二章 魔凱史


 白岩学園大学、医学部付属病院の外科病棟。
 そこに、奈子は入院していた。
 まだ、腕には点滴と痛み止めの管が刺さっている。
 動くこともままならない。だから奈子は一日中寝て過ごしていた。
 具合の悪い時は、いくらでも眠ることができた。
 余分な体力を使わず、ただ回復のためにすべてのエネルギーを費やす。
 怪我をした野生動物がそうするように、奈子はただじっと傷を癒していた。
 今日、由維は来ていない。あるいは、ちょうど眠っているときに来たのかもしれないが。まあ、もう命に別状はないのだから、毎日来る必要もないだろう。
 両親には詳しく話していない。稽古中に怪我をしてちょっと入院する、とだけ。
 仕事が忙しい両親に、余計な心配をかけたくなかった。
 奈子が軽い怪我で病院に通うのは日常茶飯事だから、見舞いにも来ていない。まさか集中治療室に運び込まれたとは夢にも思わないだろう。
 それでも奈子は、担当の医者が驚くほどの回復力を見せていた。
 もちろん人に言うことはできないが、これも魔法の賜物だ。こちらにいる時に使える魔力は微々たるものとはいえ、自分の身体に働きかけて回復を早めるくらいのことはできる。それに見舞いに来ているときは、由維も協力してくれている。
 おかげで、当初の見込みよりもずっと早く退院できそうだった。
 そうでないと困る。ベッドでじっとしている毎日というのは、奈子にとっては拷問に等しいのだ。
(あーあ、今回こそは勝てると思ったんだけどなぁ……)
 ベッドの中で考える。
 あの最期の一瞬、いったい何が起こったのだろう。
 奈子が憶えているのは、内臓を引き裂かれるような痛みが走り、急に全身から力が抜けていったことだけだ。確かに美樹の手は身体に触れていたが、こんな重傷を負うほどの打撃を受けた記憶はない。
(……底の見えない人だな、あの人も)
 美樹は、まだまだ奈子の知らない技を隠し持っているのだろうか。ならば、ルーシャ・チェルネンコと闘おうなどと考えても不思議はない。
(ほんとに勝っちゃうかもな、美樹さんなら)
 美樹とルーシャの試合、できればセコンドに立って一番近くで見たいものだと思った。
(それにしても……)
 退屈だ。
 入院してまだ四日目なのだが、そろそろ忍耐力が限界に近づいている。
 身体を動かしたい。
 動き回りたい。
 その気になれば少しくらいは歩けそうだったが、医者や看護婦に見つかったら怒られるだろう。それは昨日実験済みだ。顔なじみの看護婦に「また無理に動こうとするなら、ベッドに縛り付けるわよ。それとも奈子ちゃん、緊縛プレイって好き?」などと、いかにも本気でやりそうな笑みを浮かべて言われては、大人しくしているしかない。
(しゃあないな……)
 もうしばらく、寝ているしかなさそうだ。
 しかし、たまにはいいのかもしれない。こんな時でもないと、落ちついて考え事をする機会もない。
 たまに、ゆっくりと考えてみる必要もあるだろう。
 向こうの世界のことについて。
 あの世界の成り立ち、歴史。
 エモン・レーナやクレイン、あるいはレイナ。
 ソレアやファージ。
 それに……、アィアリス。
 過去のこと。そしてこれから先……未来のこと。
 記憶を整理し、ゆっくりと考える機会も大切にするべきかもしれない。



 その星は、ノーシルと呼ばれていた。
 大いなる大地――古い言葉で、確かそんな意味だ。
 別に、神様が創った世界というわけではない。四十数億年前、奈子が住む地球と同じように、物理の法則に従って誕生した。
 そして四十数億年間、地球と同じような……そして少しだけ違う進化の歴史を歩んできた。
 海で最初の生命が生まれ、多様に進化し、やがて地上へ進出した。
 両生類から爬虫類へ、さらに鳥類や哺乳類へと進化していく。
 そして、霊長類が出現した。
 他の生物に比べて極端に大きな脳と器用な手を持った動物、人の誕生だ。
 最初、小さな集落を作って暮らしていた人間は、やがて大きな都市を築くようになる。今では『前文明』と呼ばれている、最初の古代文明である。
 それが、およそ十万年前のこと。
 しかしその文明は、大災害――おそらくは巨大隕石の衝突――によってすべて失われた。
 地表は荒廃し、多くの生物は死に絶え、四十億年間積み上げてきたものの大半が失われれてしまったのだ。
 それでも、すべての生命が滅びたわけではない。
 地上が再び緑に覆われ、多くの動物たちが闊歩するようになるまでには数万年を要したが、この星は甦った。
 わずかに生き残った人間たちも、また原始時代から新たな歴史を刻み始めた。
 技術は進歩して、再び大きな都市が築かれるようになり、無数の国家が誕生した。
 乱立する国々が争った戦国時代。
 その中から、ゾーンやデイシアといった大国が精力を伸ばして大陸の覇権を握った前王国時代。
 そして、ストレイン帝国とトリニア王国連合が大陸を支配していた王国時代……。
 今から千五百年くらい前、デイシア帝国を滅ぼして大陸最大の帝国となったストレイン帝国が、大陸南部へその勢力を広げ始めた頃。
 ストレイン侵攻の危機に晒されていたある小国の片隅で、一つの出会いがあった。
 強大な帝国に対して無謀とも思える抵抗を続けていた小国モアの王子エストーラ・ファ・ティルザーと、黄金竜を駆る最初の竜騎士エモン・レーナ。
 エモン・レーナが何者なのか、どういう意図でエストーラに力を貸したのか。それは誰にも分からない。
 しかしエモン・レーナと彼女の竜は、モアへ侵攻したストレインの軍を蹴散らし、そしてエストーラやその従妹のクレイン・ファ・トームをはじめとする数人の仲間に、竜騎士の力を授けた。その者たちを中心として、やがてストレイン帝国に対抗する勢力となるトリニア王国連合が結成された。
 古い歴史書には「エモン・レーナより竜騎士の血を授かった」と書かれている。その『竜騎士の血』が何を意味しているのかはわからない。しかし竜騎士の出現によって、大陸の歴史が大きく動き始めたことは間違いない。
 それまで、竜が人間に干渉することはほとんどなかった。
 竜は人間社会に干渉せず、そして人間から干渉されることを嫌っていた。
 しかしこの時代から、一部の竜は人間と心を通わせ、共に闘うようになった。
 王国時代とは、いわば竜騎士の時代である。
 竜騎士の血筋は婚姻によって広まってゆき、人間たちの魔法技術は飛躍的に向上した。
 その力によって文明はさらに進歩し、かつてない高みにまで達していった。
 それが、王国時代だ。
 この時代について、もっとも大きな疑問は二つあった。
 一つはいうまでもなく、エモン・レーナの正体。
 エストーラと出会う以前のエモン・レーナの経歴は、一切が謎である。
 何処で生まれ育ったのか。
 どうやって竜を従えるほどの力を身に付けたのか。
 そして、どんな意図でエストーラたちの戦いに加わったのか。
 何もわかっていない。
 まことしやかに語り伝えられているのは「エモン・レーナは女神アール・ファーラーナの化身だ」という説だ。
 アール・ファーラーナは、主として大陸南部で信仰されていたファレイアと呼ばれる神々の一員で、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘、戦いと勝利の女神とされている。
 ファレイアを信仰する人々の間では古くから、彼らの国が危機に陥った時、アール・ファーラーナが人間の姿で降臨するという伝説があった。だからエモン・レーナが女神の化身と考えられたのも、自然なことといえる。
(エモン・レーナの正体か……)
 それは、今の奈子にも分からない。ソレアやファージだって知らない。
 真相を知っている者がいるとしたらおそらく、聖跡の番人で生前はエモン・レーナの親友だったクレインだけだろう。しかし彼女が口を割るとは考えにくい。
(クレイン……。彼女もなぁ)
 聖跡――エモン・レーナの墓所を永遠に護り続ける不死の番人。
 トリニア王国の公式な歴史において、クレイン・ファ・トームは最大の反逆者である。
 青竜の騎士を指揮する将軍の身でありながら、ストレイン帝国と内通し、エモン・レーナを殺害した、と。
 その罪によりクレインは処刑され、彼女の魂は罪を償うために番人として聖跡に封じられた、というのが一般に知られている歴史だった。
 しかし、真相はかなり違う。
 奈子は知っていた。
 エモン・レーナは、自ら死を選んだのだ。
 クレインは、唯一の家族である弟を敵に捕らえられ、引き替えにエモン・レーナの生命を奪うことを要求されていた。
 トリニアとストレインのすべての竜騎士の中で、唯一クレインだけがエモン・レーナを凌駕する力を持っていた。エモン・レーナの力に手を焼いたストレイン帝国は、同じトリニアの竜騎士の手で彼女を葬ろうと考えたのだ。
 当然クレインは、そんな要求を呑む気はなかった。彼女にとって弟は自分の生命よりも大切な存在だったが、それと同じくらい、エモン・レーナとトリニア王国も大切だった。
 だから敵の要求を無視し、弟を救うために単身敵地に乗り込もうとしたのだ。
 それを引き留めたのがクレインだ。自分の生命と引き替えにして、弟を助けるように、と。
 その代わりクレインは、永遠に聖跡を護り続けるように、と。
 そう言って、エモン・レーナは自ら命を絶ったのだ。
『この国で、私がやるべきことはもうない。これからのトリニアには、私の力は必要ない。私が、クレインやエストーラのためにしてあげられることは、もうないの』
 それが、エモン・レーナの最後の言葉だった。
(いったい……?)
 確かにエモン・レーナは、普通の人間ではなかった。
 誰よりも高いところから人間たちを見下ろしているような。そんな雰囲気があった。
(だからって、女神の化身ってことはないだろ?)
 たとえ向こうが『剣と魔法の世界』であったとしても、神などというものの存在を、奈子は信じていなかった。
 エモン・レーナだって、人間の筈だ。
 ただ、その意図が読めないだけだ。
 エモン・レーナの墓所である聖跡は、今も大陸の歴史を見守り続けている。生きている人間たちが紡ぐ歴史に干渉することなく、ただ見守っているだけの存在。
(そう。エモン・レーナは最初から、観察者だったんだ。エストーラたちの戦いに手を貸したことこそが、気まぐれだったとしたら……)
 見守る者。
 いったい何のために?
 いったい何を見届けようというのだろう。
(近いうちにもう一度、聖跡に行ってみるか……)
 他に、答えの見つかりそうな場所はない。
(これからのトリニア王国には、私の力は必要ない――エモン・レーナはそう言ったんだ。そして、その言葉は正しかった……)
 エモン・レーナとクレインの死後もトリニアの勢力は衰えることはなかった。
 それから五年。多くの犠牲を払ったものの、トリニアはストレイン帝国を攻め滅ぼした。
 以後四百数十年の間、トリニアこそが大陸の覇者だった。
 ストレイン帝国の残党の一部は遙かな北の地へと逃れ、そこで後ストレイン帝国を興すのだが、その勢力が再びトリニアと肩を並べるようになるには、四百年以上の時間が必要だった。
 トリニア王国の衰退。その原因の一つに、ファージの存在が挙げられる。
 ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。
 たった一人で、トリニアの青竜の騎士十一人を殺した『金色の瞳の悪魔』。
 彼女は……。彼女こそ、人間ではなかった。
 人の姿をした、しかし人とは異なる遺伝子を持つ存在。
 一人の狂った魔術師が生み出した魔法生物、ドール。
 その当時、トリニアの青竜の騎士は定数三十二名のところ二十九名しかおらず、そのうち十一人がファージによって殺された。そして結局、ストレイン帝国との戦争が始まるまで、青竜の騎士が定数を回復することはなかった。
 その間にも、後ストレイン帝国は着々と勢力を増しつつあった。
 そして千年前……王国時代最後の大戦が始まった。
 トリニア王侯連合と後ストレイン帝国の、総力を賭けた戦い。
 王国時代に飛躍的に発達した魔法技術のすべてを注ぎ込んで。
 大陸全域を焦土と化すほどの激しさで。
 屍の山を築いていった。
 王国時代の竜騎士の力。それは、奈子の世界の核兵器にも匹敵するほどのものだった。
 一撃で砦を破壊し、都市を焼き尽くす力。
 世界を滅ぼすことのできる力。
 そして実際にその時代、世界は滅びに瀕していた。
 その、王国時代末期に活躍した竜騎士として、トリニアのユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトと、ストレインのレイナ・ディ・デューンの名が挙げられる。
 血を分けた実の姉妹でありながら、生命を賭して戦った二人。
 エモン・レーナやクレイン・ファ・トームに次いで強い力を持ち、そして謎の多い二人。
 二人は幾度も戦場で刃を交わし、そして、レイナだけが生き残った。
(彼女たちはどのくらい、知っていたんだろう。あの世界の、秘められた歴史について……)
 ユウナは若い頃の数年間、友人の魔術師フェイシア・ルゥと共に大陸を旅して、様々な遺跡を探索していたという。そして、その知識はレイナが受け継いでいる。
 そしてレイナは……。
 何かを、知っていたはずだ。
 だから、大戦を生き延びた竜騎士たちに生命を狙われた。
(……だめだ、思い出せないや)
 レイナは、大戦を生き残った数少ない竜騎士の一人だ。
 あの大戦を生き延びた竜騎士は本当にわずかしかいない。いや、そもそも大戦とそれに続く冬の時代を生き延びた人間は、王国時代全盛期の何分の一かでしかない。
 惑星の気候すら変えてしまった大戦。
 数百年も続いた暗黒の時代。
 人類が滅亡するかもしれなかった時代。
 その中で生まれた『墓守』という存在。
 竜騎士の力を否定し、それを封印しようとした者たち。
 その末裔がソレアであり、ファージは半ば強制的に墓守に協力させられている。
(墓守……『力』と『知識』を封印する者。だけど……『力』を捨て去ることは良しとしなかった)
 だから、レイナを殺そうとした。
(あれ……? そういえば、何故だ?)
 何故、レイナと墓守たちは対立していたのだろう。
 レイナは、いったい何をしようとしていたのだろう。
(……思い出せない。まだ、記憶が曖昧な部分があるな……)
 思い出そうとすると、頭が痛くなってくる。
 ずきずきと、頭の芯から響いてくるような痛み。
(ちょっと待て……思い出すって、いったい何の話だ? いったい何を忘れているっていうんだ? いったい何を……知っていたんだ?)
 わからない。
 わからない。
 思い出せない。
 頭が痛い。
 これ以上考えられない。
(ダメだ……。寝ちゃお)
 奈子は、また眠りに落ちていった。
 そして久しぶりに、レイナの夢を見た。



「どう、具合は?」
「ん、もう元気」
 奈子は笑って応えた。
 外科病棟の顔なじみの看護婦、広瀬真由美が体温と血圧を測っている。
「だからさ、ちょっとくらい散歩してきてもいいでしょ?」
「なに言ってるの」
 奈子の額を人差し指で弾く。
「一昨日まで集中治療室に入っていた人間が」
「今はもう元気だもの」
「だからって」
「もう、じっとしてるの飽きたんだよー」
 奈子は手足をばたばたと動かす。
 真由美はため息をついた。
「もう少し、自分を大切にしなさいよね。一応女の子なんだから」
「一応、ってのが引っかかるけど」
「一応って言われたくなかったら、少しは女の子らしく、大人しくしたらどう? それともホントにベッドに縛り付けられたい? 私はそういうの、けっこう好きよ」
「真由ちゃんが言うと、冗談に聞こえないね」
 真由美は、小柄なくせに豊満な肉体の持ち主である。それで白衣を着ているのだから、いつも必要以上の色気を振りまいていた。
「もちろん、冗談じゃないもの」
「……って、真由ちゃん?」
 真由美の身体が覆いかぶさってくる。大きくて柔らかな乳房が、二人の間でぐにゃりと形を変える。
「……マジ?」
 奈子の額に冷や汗が浮かぶ。
「奈子ちゃんみたいな気の強い女の子をネコにするのが、いちばん興奮するのよねぇ」
 目が本気だった。
 以前から、身体に触れてくることが多いとは思っていた。しかしそれは単なるスキンシップだと思っていたのに。
 まさか、彼女までが「そっちの趣味」の人間だったとは。
 こういうことがあると、奈子は悩んでしまう。
 どうして自分の周りには、そんな女性が多いのかと。
(類友……?)
 できればそれは考えたくないが。
「……え〜とぉ……、病室でこーゆーことするのって、マズイんじゃないかなぁ? 真由ちゃん、まだ勤務中でしょ?」
「いいわよ、少しくらい。ここは個室なんだし」
 真由美の顔が近付いてくる。
「あ、アタシの意志は?」
「そんなもの無視。陵辱ってのはそういうものでしょう?」
「ちょっ……」
 ちょっと待って――そう叫ぶ間すら与えられなかった。
 唇が重ねられる。
 同時に、手がパジャマの中に侵入してくる。
「ちょっと、それ、マジでシャレになんないって!」
「だからシャレじゃないと言ってるでしょ? 私、前からこういうチャンスを狙ってたのよね」
 人差し指が、奈子の下着の上を滑っている。一、二回往復して、一番敏感な突起の上で止まった。
 そこで小刻みに、振動するような動きを始める。
「ん……っ、ちょ……ヤダ……。お風呂入ってないし……」
「先刻、身体拭いてあげたでしょう? それに、奈子ちゃんの匂いなら大好きよ」
「そんな……っ」
 かなり、マズイ状況だった。
 意志に反して、身体が反応し始めている。
 真由美は、かなり同性との経験が豊富なのだろうか。攻めのポイントが的確だ。
 しかも、今の奈子は正直に言って、かなり「溜まっている」状態だった。
 入院していては、ファージはもちろん由維や亜依ともエッチなことはできないし、個室とはいえ病院でひとりエッチをするのもはばかられる。その上、運動することもできないとあっては、欲求不満になって当然だ。
「や……ぁ……、ダメ……だって」
「とか言って、感じてるくせに。入院のせいで欲求不満なんでしょ?」
 見透かされている。さすがは看護婦、というべきなのだろうか。
「や……ん……くっ、ん……」
 声が漏れそうになるのを必死に堪える。
 本音を言えば、奈子はエッチなことが大好きだ。真由美のことも嫌いではない。
 だからといって、真っ昼間の病院で、しかも看護婦さん相手にというのはさすがに抵抗がある。
(マズイよ……これ)
 このシチュエーション、あまりにも問題が多すぎる。
「ね、今は止めよ? 由維が見舞いに来たら大変だし……」
「奈子ちゃんの彼女? 寝てる間に来てたわよ。だから今日はもう安全。今やらないでいつやるっていうの」
「そんなぁ……」
 ああもう、いったいどうすればいいのだろう。
 このまま、真由美と最後までしてしまうのだろうか。
(それも、ちょっといいかも……。なんて考えるから、アタシはダメなんだよ!)
 自分のいいかげんさに腹が立つ。
 なのに、身体は反応してしまうのだから困ったものだ。自分の意志とは無関係に湧き上がるこの衝動、なんとかならないのだろうか。
(誰か、助けてー)
 そんな心の叫びが通じたのかどうか。
 奈子でも真由美でもないもう一つの声が、病室に入ってきた。
「見ぃちゃった」
 それは、聞き覚えのありすぎる声だった。
 由維の声の次くらいに。
「あ、亜依ぃぃっ?」
 病室の入口に、亜依が立っている。小さな花束を持っているところを見ると、お見舞いに来てくれたのだろう。
「奈子ってば、まぁた浮気してるんだからぁ」
 自分もその「浮気相手」の一人のくせに、皮肉めいた口調で言う。
 しかし、助かったのは事実だ。
 さすがの真由美も人前で行為に及ぶ気はないようで、乱れた白衣を整えると、ばつが悪そうな笑みを浮かべて病室から出ていった。
 もっとも、奈子から離れる前に「また後でね」なんて言っていたから油断はできない。
 亜依と二人きりになって、今度は奈子が気まずい思いをする番だった。
 やや呆れた表情で、亜依がこちらを見ている。
「いくら何でもまずいんじゃない? これ以上浮気相手を増やすのは」
「わかってるよ! あれは真由ちゃんが無理やり……」
「そうかなぁ? 奈子ってば感じてたみたいだったけど」
「そ、それは……」
 奈子の反応を確かめるように、亜依の手が下腹部に触れてくる。
 そんなことをされては、真由美の指で点火された炎がさらに燃え上がってしまう。
「ちょ……、止めてよ!」
「やっぱり濡れてる。由維ちゃんに言っちゃおうかなぁ?」
「お願いだからそれだけは」
 入院中に看護婦さんと浮気していたなんて知られたら、どんな仕打ちが待っているやら。
 考えるのも怖い。
「口止め料は?」
「って、まさか……」
「その、まさか。途中で止められたら奈子も辛いでしょ?」
 亜依の唇が、触れる寸前まで近付く。
「浮気の口止め料で、どうしてまた浮気しなきゃなんないの!」
「いいじゃない。私とのことは由維ちゃんも知ってるんだし」
「知ってるのと承諾してるのとは違うって!」
「いいからいいから」
 否応なしに唇が重ねられる。
 舌が、唇を割って侵入してくる。
 さすがに今度は、どこからも救いの手は差しのべられなかった。



 奈子が入院してしまったので、その間は由維も向こうに行けずにいた。
 昨年のあの事件以来、決して一人では行かないことにしている。あの後ファージが転移魔法に改良を施して、同じような罠を張ることはできないという話だったが、万が一ということもある。
 奈子を傷つけたことには由維にも責任があるのだから、同じ過ちは繰り返せなかった。
 本音を言えば、向こうへ行きたい。
 まだ、調べたいことはいくらでもあるのだ。
 しかしそれは、奈子の退院まで待たなければならないだろう。
 だからその夜は仕方なく、向こうから持ち帰った書物を研究していた。
 あの時、アルンシルから持ち帰ったたくさんの書物。
 ソレアやファージには内緒で、ずっと一人で調べていた。
 内容は、ドール――人造の魔法生物――に関するものが多いようだ。あそこはドールの研究施設だったらしいから当然だろう。王国時代の歴史などに関する書物はほとんどなかった。
 書物の他にも、持ち帰ったものがある。
 数枚の、透明な鉱石でできた小さな薄い板。
 顕微鏡のスライドグラスにも似ているが、ガラス製ではなくもっと硬い鉱物らしい。
 何に使うものかわからないが、大切に金属製の箱にしまってあったところを見ると、かなり大切な物なのだろう。
 光に透かして見ても、何の模様もない。長辺が五センチちょっとの、ただの透明な長方形の板だ。
「わかんないなぁ。いったい何だろう? きっと、何か秘密があるんだろうけど」
 ベッドに仰向けになって、蛍光灯に透かして見る。そうすると、光の屈折率がガラスとは幾分違うのがわかる。
 その時、突然に。
「あ?」
 明かりが消えた。
 室内が真っ暗になる。
「もぉ、こんな時にブレーカー?」
 蛍光灯だけではなく、テレビのスタンバイ電源もビデオの時計表示も消えている。
 だから、家のブレーカーが落ちたのかと思ったのだが、どうも様子が違う。
 部屋の中が、不自然に暗かった。
 たとえ部屋の明かりを消したとしても、街灯や近所の家の灯りで窓の外は幾分明るいのが普通だ。
 立ち上がって、カーテンの隙間から外を覗いてみる。
 外も真っ暗だった。どうやら停電らしい。
「珍しいな、今時」
 事前の連絡がなかったのだから、突発的な事故に因るものだろう。外は嵐でもないのに珍しいことだ。
 すぐに復旧するか、と思ってしばらくじっとしていたが、明かりがつく様子はない。
 由維は肩をすくめると、小さな声で呪文を唱えた。
 手の中に、小さな魔法の明かりが生まれる。
 あまり明るいと家族に見つかるかもしれないので、ごくごく小さなものだ。そもそも、こちらにいる時はロウソク程度の明かりを生み出すのが精一杯なのだ。
「こんなものでも、ないよりはマシだよね」
 それでも、この程度の明るさで向こうの文字を読むのは骨だ。由維はまた、ベッドにごろりと横になる。
 顔の上に、オレンジ色をした魔法の明かりがふわふわと浮かんでいる。
 その明かりに、先刻と同じように鉱石版を透かしてみた。
 すると……。
「え? なにこれ?」
 由維は慌てて飛び起きた。
 もう一度、手の中の鉱石版をまじまじと見つめる。
「これは……」
 大変な発見をしたかもしれない。
 心臓が激しく脈打っている。
 鉱石版を壁に向けて、その手前に魔法の明かりを置いた。
 スライドを投影するかのように。
 すると思った通り。
 白い壁には、細かな記号らしきものがびっしりと映し出されていた。



 月の女神ホル・チュは、一人で寂しく夜空を照らしていた。
 人間たちはそれを不憫に思い、そのことを太陽神トゥ・チュに訴えた。
 トゥ・チュはその願いを聞き入れ、ホル・チュに三人の妹を与えてやった。
 しかし、人間たちも神々も、見落としていたことがあった。
 一人きりということは、逆に言えば誰とも争わずに済むということだと。
 やがて、女神たちの間で争いが起こり、末の妹が大地を滅ぼした。


 それは、向こうの世界の古い神謡の一節だ。
 ふと、奈子の頭に浮かんだ。
 以前、何かの本で目にしたものだろう。
(そうだな。そのうちに……)
 こうした神謡や神話、古い民間伝承について調べてみるのも面白いかもしれない。
 これまでは、学者が編纂した歴史書ばかりを読んでいたから。
 そんなことをぼんやりと考えていると、病室のドアがノックされた。
「元気そうだな」
 奈子の返事も待たずに入ってきた人物は、開口一番そう言った。
 むしろ、そう言う彼女の方が怪我人に見えるかもしれない。いや、事実怪我人なのだ。北原美樹は。
 まだ、身体のあちこちが包帯や絆創膏で覆われ、顔や腕には痣が残っている。
 ダメージは主に内臓に受けている奈子に対して、美樹の方が外傷は多い。それに第一、美樹の方が受けた打撃は多いのだ。
「もう、退院したんですか?」
 奈子が訊く。美樹のダメージだってかなりのものなのに、大した回復力だ。
「退院してきた。退屈だから」
 美樹は笑って言うと、ベッドの縁に腰を下ろす。奈子も上体を起こした。
「アタシも退院したいなぁ。もう元気なのに、なかなか許しが出なくって」
 奈子の方が重傷には違いないが、その分、魔法による治療も施している。
 しかし医者はそんなことを知る由もないから、どうしても対応が慎重になってしまうのだ。
「ま、しっかり治すことだな。一つ間違えば死ぬとこだったんだから」
「てゆーか、そんな危険な技使わないでくださいよ」
「仕方ないだろ。ギリギリまで手加減してもああなんだから」
「手加減してアレ? いったい、なんなんですか?」
 奈子はいまだに、どんな技で倒されたのかわかっていなかった。そんな強力な打撃を受けた覚えはないのだ。
「水冥掌。名前くらいは聞いたことあるだろ?」
「水冥掌?」
 奈子は驚いて、目を見開いた。
「あれが、水冥掌なんですか?」
 確かに、聞いたことはある。
 極闘流にはいくつか、表に出ない危険な技があるという。門下生の間では公然の秘密だ。
 水冥掌はその中でも、最高機密に属するものだ。それを身に付けている者は、総帥の北原道元や美樹を含めても、片手で数えられる程度だという。
 何故、水冥掌を門外不出の技とするのか。
 それは、極闘流が常に実戦を想定しているからだ。
 だから、水冥掌は文字通りの『必殺技』でなければならない。
 この世には、絶対無敵の技など存在しない。それがどんなものであれ、一度見せてしまえば相手は対策を練ることができる。
 そうさせないためには、殺すしかない。その技を使う以上、相手を生かして帰してはならない。
 それが、水冥掌なのだ。
 その技を知らない相手であれば、確実に倒すことができる技。
 奈子も、名前だけは聞いたことがある。もちろん、どんな技かは一切知らない。
 しかしあれが水冥掌だとしたら、精一杯手加減しても奈子を病院送りにできるというのも納得だ。
「でも、何故それをアタシに?」
 危ないところではあったが、奈子はまだ生きている。手加減したということは、奈子を殺す気はなかったということだ。
 まさか今日、とどめを刺しに来たわけではあるまい。
「もう、他に教えられることもないからな。退院したら練習しておけよ。どういう技かは、喰らってみてわかっただろ」
「いや、よくわかんなかったですけど」
 何をされたか理解する前に、意識を失っていた。
「想像はできるだろ?」
「掌……ですか?」
「ああ」
 美樹はうなずくと、奈子の胸と脇腹に掌を当てた。
「狙うのは、肺、心臓、肝臓。あるいは……脳。意味が分かるか?」
「血管が集中する器官、ですね」
「そうだ」
「二ヶ所同時に?」
「その通り」
 それだけ聞けば見当はつく。水冥掌が、どんな原理で内臓にダメージを与えるのか。
 しかし「練習しておけ」と簡単に言われても、修得は難しそうだった。本当に人間技だろうか。
 血を吐くような稽古をしても、果たしてものにできるのだろうか。
 そもそも、そうまでして身に付ける必要があるのだろうか。
 それは、人を殺すための技なのだ。
「どんな凶悪な技だって、憶えてはおくべきだ。どこで役に立つかわからないからね」
 奈子の心を見透かしたように、美樹は言った。
「それを実際に使うかどうかは本人次第だけれど、自分が死ぬよりはいいだろ?」
 その表情は、驚くほどに穏やかだった。



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