「行けども行けども、見えるのは灰色の土ばかり。こんな変化のない風景、もう飽きちゃったよぉ」
馬の背に揺られながら、由維は唇を尖らせた。
しかし前を行く奈子は無言で、振り返りもしない。
二人は今、マイカラス王国の南部に広がる砂漠の中にいた。
「ゴールデンウィークはさ、久しぶりにちょっと長く向こうへ行こうと思うんだけど、いい?」
退院してきた奈子にゴールデンウィークの話題を持ちかけたところ、そんな返事が返ってきた。
もちろん、由維に異存のあるはずがない。
「だったら私、行きたいところがあるんですけど」
「どこ?」
「マイカラス」
由維はまだ、マイカラス王国へ行ったことがなかった。奈子から話は聞いて、ずっと行ってみたいと思っていたのに、なかなか機会がなかったのだ。
あれ以来、向こうへ行く回数がめっきり少なくなったことも一因ではある。
だけどやっぱり、一度くらいは行ってみたい。
マイカラスの国土そのものにはさほど興味はないが、会ってみたい人物は多い。
奈子に気があるという美形の王ハルティ・ウェルや、その妹でやっぱり奈子のファンのアイミィ。それに奈子のライバルともいうべきダルジィなど、興味は尽きない。
「ちょうどいいや。アタシもそのつもりだったんだ。もうじきアイミィの誕生日のはずだし、その前にちょっと行きたいところもあったし……」
奈子の家でそんなやりとりが行われたのが、数日前のこと。
そして今、二人は砂漠の中にいる。
マイカラスの王都へ転移した奈子は、そのまま王宮へ行くと思っていた由維の予想を裏切って、王都に住む知り合いの魔術師に、馬の調達を頼んだのだ。
そして、王都から南に向かった。
それも街や街道から外れて、砂漠のまっただ中に。
家を出る前、キャンプ道具や携帯食を準備していた理由がようやくわかった。
行く先について、奈子は何も言わない。
考えてみれば、こちらに転移する前から奈子の様子は少しおかしかった。
口数が少なくて、何か考えているというか、思い詰めているような様子で。
由維にはただ、ついてくるようにとしか言わなかった。
なんとなく質問をするのがはばかられるような雰囲気があって、由維は大人しくその言葉に従っていた。
由維も一応、馬には乗れる。
奈子の母親が乗馬を趣味にしていて、よく、奈子と一緒に由維も乗馬クラブへ連れていってもらっていたからだ。
とはいえ、まる一日中馬の背に揺られているというのはけっこう疲れるものだ。普段使わない部分の筋肉が疲労して、夕方には身体が固まってしまっていた。
王都を出発して一日が過ぎると、もう周囲には灰色の地平線だけが広がっていた。日本で生まれ育った由維には初めての光景だ。
人家はもちろん見当たらないし、街道から外れているから旅人や隊商の姿もない。
大型の獣の姿もない。
あるのはただ灰色の土と岩、そして所々に生える灌木だけ。
砂漠と聞いて日本人が普通に思い浮かべるのは、サハラ砂漠に見られるような灼熱の大砂丘だろうか。しかし、そのイメージとはずいぶん違う。
空気は乾燥しきっているが、気温はそれほど高くはない。
地面は砂よりも土や岩の部分が多い。
そして、疎らに生える植物はどれもサボテンに似ているか、そうでなくとも枝に鋭い棘を生やしていた。
砂漠といってもアフリカではなく、南米のそれに近い光景だろうか、と由維は考える。テレビで見たことのある風景は、ペルーだったかアルゼンチンだったか。砂漠でありながら、どこか寒々とした印象を受けた。
マイカラスの緯度はかなり低いはずだが、ここは標高の高い台地の上になるので、気温はあまり高くならないのかもしれない。奈子がぽつりぽつりと話してくれたことによると、この辺りは一年中このくらいの気温で安定した気候らしい。
緯度の割に気温が低いのは、標高が高いことと、東の山脈から乾いた涼しい風が吹いているためだそうだ。
それにしても、奈子はいったいどこへ行こうとしているのだろう。
特に目印もない荒野の中だというのに、地図も磁石も見ることなしに迷う様子もない。
ただ黙って、どこかを目指している。
由維は黙ってついて行くだけだ。
夜は、当然野宿になる。持ってきたテントを張り、キャンプ用のガソリンストーブで夕食を作った。
こんな砂漠の真ん中で出会う人間はいないから、向こうの道具を使っていても問題ない。
本来ならば調理の熱源も魔法で済ませられるはずだが、こちらの生まれではない由維では、まだ細かな火力の調整ができなかった。かといって奈子に任せたら、鍋ごと消滅してしまう危険がある。
青天井といってもいい奈子の魔力だが、その分、下限も並の人間よりずっと上にある。しかも、細やかな制御に関しては由維よりも下手だ。
使用頻度の高い照明の魔法などであれば、奈子も由維もかなり上手に扱える。しかし調理となると普段はソレアに任せっきりだし、そもそも奈子にはその才能がない。
「ヒマをみて、魔法での調理も練習した方がいいかなぁ」
ベーコンとレンズ豆を煮込んでいる鍋をかき混ぜながら、由維はつぶやいた。
ソレアの手並みを見ている限り、慣れれば電子レンジ並のことは魔法でできそうだ。自分でもできれば便利だろう。
「でも、考えてみればこっちでキャンプってのも楽しいですね。夏休みとか、うんと時間のある時に二人でこっちの世界を旅するって、どうです?」
「そうだなぁ。そういうのもいいかもね」
応える奈子は、由維の方を見ていない。時計とにらめっこしながら、スパゲティを茹でる鍋を見張っている。
茹で上がったスパゲティをオリーブオイルとニンニクで軽く炒め、それにベーコンと豆を煮込んだソースをかける。それが今夜のメインディッシュだった。
夜はテントの中で寝る。
人を襲う肉食獣がいる世界だが、魔法で結界を張れる分、むしろ北海道の山中よりも安全かもしれない。いくら奈子でも、生身で羆とは闘えない。
二つの寝袋を一つにつなげて、二人は寄り添って寝た。
家にいる時も、いつも一つのベッドで寝ているのだから、そうするのが自然だった。
夜の砂漠は、本当に静かだ。植物が少ないから、虫の音も聞こえない。
獣の声もしない。
耳に届くのは、微かに、風がテントの表面を撫でる音だけだ。
静かすぎて、由維はかえって寝付けなかった。
「奈子先輩……」
「ん?」
眠っているかとも思ったが、名前を呼ぶとすぐに返事があった。奈子は本来「静かすぎて眠れない」なんて繊細さとは無関係なはずだが。
「これから、どこへ行くんですか?」
「いいから、ついておいで」
何度もした質問。
そのたびに同じ答え。
こちらに来てから、何度同じやりとりを繰り返しただろう。
「怖いの?」
「べ、別に……」
その言葉は、完全に真実とは言えなかった。
別に、行き先がわからないことが怖いわけではない。
ただ、こちらに来る前から奈子の様子がいつもと違うことが気になるのだ。
口数が少なくて。
あまり笑顔を見せない。
「ん……」
不意に、腕が肩に回された。
そのまま、奈子の方へと抱き寄せられる。
身体がピッタリと密着すると、奈子の体温が、匂いが、より強く感じられた。
生まれた時から傍にあった温もり。
一番好きな匂い。
不安な時も悲しい時も、それに包まれていると安心できる。
(やっぱり、奈子先輩だよね……)
そうしてようやく、由維は眠りにつくことができた。
周囲の様子が変わってきているのに由維が気付いたのは、三日目の夕方近くだった。
何が、と訊かれてもうまく説明できない。
土の色は、初めの頃と少し違っている。王都近くの灰色がかった土から、もっと赤茶けた色に。
とはいえ、それが違和感の原因ではない。
土の色以外、周囲の風景に大きな違いはない。
しかし、なにか気配が違う。空気そのものが持つ色、とでもいうのだろうか。
周囲に、なんらかの魔法が働いている。
結界とは違うようだが、しかし、何かを封印しているような。
太陽は、遠い山の稜線の陰に隠れようとしている。
二人の影がどこまでも長く伸びている。
奈子は馬を止めると、手綱を近くの岩に結んだ。由維もそれに倣う。
しかし、荷物を下ろそうとはしない。ということは、ここで野営するために止まったのではないということだ。
「少し前まで、ここには王国時代の大きな遺跡があった」
ゆっくりと歩きながら、奈子はぽつりと言った。
独り言のような話し方だったが、由維に向けられた言葉であることは間違いない。
「少し前って……」
いったい、どのくらい昔のことを指しているのだろう。
いま見る限り、そんな遺跡の痕跡などどこにもない。
だとすると、少なくとも数百年くらいは昔なのだろうか。それでも地質学的な時間の尺度から見れば、充分に「少し」の範疇に入る。
しかし、由維の考えはまったく的を外していた。
「まだ、二年も経っていない」
そう言った。だとすると、奈子が初めてこちらに来た頃、まだ遺跡はあったということだ。
今はただ、赤茶けた地面が広がるだけのこの土地に。
「ファレイアの神々を祀る神殿。その地下には、もっと古い神殿の遺跡があった。ストレイン帝国……あるいはデイシア帝国の時代の、ランドゥの神殿。ファレイアの神殿は、古い神殿を封印する意味で建設された」
「え……?」
どこかで、聞いたことのある話だった。それがどこでだったかを思い出すよりも先に、奈子が言葉を続けた。
「ここで、生まれて初めて、この手で人を殺した」
「――っ!」
由維は息を呑んだ。
奈子はどこか悲しそうな表情で、自分の手を見ていた。
聞いたことがあるはずだ。ここは奈子が二度目にこちらへ来た時に、エイクサム・ハルがファージを殺そうとした場所なのだ。
ファージの仇を討とうとしていた奈子は、エイクサムの仲間のリューイという男とここで闘い、そして殺している。
その頃ここにはオアシスがあって、森に覆われていた。
しかし最終的にはファージが神殿を完全に破壊して封印し、今はただ荒野が広がっているだけだった。
「ここで……」
ここから、始まったのだ。
最初のファージとの出会いは、まったくの偶然。一度きりの、いわば不測の事故といってもいい。
しかし二度目からは違う。明確な意志が働いていた。
ここでファージを殺され、その仇を討つことを決心して、自分の意志で三度この世界を訪れた。
そして、人を殺した。
そうして奈子は、この世界と深い関わりを持ってしまった。
一つの生命をその手で奪ったことを、忘れてはいけない。
しっかりと受け止めなければならない。
例えば、もしもあの後こちらへ来なければ、やがて記憶は風化してしまっただろう。
しかし奈子は、自分がしたことに正面から向き合うことを選んだ。
昨年十月のあの忌まわしい、そして取り返しのつかない事件も、奈子が自分で選んだ結果なのだ。
「……だから、ここに?」
「由維に、見て欲しかった」
「奈子先輩……」
他に、何も言えなかった。
由維はただ黙って、赤茶けた荒野を見つめていた。
二年前、生命のやりとりが行われた場所を。
「それともう一つ、目的はあるんだけどね」
「え?」
奈子は目の前の地面を指差す。
「ここには、古いランドゥの神殿があった。トリニア王国はそれを封印するために、上にファレイアの神殿を建設した。だけど、デイシア帝国の時代からこの辺りはほとんど住む者もいない辺境だったんだ。なぜ、そんな土地にそんな大きな神殿を築いたりしたんだろう?」
「えっと……」
奈子がちらりとこちらを見た。その目を見てわかった。
今の言葉は問いかけではない。答えを知っているのだ。
「ランドゥの神殿も、封印するためのものだったんだ。もっともっと古い遺跡を……ね」
「もっと……古い遺跡? デイシア帝国の時代の?」
奈子は首を横に振る。
「もっと昔」
「じゃあ、王国時代以前の戦国時代?」
「もっと……さ」
奈子が右手を高く挙げた。その手の中に、一振りの剣が現れる。
剣を逆手に握って、腕を真っ直ぐ前に突き出す。
鋭い目で、眼前に広がる荒野を見つめていた。
「目、瞑って」
「え?」
奈子の忠告は間に合わなかった。不意に、視界が真っ白になる。
反射的に目を閉じたが、そんなことくらいではこの光を遮ることはできなかった。由維は両腕で目を覆った。
光は一瞬で消えた。
音は、何も聞こえなかった。
しかし瞼を開いた時、目の前の光景は大きく様変わりしていた。
直径二、三百メートル、深さ数十メートはあるだろうか。深いすり鉢状のクレーターが穿たれていた。
今の奈子の魔法が、それだけの土を消滅させたのだろうか。凄まじい力だ。
奈子が強力な魔法を使うところを見るのは、トゥラシを消滅させた時以来だった。
「奈子先輩……?」
いったい何のために、こんなことをしたのだろう?
訝しげに隣りを見ると、奈子はクレーターの中央を指差していた。
そこにはまた、別な穴があった。深い井戸にも似た、垂直な縦穴のようだ。
「さ、行こう」
奈子は剣をしまうと、クレーターの斜面を下り始めた。由維もわけが分からないまま、その後に続く。かなり急な斜面だ。これでは昇る時に苦労するだろう。
底にある縦穴は、縁に立ってみると遠目に見るよりも大きな、そして異質なものだった。
直径はおよそ三十メートル強。完全な円形で、壁は滑らかだ。
明らかに、人工のものだった。
穴の壁には螺旋階段が刻まれている。どこまで続いているのか、この薄暮の下では底は見えない。
「……まさか、降りるんですか?」
「降りるよ。そのために来たんだから。一緒に来るでしょ?」
奈子の手の中に、魔法の明かりが生まれる。本当に、降りるつもりらしい。
「何ですか、ここ?」
「……レーナ遺跡」
「レ……何?」
しかし奈子は答えずに、階段を下り始める。
「……、待って」
やや躊躇いはしたが、由維はついていくことにした。
何故か、奈子一人で行かせるのは不安だった。
そのまま二度と帰ってこないのではないか……そんな気がして。
地底へと続く深い穴には、人をそんな不安に陥れる何かがある。
壁に刻まれた螺旋階段は、二人が並んで歩けるほどの幅はない。由維はできるだけ壁側に寄って、奈子の後ろをついていった。
別に高所恐怖症というわけではないが、底が見えない垂直な穴の縁ぎりぎりを歩く趣味もない。
階段はしっかりとしたものだった。古い遺跡、と奈子は言っていたが、とてもそんな風には見えない。
白っぽい滑らかな壁は、金属でも石でもなくて、陶器――セラミックのような手触りだった。壁にも、壁と階段の間にも、継ぎ目はまったく見あたらない。
焼き物であるセラミックは、窯よりも大きく作ることはできないはずだから、実際にはコンクリートに似た材質なのかもしれない。
このことから、これが普通の王国時代の遺跡ではないことがわかる。王国時代の建造物も、千年以上も前に造られていながらほとんど風化の痕は見られないが、それは魔法で処理した石を組み合わせて造るのが普通だ。王国時代の遺跡でこんな材質は見たことがない。
二人の足音以外、何も物音はしない。
一言も口をきかずに、無限に続くかと思われるような階段をただ降りていく。今は下りだからまだいいが、これを登る時のことは考えたくない。
上を見上げると、丸く切り取られたような空が小さく見えていた。もう、気の早い星が瞬き始めている。
どのくらい降りただろう。由維は千段を越えるあたりまで数えていたが、それでも底に着く気配がなかったので止めてしまった。一段二十センチとしても二百メートルだ。
これだけ下ったのに、気温は地上とほとんど変わっていないように思えた。もっとも、運動して体温が上がっているから、体感温度はあまり当てにならない。
ようやく底に着いたのは、それからまたかなり歩いた頃だった。多分、五百メートルくらいは下ったのではないだろうか。
登山ならば別に大騒ぎするような高さではないが、奈落に通じているような穴の縁を歩き続けるというのは、体力以上に精神の消耗が激しい。
ようやく着いた穴の底で、由維は座り込んでしまった。
底の部分は平らで、壁と同じ材質だった。ただし、磨いたように滑らかな壁と異なり、床には一面に複雑な模様が刻まれている。
それはまるで、大きな魔法陣のようだ。実際、なんらかの魔法の力を感じる。そもそも、この世界でこれだけのものを築き、維持するには、魔法の助けが不可欠だろう。
床にはうっすらと埃が積もっているが、この場所の古さを考えれば「掃除は行き届いている」と言ってもいいような状態だった。ただし、ここには生命の気配はない。
周囲を見回すと、ちょうど正三角形を描くような位置に三カ所、横穴があった。ごく普通の、廊下くらいの大きさの通路だ。どこへ通じているのだろうか。
(三……みっつの……三角形を描くような……)
何か、引っかかる。
それを考えながら立ち上がって、お尻についた埃を払い落として。
「奈子先輩、ここって……」
そう言いかけたところで、続く言葉が出なくなった。
奈子が見ているものに気付いたから。
この穴の底いるのは、奈子と由維の二人だけではなかった。
奈子の視線の先、三つある通路の一つの近くに、人影があった。
いつからいたのだろう。まったく気配を感じなかったが。いや、それを言ったら、こうしてその姿を見ていても、不思議なくらい存在感が感じられない。
髪の長い、美しい女性だった。装飾のない、シンプルな白いドレスをまとっている。
年齢はよくわからない。奈子よりも年上なのは確かだが、二十歳から四十歳までのいくつであってもいいように思われた。
真っ直ぐに、奈子と由維を見ている。
由維は、誰かに似ているように思ったが、それが誰であったかは思い出せなかった。
奈子の様子を窺うと、特に驚いた様子もなく、その女性をじっと見つめている。相変わらず、何を考えているのかよくわからない。
やがて女性は静かに回れ右すると、通路へと入っていった。奈子が後を追うように歩き出したので、由維もそれに従った。
しかし、奈子と由維が通路の入口に辿り着くと、女性の姿は忽然と消えていた。通路は明かりが届く数十メートル先まで、横道もなく真っ直ぐに続いているというのに。
通路に入るなりあの女性が全力で走ったとすれば、その先まで行けたかもしれない。しかしそれならば、足音くらいは聞こえたはずだ。
あれは、本当に生きている人間だったろうか。由維は訝しんだ。
まるで気配がない。幽霊か、あるいはもう少し現実的に考えれば、魔法で生み出された幻影ではないだろうか。
由維は、全身に鳥肌が立つのを感じた。心霊現象と思ったわけではないが、単なる魔法による幻影とも違うようだ。
言いようのない寒気がする。
しかし奈子は別段気にしてもいないようだ。歩調を変えずにそのまま通路を進んでいく。
その時、由維は気付いた。
通路にうっすらと積もった埃の上に、人の足跡がある。
それも二種類。
一つはかなり大きい。おそらく、身体の大きな男性のものだろう。
そしてもう一つは、いま新たに付けられたばかりの奈子の足跡とほとんど同じ大きさだった。やや細身で、きっと女性のものなのだろう。だとすると、先刻の女性のものかもしれない。
だが、あの女性はどんな靴を履いていただろうか。必死に記憶を呼び起こす。確か、着ているドレスに似合った、踵の細い靴ではなかったか。
この足跡はもっと踵が低い、動きやすさを重視した靴のものだ。ちょうど奈子のものと同じような、この世界の女性騎士が好んで履く短いブーツの跡に似ている。
二つの足跡は真っ直ぐに、通路を進んでいったようだ。以前にも誰か、ここを訪れた者がいる。
それはいったい誰で、いつ頃のことだったのだろう。
由維は、数歩先を歩いている奈子の背中を見た。
そして、その場に立ち止まる。
歩き続ける奈子との距離が、少しずつ開いていく。
「奈……」
奈子先輩、いつものようにそう呼びかけようとして、しかし何故か声が出せなかった。
一度、口をつぐんで。
それからもう一度。
「――――」
別な言葉で呼びかけた。
半ば、予想していたことだった。
そして、怖れていたことでもあった。
奈子は立ち止まると、微かな笑みを浮かべて振り返った。
自分の名を呼ばれた時と同じように、ごく自然に。
「何?」
そう、訊き返してくる。
しかしその表情は、いつも見慣れている優しい笑みとは何かが違っていた。
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