九章 紅竜の騎士


 その後間もなく、ソレアはタルコプの屋敷を引き払って、マイカラス王国へと移ることにした。
 サラート王国とカイザス王国の間に戦争が始まりそうな雰囲気があって、タルコプの街も安全ではないと思われたからだ。
 もちろん、行くあてのないリューリィも一緒に連れていった。
 しかし奈子は、マイカラスへ行くことにいい顔をしなかった。
 行けばきっと、ハルティたちに迷惑をかけることになる。また、無関係な者たちを闘いに巻き込んでしまうかもしれない。もう、誰も巻き込みたくはなかった。
 しかし、他の者たちの意見は違った。
 奈子が行こうと行くまいと、マイカラスが戦場となることに変わりはない、とソレアは言った。
 アィアリスにとって、奈子の身分はマイカラス王国の騎士なのだから。
 そして、事態は奈子の予想以上に進行していたのだ。


 マイカラスを訪れたソレアは、知り合いの魔術師ラムヘメスの元にリューリィを預け、奈子と由維を連れて王宮へと向かった。ファージは来ていない。今、聖跡でクレインに会っているという。いったい何を話しているのだろう。
 王宮を訪れて謁見を申し込むと、忙しい身であるにも係わらず、ハルティは即座に応じてくれた。むしろ、奈子の来訪を予期していたような雰囲気すらあった。
 たまたまケイウェリが案内してくれたのだが、彼もなにやら意味深な笑みを浮かべている。
 ハルティの前に進むと、奈子はなんの前置きもなしに言った。
「ハルティ様、アタシを騎士団から除名してください」
 意外なことに、誰も驚いた様子を見せなかった。
 苦笑めいた表情が浮かべて、ハルティとケイウェリは顔を見合わせる。
「賭けは私の勝ちですね、陛下」
「ナコさんの性格を考えれば、分の悪い賭けだったな」
 二人が何を言っているのかわからない。奈子は訝しげな顔をする。
「つまり、ナコちゃんのこの申し出を予想していた、と?」
 奈子に代わってソレアが訊ねると、ハルティはゆっくりとうなずいた。
「昨日、トカイ・ラーナ教会の使者が来ました。一方的な要求を捲し立てていきましたが……。まあ、一種の宣戦布告ということですね」
「宣戦……布告……」
「相手の要求というのは?」
「一つはギアサラス地方の割譲。そしてもう一つは……」
 ハルティはそこで一度言葉を切って奈子を見た。
「あなたの身柄の引き渡し、です。ナコさん」
 奈子は身を固くする。ソレアが言った通りだ。トカイ・ラーナ教会にとって奈子は、マイカラスの騎士として認識されているのだ。
 本人が望まなくても、否応なしにこの国を巻き込んでしまう。そうしないために騎士団から除名してもらおうと思ったのだが、手遅れだったようだ。
「それで、陛下はどうなさるおつもりで?」
 奈子ではなく、ソレアが訊く。幾分きつい口調だった。
「一時の勢力には及ばないとはいえ、教会の軍勢は大陸有数のもの。まともに戦えばマイカラスに勝ち目はないでしょう。それに対して、ギアサラスの大半は利用価値のない砂漠。そんな土地と、得体の知れない余所者の騎士一人で国の安全が買えるなら安いものでしょうね」
 ハルティの返答を待たずにソレアは言葉を続ける。それに対して由維が何か言いたそうにしていたが、奈子につつかれて口をつぐんだ。
 ハルティの表情が真剣になる。
「あなたに隠し事をしても無駄ですね。確かに、城内の一部にそういう声があるのは事実です」
 奈子は、この台詞に対してはそれほどショックを受けなかった。当然の事だ。マイカラスにしてみれば、国の存亡に関わる問題なのだから。
 それでも、少し悲しかった。そんなことを望んでいないのに、どんどん周囲の人間が巻き込まれていく。自分の闘いで自分自身が傷つくのはかまわない。しかし、他人が傷つくのは居たたまれない。
「もちろん、私はこんな要求を呑む気はない。領土はともかく、この国の恩人であるナコさんを売るような真似はできない」
「……いいえ」
 奈子は首を横に振った。
「ギアサラス地方を譲り渡すことができるのであれば、要求は呑んでください。これ以上、迷惑をかけることはできません」
「ナコさん!」
「奈子先輩……」
「これは、私の個人的な問題ですから。マイカラスにも、ハルティ様にも、迷惑はかけられません」
 そう。これは本来、個人的な問題だった。教会の名で使者を送ったとしても、奈子の身柄を求めているのはアィアリス個人なのだ。
「ただ……、回答をできるだけ引き延ばしてもらえると助かります」
「その間に、アィアリス・ヌィと決着をつける、と?」
「はい」
 ケイウェリの言葉にうなずいた。ここに来る前から、そのつもりだった。ファージが聖跡へ行っているのもそのためだ。
 奈子がアィアリスと闘えば、どちらが勝ってもそれで終わるのだ。
 分の悪い闘いであることは百も承知だ。それでもファージの全面的なバックアップがあれば、まったく勝算がないわけでもない。奈子だって死にたくはない。ただ、これは避けて通れない闘いなのだ。
「我々を巻き込みたくないというナコの気持ちは分かるけどね」
 ケイウェリがいつも通りの愛嬌のある笑みを浮かべて言う。
「もう、手遅れじゃないかな」
「手遅れ?」
「なにしろこの国の王は、ナコ・ウェルの名前が出た途端に逆上して、使者を切り捨てるような人物だから……仕える者としては苦労が多い」
 軽い口調で言い、隣で眉をひそめているハルティをわざと無視している。奈子もつられて笑いそうになったが、考えてみれば笑い事ではない。
 しかし、それで交渉決裂と決まったわけではなかった。
「……いいえ。アィアリスにしてみれば、自分の手でアタシを殺せるのであれば他のことはどうでもいいはずです。使者の生命の一つや二つ、気にするような性格とは思えません」
「アィアリス・ヌィと何があったんです?」
 ハルティが珍しく固い口調で訊いた。奈子は一瞬口ごもったが、すぐに言葉を続けた。
「アルワライェ……彼女の弟を、アタシが殺しました」
 正直に答えると、ハルティは難しい顔のまま、ちらりとケイウェリを見た。お互い、微かにうなずき合う。
「半年ちょっと前、教会の総本山があるトゥラシが突然消滅したという話は、ここまで伝わっている。それと関連が?」
 隠しておけることでもないので、奈子はうなずいた。
 ハルティの表情がよりいっそう険しくなる。この様子では、先日のハシュハルドのことも知っているのだろう。
「あなたは……」
 やや躊躇いがちなハルティの言葉を遮るように、由維が小さく手を挙げた。
「あの、質問があるんですけど……。ギアサラスには、何があるんですか? 教会は何故、利用価値もない砂漠を欲しがるんでしょう?」
「さあ。それについては城内でも意見が分かれてまして……」
「……あの辺りには、古い遺跡があったわね」
 ソレアがぽつりと、過去形で言った。
「ああ、そうですね。でもあの遺跡は、二年近く前にあなたとファーリッジ・ルゥが封印したのでは?」
 由維は一瞬目を見開いて、奈子を見た。しかし奈子はまったく表情を変えていない。
 マイカラスの砂漠にある、二年前にファージが封印した遺跡。それは少し前に奈子が連れていってくれた場所ではないだろうか。
 奈子は『レーナ遺跡』と呼んでいた。トリニア王国よりも、ストレイン帝国よりも古い時代のものだという。その正体がなんなのか、奈子は結局詳しいことは話してくれなかった。
「今さら、教会が興味を示すほどの遺跡ではないはずですが……」
 ハルティは困惑した様子だ。
 あの遺跡に、何か秘密があるのだろうか。今の奈子の表情からは何も伺い知ることはできない。
 しかし、奈子は知っているはずだ。ソレアですら知らないのかもしれない、遺跡の秘密を。そして、アィアリスもそれを知っている。だから、ギアサラスを手に入れたがっている。
 そう考えると、つじつまが合う。
「ナコさんは、何か知っているんですね?」
 奈子は無表情でいるが、由維の様子からそれを感じ取ったようだ。確信した口調でハルティが訊ねる。
 少しの間、考えるような仕草をしていた奈子は、小さく苦笑した。
「もしかしたら、知っている……のかもしれません。でも……」
 不意に言葉が途切れる。
 その場にいる全員の表情が強張った。
 奈子は窓に駆け寄ると、身を乗り出して外を見る。
「……来る!」
 間違えようのない「気」が近付いてくる。
 強大な力の気配。
「アリス……だ」
 アィアリスと、そして黒剣の強大な力の気配。
 それだけではない。他にも何か、大きな存在を感じる。
 真っ直ぐにこの城へ向かって来る。
 奈子が振り返ると、ハルティたちと目が合った。
「この城の近くで、周囲の被害を気にせずに闘える広い場所は?」
「それなら、西の練兵場だ」
 ハルティとケイウェリは顔を見合わせて、小さくうなずいた。何も言葉を交わす必要はなく、ケイウェリは外へ飛び出していった。
 奈子はソレアを見る。
「ソレアさん、アタシもそこへ。それから、急いでファージに連絡して。アリスの奴、とんでもないことを……!」
「ええ……」
 ソレアも緊張した様子でうなずく。
「それとハルティ様、由維をどこか安全な場所へ……」
「それは任せてください」
 由維は一緒にいたいと思っていたのだが、しかし何も言わずにいた。ユクフェのことがあったばかりなのだから、奈子が由維を闘いの場へ連れて行くわけがない。
 不安を押し隠して、精一杯の笑顔を見せる。
「奈子先輩……死なないで」
「……大丈夫だって。アタシがこれまで一度だって死んだことある?」
「ファージじゃあるまいし、普通の人は二度も三度も死なないって」
「大丈夫だから。待ってて」
 そう言って由維を抱きしめると、軽くキスをした。
 由維の大きな瞳が、涙で潤んでいる。
 二人の様子を、ハルティが複雑な表情で見つめていた。


 奈子とソレアは、王宮の西に広がる練兵場へと転移した。
 予想通り、王宮へ向かっていたアィアリスの気配も進路を変える。やはり、目的は奈子なのだ。
 それにしても性急な話だ。昨日使者を送っておいて、その正式な回答も待たずに今日は自ら出陣とは。だったら最初から自分で来ればよさそうなものだが、何か思惑があるのだろうか。それとも、単なる嫌がらせか。
 城の門が開き、マイカラスの騎士たちが出撃してくる。その先頭がケイウェリとダルジィであるのは予想していたが、その隣りにハルティの姿を認めて奈子は血相を変えた。
 まさかこの状況で、国王自ら陣頭に立つなんて。
 しかし、考えてみれば当然かもしれない。王都で敵を迎え撃つのだ。マイカラスにとっては国の存亡に関わる事態である。ハルティだけが安全なところに隠れているわけにもいくまい。
 奈子は空を見上げた。黒い雲が低く立ちこめている。
 まだ正午を少し過ぎた時刻だというのに、辺りは夕暮れのように薄暗い。
 嫌な雰囲気だ。
 ハシュハルドで感じた、黒剣の気配が近付いてくる。全身に鳥肌が立つ。
 すべてを飲み込むような、闇の気配。
 この前よりもはるかに遠くから気配を感じ取れるのは、向こうが意図的に存在を誇示しているためだろう。マイカラスの民を威嚇する意図があるのかもしれない。
「……これは?」
 その時になってようやく、奈子は不自然なことに気付いた。アィアリスと黒剣の力を、かなり高い位置に感じるのだ。そして、相当な速度で近付いてくる。
 まるで、空を飛んでくるようではないか。
 確かに、魔法を使って飛行することはできる。が、普通は戦闘時にそれをする者はいない。攻撃と防御に回す魔力が不足するからだ。それに、地上から魔法で狙い撃ちにされる。
 奈子の世界で空を飛ぶ兵器が有利なのは、すべての存在が重力に束縛されているからだ。重力の影響を受けない、魔法という攻撃手段のあるこの世界においては、相手より高い位置を占めることが必ずしも有利とは限らない。
 攻撃と防御結界以外の余計なことに魔力を浪費しないことが、この世界での闘いの鉄則である。
 しかし。
 遠い過去においては、空中での闘いが当たり前のように繰り広げられていた時代もある。
 それは……。
「まさか、そんな!」
 ソレアですら、驚きの声を上げた。
 信じ難い光景だった。
 低い雲の中から姿を現したものを、即座に信じろという方が無理があった。
 敵を迎え撃つ体勢を整えていた騎士団の中から、怯えたようなどよめきが起こる。勇猛さにおいては周辺の国々から一目置かれるマイカラスの騎士団の精鋭たちにとっても、それは予想もしなかった光景だった。
「アリス……あんたは……」
 奥歯をぎゅっと噛みしめながらも、奈子は畏怖の念が湧き起こるのを抑えられなかった。
 ある意味、神々しい光景ですらあった。
 遠い昔に滅びたはずの生物。
 この世界で最大、最強の存在。
 唯一、人間を越えるもの。
 それは大空を舞う、巨大な深紅の竜の姿だった。



「あんたは、知ってるんでしょ? エモン・レーナの正体も、黒剣の秘密も。何もかも」
 ファージは不機嫌そうな口調で言った。
 ここにいる時はいつもそうだ。自分を殺した相手に愛想よくできるわけがない。
 そう。ファージはクレインに会うために、聖跡を訪れていた。
「まあ、知っていると言えば知っているな」
 ファージのこんな態度には慣れっこのクレインは、むしろ楽しそうに笑みを浮かべている。
「しかし、私は手出しするつもりはない。死人が口出しすることではないからな。今を生きている者たちに任せてみるのも一興だろう。面白い飛び入りも参加していることだし」
 最後の一言で、ファージの表情がいっそう険しくなる。
「これ以上、ナコを巻き込みたくない」
「今さら言っても手遅れだろう」
「それは……、そうかもしれないけど……」
 語尾が小さくなる。
 確かに、手遅れだった。奈子はもう、この世界に深く関わりすぎている。
 今さら、なかったことにはできない。
 あの、無銘の剣を受け継いだ日から……。
「っ、そう。レイナ・ディだよ! あいつはいったい何をしようとしていたの? どうして、奈子に剣を渡したりしたの?」
「さあ、な」
「嘘だ。知ってるはずだ!」
 ファージは断定する。
 レイナ・ディ・デューンから剣を受け取ったあの日から、奈子の『変化』が始まった。
 剣から、あるいはレイナ自身から、なんらかの影響を受けているのは確かだった。そして、クレインがそれを知らないはずがない。
「……ああ、知っている。が、言う気はない。彼女が自分で気付かない限り、私からは何も言わない」
「どうして!」
「聞いたら、引き返せなくなる。引き返すことのできない道を進むか否かは、自分で決めるべきだろう?」
「……いったい、何があるの?」
「知りたければ、彼女と一緒にいればいい。こんなところに来ていないで、彼女と共に闘えばいい。いずれ、答えに辿り着くかもしれん」
「……いいの?」
 ファージは驚きの表情を浮かべた。
「ナコと一緒に闘ってもいいの? ナコのために、力を使っていいの?」
「今さら何を言ってる。今までだって散々、勝手に力を使ってきただろう。だったら最後まで付き合ってやれ」
「本当に……?」
 驚きの表情から喜びの表情へ。しかしその変化は途中で止まった。
 クレインが眉をぴくりと動かす。
「来たか。ここを放っておくわけがないとは思っていたが」
 そう言ったクレインは、どこか楽しそうだった。
 外に、久しぶりの来客の気配があった。奈子やファージを除けば、一年半くらい前のアルトゥル王国の軍勢以来だろうか。
 聖跡の秘密を探ろうとする者は多い。クレインはこれまで、そんな連中を数え切れないほど相手にしてきたが、今回は久々に歯ごたえのありそうな雰囲気だった。
「面白い」
「手出ししないって、言ってなかったっけ?」
 ファージがさり気なく突っ込むが、クレインはさらりと受け流した。
「進んで手出しする気はない。が、向こうから来るなら話は別だろう」
 言うが早いか、クレインは聖跡の外へと転移していった。ファージもすぐに後を追う。
 これは珍しいことだ。普段のクレインは、相手が聖跡の内部へ侵入しない限り行動を起こすことはない。
 しかし、外に出るとその理由は明白だった。
 相手が、聖跡の中へ入れないくらい大きく、そして外からでも聖跡を攻撃する力を持っているからだ。
 気のせいではなく懐かしそうな表情で、クレインは空を見上げていた。口元には笑みが浮かんでいる。
「久しぶりに見たな」
「千年ぶり……くらい?」
 正確には九百年くらいだろうか。
 ファージが、最後に本物の竜を見てから。
 そして今、聖跡の上を二頭の竜が舞っていた。
 赤褐色の鱗は、大陸の北の方に棲む竜の特徴だ。王国時代、ストレイン帝国の竜騎士たちがこの色の竜を駆っていた。
 ファージにもクレインにも、驚いた様子はなかった。
 竜が滅びて千年近くが過ぎた今の時代の者ならば、竜を目にして平然としていることなどできないだろう。
 しかし彼女らは、生前に本物の竜を嫌というほど見ているし、実際に闘ったこともある。トリニアの竜騎士であったクレインは、自らも竜を駆って大陸の空を我が物顔で飛び回っていたのだ。
 気配を感じたときから、その正体には気付いていた。
「試してみるか」
 クレインの手の中から、青白い閃光が放たれる。それは空中で花火のように散って、数十条の光の矢と化して竜の一頭を襲った。
 立て続けに爆発が起こる。
 しかし竜はその巨体からは想像もできないような軽やかさで身を翻し、クレインの魔法をことごとくかわしていく。
「ふむ、本物だな。騎士の腕も悪くない」
「ユイが、アルンシルで培養されている竜を見たんだ。きっとどこかで、まだ化石化していない、保存状態のいい遺骸を見つけたんでしょ」
「騎士も培養ものか」
「多分ね。アルワライェかアィアリスのクローンだよ」
 そうでなくては、この時代に竜を操れる騎士などそうそういまい。竜は簡単に人を乗せるわけではない。王国時代でさえ、竜に認められる力を持つ騎士は、大陸中で数十人しかいかなったのだ。
 由維がアルンシルの地下で見たものについては、ファージも話を聞いていた。アィアリスもアルワライェも、王国時代の知識を元に作られた、一種のクローンなのだ。
 失敗作も多そうだが、少なくともアィアリスなら、文句なしに王国時代の竜騎士に匹敵する、あるいはそれ以上の力を持っている。ならば他にも成功例がいたとしても不思議ではない。少なくともあの竜を駆っている二人は、どちらもアィアリスではなかった。
 竜についても同様に、王国時代の古戦場跡を発掘して組織を入手し、それを解析、培養したのだろう。
「お前の親戚みたいなものだな」
 クレインが笑う。
「そういう言い方は嫌いだ」
 ファージは怒ったように言うと、短く呪文を唱えた。
 朱色の炎が広く空を覆う。
 しかし竜は、無傷で炎の中から姿を現した。大きく開いた口の中に、青白い光が生まれる。
 稲妻のような一瞬の閃光。
 次の瞬間、地面が燃え上がった。爆発した、という表現の方が相応しいかもしれない。竜の炎の中では、鋼ですら一瞬で蒸発する。
「……効くなぁ」
 ファージが呻くように言う。ファージの結界をもってしても、竜の炎を完全に防ぎきることはできなかった。致命傷にはほど遠いが、かなりひどい火傷を負ってしまった。
「相変わらず防御が甘いな」
「うるさい!」
 クレインは無傷だった。生前のファージならともかく、力の大半を封じられた現在では、クレインとの力の差は歴然としている。もっとも、力の差を抜きにしても、ファージが性格的に攻撃重視なのは事実だった。
「さて、久々に本気を出してみるか」
 二頭の竜はこちらの隙を窺うように、聖跡の周囲を高速で周回していた。そのうちの一頭に意識を集中したクレインが、すっと目を細める。
 同時に、竜の身体そのものが爆発を起こした。



「竜……なのね。本当に」
「そう、亜竜じゃない。紅い鱗。竜だよ、本物の」
 その光景を実際に自分の目で見ていても、ソレアはまだ半信半疑といった表情だった。
 王都の上空を舞う三頭の竜。首の付け根辺りに、騎士が跨っているのが見える。
 そのうちの一騎が城に接近してきた。牛を丸飲みにできそうな口が開かれ、閃光が迸る。
 耳が痛いほどの爆発音と共に、塔の一つが粉々に砕けて崩れ落ちていった。
 凄まじい力だった。勇敢な幾人かの騎士が、飛び去ろうとする竜に向かって魔法で攻撃する。しかしそれは簡単に、防御結界に弾かれてしまった。
 それが、竜の力だ。圧倒的だった。
 マイカラス王国の騎士たちの中には、半ばパニックに陥っている者も少なくない。むしろ奈子の方が、この現実を素直に受け止めていた。
 奈子にとってここは「剣と魔法の世界」である。竜がいたところで別に違和感はない。最初から、常識の範囲外の世界なのだから、今更何が起こったとしても騒ぎ立てるほどのことではないのだ。
 しかしこの世界で生まれ育った者にとっては違う。奈子の感覚でいえば、太古に滅びた恐竜が突然現代に現れたようなものだろうか。
 いや、彼らはそれ以上の恐怖を感じているに違いない。奈子の世界で現代に恐竜が現れたとしても、近代兵器を装備した軍隊ならば容易に倒すことができるだろう。しかしこの世界の竜は別格の存在だ。
 王国時代、一騎の竜騎士は一万の兵すら歯牙にもかけない圧倒的な戦力だった。竜を、そして竜騎士を倒せるのは、同じ竜騎士だけなのだ。
「アルンシルの奥で培養されていたもの。由維は亜竜と思ったけど。実は本物の竜だったんだ。王国時代の竜の死体を手に入れて、組織を培養したんだよ、きっと」
 口調は冷静だったが、実際にはそれほど余裕があったわけではない。自分の力でそう簡単に竜を倒せるとは期待していなかった。
 確かに、奈子が持つ無銘の剣は、鋼よりも強靱な竜の鱗を切り裂くことができる。しかしそれはあくまでも剣であり、相手が空中にいては手の出しようがない。レイナ・ディ・デューンがこの剣で多くの竜と竜騎士を屠ることができたのは、自らも竜を駆っていたからだ。
 この状況では、強力な魔法のサポートが必要だった。
 しかし。
「……駄目。ファージとは連絡が取れないわ」
 ソレアの台詞は、奈子を絶望の淵に叩き落とした。ファージの強力な攻撃魔法で相手を追いつめてくれれば、剣でとどめを刺すチャンスも生まれると思っていたのだ。
「そんな……。どうして?」
「……考えたくないけれど」
「ファージも、闘いに巻き込まれているの? まさか、聖跡が攻撃を受けているの?」
 そんな無謀なこと、と思う。聖跡には、あのクレインがいるのだ。
 王国時代、最強の竜騎士と呼ばれたクレイン。しかも、聖跡の強大な魔力に支えられた不滅の存在。
「竜がいるもの」
 ソレアがぽつりとつぶやく。
 確かにそうだ。竜がいれば、クレインに闘いを挑もうと考えるかもしれない。だとすると、教会の竜はここにいる三頭だけではないことになる。
 もしかしたら、竜を生み出すためにも黒剣の力が一役買っているのだろうか。そうでなければ、中枢であるアルンシルを失ったトカイ・ラーナ教会が、一年と経たずにこれほどの力を回復するとは考えにくい。
「くそっ!」
 奈子は唾を吐き捨てた。
 王都のあちこちで、火の手が上がっている。
 三騎の竜は散開し、思いのままに街を破壊している。
 奈子はそのうちの一騎を魔法で攻撃した。マイカラスの騎士たちも少しずつ落ち着きを取り戻し、一部は反撃を始めている。
 しかし竜の防御結界は、並みの魔術師など比較にならないほどに強固だった。こちらの攻撃魔法は避ける必要もなく、易々と結界で受け止める。竜は魔力に関しても、人間をはるかに凌駕するのだ。
 今のところ、竜騎士たちは奈子を直接攻撃する気配はない。時々思い出したように、竜の炎で街を灰にしている。
 それが、悔しかった。
 向こうは、そうすることで奈子をいたぶっているのだ。奈子本人を攻撃せず、破壊されていく王都を奈子に見せつけているのだ。
「……エクシ・アフィ・ネ!」
 その言葉と同時に、手の中に剣が出現する。
 無銘の剣。別格である黒の剣を別にすれば、大陸最強の魔剣。
 奈子は剣を掲げて叫んだ。一騎の竜に向かって。
「アリス!」
 見間違えようもない。アルワライェほどではないものの、充分に鮮やかな朱い髪の騎士。
 奈子が叫ぶと、ちらりとこちらを見たような気がした。
「アリス! あんたの目的はアタシでしょ! ちゃんと闘ったらどう? それとも、アタシが怖いの?」
 その声が届いたのだろうか。アィアリスの騎竜が向きを変える。
 高度を下げて、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
 速い。時速数百キロは出ているのではないだろうか。最初は点のように見えた竜が、視界の中でぐんぐんその大きさを増す。
 アィアリスが笑みを浮かべているのが見えた。
(来る……!)
 竜の顎門が大きく開かれる。
「手伝うわ、ナコちゃん」
 背後でソレアの声がする。二人でタイミングを合わせて、防御結界の魔法を展開した。
 同時に、閃光が迸る。周囲が青白い光に包まれた。
 どれほど魔力が強くとも、まともな結界では竜の炎を防ぐことはできない。奈子とソレアは、何十という数の結界を鱗のように重ねて展開していた。
 竜の炎を浴びた結界が、瞬時に消失する。それでも一つ一つの結界が少しずつ炎の勢いを削ぎ、最後に一つでも残っていればダメージはほとんど受けずに済む。
 もしもあの炎をまともに浴びれば、石造りの城壁だって崩壊する。人間など、一片の灰も残らない。
 肌が焦げるような熱気に包まれる。それでも二人がかりの結界は、辛うじて最後まで炎を受け止め続けた。
 頭上すぐのところを、竜が飛び過ぎる。風が渦を巻き、足元の土が巻き上がった。急激な気圧の変化に耳が痛くなり、奈子は思わず首を縮める。視界の隅に、アィアリスの嘲笑が映った。
 頭から尾の先までおよそ三十メートル。最大の鯨よりも大きな生物が、これほどの速度で空を飛ぶ。それは非現実的な光景だった。
 奈子は顔を上げて振り返る。竜はそのまま背後の王宮へと向かい、再び炎を放っていった。城壁の一部が粉々に砕け散る。
 反転して戻ってくると思ったアィアリスの竜は、意外にもそのまま真っ直ぐに飛び去り、何処かへ転移してしまった。
 残る竜は二騎。それまで街を攻撃していたものが、こちらへ向かってくる。
(ということは……)
 アィアリスは、今日のところは奈子を殺すつもりではないのだろうか。
 その気があれば、自ら手を下すはずだ。部下に任せたりはすまい。
(嫌がらせ……か?)
 目の前でマイカラスの人々を殺し、王都を破壊し、奈子を精神的に追いつめるつもりなのか。
 奈子を殺す気はなくとも、その分周囲の者たちが危ない。
(そんなこと、させない……)
 竜の一頭に向けて魔法を放つ。相手は素晴らしい機動で易々とかわした。
 生半可な魔法では歯が立たない。
 もっと強力な魔法が必要だった。
 竜を倒すための魔法が。
 例えば、ファージが得意とするあの魔法。無銘の剣を持っている時ならば、奈子にもできる。
 しかし、奈子の力ではせいぜい二十個程度の光球を制御するのが精一杯だった。王国時代、並みの力の竜騎士でも五十乃至百個の光球を放っている。そうでなければ、竜はすべてをかわしてしまうのだ。
(何か、もっと強力な魔法……)
 一つだけ、ある。
 トゥラシを滅ぼしたあの力。
 しかしあれは、自分でも制御できない力だった。
 感情の爆発が引き金となって発現する力。
 今ここであれをやれば――できるかどうかもわからないが――マイカラスの王都が消滅する。力を制御して、敵だけを狙うのは無理だろう。
 奈子は意識を集中しながら、竜の動きを観察していた。ほんのわずかな隙も見逃さないように。
 必ずどこかに、攻撃するチャンスが生まれるはず――。
 そう思いながら。


 この頃になると、マイカラスの騎士たちもある程度冷静さを取り戻し、組織だった反撃を始めていた。
 国王であるハルティが、自ら陣頭で指揮をしていることも大きいだろう。若い王ではあるが、少年時代から騎士団の中で修行を積んでいたハルティに対しては、騎士たちの信頼も篤い。
 竜の炎による被害を最小限に抑えるために兵たちを分散させ、しかも高速で移動させながら、しかし魔法による反撃は一点に集中させている。
 さすがに敵もこれは無視できないようで、小刻みな機動でかわしながら、小規模な炎で反撃を繰り返している。
 空と地上の間で、青白い光、朱色の光が交錯する。
 ハルティの傍らには、ダルジィの姿もあった。ケイウェリは離れたところで別働隊を率いている。
 竜騎士という圧倒的な敵を相手に善戦を続けながらも、ハルティの表情は固かった。麾下の部隊はなんとか持ちこたえているが、しかし敵を倒す決定打がないのだ。自分たちに竜を倒す力がないことはわかっている。
「勝つ方法が見つからない闘いというのも、辛いものだな」
 つい弱音が漏れる。無論、他の兵たちに聞かれないように気をつけてはいる。この声が耳に届いていたのは唯一、すぐ傍にいたダルジィだけだ。
「今はとにかく、持ちこたえることです。竜を倒すことについては、ナコと墓守たちに頑張ってもらいましょう」
 ハルティは少し意外そうな表情をした。
「ダルジィは、ナコさんたちのことを嫌っていると思ったが」
「ええ、嫌いです」
 まったく躊躇なしにダルジィはうなずいた。
「ですが、その力は認めます。それに、彼女がマイカラスを見捨てるとも思えません」
「……そうだな」
 微かな笑みを浮かべて、ハルティもうなずいた。
 その時、ダルジィの顔色が変わる。
 敵の竜の一騎が、こちらへ向きを変えて高度を下げる。ハルティがここにいることに気付かれたのかもしれない。
 周囲の騎士たちが立て続けに魔法を放つ。その集中砲火の中を、竜はくぐり抜けてくる。
「陛下!」
 防御結界を展開する。ダルジィはハルティの前に立ちふさがった。
 持てる魔力のすべてを、結界に注ぎ込む。
 同時に灼熱の炎が襲いかかり、防御結界は次々と消滅していく。それでも騎士たちが力を合わせた結界は、辛うじてその役目を果たしていた。
 竜が頭上を飛び過ぎる。騎士たちは、自分たが倒れながらも、護らなければならない存在を護りきった。
「……陛下、ご無事で」
「無茶をするな」
 ダルジィが笑みを浮かべるが、ハルティは眉をひそめた。
 ハルティを庇うように立ち、最後まで結界を張り続けていたのは彼女なのだ。自分の身を守るところまで気が回らなかったのか、火傷を負った腕から血を流していた。
「私は陛下をお護りするために、ここにいるんです」
 その表情は、名高いマイカラスの騎士としての誇りに溢れていた。


 二騎の竜は地上への攻撃を繰り返していた。
 ソレアが防御結界を張ってくれているので奈子は攻撃に専念することができたが、それでも相手に目に見えるダメージを与えるまでには至っていない。
 そもそも竜はその巨体に似合わず俊敏で、狙いすました魔法も易々とかわされてしまう。
「せめて、少しでも動きを封じることができれば……」
「だったら、俺が奴らを足止めしてやる」
 背後から、奈子の言葉に応える声があった。いつの間にやってきたのか、リューリィと一緒に街に残っていたはずのエイシスが立っている。
「エイシス……」
「ほら、よそ見すんな。やるぞ」
 エイシスが呪文を唱える。フェイリア直伝の、強力無比な精霊魔法だ。
 周囲の空間に、精霊の魔力が満たされていく。
「こういう天気の日は、これが効くんだよな。今だ!」
 エイシスが力を解放する。
 低い雲に覆われた空一面に、網の目のように稲妻が広がった。それを避けようとした竜は、必然的に進路が制限されることになる。
 そこを狙って、奈子は魔法を放った。大きな光の槍が、竜の身体を貫く。
 結界に阻まれて力をかなり削がれたものの、それでも傷を負わせることはできたようだ。
 その竜は空中でバランスを崩したが、一瞬で立て直してこちらへ進路を変えた。
 地面すれすれまで降下して、真っ直ぐに奈子に向かってくる。
 奈子を殺さないようにアィアリスから言われているはずだが、傷を負わされて騎士も頭に血が昇ったのかもしれない。
 それは、深紅の鱗に覆われた巨大な竜。
 竜の体色は個体差が大きい。もう一騎の竜はもう少し褐色がかった色で、身体も一回り小さかった。
(……あれ?)
 何かが、頭をよぎる。
 既視感。
 この光景、あの竜の姿。
 どこかで見たことがある。
 聖跡で見た王国時代の幻影だろうか。それとも……。
「ナコ!」
「ナコちゃん! 逃げて!」
 竜の姿に気を取られて、身をかわすのが一瞬遅れた。
 深紅の巨体が視界一杯に広がる。紅一色の視界。
 身体を捻ってかわそうとしたが、わずかに間に合わなかった。
 次の瞬間、奈子の身体は十メートル近くも跳ね飛ばされた。
 血飛沫をまき散らしながら、地面を転がる。巨大な竜の爪が、肩を掠めていったのだ。
 微かに触れるか触れないかという程度の接触だったのに、トラックにでも撥ねられたような衝撃だった。直撃ならば身体が真っ二つに引き裂かれていたことだろう。
 竜はそのまま頭上を通過して、再び高度を上げていく。
「ナコちゃん!」
 駆け寄ったソレアに抱き起こされる。
 左腕の付け根近くがざっくりと抉られ、腕が折れていた。
「何をぼんやりしていたの!」
 ソレアが魔法で応急処置をする間、奈子は無言で空を見上げていた。
「……あの、竜……」
 掠れた声でつぶやく。
 奈子の視線は、竜の姿を追っていた。
 血の色をした巨竜が、霞んだ視界に映る。
「あの竜……知ってる……」
 間近で見て、奈子は思いだしていた。
 あの竜は、以前にも見たことがある。
 触れたこともある。
 それだけじゃなく……。
「……ナコちゃん?」
 手当ての途中だというのに、奈子は立ち上がった。塞がりきっていない傷から鮮血が滴る。
 奈子はふらつきもせず、空を見上げていた。
 竜は上空で方向転換して、またこちらに向かってくる。相手の騎士は、とことんまで奈子をいたぶるつもりなのだろう。
 しかし、騎士の思惑なんて奈子にとってはどうでもいいことだった。
 奈子は、その竜を知っていた。
 憶えている。
 身体が、魂が、その姿を憶えていた。
「……ナゥケサイネ!」
 奈子は叫んだ。その竜の名を。
 千年以上も前、大陸の空を我が物顔で飛び回っていた伝説の巨竜の名を。



「新手か」
 二騎目の竜にとどめを刺そうとしていたクレインが、顔の向きを変える。
 ちょうど、転移してきた竜が姿を現したところだった。
「……アィアリス!」
 ファージが叫んだ。
 この気配、間違えようがない。
「あれがそうか。なかなか楽しめそうな奴だな」
「あんたより強いかもね、クレイン」
 本気でそう思っているわけではないが、余裕綽々のクレインに対して、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「だからどうした? いまさら私が、死を怖れるとでも思うか? それに、ここは聖跡だ」
 同時に、二人の周囲で爆発が起こる。アィアリスの魔法だ。一面炎に包まれ、視界が奪われる。
 無論二人にダメージはないが、炎が消えると、目の前に地上へ降りた竜の姿があった。
 首の付け根にある鞍から、アィアリスが飛び降りる。
「初めまして、クレイン・ファ・トーム。そしてお久しぶり、ファーリッジ・ルゥ」
「アィアリス!」
 問答無用で、ファージが斬りかかった。手の中に、赤い光の剣が生まれる。
 しかしアィアリスの剣は光の剣を砕き、そのままファージの身体を深々と切り裂いた。
「さすがに、これだけ聖跡に近いと即死はしないのね」
 感心したような口調だった。
 刃に付いた血糊を振り払いながら、傷を押さえてうずくまっているファージを見おろす。
「それにしても考えが浅いというか、猪突猛進というか……。この前だってあなたの方が不利だったのに、黒剣を持った私に勝てるわけがないでしょうに」
「まったくだ。相手との力の差というものを考えない奴だ」
 クレインまでがアィアリスの意見に同意する。それから、アィアリスに向かって言った。
「……で、何が目的だ?」
「分かり切ったことを」
 アィアリスが微笑む。
「私は黒剣の王として、大陸を支配して新たな時代を拓く。聖跡はいわば過去の象徴。目障りでしかないわ。ただ大人しく見ているだけならまだしも、たまに気まぐれでちょっかいを出してくるのはいただけないもの。消えてもらうしかないでしょう」
 微笑みながらも、真っ直ぐにクレインを見据えた。
 史上最強と謳われた竜騎士を前にして、微塵も臆したところはない。
「まあ、言い分はわからんでもない」
 クレインがうなずくと、アィアリスはさすがに意外そうな表情をした。
「だが、黒の剣を持ったからといって、この私に勝てるかな?」
 試してみるか、とクレインが言う。クレインはまだ剣を手にしていないが、必要とあればいつでも光の剣を生み出せる。
 しかし、アィアリスは黒の剣を鞘へ収めた。
「あなたを倒す、なんて一言もいってないわ。大陸史上最強の騎士、クレイン・ファ・トームに喧嘩を売るなんて、賢いやり方とは言えないでしょう?」
「ほう?」
 クレインの口元が綻んだ。
 とりあえず傷が塞がったファージは、二人の顔を交互に見ながら立ち上がる。
「そして私は、賢いやり方が好きよ。騎士の誇りとか、名声とか……そういったものは二の次。私は、聖跡に消えてもらうと言ったのよ」
「なるほど」
 クレインは納得顔でうなずいたが、ファージの顔からさっと血の気が引いた。
 背後の聖跡を振り返った、その瞬間。
 純白の閃光が、網膜を貫いた。
 一瞬遅れて、衝撃波が襲いかかってくる。
 防御結界を張りながら、ファージは恐る恐る隣のクレインを見た。
 クレインもちらりとこちらを見る。
 驚いたことに、クレインはどこか苦笑めいた、静かな笑みを浮かべていた。



「ナウケサイネ!」
 その名を叫んだ瞬間、竜の巨体がびくっと震えるのが見えた。
 奈子は、無銘の剣を真っ直ぐに空へ向けて掲げた。
 騎士は竜を操って、もう一度奈子を攻撃しようとしている。しかし、竜は鞍上の騎士の言葉に従おうとしない。
「ナゥケサイネ! 我が命に従え! 聞こえているだろう!」
 奈子はもう一度叫ぶ。
 頭で考えて発した言葉ではない。無意識のうちに、心の奥底から湧き上がってきた言葉だった。
「お前は……アタシの竜だろ! どこの馬の骨とも知れない奴を乗せるな!」
 竜の動きが一瞬硬直する。そのままいきなり空中で前転をするように宙返りし、同時に首を大きく振った。
 騎士は、その突然の動きに対応できなかった。
 鞍から空中に放り出される。
 竜は宙返りの勢いをそのまま乗せて、丸太のような尾で騎士の身体を打ち据えた。
 奈子の目には、空中にぱっと紅い花が咲いたように映った。
 竜はそのまま降下してくる。
 翼を広げて奈子の目の前に着地すると、地面にうずくまるように首を低く下げた。
 近くにいたマイカラスの騎士たちが、畏怖の思いに満ちた目で、竜と奈子を見つめている。
「ナコ……ちゃん?」
 ソレアの声は、奈子の耳には届いていなかった。
 奈子は竜に歩み寄ると、自分の体よりも大きな竜の頭を慈しむように撫でた。
「……久しぶり。よく覚えていたね」
 竜が、金色の瞳を微かに細める。それはファージの瞳と同じ色をしていた。
 血の色をした、鎧よりも硬い深紅の鱗。
 数え切れないほどの竜と竜騎士を屠ってきた、鋭い長剣のような牙。
 尾の先まで優に三十メートルを超える巨体。
 そのすべてが、懐かしかった。
「……行くよ!」
 奈子は勢いをつけて鞍に飛び乗った。
 竜が身体を起こす。大きく翼を広げ、強靱な脚が地響きを立てて地面を蹴る。
 その巨体をものともせず、竜の身体は軽々と宙に浮かんだ。
 瞬く間に高度が上がってゆく。地面が遠くなる。
 奈子は興奮していた。
 心が高揚する。血液中のアドレナリン濃度が上昇する。
 空を飛ぶことは、常に人を興奮させる。しかしそれだけが原因ではない。
 竜を駆ること。竜騎士にとっては、それこそが至上の悦びなのだ。
 竜と一体化してゆく感覚。
 心が一つに融合して、一個の生き物として大空を翔る。
 重力という鎖も、この身体を束縛することはできない。
 人は、竜と共に在る時、本当に自由になれる。
 強靱な翼が、風を切り裂く。
 竜の悦びが伝わってくる。本当の主と巡り会い、共に闘うことができる悦びに満ちあふれている。
 竜の悦びは、奈子の悦び。
 奈子の悦びは、竜の悦び。
 一つに溶け合った精神。
 これが、竜騎士の真の姿だった。
 奈子は、エクスタシーすら感じていた。
 解き放たれた精神が、歓喜に震えている。
 耳元で、風が轟々と唸っている。
 もう、王都全域を見渡せる高度まで上昇していた。
 練兵場の騎士たち、混乱して逃げまどう市民たちは、胡麻粒のような大きさだ。
 奈子は今、大空を独り占めしていた。
(……いや)
 空に一つだけ、目障りな存在がある。
 そうだ。それを片付けるためにここにいるのだ。
 残ったもう一騎の敵の竜は、奈子たちよりもずっと低いところにいた。
 つい先刻まではほとんど手も足も出なかった相手なのに、今は互角以上の闘いを挑むことができる。
「行くよ、ナウケサイネ」
 奈子は意識を集中する。
 遠い記憶を呼び起こし、その姿を思い浮かべる。
 手の中に、銀色の光が生まれた。
 光は長く伸びて、剣の形に実体化する。
 不自然に大きな剣だった。刃渡りは三メートル以上もある。
 それは、大竜刀と呼ばれる。
 王国時代の竜騎士たちの主武装だ。竜騎士同士の闘いのためだけに、特別に鍛えられた剣。
 竜が滅びた現在では無用の長物となり、実際の戦闘で最後に使用されたのは、もう何百年も昔のことだった。
 しかし今は、この剣が必要だった。竜とまともに闘うためには、この大剣が必要なのだ。
 奈子は剣を構えると、敵の竜へ向けて急降下した。
 数百メートルの距離があっても、相手の騎士の驚愕の表情が見て取れる。今は、ナゥケサイネの目に映るものが直に伝わってくるからだ。猛禽類よりもはるかに優れた竜の視覚が、今の奈子の目になっていた。
 相手が先手を取って、魔法と竜の炎で攻撃してくる。
 魔法はナゥケサイネの結界が跳ね返す。
 炎も、巨体を翻して軽々とかわした。
 この程度の攻撃、ナゥケサイネに任せておけばよかった。指示を与える必要もない。そもそも竜は、人間以上の知能を備えているのだ。
 奈子はただ、敵を倒すことだけに意識を集中していた。
 ナゥケサイネの速度に任せて、小細工なしに一気に間合いを詰める。敵の姿が、自分の目でもはっきりと捉えられた。
 アルワライェによく似た、しかしずっと若い少年。奈子よりも少し年下だろう。
 迷いはなかった。
 相手だって竜騎士なのだ。その気になれば、たった一騎でこの王都を灰にすることだってできるだろう。奈子の一瞬の躊躇が、何の罪もないマイカラスの人々、数百人の生命に関わるかもしれないのだ。
(一撃で、決める!)
 ナゥケサイネがうなずいたように感じた。
 二頭の竜がほとんど同時に咆哮を上げる。
 竜の体格と力は、明らかにこちらが勝っていた。ナゥケサイネの強靱な脚の爪が、敵の竜の身体に喰い込む。
 相手の騎士は隙だらけだった。眼前で起こっていることが信じられないようだ。
 大竜刀も持っていない。
 それもそうだろう。この時代、自分たち以外に竜を操れる者がいるとは思うまい。
 竜騎士同士の闘いがあるなど、夢にも思わなかったはずだ。そもそも、竜騎士同士の空中戦など、訓練したことすらないかもしれない。相手だって、竜を駆るようになってからまだ経験は浅いはずだ。
 奈子には、経験があった。竜騎士同士の闘いの経験が。
 あの、レイナ・ディ・デューンの夢の中で。
 頭の上に振りかぶった大竜刀を、力一杯に振り下ろした。
 長大な刃は騎士の身体を一撃で両断し、竜の肩を深々と切り裂く。
 騎士を失った竜に、一瞬の隙が生まれた。そこを衝いてナゥケサイネが首に噛みつく。
 ミシッ……。
 骨の潰される音。
 竜の断末魔の絶叫。
 首を喰い千切られた竜は、きりもみしながら落ちていく。
 奈子は、その姿をぼんやりと見送っていた。
 手の中の大竜刀が消える。
 その手に、まだ感触が残っていた。
 人を斬った感触が。
 初めてだった。人を斬り殺したのは。
 身体中に、返り血を浴びている。
 騎士の血と、竜の血と。自分の血も混じっている。
 急に、全身から力が抜けていくのを感じた。
 敵を倒したことで、人を殺したことで、精神集中が途切れていた。
 張りつめていた気持ちがぷつりと切れて、疲労が一気に押し寄せてきた。
 竜を駆っての闘いの副作用だ。
 竜を操ること。その際の身体と精神の負担は想像以上だった。王国時代の本物の竜騎士ならともかく、奈子にとっては限界を超えた力だった。
 意識が遠くなっていく。
 最後の気力を振り絞って、ナゥケサイネを城の練兵場へと誘導した。
 着地と同時に、鞍から滑り落ちるように地面に降りる。
 ソレアやエイシス、ハルティたちが駆け寄ってくるのも目に入っていなかった。
 震える脚でなんとか地面を踏みしめながら、ナゥケサイネの顔を撫でてやる。
「ありがとう……」
 なんとか、声を絞り出した。
「……長かったね。もう、終わったんだよ。休んでいいんだよ……」
 恐ろしい竜の顔が、笑みを浮かべているように見えた。
 ナゥケサイネの身体が、崩れ始める。
 砂のように、さらさらと。
 その姿が、幻のように徐々に薄れていく。
 竜の巨体が、後には何も残さずに消えていく。
 周囲の者たちは、言葉もなくただ驚きの表情で遠巻きに見ている。奈子はそちらへはまったく注意を払わなかった。
 ただ泣きそうな表情で、それでも口元には微笑みを浮かべて、消えていく戦友の姿を見つめている。
 やがてナゥケサイネの姿が完全に消え去ったところで、奈子の意識もふっと途切れた。



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