一筋の光も射さない、闇の中。
何もない空間。
無限に広がる、闇。
その中に、由維は一人でうずくまっていた。
外界のすべてを拒否するかのように、両手でしっかりと耳を押さえて。
しかし、それでも先刻からずっと悲鳴が響いている。
それは鼓膜を通すことなく、頭の中に直接響く声。
『痛い』
『痛い』
『痛い』
『痛い』
甲高い声。
多分、女の子だ。
まだ小さな、小さな子供の声。
『痛いよ』
『痛いよ』
『痛いよ』
『痛いよ』
『痛いよ』
その声は無数の刃と化して、由維の身体をずたずたに切り刻んでいく。
声が響くたびに、皮膚が裂けて血が噴きだす。
(ごめんなさい!)
由維は心の中で、何度も謝った。
(ごめんなさい!)
(ごめんなさい!)
(ごめんなさい!)
(ごめんなさい!)
それでも、声が止むことはない。
『お前のせいだ』
『お前のせいだ』
『お前のせいだ』
『お前のせいだ』
『お前のせいだ』
『お前のせいだ』
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
血塗れになった由維は、必死に叫ぶ。
自分の声で、頭に響く声をかき消そうとするかのように。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
いっそ、死んでしまえばいい。
身体中切り刻まれて。
身体中の血を流して。
しかし、どんなに傷が増えて、どんなに血を流しても、由維は相変わらず生きている。
生きていて、頭の中に響く声に苛まれ続ける。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お願い、許して! もう許して!」
『由維! ちょっと、由維!』
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
『由維! 由維ってば、起きなさい!』
由維を救ったのは、別な声だった。
生まれた時から傍にある、一番懐かしい声。
一番暖かい声。
彼女の名を呼ぶその声と同時に、頭に響く子供の声は聞こえなくなった。
目を開けると、ぼんやりと奈子の顔が見える。
部屋の中は暗い。小さなオレンジ色の室内灯と、カーテンの隙間から射し込む街の灯りだけが光源だった。
部屋の様子がいつもと違うので、時計を見つけるのに少し手間取る。それで思い出した。ここは奈子の部屋ではない。旅行先のホテルの一室だ。
ベッドの横のディジタル時計は、午前二時十三分を表示している。
まだ、夜中だった。
「奈子……先輩……」
「どうしたの。怖い夢でも、見た?」
「…………」
返事をする代わりに、無言で奈子にしがみついた。
大きな奈子の胸に顔を埋めるようにして、無言で泣いた。
本当は、ここにいる資格はないのかもしれない。
奈子の胸の中で泣く資格なんて、ないのかもしれない。
だけど、どうしようもない。
どんなに堪えても、涙が溢れだしてくる。
「…………ごめんなさい」
微かな、本当に微かな声で、それだけを言った。
奈子は、何も言わずに由維の身体に腕を回した。
何を言えばいいか、わからなかった。
一体、どう慰めればいいというのだろう。
あれからもう半年になるというのに、由維は今でも頻繁にうなされている。
しかし無理もないのかもしれない。
奈子だって、時々夢に見る。
たった半年で忘れてしまうには、あまりにも重すぎる出来事だった。
きっと、忘れることはできない。
一生、心に残る傷。
だけど、どうしようもない。
失ったものは戻らない。
生きていれば、取り返しのつかないこともある。
それは仕方のないことだ。
忘れることのできないこと。忘れてはいけないこと。
だけど、いつまでもそれを引きずっていてもいけない。
奈子はただ黙って、由維の身体を抱きしめていた。
(ごめん……、由維)
由維の心に、傷を残してしまった。
自分のことよりも、子供のことよりも。それが一番辛いことだった。
一番、傷つけたくない相手を巻き込んでしまった。
元はといえば、奈子の不注意が原因なのに。
(ごめん……、由維)
そっと、由維の頭を撫でる。
由維は変わらず、奈子の胸に顔を埋めて啜り泣いていた。
慰めの言葉はかけない。
そういえば、昔からそうだった気がする。由維が泣いている時は、ただ、傍についていてやるだけだった。
どちらかといえば口下手な奈子は、こんな時になんて言えばいいのかわからない。
泣いている原因が他にあるならともかく、今回は奈子自身が当事者なのだから。
だから、言葉は必要ない。
どんなに悲しい時でも、お互いの鼓動を、息遣いを、体温を感じていれば心が安らぐ。
小さい頃から、そうだった。
だから、今回の旅行にも連れてきた。一人で残しておくのは不安だったし、奈子も、一緒にいたかった。
由維はあまりいい顔をしないかもしれない、と思ったのだが。
なにしろ今回の旅行は、道場の先輩である高品雄二の招待がきっかけだった。高品が出場する大きな格闘技の大会があって、そのチケットをもらったのだ。
ちょうど学校は春休みなので、由維も誘った。一泊追加して、東京観光をするつもりだった。
ちらりと、窓の方へと目をやる。
外は、街の灯りで明るかった。
この時刻になっても、東京はまだ眠ってはいなかった。
翌日の夜、奈子と由維は日本武道館にいた。
観客席は満員である。ものすごい大歓声だ。
今夜ここで開催されているのは、最近増えている、打撃・投げ技・寝技なんでもありの、ノールール系の大会。相手を掴むことのできる薄いオープンフィンガーのグローブを着け、勝敗はKOかギブアップのみで決まる。
この種の大会は、出場者のレベルも試合内容もその時によってピンキリだが、今日の試合は質が高かった。
これまでの六試合、いずれも一流の格闘家同士の白熱した試合が繰り広げられていた。そしていよいよメインエベント。観客のボルテージは最高潮に達している。
なにしろ、メインエベントに登場するのは『世界最強の格闘家』と名高いルーシャ・チェルネンコなのだ。
今夜、武道館に集まった観客の多くは、ルーシャの試合が目当てといってもいい。
ルーシャ――ルスラーン・チェルネンコは、現在二十九歳。ロシア出身で、子供の頃からサンボと空手を学んでいたという。
やがて軍人となってコマンドサンボを身に付け、サンボのロシア選手権で優勝したこともある。
二十三歳で軍を除隊。アメリカに渡ってフリーファイト系のトーナメントに出場し、まったくの無名ながら圧倒的な強さで優勝をさらっていった。
ところがその後すぐに、何処へともなく行方をくらましてしまった。噂では、賞金で南米と中国を数年間放浪し、ブラジリアン柔術と中国拳法を学んでいたという。
三年前に格闘技の表舞台に復帰してからは、以前以上の圧倒的な強さで、世界の一流の格闘家相手に勝利し続け『世界最強』の称号を恣にしている。
百九十五センチ百二十キロの体格と、ロシア人特有の強靱な筋肉。そして生まれついての格闘センスに、世界を旅して身に付けた格闘の技。
ルーシャはその名から『ロシアの獅子王』と呼ばれているが、まさしくその異名に相応しい男だった。
そして今夜、この男に挑戦するのが、総合空手・北原極闘流の高品雄二だ。
昨年、総合空手協会の日本選手権で準優勝。現在の北原極闘流で最強、日本でも三指に入る空手家との評判だ。特に、空手ルールよりも、こうした総合格闘技ルールで強さを発揮するといわれている。
二十四歳とまだ若いが、ここ一年は他団体の試合にも積極的に参戦し、トップクラスのレスラーや柔術家とも対戦して、四戦全勝という成績を上げていた。
百八十六センチ百三キロと、ロシア人であるルーシャに比べれば一回り小さい。それでも十分、ヘビー級プロレスラーとも互角に渡り合える体格だ。
極闘流が総合格闘技とはいえ、グラウンド技術ではサンボ出身のルーシャには敵わないだろうが、圧倒的な破壊力を誇る極闘流の打撃は、たとえ相手が二メートル級の選手だろうと通用する。それに北原極闘流の技術体系は、他の多くの空手と違い、組技を使う相手と闘うことを前提としている。
世界最強の男と、今もっとも勢いに乗っている日本人格闘家の真剣勝負。
日本中の格闘技ファンが、この試合に注目していた。
間もなく試合開始だ。
「高品先輩、頑張れー!」
奈子の右隣の席で、大声を上げている女の子がいる。同じ道場の一年先輩、め〜めこと安藤美夢だ。彼女も奈子同様、高品の愛弟子だった。
左隣に座っている由維は、困ったように首を傾げている。
「うぅん、どっちを応援しようかなぁ」
「あんた、高品先輩の応援しないの?」
奈子は責めるような口調で言った。
年下の由維は、高品に直接指導してもらう機会はほとんどなかったはずだが、それでも極闘流の門下生なのだ。先輩を応援するのが当然だろう。
「だって、ルーシャ・チェルネンコっていい男ですよ?」
由維はまったく悪びれずにそう応えて、にっこりと笑った。確かに、均整のとれたルーシャの身体は、ギリシャ彫刻にも似た美しさがある。
「それに……」
「それに?」
美夢が身体を乗り出して訊いてくる。
「恋敵だもの」
ぼそっとつぶやいた由維の台詞に、奈子は飲みかけのジュースを吹き出しそうになって咳き込んだ。
「恋敵……?」
事情を知らない美夢は一瞬首を傾げたが、すぐに「ああ」と手を叩いた。
「あ、そーゆーこと?」
からかうように奈子を見る。奈子はさりげなく視線を逸らした。
実は高品は、奈子の初恋の相手なのだ。
そして『初体験』の相手でもある。
もう、二年以上も前のことだ。恋人のいる高品に、半ば強引に「一夜だけの恋人」になってもらったのは。
冷静になって思い出すと、やっぱり恥ずかしい。
「昔のこと蒸し返さないでよ!」
奈子は怒ったように言ったが、顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。
本当に「昔のこと」かと言われると、ちょっと困ってしまう。
(やっぱり、格好いいな……)
つい、リング上の高品に見とれてしまう自分がいる。
もちろん由維のことが一番好きで、一番大切な相手なのは間違いない。それでもやっぱり、女の子にとって「初めての相手」というのは、どれだけ時間が経っても特別な存在だった。
(頑張って、先輩)
あからさまに口に出すと由維がやきもちを妬くかもしれないので、心の中で声援を送る。両手は、知らず知らずのうちにぎゅっと拳を握っていた。
いよいよ、ゴングが鳴る。
両選手は、どちらからともなくリング中央に歩み寄って、片手を差し出した。握手するかのように。
しかしその手が触れた瞬間、高品のもう一方の手は拳を握って、ルーシャの顔面に襲いかかっていた。
ルーシャはルーシャで、高品の手首を握ってそのまま飛びつき腕十字固めを仕掛ける。
二人の身体がリング上に転がるが、お互い不十分な体勢だったために、そこで離れて立ち上がった。
驚きの入り混じった歓声が上がる。
高品とルーシャは、どちらも苦笑していた。お互いに、握手と見せかけて先制攻撃を狙っていたのだ。
一見、卑怯な攻撃である。しかしそれが闘いというものだ。試合が始まっているのに無防備に相手に手を預けるようでは、何をされても文句は言えない。
それが、スポーツと格闘技を画する一線だった。
高品もルーシャも、その点をよく心得ていた。「心は常に実戦」は極闘流の教えの基本だし、軍人上がりで世界中を旅して武者修行をしてきたルーシャも、簡単に敵を信用したりはしないだろう。
一度相手と距離を空けた高品は、構えも取らずに無造作に近寄っていった。ルーシャが手を上げて迎え撃つ姿勢をとる。
手の届く距離に入る直前、高品の右足が跳ね上がった。前蹴りがルーシャの鳩尾を狙う。
傍目には蹴りをまともに喰らったように見えたが、ルーシャは僅かに身体を下げてダメージを軽減し、その蹴り足を掴まえた。
「危ないっ!」
奈子は思わず悲鳴を上げる。
真っ向から組み合った体勢ならともかく、サンボのチャンピオンを相手に、蹴り脚を取られた状態で寝技に引き込まれては為す術がない。
高品の身体が、ふわりと浮いたように見えた。だが、ルーシャに持ち上げられたのではない。その証拠に、自由な方の足が顔面を狙った膝蹴りを繰り出す。
しかしルーシャは常人離れした反射神経で、腕で顔面をガードする。結果的に持ち上げられているような体勢になった高品は、そのまま脳天に肘打ちを落とした。
これはさすがに効いたのか、ルーシャは高品の足を放す。着地すると同時に高品が放った後ろ回し蹴りはガードされたが、それでもルーシャの体はバランスを崩して大きくよろめいた。
それで間合いが離れ、一度動きが止まる。
会場中から拍手が沸き起こった。
奈子は、ふぅっと大きく息を吐き出した。今の一連の攻防の間、呼吸をするのも忘れていたのだ。
自分で闘うよりもよっぽど緊張する。
「頑張ってるね、高品先輩」
美夢が嬉しそうに言う。
「当然ですよ!」
奈子も頬を紅潮させて応えた。
試合はその後も、白熱した展開が続いていた。
高品の正拳がルーシャの顔面を捉える。
血飛沫が舞う。
それでもルーシャは倒れずに、立ったまま高品の肘関節を極め、鳩尾に膝を叩き込む。
その膝を捕まえた高品が反り投げを打ち、グラウンドの攻防へともつれ込む。
倒れ込みながら、高品は顔面へ拳を打ち込む。しかし寝技の技術で勝るルーシャは、転がるように器用に体を入れ替えると、高品の上に乗った。
高品はルーシャの腹の下に足をこじ入れて、巴投げの要領で蹴り上げる。
そのままマットの上を転がり、距離を空けてから立ち上がった。
ほぼ一進一退。全体として見れば、打撃で高品有利、グラウンドでルーシャ有利という、試合前の予想通りの展開ではある。それでもお互い、相手の土俵でも予想以上に健闘していた。
この試合のルールは、一ラウンド五分でラウンド間のインターバルが一分。ラウンド数は決着がつくまで無制限となっている。
それでもこうしたノールール系の試合は、グラウンドでの膠着が続かない限り、比較的短い時間で終わることが多い。しかしこの試合は、もう既に第四ラウンドも終盤に差し掛かろうとしていた。
両者とも汗にまみれ、額や口から出血もしている。
息はかなり荒くなっているが、それでもまだ動きに疲れは見えない。
どちらが勝つかわからないまま、闘いはまだまだ続きそうに思えた。
しかし――。
第四ラウンド終了間際。
捕まえに来たルーシャの手をうまく押さえて、逆に立ち関節を極めた高品は、そのまま顔面に肘を打ち込もうとした。
それが入れば、決定的なダメージとなるはずだった。
運命の悪戯とでもいうのだろうか。
汗で、手が滑った。その隙を逃すルーシャではなかった。
高品の手首をがっちりと掴んだルーシャが、一瞬、体重が消えたかのような動きを見せる。身体がふわりと浮いたかに見えた次の瞬間、脚が、高品の腕に絡みついていた。
手品でも見ているようだった。流れるような動作で相手を寝技へ引き込む技術に関しては、サンボの右に出るものはない。
まるで、前もって打ち合わせてあったかと思うくらい自然な動きで、二人の身体はマットに転がった。
ルーシャは、スポーツマンではなく格闘技者だった。体格と技術だけではなく、その精神も『獅子王』の称号に相応しいものだった。
勝てるチャンスは、決して逃しはしない。チャンスがあれば、決して躊躇しない。
高品の肘が発した鈍い音を、奈子は聞いた。大歓声の中だというのに、その音は確かに耳に届いた。
一瞬遅れて、白いタオルがリング上に舞った。
「高品先輩、負けちゃったね……」
まだ場内の興奮が醒めやらぬ中、美夢は肩を落としてつぶやいた。
奈子はただ黙って、唇を噛んでいる。
肘靱帯を痛めた高品は、それでも担架を断り、セコンドに支えられながらも自分の足で退場していった。
リングの上では、通訳を介してルーシャへのインタビューが行われているが、奈子はほとんど聞いていなかった。
ただ一つだけ、耳に残った台詞がある。
『タカシナはいいファイターだったが、私が世界中を旅して身に付けた技の方が、キョクトウリュウをわずかに上回っていた』
その台詞と同時に、リングに飛び込む人影があった。
まだほとんどの観客が残っていた客席から、ざわめきが起こる。
「えぇっ?」
「あっ!」
奈子と美夢は、ほとんど同時に声を上げた。
胸を張ってルーシャの前に立っていたのは、一人の女性だった。
二人の知り合い。それもこれ以上はないというくらい、よく知っている顔だ。
なにしろ、同じ道場の先輩である。
その闖入者は、他ならぬ北原美樹その人だった。
「何やってんのよ! あ、あの人はぁぁっ!」
奈子は叫んだ。
美樹が会場に来ていたなんて、知らなかった。美夢も驚いている。
美樹は高校卒業後、白岩学園の大学に進学したが、今は休学して海外を放浪しているはずだ。
何処にいるのかはよくわからない。
外人部隊に入隊したとか、傭兵になってアフリカで戦争しているとか、そんな噂がまことしやかに聞こえてくる。
それなのに、どうしてここにいるのだろう。
しかし、そこにいるのは紛れもない北原美樹本人だった。
以前よりも少し日焼けして。髪が短くなって。
相変わらずの不適な笑みを浮かべて、自分よりも三十センチ以上大きいルーシャを見上げている。
ルーシャになにやら話しかけているようだ。どうやら英語らしい。
ゆっくり話してくれれば奈子でもなんとか聞き取れるだろうが、早口で、しかもスラング混じりとあってはさっぱり理解できない。美樹はもともとアメリカ生まれ。英語がネイティブなのだ。
困った奈子は、隣にいる美夢を見る。海外にホームスティした経験もあり、英語は得意なはずだ。
「なんて言ってるんです?」
「……通訳しなくてもわかるんじゃない? あの人の言いそうなこと」
美夢は苦笑している。
「なんとなくは」
「『極闘流に勝ったと言いたければ、私を倒してからにしろ』だって」
「やっぱり……」
驚くよりも先に、呆れてしまった。
とはいえ、美樹の気持ちも分からなくはない。
彼女は、北原極闘流の創始者であり総帥でもある、北原道元の孫娘だ。父親は何年も前に亡くなっているから、今は美樹が極闘流の看板を背負っているようなものだ。
「普段は自分勝手なことばかりしてるけど、やっぱり極闘流を大切に思っているんですね」
「いや、単にルーシャと闘う口実が欲しかっただけだと思う。ホント、強い相手には見境ないんだから」
素直に感動した奈子に対して、美夢は辛辣な台詞を吐いた。彼女は極闘流の門下生の中でも、もっとも美樹と親しく、その性格をよく把握しているのだ。
二人の隣で、由維は目を丸くしている。まだ中学生の由維は、奈子や美夢に比べれば美樹に直に接した機会は少ない。
リング上では、ルーシャが笑っている。美樹の台詞を本気にはしていない。
しかしそれが当然だろう。性差に加えて、身長で三十数センチ、体重は倍以上の差があるのだ。冗談と思わない方がおかしい。
笑われた美樹は、しかし怒った素振りを見せなかった。代わりに危険な笑みを浮かべている。
(まずい……。やる気だよ、あのヒト)
奈子のこめかみに一筋の汗が流れる。顔には出さない美樹の殺気が、ここまで伝わってくるようだ。
回し蹴り、だった。
まったく予備動作のない俊速の蹴りだ。
ルーシャの脇腹に突き刺さるような。
音は、ほとんど聞こえなかった。足の甲や脛で蹴るのではなく、つま先での蹴り。
いくら体格差があろうと、美樹の渾身の蹴りの威力が一点に集中するのだ。たかが女の子の蹴り…と侮ることはできない。
ルーシャの表情が強張る。額に脂汗が浮く。
にやりと、美樹が笑った。
ルーシャはゆっくりと、その場に膝を着いた。おそらく、肋骨を折られたのではないだろうか。
「ま、今日はあんたも疲れてるし、先刻の試合のダメージもあるだろうから、このくらいにしておこうか。勝負は二ヶ月後、だ。逃げるんじゃないよ」
英語で早口にまくし立てた後で、ゆっくりとした日本語で同じことを繰り返した。
まだ席を埋め尽くしている観客や、マスコミ関係者に聞こえるように。
万単位の観客を証人とすることで、ルーシャの逃げ道を塞いだのだ。
本気で、世界最強の男と闘うつもりらしい。
「あの人ってば……」
「……まさか、ここまでやるとはね」
奈子と美夢は、揃って肩をすくめた。
他に、リアクションのしようはなかった。
「松宮ちゃん?」
手洗いに行っている由維を待って、まだ大勢の人でごった返しているロビーにぽつんと立っていた奈子の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
きょろきょろとその声の主を捜す。ちょうど戻ってきた由維の後ろに、二十代半ばの、すらりと背の高い女性の姿があった。
「……沙紀さん」
顔見知りの雑誌記者だった。女だてらに格闘技雑誌の記者をしているという進藤沙紀、自称二十四歳だ。もっとも、去年もやっぱり二十四歳だったが。
(アタシの周りって、こーゆー人が多いよなぁ)
自分の母親や、いつも行く喫茶店のマスターの顔が浮かぶ。
それに比べれば沙紀のサバ読みなどせいぜい一、二歳。可愛いものだ。
「アタシになにか用ですか?」
「ちょっと取材させて」
北原美樹が日本の格闘技界で活躍するようになって以来、女子格闘技の人気が急速に高まっている。美樹や美夢など、実力と容姿を兼ね備えたキャラクターが続けて現れたことが大きな要因だろう。
その結果、沙紀のような女性記者の出番も増えることになる。相手が女の子であれば、女同士の方が話も聞きやすい。
それに、この進藤沙紀は同門出身だ。大学卒業まで、極闘流女子ではトップクラスの選手だったらしい。現役を退いてからは、こうして雑誌記者をしているというわけだ。
「誰ですか、このおねーさん?」
由維が訊いてくる。
「ほら、『月刊格闘王』の記者の進藤沙紀さん」
奈子の部屋に積んである雑誌を思い出して、由維はうなずいた。
「初めましてー」
「この子は?」
「宮本由維、アタシの後輩で……」
「奈子先輩の恋人でぇす!」
奈子と腕を組んで大声で宣言する由維の口を、慌てて押さえる。
「こら! なに言ってンの、こんなトコで……」
狼狽しているを見て、沙紀は声を上げて笑った。
「心配しなくても大丈夫。低俗な芸能マスコミじゃあるまいし、そんなプライベートまで記事にしないわよ」
「別に、記事にしてもらっても構いませんけど?」
「アタシが構うの!」
最近、美樹や美夢の人気は格闘技マニア以外にも広まり始めている。
女子格闘技の人気が上がればそこにアイドルが生まれるのも当然のこと。人気と知名度ナンバーワンの美樹や、とびっきりの美少女である美夢などは、写真集まで発売されている。もちろん、格闘技シーンよりも水着写真の方が多い。
どちらかといえばミーハーな美夢は喜んでいたが、当然、美樹はいい顔をしていない。
しかし極闘流総帥の北原道元は、実力のある優れた格闘家としては珍しく、商売上手な人物だった。
孫の人気を利用して極闘流を宣伝しようとする意図が見え見えだ。美樹は写真集はもちろん、男性向け雑誌の取材まで受けさせられている。あの北原美樹も、祖父にだけは口でも実力でも敵わないのだ。
そして最近は、奈子の知名度も上がってきていた。
美樹が海外逃亡してしまったので、全国大会で連覇している奈子をその代わりにしようという目論見らしい。
時には何か勘違いしたような取材を受けることもあったが、その点では沙紀は信用してもいい相手だった。『月刊格闘王』はその誌名の割に、どちらかといえば硬派の雑誌だ。
「先刻のアレについて、ちょっと話を聞かせてよ。晩ごはんくらいご馳走するからさ」
沙紀が顔の前で手を合わせる。
「それなら私、焼き肉がいいな!」
「直接、美樹さんに訊けばいいじゃん」
ずうずうしい由維の後頭部を掌底でどつきながら、奈子は応えた。
「それができればねぇ。とっくに雲隠れしちゃったのよ、あの子。だからさ、代わりに誰か北原ちゃんに近い人のコメントをもらわないと、格好つかないの。その場にいながらコメントが取れなかったなんて、編集長に怒られちゃう」
「まあ、そういうことなら少しくらいは……」
協力してやってもいい。どうせこの後は、由維と食事をしてホテルに戻るだけの予定だった。
「じゃあ、行きましょうか」
三人は並んで歩き出す。美夢は、こちらの友達に会う約束があるとかで、先に帰っていた。
「いくら北原ちゃんでも、ルーシャ・チェルネンコ相手に勝負になると思う?」
「常識で考えれば、無謀だと思いますけどね…」
奈子は正直な意見を口にした。
「無謀? そんなことはないさ」
美樹は、腕立て伏せを続けながら言った。
掌は床に着いていない。五本の指で身体を支えている。
「じゃあ、勝てるって言うんですか? あのルーシャ・チェルネンコに」
奈子は隣で柔軟体操をしている。
あの試合から二週間ほどが過ぎたある日のこと。
稽古はないはずの日に、いきなり美樹から電話がかかってきて、道場に呼び出されたのだ。
練習に付き合え、と。
突然のことに戸惑いはしたが、美樹に直接稽古を付けてもらうのも久しぶりのこと。奈子は急いでやって来た。せっかくだからと由維も連れてくる。
「勝てるさ。ルール次第でいくらでも勝算はある」
美樹は、本気でルーシャと試合をするつもりらしかった。この二週間で、ルーシャとの交渉はもちろん、スポンサー探しやテレビ局との打ち合わせまで済ませてきたそうだ。
奈子にはやっぱり無謀な行動に思えるのだが、しかし、美樹にとっては違うらしい。涼しい顔で腕立てを続けている。
五本指で三十回の腕立てを終えた美樹は、今度は小指を床から離した。
四本指で同じく三十回。
次は薬指も離して……と、一本ずつ指を減らしていって、最後は親指と人差し指だけで身体を支えるのだ。
「ルール次第って……、目潰しはどんなルールでも禁止でしょう?」
喧嘩での美樹の得意技。さすがに試合では使わないが、実戦となれば容赦はない。
しかしまさか、テレビ中継もある公式試合でそれはないだろう。
「いくらなんでも、そこまでしないさ。肘打ち、頭突きあり、グローブなし。それで十分」
「まさか?」
美樹とルーシャでは身長で三十五センチ強、体重は倍以上も違う。しかも相手の技術は超一流だ。
素手で、いったいどう闘うというのだろう。
「いくらでも闘いようはある。楽勝とは言わないけど、勝ち目がないわけじゃない」
美樹は平然と言った。
(この人って……)
昔からちっとも変わらないな、と奈子は思う。
いつも、燃えさかる炎のようだ。
もう、四年も前になるだろうか。父親が亡くなって、美樹が祖父のいる日本へやってきたのは。
その頃奈子は、中学生になったばかりだった。
新学期が始まって最初に道場へ顔を出した時、妙に先輩たちがざわついていて。
その話題の主が美樹だった。
彼女が最初に騒ぎを起こしたのは東京の本部道場だから、奈子は後で先輩から聞いた話だ。
本部の師範代に連れられて道場に来た美樹は、ちょうどそこで稽古していた女子を見て「子供のままごと遊びだ」と言い放ったのだそうだ。
その場には極闘流の女子チャンピオンもいたのだから、只で済むはずがない。当然のように、限りなく喧嘩に近い試合を行うことになり、美樹は無傷でその場の全員を倒したという。
最初からそんな調子の美樹には敵も多かったが、しかし、確かに強かった。
初めて美樹を見たときに、奈子は思ったものだ。この人は人間の形をした肉食獣だ、と。
強さを求めるためには一切の妥協を許さないその姿に、心惹かれた。
この人のようになりたい、この人と闘えるくらい強くなりたい、と。そう思って今日まで空手を続けてきた。
腕立て伏せを続けている美樹を見おろす。
いったい自分は、この人にどれだけ近づくことができたのだろうか。
と、突然。
美樹が跳び上がった。
直前まで床に伏せた姿勢だったのに、全身のバネを利用して、奈子の身長よりも高く跳んでいる。
反射的に、腕で顔面をガードした。
間一髪の差で、蹴りを受け止める。
続けてもう一発。
美樹はあの崩れた体勢から、空中二段蹴りを放ってきた。
腕を貫くような痛みが走る。衝撃は骨まで響く。
考えるより先に、身体が動いていた。
着地する瞬間を狙って前蹴りを繰り出す。
美樹は大きく後ろに跳んでそれをかわした。
「い、いきなり何するんですかっ?」
奈子は叫んだ。
予告もなしにいきなり襲いかかってくるなんて、何を考えているのだろう。
「ちゃんと反応できてるじゃん」
美樹は小さく笑って構えを取った。
「おかげで失望せずに済んだ」
「美樹さん……?」
訝しみながら、奈子も構えた。相手の意図は読めないが、こんな状態の美樹の前で無防備でいては、冗談抜きで命に関わる。
「ルーシャとやる前に、スパーリングの相手をしてくれよ。もちろん時間無制限、ノールールでな」
「そんな無茶な!」
「お前も得意だろう? そーゆーの」
奈子の返答を待たずに美樹が飛び込んできた。
中段の回し蹴りと見せかけて、いきなり左右の突きに変化する。
奈子は蹴りをブロックするために上げかけた足をそのまま足刀気味に蹴り上げ、美樹の突きを払い除けた。
軸足を狙って、今度こそ下段の回し蹴りが飛んでくる。
奈子は軸足でそのまま床を蹴った。顔面を狙った跳び蹴りで反撃する。
右腕を回すようにして蹴りを流した美樹は、無防備になった脇腹にフック気味の突きを打ってくる。その拳には肘を叩きつけてかわした。
「やめてくださいよ、美樹さん!」
「口ではやめてと言っても、身体はちゃんと反応してんじゃん?」
「そーゆー下品な表現もやめてくださいっ!」
奈子は真っ赤になった。一見ストイックな美樹だが、実は意外と下ネタが得意だ。
ほとんど間を置かず、また美樹が襲いかかってくる。
こうなっては奈子としても、覚悟を決める必要がありそうだった。
美樹の攻撃はまったく手加減していない。本気で、やるつもりなのだ。
(だったら……、こっちも本気でやってやる!)
やるしかない。もう逃げ道はない。
それならば、今の自分がどこまで美樹に通用するのか、それを試す絶好の機会だった。
(病院送りにするくらいのつもりでやらないと……)
そうしなければ、自分が殺される。
「怪我してルーシャとやれなくなっても知りませんよ! 昔のアタシとは違いますからね」
「よく言った。そうなったらお前が代わりにルーシャとやれよ」
身にまとう殺気のためだろうか、奈子よりも小柄なはずの美樹の身体が、ひどく大きく感じた。
由維は、ただ呆然と二人の闘いを見つめていた。
なにしろ、口を挟む間もなく闘いを始めてしまったのだから。
美樹は当然として、結局のところ奈子も闘うことが好きなのだ。
それにしても、なんてレベルの高い攻防だろう。
端で見ている由維が突きや蹴りを目で追いきれないのに、間近で闘っている二人は、相手の動きにほぼ完璧に対応している。
二人とも、本気だった。
顔面への正拳や一本拳。
関節や、肋骨の隙間を狙った貫手。
相手の襟を掴んだ状態からの肘打ち。
つま先での蹴り。
昇竜脚や飛鷹脚といった、ブロックの上からでもダメージを与えうる大技。
そして、衝。
公式試合では禁止されている技も含めて、なんの遠慮もなしに一撃必倒の攻撃を繰り出している。
それは、相手がかわせると信じているからだろうか。それとも、本当に殺してもかまわないと思っているのだろうか。
フェイント混じりに矢継ぎ早の攻撃を続けているというのに、お互い、致命的なダメージは受けていない。
ほとんどの攻撃をかわし、ブロックし、それが不可能であれば身体の位置をわずかに変えることでダメージを軽減している。
もちろん、相手の動きを見てから考えて対応しているのではない。かといって反射神経だけでできる単純な攻防ではない。
以前、奈子が説明してくれたことがあった。
これは一種の『先行入力』なのだ。
相手の構えや動きから、次に来るであろう攻撃の候補をすべて抽出し、それぞれへの対応法を考えて神経と筋肉にインプットしておく。そうすることで、反射とほとんど同じ速度で「考えた動き」をすることが可能なのだ、と。
それは、口で言うほど簡単なことではない。将棋やチェスの対戦のように、何手も先まで相手の行動を読み、あり得るすべての可能性を洗い出さなければならないのだから。
相手がひとつ行動を起こしたら、外れた予測はすべて破棄し、その行動を元にまた次の未来を予測する。最新のコンピュータの先行処理にも似て、脳と神経は実際の動きよりも先の行動を起こしているのだ。
二人とも、予知能力と言ってもいいほどの精度で相手の動きを読んでいた。攻撃がクリーンヒットするのは、相手の予想を大きく外すか、対応が追いつかないほどの速度で連撃を繰り出した時だけだ。
由維は驚いていた。
まさか奈子が、これほどまでに強いとは。
奈子の強さはよく知っているが、極闘流の女子にとって北原美樹は雲の上の存在だ。彼女と互角に闘える女子がいるなど考えられない。
しかしどうだろう。いま目の前で繰り広げられている光景は。
ほとんど互角の攻防である。
いや、互角どころではない。
時間が経つにしたがって、徐々に奈子が優勢となりつつある。
もともと体格的には奈子の方が恵まれているのだ。そして今、動きの速さでも正確さでも、美樹と肩を並べている。
闘いが長引けば、パワーとスタミナで勝る奈子に分があった。
美樹の動きが、少しずつ遅れ始めていた。
ガードの上からでも容赦なく叩きつけられる攻撃によって、わずかずつとはいえダメージが蓄積しているのだ。耐久力の点でも、身体の大きい奈子の方が有利だった。
打撃では分がないと見たのか、美樹は前に出ると奈子の道着を掴んだ。
(組技?)
体格で劣る美樹が、自分から組みに来るとは意外だった。胴のガードが甘いのを見て、奈子は密着した体勢から膝蹴りを放つ。
それが決まった……と思った瞬間、美樹の右腕が蹴り脚を抱え込んでいた。同時に、左腕は奈子の首に回される。
「キャプチュード!」
由維は思わず叫んだ。
相手の膝と首を抱え込んでの反り投げ。その昔、プロレスラー時代の前田日明が得意にしていたという大技だ。受け身が難しく、まともに決まれば一気に形勢は逆転する。
しかし、以前にも美樹のキャプチュードを喰らったことのある奈子は、その破り方を学んでいた。
首を抱え込まれた瞬間、相手の顔面に額を叩きつける。
頭突きは多くの格闘競技で反則とされているが、しかしこれが正統なキャプチュード破りの手段だった。
美樹の身体がバランスを崩す。
そのわずかな隙が命取りだった。
美樹の突きをかいくぐるように、奈子が懐に飛び込む。脇腹はがら空きだ。
(――衝っ?)
由維は、奈子の勝利を確信した。
全身の運動エネルギーを一点に集中して打ち込む必殺の突き『衝』。これがまともに入れば勝敗はほぼ決する。
奈子は右脚を大きく前に踏み出した。足が床に触れた瞬間、鋭い腰の回転と共に右拳が打ち出される。
ドォン!
バスドラムを力いっぱい叩いたような音が響く。
美樹の身体がその場でくの時に曲がった。
衝がまともに入ったとき、相手の身体は後ろに吹き飛ばされることはない。そのエネルギーは全て体内に打ち込まれ、最大限のダメージを与える。
奈子の動きはそれで終わらなかった。木偶のようにただ立っているだけの美樹を攻撃し続ける。
これ以上やったら、美樹は本当に危ないかもしれない。
しかし「相手が立っている限り、攻める手を休めるな」「優勢に立ったら、相手が倒れるまで一気に畳み掛けろ」日頃から奈子にそう教えてきたのは、美樹その人なのだ。
左右の突き。
そして前蹴り。
すべてヒットする。衝が入った直後は痛みと神経へのダメージのために、身体はほとんど動かないはずだ。
顔面をガードしていた腕が下がる。顔面に正拳が入る。
美樹の足はまだ床を踏みしめているものの、そうしていられるのもあと二、三秒のことだろう。
(奈子先輩! それは……っ!)
奈子の腰がわずかに低くなるのを見て、由維は心の中で悲鳴を上げた。
衝でとどめを刺そうというのだ。
美樹はもう、意識も定かではないだろう。まともに防御もできない相手に本気で衝を打てば、ひとつ間違えば病院送りでは済まされない。
ガードするつもりなのか、美樹が腕を上げる。しかしその腕には、もう力がこもっていない。奈子の身体に触れたものの、押し返すだけの力はなかった。
「――っ!」
道場にまた、重い音が響いた。
美樹が咳き込むように血を吐き出す。
ほとんど密着した状態で、二人の動きが止まった。
一秒、二秒、三秒。
突然、奈子の身体がびくんと痙攣した。
表情が歪む。
自分の身体を抱きしめるような格好で、奈子はその場に崩れ落ちた。
ごぼっという音とともに、口から多量の血が溢れ出す。
「奈子先輩!」
血が気管に入ったのだろうか。それとも呼吸器からの出血なのだろうか。奈子は激しく咳き込みながら喀血し続けている。
「奈子先輩っ!」
由維はもう一度叫ぶ。
美樹がこちらを振り返った。
彼女も満身創痍だ。今にも倒れそうな様子で、自嘲めいた笑みを浮かべている。
「何をぼんやりしてる? さっさと救急車を呼んでこい」
「え……?」
「急がないと、死ぬぞ」
その言葉で我に返った。更衣室に携帯電話が置いてある。由維は慌てて駆けだした。
背後から、美樹の声が聞こえてくる。
「ああ、私の分も呼んでくれ」
由維が振り返ると、ちょうど美樹の身体が力尽きたように倒れるところだった。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2000 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.