この地を覆う魔力が、なんらかの影響を及ぼしているのかもしれない。
「……先を急ぎましょう」
 溜息混じりに小さく肩をすくめて、また歩き出そうとする。しかしその脚はすぐに止まった。
 顔を上げる。
 いつの間に現れたのだろう。大きな……仰ぎ見るほどに大きな生物がそこにいた。
 全身、墨で塗りつぶしたような漆黒の鱗に覆われ、目だけが金色に輝いている。
 牛を一呑みにできそうな口が開かれると、そこに並んだ牙は短めの剣ほどの長さがあった。先が二つに割れた真っ赤な舌が、ちろちろと覗いている。
「亜竜……」
 アィアリスの手に、再び剣が現れた。少しだけ表情が真剣になる。
 千年以上も昔、人間が造り出した魔物。地上最強の存在である竜に最も近い、人造の生物。竜が滅びた現在でも、亜竜の末裔は大陸の一部に僅かながら生き長らえている。
 その力は竜には及ばないとはいえ、並みの兵士が千人いても倒すことは困難だろう。
「これでは、さっぱり道が進まないわ」
 剣を持っていない方の手の中に、青白い光が生まれる。
 亜竜の口の周りにも、光が集まってきた。
 アィアリスは全身の毛が逆立つような、ぴりぴりとした刺激を感じていた。
 大気を満たす静電気、それが前兆だった。
「……っ!」
 次の瞬間、亜竜の口から灼熱の光が放たれた。
 アィアリスが地面を蹴る。光は、一瞬前まで彼女がいた場所の地面を貫き、土を蒸発させて深い穴を穿った。
「キル・アィ・ライアル!」
 亜竜の攻撃をかわして間合いを詰めたアィアリスの手から、青白い光線が放たれる。それはまるで長大な槍のように、魔物の巨体を貫いた。
 一瞬、亜竜の動きが止まる。アィアリスはさらに前進して剣の間合いまで踏み込んだ。
 右手の、紅い光の剣にすべての魔力を注ぎ込んで突き出す。
 並の剣では傷をつけるのも難しい亜竜の鱗を、剣は易々と貫き、魔物の断末魔の咆哮が、澱んだ空気を震わせた。



 いつの間にか、周囲は霧に覆われていた。
 それでもアィアリスは、進むべき方向を迷うことはなかった。
 頭で考える必要はない。
 はっきりと感じることができる。
 魂が惹き寄せられるような、この感覚。
 何も考えず、それに従って進めばいい。
 亜竜を倒した後、どのくらい歩いただろう。ここでは時間の感覚もあやふやだった。
 いつの頃からか、魔物の襲撃はなくなっていた。もう、生きた魔物の姿はない。
 代わりに、周囲には魔物の死体が点在していた。
 その大半が白骨化している。
 この地を覆う魔力に惹き寄せられてきたものの、濃すぎる瘴気に中てられて死んでしまったのだ。まるで、自ら炎に飛び込む羽虫のように。
 中にはいくつか、人間の骨もあった。単に「強い魔力を持っている」だけの人間には、この辺りが限界だろう。
 この先には、もう、誰もいない。これより先には死体すら存在しない。
 そう思った。
 だから目的地に辿り着いて、そこに座っている人影を見た時。
 顔には出さなかったものの、アィアリスは内心かなり驚いていた。


 ほとんど起伏のない荒野の中に一つ、小さな丘がある。
 その麓に、一人の女性が座っていた。
 滑らかな褐色の肌と、その肌よりも明るい亜麻色の髪は、大陸南端に近い地方の出身であることを示していた。
 黒に近い濃い茶の瞳が、真っ直ぐにアィアリスを見つめている。
 顔には、なんの表情も浮かんでいない。生きた人間がこの地を訪れることなど極めて稀な出来事のはず。少しくらいは驚いた素振りを見せてもよさそうなものなのだが。
 その女性は、少なくとも外見はまだ若い。アィアリスよりも二、三歳は若く見える。しかし、実際の年齢はわからない。一体、何年ここでこうして座っているのだろう。
 手には剣を持っているが、まだ鞘から抜かれてはいない。アィアリスの姿は見えているはずだが、なんのリアクションも起こさない。
 アィアリスは一定の歩調で進みながら、相手を観察した。
 額には、細い金の鎖でできたサークレットが掛かっている。衣服は肩や腕、そして腹部が大きく露出したもの。
 どちらもやはり、南方系の特徴だ。しかし左腕に填めた騎士の腕輪に彫られた紋章は、ティルディア王国のものだった。
 ティルディアは、コルシア平原ではやや南に位置する国とはいえ、大陸南端まではさらに数千テクトの隔たりがある。アィアリスの知識では、ティルディアはどちらかといえば閉鎖的な軍事国家であり、余所者の騎士など珍しい存在のはずだ。
 アィアリスは、その女性の前で足を止めた。相手は微かに顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見る。
「あなたが……、黒剣の王?」
 そう訊いたとき、口の中がからからに渇いていることに気付いた。
 ひどく緊張している。こんなことは初めてだ。
 座った女性はこの台詞を聞いて、ゆっくりと口を開いた。微かに笑ったようにも見えたが、気のせいかもしれない。
「王……私が? いいえ、違う。私はただの番人。王は……もういない」
「……でしょうね」
 前の丘を見上げる。
 頂に、もう一つの人影が見えた。
 小さくうなずくと、アィアリスは丘を登り始めた。この女性が行く手を遮るかとも思ったのだが、そんな様子はなさそうだ。
 丘の上の女性は、漆黒の長い髪と、対照的な白い肌の持ち主だった。
 瞳も黒い。しかし、その瞳には丘を登るアィアリスの姿は映っていまい。
 最初から気付いていた。
 この女性は、ずっと以前に息絶えている。
 おそらく、十数年も前のことだろう。なのに、その姿は生きているときと何も変わらないように見える。ただ、生命の気配を感じるか否かだけの違いでしかない。
 美しい女性だった。
 外見は二十代の半ばくらいだろうか。鋭い瞳は、意志の強さを感じさせる。口元には何故か、静かな笑みを浮かべていた。
 一番大きな特徴として、その女性には右腕がなかった。肘の少し上で、切り落とされたように。
 しかし、それが致命傷というわけではなさそうだ。地面には褐色がかった血の痕が残っているが、それは主に腹部の傷からの出血らしい。右腕からの出血の痕がないところを見ると、腕を失ったのは致命傷を受けた闘いよりももっと前のことなのだろう。
 そして左腕は、一振りの剣を抱きかかえていた。
 外見は何の変哲もない、ただの剣。しかしこれこそが、この地に漂う魔力と瘴気の源であり、無数の魔物を惹き寄せた原因であり、そしてアィアリスの目的でもあった。
「黒剣の王も、不死身ではあり得ないということね。王国時代の竜騎士ならいざ知らず、まさか今の時代に黒剣の王を殺せる者がいるとは思えなかったけれど」
 アィアリスは、丘の下を振り返った。
 麓に座っていた若い女性が身体の向きを変え、こちらを見上げている。
「黒剣の王は死んだ。では、私が新しい王ということになるわ。剣を渡してもらえる?」
 別に、あの女性の許可を得る必要などないはずだった。しかし何故か、口からそんな言葉が飛び出していた。
 それに対して何の反応も返ってこないので、アィアリスは剣に手を伸ばした。
 鞘が手に触れる。しかし何も起こらない。
 そっと、剣を取り上げた。重さは、意外なほど軽い。
 いや、軽いどころではない。まるで、そこには何も存在しないかのように。
 しかし紛れもなく、これこそが『黒の剣』であるはずだった。
 アィアリスは剣を抜こうとした。その時になって、背後から静かな声が聞こえてきた。
「それを抜くのはあなたの勝手です。しかし、それが意味するところをわかっているのでしょうか。この、呪われた剣を手にする覚悟はあるのですか?」
 再び振り返ったアィアリスは、口の端を上げて笑った。
「青竜の騎士を凌駕し、無銘の剣を超える、この世界で最強の力。私にはその事実だけで充分よ」
 どんな由来の剣であろうと、どんな代償を必要とするものであっても、関係なかった。
 アィアリスはただ、力を求めていた。
 それこそが、彼女の存在意義だった。
「でしたら、剣をお取りなさい。それで何が起ころうとも、すべてあなた自身の責任です」
 褐色の肌の女性は、相変わらず無表情に言った。
 その言葉にうなずいて、アィアリスは剣を抜こうとした。しかし、ふと気付いたように手を止める。
 もう一度、剣を持っていた女性の死体を見下ろした。
「これが黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグなのでしょう? あなたは何者? 何故ここにいるの? ここにいるのに何故、剣を取らないの?」
 立て続けに質問を口に乗せる。それが一区切りついたところで、相手はゆっくりと口を開いた。
「私は、セルタ・ルフ・エヴァン。以前は、ヴェスティア様の……副官、でした」
「副官……? 愛人ではなくて?」
 からかうように言った。セルタ・ルフの名は、ヴェスティアのことを調べている途中で目にしたことがある。
 アィアリスの台詞を聞いて、相手も微かに苦笑したように見えた。
「……それも間違いではありません」
「で、残りの質問の答えは?」
「私も一度、黒の剣を手にしました。だから、ここにいます。黒の剣に魅入られた者は、二度と離れることはできません。それに、ヴェスティア様の遺骸を護る者が必要です」
 アィアリスは小さくうなずいた。頭の中で、その女性――セルタ・ルフの言葉を反芻する。
「あなたは、私が剣を取ろうとするのを止めなかったわね。何故? 私が剣を取れば、あなたがここにいる理由もなくなるのでしょう? それでもいいのかしら? この後、どうするつもり?」
「言った通り、私は剣から離れられません。かといって私自身は、剣の主となるには力不足です。あなたにそれだけの力があり、その覚悟があるのなら、止める理由はありませんし、止めることもできません」
 答えながら、セルタは立ち上がって丘を登ってきた。
 アィアリスの前に立つセルタは、やや小柄ではあるが、確かに剣を持つ者の身体をしていた。
 そもそも、並の人間ではこの地で一瞬たりとも生きてはいられないし、黒剣に手を触れることすら叶わない。
 セルタはすぐ前に立って、真っ直ぐにアィアリスの目を見つめている。
 アィアリスは眉をひそめた。
 黒に近い濃い茶の瞳が、ある人物を思い起こさせた。そういえば、全体的な雰囲気もどことなく似ている。
 不愉快だ――と、そう思った。なのに、どこか惹かれるものがある。相手から目を逸らすこともできない。
「私は、あなたと一緒に行きます。私の願いを聞いてくれるのなら、あなたのために力を貸しましょう。アィアリス・ヌィ・クロミネル」
 名を呼ばれて、アィアリスは片眉をわずかに上げた。
「私の名前を?」
「もちろん。ここはある意味『世界の中心』です」
「……成程」
 黒の剣の力を持ってすれば、遠く離れた地の事を知るのも難しくないということか。聖跡の番人クレイン・ファ・トームだって、聖跡の強大な魔力によって、大陸中の出来事を把握しているというではないか。
「あなたの願いとは?」
「復讐、です」
 その単語に、アィアリスの口元が綻ぶ。
「復讐……誰に?」
「フェイリア・ルゥ・ティーナ、ファーリッジ・ルゥ・レイシャ」
「面白い。気に入ったわ!」
 力強く言うと、アィアリスは一気に剣を鞘から引き抜いた。


 黒剣を抜いた瞬間、アィアリスの身体は闇に包まれていた。
 目の前にいたセルタの姿も、足元に座っていたヴェスティアの姿もない。
 灰色の荒野も、くすんだ空も、何もない。
 ただ一様に広がる暗闇。
 自分がどこにいるのか分からず、自我を保つことも難しい。
 意識が、稀薄になってゆく。
 この闇の中に溶けこむように。
 何もない、闇。
 一筋の光も射さず、微かな音もせず。
 絶対的な『無』。
 黒の剣は、ランドゥ神の力を封じたもの――そんな言い伝えがある。
 ランドゥは、虚無から生まれた暗黒神。すべての闇を司るもの。
 アィアリスはこれまで、そんな古い言い伝えを信じてはいなかった。
 黒の剣がどれほどのものであれ、それは無銘の剣と同様、人間が鍛えたものだ、と。
 ただ、少しばかり強い力を秘めている魔剣でしかない、と。
 神々の存在など、信じたことはない。
 この星の誕生にも、生命の進化にも、神などという人智を超えた存在が関与した形跡はない、と。
 しかし、そうだとしたら。
 これは、一体なんなのだろう。
 この剣の存在を、どう説明すればよいのだろう。
 この剣……? いいや、違う。
 これは剣ではない。
 人間の目には、剣の形に映るというだけのこと。
 剣は、力の象徴だから――。
 そう。これは『力』だった。
 限りなく純粋な。そして、限りなく汚れた力。
 想像を絶するほどの。どこまでも届く、力。
 アィアリスの周囲には闇が広がっている。
 しかしそれは、何もない虚無の空間ではなかった。
 それは『無』ではなく。
(無限――?)
 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、アィアリスの周囲で光が弾けた。



「ヴェスティア・ディ・バーグ?」
 一度大きく深呼吸して息を整えた後、フェイリア・ルゥ・ティーナは語尾を微かに上げて訊ねた。
 しかしそれは質問ではなく、確認の台詞だ。
 名を呼ばれた女性が振り向く。長い艶やかな髪が揺れた。
 わずかに怪訝そうな表情を浮かべて、こちらを見ている。
「初めまして、ヴェスティア・ディ」
 フェイリアは静かに言った。声音は穏やかだが、表情は硬い。
 左手には長い剣を持っている。まだ鞘から抜かれてはいない。
 ヴェスティアと呼ばれた女性は、騎士の身なりをしていた。剣は身体の右側に差している。左利きの騎士とは珍しいが、それは彼女の右腕が義手であるためだった。
「……誰だ?」
 ヴェスティアが問う。
 漆黒の瞳がフェイリアを見据えている。
「フェイリア・ルゥ。あなたに両親を殺された者よ。そう言っても心当たりがありすぎて、わからないでしょうね」
「敵討ちか。だったらひとつ忠告してやる。チャンスがあったら、名乗りなんか上げずに背後から仕掛けるべきだ。自分より強い相手を倒したいなら、な」
「ありがとう。次からはそうするわ」
 二人は今、剣の届く間合いよりもわずかに離れて向き合っていた。
 フェイリアの方から、じり、じり…と間合いを詰めていく。
 緊張感が高まってゆく。周囲の空気が、まるで帯電しているかのようにぴりぴりと肌を刺す。
 フェイリアは、声に出さずに魔法の準備をしていた。魔力の源となる精霊を召喚する。
 右手を、剣の柄にかける。
 あと、半歩――。
 そう思った瞬間、ヴェスティアの方からすうっと間合いに踏み込んできた。フェイリアは反射的に剣を抜く。
 同時に、準備していた魔法を発動させた。ヴェスティアの足下の固い土が、瞬時に柔らかな砂へと姿を変え、その足を捕らえる。
 キンッ!
 硬い、金属音が響いた。
 ぱっと紅い飛沫が散る。
 二人の動きが止まった。
「面白い……四大精霊の魔法とかいう奴か」
 地面に滴った血が、たちまち砂に吸い込まれていく。
 ぐらり……。
 フェイリアの身体が傾いた。よろめきながらも、剣を杖代わりにして辛うじてバランスを取り戻す。
 彼女の白い服に、紅い筋が走っていた。腹から胸にかけて、ざっくりと肋骨が剔られ、肺が切り裂かれている。
 心臓は辛うじて傷ついていない。いや、わざと外したのだろうか。
 いつの間に抜いたのか、ヴェスティアの手に剣が握られていた。
 黒い、剣。
 黒錆ではなく、塗ったものでもなく。
 それでいて漆黒の刃だった。
 黒い刃の上に、深紅の血糊が不気味なコントラストを描いている。
 フェイリアの顔には、驚愕の表情が張り付いていた。
 彼女の剣は空を切った。どうやってかわしたというのだろう。ヴェスティアの足は、柔らかな砂にくるぶしまで埋まっているというのに。
「精霊魔法なんて、今どき戦闘には使えないと思っていたが……こんな使い方もあるのか」
 ヴェスティアは愉快そうに言うと、砂から足を抜いて土の上に移動する。
 その時、一瞬の隙が生まれた。
 深手を負ったフェイリアに何ができる……と、たかをくくっていたのかもしれない。
 しかしフェイリアは、切り札を残していた。
 手にした剣。
 ヴェスティアの剣とは対称的な、真白い刃。
 青白い閃光が走った。周囲が一瞬、皮膚が灼けるような熱気に包まれる。
 一条の光が、天を貫いた。
 そして、力尽きたフェイリアがゆっくりと倒れる。
「……少しばかり油断したか」
 足下のフェイリアを見下ろしながら、さほど悔しそうでもない口調でヴェスティアは言った。むしろ、感心したような口振りだ。
「まさか、竜の剣がこの時代に伝えられているとはな」
 剣を鞘に戻し、手で腹を押さえる。
 指の隙間から、紅い血が流れ出していた。それも、多少の量ではない。
 もう一度、意識を失っているフェイリアを見る。微かに目を細めて。
「……なるほど、ティーナ家の血を継ぐ娘か。ならば、そういうこともあるか」
 小さく呟くと、フェイリアに向かって掌をかざした。手の中に紅い光が生まれる。
 しかしその光がフェイリアにとどめを刺すよりも一瞬早く、目の前で小さな爆発が起こった。
 ヴェスティアは大きく後ろに飛び退いたため、爆発には巻き込まれていない。しかし二度、三度と、ヴェスティアを追うように爆発は続く。
 その意図は明白だった。倒れているフェイリアから、引き離そうとしている。彼女の仲間だろう。
 予想通り、全力でこちらに走ってくる者がいる。
 若い男が二人。
 前を走るのは、フェイリアよりやや年長の長身の男。
 もう一人はもっと年下で、まだ少年と呼ぶべき年齢だろう。
「……ディケイド・フォア、アークス・フォア……? ……、ハイダー家の者か。さては、竜の剣はもともとあいつらの物だな」
 少年の方の表層意識を魔法で読み取り、二人の素性を知る。兄のディケイドはガードが堅いが、弟のアークスはまだまだ隙だらけだった。
 この兄弟は、フェイリアの従兄弟なのだ。さらに言うとディケイドは、フェイリアの婚約者でもある。
「……ここで、始末しておいた方がいいかな?」
 暫し考える。
 決して無益な殺生が好きなわけではないが、自分に刃を向ける者を見逃すほど寛容でもない。
 トリニア王国時代の名門、ティーナ家やハイダー家の末裔となれば、ここで見逃せば後々うるさいことになるかもしれない。
 ヴェスティアは前に出た。
「アークス! お前はフェアを連れて逃げろ!」
 剣を抜いたディケイドが立ち塞がり、少し遅れてきた弟に命じている。
 ヴェスティアの手から、数条の光線が放たれた。それは目の前のディケイドではなく、その後ろのフェイリアを狙った。
「――っ!」
 アークスが声にならない悲鳴を上げる。フェイリアに覆いかぶさるようにして、自分の身体でヴェスティアの魔法を受け止めていた。
 一瞬、ディケイドの注意が背後に向けられる。その隙を見逃さず、ヴェスティアは剣を抜いた。
 ギィンッ!
 火花が散る。
 不意を衝かれたにも関わらず、ディケイドの剣はヴェスティアの打ち込みを受け止めていた。
 なかなかのものだ。魔力に関してはともかく、剣の腕はフェイリアよりも上だった。どこの国へ行っても一流の騎士として通用するだろう。
「少しは楽しませてくれそうだ。せいぜい頑張って時間稼ぎしないと、恋人が死ぬことになるぞ」
 ディケイドは、命を捨てる覚悟でヴェスティアの前に立っていた。
 それは間違いない。
 相手が黒剣の主と知りながら闘いを挑むなど、生命を惜しむ人間にはできることではない。
 自分が犠牲となって、フェイリアを助けようとしている――それがわかったからこそ、ヴェスティアは本気でディケイドの相手をすることにした。



「今日は、厄日か?」
 ヴェスティアは苦笑した。
 本音を言えば、落ち着ける場所でゆっくりと休んで、先ほどの闘いで受けた傷を癒したいところだった。
 フェイリアの竜の剣に世って傷を負わされていたとはいえ、ディケイドは予想以上に健闘した。
 彼を倒した時には既に、フェイリアを連れて逃げたアークスの姿は近くに見あたらず、致命傷ではないとはいえかなりの傷を負ったヴェスティアは、それ以上追跡を続けられない状態だった。
 いずれ、また向こうからやってくるだろう――そう考えて、近くの街で休もうとしたのだが、そんな彼女の前に、別な人物が立ちはだかった。
「久しぶり?」
 皮肉っぽい笑みを浮かべて、その人物は言った。
「こ〜ゆ〜チャンスを狙っていたんだ」
 外見は、まだ十代の少女でしかない。
 しかしその正体が見た目とはかけ離れたものであることを、ヴェスティアは知っていた。
 初対面ではない。前にも一度、闘ったことがある。もう、遠い昔のことだが。
 濃い金髪が、風になびいている。
 大きな金色の瞳が、真っ直ぐにヴェスティアを見据えていた。
「ファーリッジ・ルゥ……生きていたのか、貴様もしぶといな」
「別に、好きで生きてたわけじゃない。私は、死ねないんだ。たとえ黒剣を用いてもね」
「ならば、もう一度試してみよう」
 ヴェスティアの左手が、剣の柄にかかる。
 ファージは、両手を身体の後ろに隠した。
「その傷で闘える? いくらあんたでも、竜の剣の相手はきつかったみたいじゃない」
「このくらいのハンデがなくては、貴様とは勝負にならんからな」
「さあ、どうかな?」
 ファージの身体の後ろで、白い閃光が弾けた。
 同時に、二人の周囲の空中に、青白い光の球が現れる。その数はちょっと数えきれない。十や二十などという数ではない。少なくとも桁がひとつ違う。
 ヴェスティアが動くのと、光球から青白い光線が放たれたのは同時だった。
 何十、あるいは何百条という光線が、瞬きよりも短い間隔で次々とヴェスティアを襲う。
 瞬時に、その場は眩い光に包まれていた。
 熱せられた空気が爆発的に膨張し、周囲を焼き尽くす。疎らに生えていた樹々が一斉に炎を上げる。
 やがて光は、生まれたときと同じくらい唐突に消滅した。
 視界が戻ったとき、二人は触れ合うほどの近さで立っていた。
 ファージが手にした紅い光の剣が、ヴェスティアの腹部を貫いていた。
 しかしヴェスティアの顔には、微かな笑みすら浮かんでいる。
 漆黒の刃が、ファージの顔を貫いていた。
「死ねない、たとえ黒剣を用いても――そう言ったな? ならば、その言葉を証明して見せろ!」
 バッ!
 鈍い破裂音とともに、ファージの頭部が消滅した。
 血と脳漿の混じった紅い飛沫が飛び散り、ヴェスティアの顔を汚す。
 遅れて、頭を失った身体が倒れた。
「……死ぬじゃないか」
 ヴェスティアは無表情に呟くと、血で汚れた刃を拭って鞘に収めた。
 そのまま歩き出そうとして、バランスを崩して地面に膝を着く。
 ぼたぼたと血が滴る。
 竜の剣や、ファージの剣に貫かれた腹の傷だけではない。身体中に、無数の傷があった。
 先刻の、ファージの魔法に依るものだ。
 ふらつきながらも立ち上がる。
 力の入らない足取りで、ゆっくりと歩き出した。
 無意識のうちに、口元が綻ぶ。
 可笑しくて仕方がない。
 まさか、こんなことがあるなんて。
「新しい発見だな。この私でも、死ぬことができるとは……」
 不思議なものだ。
 もう、飽きるほどに生きてきたはずなのに、いざ死ぬとなると色々と未練が生まれる。
「セルタ……」
 声に出さずに、その名を呟いた。
「……さっさと来い。急がないと、二度と会えなくなるぞ……」



「これは……記憶? ヴェスティアの……」
 いつの間にか、視界は元に戻っていた。
 剣は、鞘に収められている。
 無限に広がる闇も、ヴェスティア・ディ・バーグの傷ついた姿もない。
 アィアリスが剣を抜く前と同じ、瘴気に覆われた灰色の大地が広がっている。
 目の前には、セルタが立っていた。
「戻ってきましたか。剣に喰われずに済んだようですね」
「当然でしょう」
 アィアリスは平静を装って応えた。実際のところ、それほど余裕があったわけではない。
 全身から冷たい汗が噴き出していた。
 過去、黒剣の所有者となった人間が、片手で数えるほどしかいない理由がわかった。
 普通の人間ならば、あの闇の中に意識を飲み込まれてしまうだろう。アィアリスでさえ、何度も意識が融けて消えそうになった。
 あまりにも、恐ろしい存在だ。
 しかし、だからこそ黒剣の王は、コルシアの支配者となることも可能なのだ。
「あなたは、黒剣を支配するだけの力を持っている。新たな黒剣の王の誕生です」
 そう言うと、セルタは地面に膝をついて頭を下げた。
 アィアリスに対してではない。これまで剣の所有者であった、ヴェスティアに向かって。
 死後十数年の間、剣の魔力でその姿を保っていたヴェスティアの身体に、変化が現れていた。
 さらさらと崩れてゆく。
 砂で造った像のように。
 黒剣の力は、新たな主の元へと移っていた。
「お別れです、ヴェスティア様。あなたの魂は永遠に黒剣と共にあります。だから私は、黒剣と共に行きます」
 やがて、ヴェスティアの姿が完全に消え去ると、セルタは立ち上がった。
「私と一緒に来るの?」
 アィアリスが問う。
「迷惑ですか?」
「いいえ、行きましょう」
 ヴェスティアがいた場所に背を向けて、アィアリスは歩き始めた。
 剣は手に持ったまま。
「ところであなたは、どこへ行こうとしているのです?」
 後ろから、セルタの声がついてくる。
「未来へ、よ」
 アィアリスは振り返らずに応えた。



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