終章 さよなら


「……あれ?」
 目を覚まして、その時自分が女の子にキスされていた場合――。
(二年前のアタシなら、悲鳴を上げて飛び起きるところだよなぁ……)
 ずいぶんと免疫ができたものだ、と思う。
 それがいいことなのかどうかはともかくとして、こういう事態に慣れてしまったことは事実だ。
 特に、相手が金色の瞳の少女であった場合には。
「ファー……ジ?」
 黄金色の輝きを持つ瞳が、奈子を間近で見つめている。
 綺麗だ、と思う。初めて見たときからずっと、そう思っている。
 その瞳が意味するところを知ってからも、それは変わらない。
「おはよう、ナコ」
 もう一度、唇がちょんと触れる。
 奈子はゆっくりと上体を起こした。
「アタシ、眠ってた?」
「うん。ぐっすりと」
 だとすると、この鈍い頭痛は寝過ぎのためだろうか。ここ何日か、あまり眠れない夜が続いていた気がする。
「寝てる間に、何か……した?」
 念のために訊いてみると、ファージは笑ってうなずいた。
「いろいろと、ね」
「どうせなら、起きてる時にしてくれればいいのに」
 同じことをされるなら、ちゃんと気持ちよくして欲しい。由維には悪いと思うけれど、ファージに愛撫されるのは大好きだった。
「だったら、今からする?」
「……遠慮しとく」
 少し考えて、奈子は首を振った。少し未練はあったが、これから改まって……となるとなんだか面映ゆい。
「それより、ここ、何処?」
 周囲を見回すと、そこは森の中だった。二人がいるところは樹がやや疎らになっていて、地面には柔らかな青草が繁っている。
 正確な時刻はわからないが、夜だった。今はちょうど、この星を巡る三つの月がすべて空にあった。
 あの月も、初めて見た時は死ぬほど驚いたものだ。それが今では、月が一つしかない夜を物足りなく感じている。
 ここにいるのは、奈子とファージの二人だけだった。他には誰もいない。感じる範囲に、他の気配はない。
「アタシ……なんでこんなところにいるの? ここ、何処?」
「憶えてないの?」
 そう言われて、もう一度周囲を見回す。
 なんの変哲もない森の中。しかし、以前にも訪れたことはあるかもしれない。
 それにしても、どうしてこんなところで眠っていたのだろう。旅の途中の野宿にしては荷物もないし、焚き火の跡も見当たらない。
 眠る前、いったい何をしていただろう。思い出せない。
 一番高いところにある月が満月に近いということは、今は夜中のはずだ。どうしてこんな時刻に、ファージと二人きりで野外にいるのだろう。
 ずっと以前に、こんなことがあったような気がする。
 もう、ずいぶん前に。
 そう。あの時も森の中だった。
「……初めて、会った森?」
 半信半疑で訊ねると、ファージは嬉しそうにうなずいた。するとここは二年前、ファージと初めて出会ったルキアの街に近い森なのだ。
「どうしてアタシ、こんなところにいるんだろ? 由維やソレアさんは?」
 どうにも記憶が曖昧だ。
「ナコと、少し話がしたかったんだ」
「え?」
 ファージの言葉は、奈子の問いに対する解答にはなっていなかった。
「話、って?」
「うん……。もういいや、別に。ただ、会いたかっただけかな」
「どうしたの、急に?」
 奈子は小さく笑った。ファージも微笑んでこちらを見ている。
「一つだけ、もう一度言いたかったことがあるんだ。私、ナコのことが大好きだよ」
「ファージ……?」
 少しずつ、不安になってくる。
 ファージの様子が、普段と違う。
「改まってどうしたの?」
「ナコと知り合えて、本当によかった。楽しかったよ。今までありがとう」
 いきなり抱きつかれ、唇を奪われる。
 驚いたことに、ファージは泣いていた。涙を流すファージなんて、初めて見たような気がする。
 しかしそれは、悲しみに打ちひしがれた涙とは少し違う。やや悲しそうな表情ながらも、ファージは口元に笑みを浮かべていた。
「憶えていてね。私のこと、いつまでも」 
「ファー……ジ……?」
 すごく、嫌な予感がする。
 ファージが立ち上がった。
 ただそれだけの動作で、すごく遠くへ行ってしまったように感じる。
 奈子も立ち上がろうとしたが、何故か身体が動かなかった。
「ファージ!」
 少し困ったような表情で、こちらを見ている。
 唇が、微かに動く。
 ほとんど口を開いたように見えなかったのに、その言葉は何故かはっきりと耳に届いた。
「……さよなら、ナコ」



 目を開けると、薄暗い部屋の中だった。
 頭がずきずきと痛む。
 痛いのは頭だけではない。身体中が、悲鳴を上げているように思えた。特に、肩に鋭い痛みがある。
 奈子はゆっくりと頭を巡らせて、室内を見回した。
 頭上に、睡眠の邪魔にならない程度の小さな魔法の明かりが灯っている。
 窓には厚いカーテンが下りているが、まったく光が漏れていないところを見ると、まだ夜なのだろう。
 奈子は、大きなベッドに寝かされていた。
 しばらく考えて、ようやく自分がいる場所が理解できた。
 マイカラスの王宮。いつも奈子にあてがわれている寝室だ。
 ナゥケサイネを駆って敵の竜騎士を倒した後の記憶がない。気を失って、そのままここに運ばれたのだろう。だとすると、半日くらい眠っていたことになる。
 それとも、怪我がひどくて何日も眠っていたのだろうか。左腕に巻かれた包帯に、血が滲んでいる。
 しばらく黙って、天井を見つめていた。
 特に何を考えるということもなく、天井の模様を見つめていて。
 不意に、思い出した。
 目覚める直前まで、見ていた夢を。
 身体の痛みも忘れ、奈子はがばっと起きあがった。寝間着のまま、隣のソレアの寝室へ向かう。
 ノックもせずに扉を開けた。
「ソレアさん! ファージはっ?」
 半ば予想できたことだが、ソレアは眠っていなかった。机に肘をついて、頭を抱えるような姿勢で椅子に座っている。
 ゆっくりと顔を上げ、奈子を見た。ひどく陰鬱な表情に見えたのは、部屋が暗いせいだけではあるまい。
「ナコちゃん、具合は……」
 無理に笑おうとしているのが見え見えの、引きつった笑みを浮かべている。
「ファージは何処? ファージのところに連れてって!」
 奈子は単刀直入に、なんの前置きもなしに本題を切り出した。ソレアに、誤魔化す余裕を与えないためだ。
 ソレアが一瞬、視線を逸らした。
 表情がいっそう強張る。
 それで、確信した。
 何が起きたのかを。
 ソレアの傍に立つと、両手で顔を挟むようにして強引にこちらを向かせた。
「ソレアさん……」
 ソレアの頬には、涙の後があった。
 目が、赤かった。
「ファージは……ファージに何があったの?」
「…………」
 それでもソレアは黙っている。
「わかってる。わかってはいるんだ。でも、はっきりと聞かせて。ファージが夢に出てきた。それで、さよならって言ってたんだ」
 ソレアの顔に、諦めの色が浮かぶ。
 小さく深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。
「……そうね、行きましょう。隠しておけることでもないし。……ユイちゃんや、エイシスたちも起こしてきた方がいいかしら」
 囁くように言うと、焦れったいくらいのろのろとした動作で立ち上がった。



 ソレアに連れられて転移した先は、夕暮れの荒野だった。
 マイカラスが夜中なのだから、ここは遠く離れた西域の地ということになる。
 血の色をした夕日が、遠い山並みの陰に隠れようとしている。
 何もない土地だった。
 一本の草も生えていない。一羽の鳥も飛んでいない。
 ただでさえ赤茶けた地面が、夕日に照らされてさらに朱く染まっている。
 奈子とソレア、それに由維、エイシス、ダルジィの五人は、無言で立っていた。
 五つの影が、長く伸びている。
 本当はハルティも同行することを望んでいたが、戦いで大きな被害を受けた王都の復旧作業の指揮を執らなければならないということで、代わりにダルジィを派遣していた。
 奈子だけは、着いてすぐにここが何処であるか気付いていた。他の者たちは、いったい何処へ連れてこられたのかと訝しんでいる。
 ここには千年もの間、変わらぬ風景が広がっていたはずだった。
 しかし今眼前に広がる光景は、昨日までとは大きく違う。
 巨大な、クレーター。
 それがぽっかりと口を開けていた。
 直径は数百メートル。あるいはもっと大きいかもしれない。
 そして深い。それは、このクレーターの成因が地下にあったことを示していた。
 由維は、不安げな表情で奈子を見た。ここが何処であるかという疑問について、少し遅れて答えに辿り着いていた。
「なんなの、ここは……?」
 事情を知らないダルジィが訊く。エイシスも同じような表情をしている。フェイリアと行動を共にすることの多かったエイシスも、ここへ来たことはなかった。
 奈子は無言で、ただ呆然とクレーターを見つめている。
 まったく表情の顕れていない顔をしていた。心を持たない人形のように。
 ただ、握りしめた拳が微かに震えていた。
 由維は視線をソレアに移した。こちらは、涙を流さずに泣いているような表情だった。
「聖……跡……?」
 小さな声で訊く。
 奈子もソレアも、何も反応しなかったが、それこそが肯定の証だった。
 由維はつい最近、奈子に連れられてここを訪れている。その時はもちろんこんなクレーターはなくて、神殿風の小さな建物が建っていた。
「聖跡?」
 他の二人が、声を揃える。
「聖跡って、あの聖跡か?」
「何もないじゃないの。この穴ぼこが……?」
「アィアリスが、やったの?」
 由維の言葉に、ソレアがゆっくりと振り返った。
 そして。
 小さく、うなずいた。
 三人が一様に、驚きの表情を浮かべる
「まさか、ファージやクレインが、負けたの?」
 由維には信じられない。黒剣の王であるアィアリスが、極めて大きな力を持っていることはわかる。しかしクレインやファージの強さについて奈子から散々聞かされている由維には、それが現実だとは信じられなかった。
「……黒剣の王だって、クレイン様をそう簡単に倒せるものではないわ。アィアリスが二人を引きつけている間に、彼女の片腕である竜騎士セルタ・ルフが、内部から聖跡を破壊したの……」
「……考えたな」
 エイシスがつぶやいた。
 不死身の番人に護られた聖跡だが、クレインの妨害がなければその施設を破壊するのは不可能ではない。少なくとも、竜騎士並みの力を持った人間ならば。
 クレインを相手に、正面から力で挑んでも簡単には勝てない。だから、クレイン自身とは直接刃を交えない手段を選んだのだ。
 マイカラスを同時に攻撃したのも、そのための伏線だったのだ。この場に奈子やソレアもいれば、事はそう簡単には進まなかったはずだ。ただ聖跡だけを攻撃した場合、ファージやソレアは何処にいてもそれを察知しただろう。
 今日のアィアリスの目的は、マイカラスや奈子よりも、この聖跡だったのだ。大陸の覇権を望む者にとって、聖跡の存在は不安要素だ。そうすることが可能ならば、何がなんでも排除しようとするだろう。
「しかし……向こうにも誤算はあったようだな」
 そう言ったのはエイシスだった。
「まさか、マイカラスに残した竜騎士が全滅するとは思わなかっただろ」
「確かに誤算かもしれないが、致命傷じゃない。教会が竜を持っているのであれば、聖跡さえ破壊できればどれだけ損害を出しても構わないだろう。聖跡と、その番人さえ始末してしまえば、今の時代に誰が竜と闘える? しかもアィアリス・ヌィは黒剣を持っている」
「いるじゃないか、そこに」
 ダルジィの視線が、ちらりと奈子を捉える。そして小さく首を振った。
「確かに、あの時は竜騎士だった。しかし今は……、ただの腑抜けだ」


 奈子の耳にも、背後のそんな会話は聞こえていた。しかし、その内容はほとんど理解していなかった。
 何も考えられなかった。
 ただただ、喩えようのない大きな喪失感を味わっていた。
 空虚、という言葉の意味を、生まれて初めて実感したような気がする。
 あの時とも違う。
 お腹の子供を殺された時。あの時は胸を、心を貫くような痛みがあった。
 今は、それすらも感じない。
 ぽっかりと、心が空っぽになってしまったようだった。
 ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 ファージが、死んだ。
 その事実が、少しずつ身体の中に染み込んでくる。
 ファージが、死んだ。
 千年以上も生き続けてきたのに。
 こんなにあっけなく。
 ファージが死ぬなんて。
 クレインもファージも、聖跡の力で不死を実現していた。それは、聖跡の魔力で維持されていた肉体だ。
 聖跡がなくなれば、存在することはできない。
 ファージにとって、本当の意味での『死』だった。
 何も感じない。
 痛い。
 心が痛い……はずなのに。
 何も感じない。
 痛みを感じないほどの、強い痛み。
 もう、何も残っていない。
 限界を超えてしまったんだ、と。
 ぼんやりと思った。
 これまで、辛いことは何度もあった。
 そして、なんとかそれを乗り越えてきた。
 だけど、今度ばかりはそれができそうにない。
 復讐しようという想いが、闘う意志が湧いてこない。
 闘志、そんなものはすっかり失われてしまった。
(空っぽだ……アタシ)
 膨らんで膨らんで、割れてしまった風船のように。
 もう、何も残っていない。
 ファージが、死んだ。
 クレインも。
 フェイリアも。
 ユクフェも。
 そして、奈子の子供も。
 みんな死んでしまった。
(もう……だめだ……)
 不思議と、涙は出てこなかった。


「アタシ……ね」
 奈子は、独り言のようにつぶやいた。
 聖跡があった場所を見つめ、他の者たちに背を向けたまま。
「初めてこの世界に来て、初めて魔法というものを目にした時、感動したんだ。心が躍ったよ。なんてすごい力。なんて、素敵な力なんだろう。こんな力があれば、きっとすごいことができる、って」
 だけど、それは幻想だった。
「結局……『力』なんだよね。この世界も、アタシの世界も一緒。力って、それがどんなものでも、人は必ず闘いのために用いるんだ」
「ナコ……?」
 ダルジィやエイシスが、眉間にしわを寄せる。奈子の台詞に、不自然なものを感じ取っていた。
 由維とソレアは表情を強張らせた。奈子は今、自分の秘密について口にしていた。
「こんな、魔法なんて……」
 声が震えている。
 奈子はゆっくりと振り返った。
「こんな、なんのための力よ! アタシから、何もかも奪っていってしまうだけじゃない! ファージも、クレインも、フェイリアもユクフェも! それに、アタシの子供も!」
 金切り声で叫んだ。握った拳が、ぶるぶると震えている。
「次は誰? ソレアさん? エイシス? それともハルティ様やアイミィ?」
 唐突に、涙が溢れだした。
「アタシの好きな人たちはみんな……、みんな殺されてしまう。そして……」
 これまで一滴もこぼれなかった涙が、顔を濡らす。
「そして、最後はきっと……由維なんだ」
 泣きながら、奈子はベルトにつけた小さなポーチを開けた。
 中から、一枚のカードを取り出す。
「だから……さ」
 片手でカードをかざし、もう一方の手で由維の腕を掴んだ。
「だから……もう、ここには来ない。来れないよ……」
「奈子先輩……」
「ナコちゃん!」
 ソレアが血相を変える。エイシスとダルジィは事情がよく飲み込めず、怪訝そうな表情をしている。
 三人の顔を順番に見てから、奈子は呪文を唱えた。
 手の中のカードが消え、転移魔法の白い光が奈子と由維を包んでいく。
 奈子の唇が、微かに動く。
 小さな、本当に小さな声で。
「……さよなら」
 最後の言葉を紡いだ。


最終話『光の王国』に続く



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