「誕生日?」
奈子は、驚いたような声を出した。
「……って、誰の?」
「もっちろん、あ・た・し」
にっこりと笑って、ユクフェが自分の顔を指差す。
「おや」
奈子と由維は顔を見合わせる。それは知らなかった――と。
「もしかして、遠回しにプレゼントの催促とかしてる?」
「ううん」
ユクフェの性格からして間違いないだろうと思ったのだが、予想を裏切って首を大きく左右に振った。この半年ちょっとの間にずいぶんと伸びた髪が揺れる。
「遠回しじゃなくて、きっぱり催促してる」
「……やっぱり」
まだまだ、彼女の性格を見くびっていたようだ。奈子は肩をすくめる。
昨年、押しかけ弟子としてソレアの許へやってきたこの少女の辞書には、遠慮などという単語は載っていない。
「いくつになるんだっけ?」
由維が訊く。
「十一歳だよ」
「もっと小さいかと思ってた」
「ユイおねーちゃんには言われたくないなぁ」
ユクフェは、由維の胸のあたりを指差した。
確かに由維は、中学三年生としては小柄で痩せている。当然、胸もない。
発育不全はユクフェも同様だったが、こちらは家が貧しくて、幼少時に栄養が足りていなかったという理由がある。
事実、ソレアの弟子になってここで暮らすようになってからは、それなりに肉も付いて、背もずいぶん伸びたようだ。あと数年もしたら、由維は追い越されそうだ。
しかし今は、この二人はまるで本当の姉妹のように見えた。華奢な外見だけではなく、物怖じしない性格が似ているせいかもしれない。
「誕生日プレゼント、か……」
奈子は腕を組んだ。
さて、どんなものがいいのだろう。
最近の由維へのプレゼントはアクセサリが多いが、ユクフェにはまだ早いだろう。
自分の世界のこの年代の子供であれば、ゲームソフトやCD等、ネタには困らないが、こちらではそうもいかない。
奈子が何を悩んでいるのか気がついたのか、由維が助け船を出した。
「だったら、一緒に街へ行って好きなものを買ってあげれば?」
なるほど、それはいいかもしれない。
「例えば、明日みんなでハシュハルドに行くとか……」
「ハシュハルド? 行きたーい!」
ユクフェが目を輝かせる。都会が珍しいのだ。彼女の故郷は辺境の寒村だし、ソレアの屋敷があるこのタルコプだって、所詮は小さな田舎街でしかない。
これまで訪れたことのある一番大きな街は、マイカラスの王都だろうか。しかしハルティには悪いが、ハシュハルドは比べものにならないくらいの大都会だ。
「うん、いいね。そうしよっか。そして夜はリューリィのところに泊まろう」
リューリィの養父はハシュハルドで宿を営んでおり、料理の腕には定評がある。
「わーい、決まりね!」
ユクフェが両手を上げる。奈子はキッチンでお茶の仕度をしていたソレアを振り返った。
「と、ゆーわけなんだけど。明日、送ってってくれる?」
ここからハシュハルドまで、徒歩ならば一ヶ月はかかる距離だ。ソレアかファージの転移魔法で送ってもらわなければ、とても一泊二日で行ける場所ではない。
「いいわよ」
「いいなぁ。私も行こうかな」
そう言いながら、さり気なくお茶請けのお菓子をつまみ食いしようとしたファージの手を、しかしソレアは見逃さずに抓り上げた。
「私とファージは用事があるから、夜に合流するわ。リューリィには私から連絡しておくから」
「うん、お願い」
この時までは普段通り、ユクフェが来てからずいぶんと賑やかになったソレアの屋敷の、日常の風景だった。
そして……。
この半年間続いてきたそんな日常は、この夜が最後だった。
翌日のハシュハルドは、いい天気だった。
ユクフェは大はしゃぎであちこち見て回っている。
これほどの都会を訪れるのも初めてだが、山育ちのユクフェにとって、街中に運河が走るハシュハルドの光景は珍しいものなのだろう。
誕生日のプレゼントについては、つい「金額を問わず好きなものを選んでいい」と言ってしまったために、数え切れないほどの店に付き合わされることになった。
半日以上かけて、街の中心部を行ったり来たり。
そうして結局ユクフェが選んだのは、絹とレースをふんだんに使った贅沢なドレスだった。ある意味正しい選択といえる。子供用のこんなドレスなど、タルコプでは到底手に入らない。
「えへへー、ありがとう。ナコお姉ちゃん大好き!」
買い物を終えたユクフェは、嬉しそうに奈子の腕にぶら下がった。買ったドレスは、ユクフェに合わせて少しサイズを直した後で、宿の方へ届けてもらうことになっている。だから今は手ぶらだ。
そんな光景を見て、由維は不機嫌そうにつぶやいた。
「奈子先輩ってば、やっぱりロリコンだったんだ」
「なに言ってンの。いきなり?」
「女性に服を贈るのは、それを脱がすため……ってよく言うじゃない」
十一歳になったばかりのユクフェが「女性」の範疇に入るか否かについては、この際触れない。
「それは男の場合でしょ! それに、服を選んだのはアタシじゃなくてユクフェなんだから」
という至極まっとうな反論は、しかし二人の耳には届いていないようだ。
「えー、そうだったの? そんな下心があったんだぁ。……でも、ナコおねーちゃんならいいかな。優しくしてね」
「ほら、いつの間にかすっかり手懐けちゃってる」
「違ぁぁうっ! ユクフェも、どこでそんな言葉覚えてくるの!」
「それに私、奈子先輩に服なんて買ってもらったことないし」
「……それが言いたかったわけね」
やれやれ……、と奈子は溜息をついた。
そうして奈子はこの日、由維にも服をプレゼントする羽目になったのである。
それでも、楽しい一日だったことは事実だ。
つい最近まで一人っ子だった奈子にとっては、ユクフェは妹のような存在だった。
友達はよく、由維を指して「姉妹みたい」と言うが、それは違う。由維はむしろ、奈子にとっては母親代わりかもしれない。
(由奈も、大きくなったらこんな感じなのかな……。でも、もう少しお淑やかに育って欲しいかも)
奈子はふと、先日生まれたばかりの実の妹のことを思い出した。
夕方近くになって三人は、今夜の宿であるリューリィの家を訪れた。
今夜はここで誕生日のお祝いをする予定だったが、まだ少し早い時刻なのでファージとソレアは来ていない。
代わりに、久しぶりに見るフェイリアとエイシスの姿があった。
「久しぶりだね、フェイリア。しばらく見なかったけど、どこ行ってたの?」
わざとらしくエイシスを無視して、奈子はフェイリアの隣に腰を下ろした。
「ちょっとね。大陸中をあちこち歩き回ってたの」
「……例の、あれ?」
「ええ」
フェイリアが両親と従兄弟の仇を追って旅をしていることを、奈子は知っていた。それでも最近はハシュハルドにいることも多かったようだが、この半年ほどはほとんど姿を見ていない。もっとも、奈子がこちらに来る回数が減ったせいもあるのかもしれないが。
「それで……?」
今回の旅の首尾はどうだったのだろう。何か、収穫はあったのだろうか。
「それが……ねえ。どうやらヴェスティアは死んでいて、黒の剣は他の者の手に渡ったみたいなの」
「え? それじゃあ……」
長年追っていた仇が、実はもう死んでいた。両親と従兄弟の敵を討つことに執念を燃やして生きてきたフェイリアにとって、それはかなりショックが大きいのではないだろうか。
そう思って奈子はフェイリアの表情を観察する。しかし、以前と大きく変わった様子はない。
奈子の想いに気付いたのか、フェイリアは言った。
「私の旅は終わらないの。黒の剣を滅ぼすまでは……ね」
ごく自然な口調で、しかし強い意志が込められた言葉。奈子が少し気圧されるほどに。
「こんなことで終わりなんて、許せるはずがない。私は、ヴェスティアと闘って瀕死の重傷を負った。意識が戻って最初に目に入ったのは、私を助け出して傷の手当てをしてくれたアークスの、冷たくなった姿だったのよ」
許せるはずがない、と強い口調で言った。奈子は何も言えなくなる。
「あの……」
そこへ、由維の声が割り込んでくきた。
「そもそも、黒剣ってなんなんですか?」
見ると、ユクフェも隣でうんうんとうなずいている。黒の剣にまつわる伝説は知っていても、その正体は知らないのだ。
それは奈子も同じだった。そういえばファージやソレアにも、黒剣について詳しく訊いたことはない。
「黒の剣。ストレイン帝国の皇帝ドレイア・ディが所有していたという、大陸最強の魔剣。力無き者が持てばその身を滅ぼす、呪われた剣……と、言われているわね」
フェイリアは語りはじめた。ストレインの時代から現在までの、黒剣を巡る数奇な物語を。
ここにいる顔ぶれの中では、彼女がもっとも黒剣について、そしてこの世界の歴史について詳しい。
「……だけど、いつ、誰が、どうやって黒剣を造ったのか、それは私にもわからないわ。そもそも、人が造った剣なのかどうか」
「人が造った剣ではない……? やっぱり、ランドゥ神が造ったんですか?」
ユクフェが訊く。黒の剣は暗黒神ランドゥが己の力を封じたもの――大陸で広く言い伝えられている伝説だ。世間一般では、それが通説となっている。
しかしもちろん、奈子や由維はそんな伝説を信じてはいない。二人は、この世界における「神々」の存在すら疑問視している。
そしてそれは、フェイリアも同様だった。
「一般に言われているような、神様の剣というのは眉唾ね。神様なんて、誰も見たことはないんだし」
そう言って笑う。
「だけど、黒剣が人の手になる物かというと、それも疑問だわ。そもそもあれは、本当に剣なのかしら」
「剣……じゃないの?」
ここにいる中では、フェイリア以外に奈子も黒剣を見たことがある。自分の目で直にではなく、聖跡で見た過去の幻影ではあるが。
刃が漆黒であることを除けば、あれは紛れもなく剣だった。ヴェスティアも、剣として使用していた。それ以外の何物でもない。
「私は、実際に黒剣を目の当たりにした。あれは剣の形をして見えるけど、その実体はもっと別なものよ」
「と、いうと?」
「あれはもっと……、何て言うのかしら。純粋な『力』ではないかと思うのよ。剣は力の象徴だから、人の目には剣に見えるという……」
フェイリアの台詞が途切れた。表情が強張る。
彼女が最初に気付いたのは当然だろう。一瞬遅れて、奈子の身体がびくりと痙攣した。
「な、……に……これ……?」
鳥肌が立つ。
全身から冷や汗が吹き出している。
少し遅れてエイシスやリューリィ、そして由維やユクフェもその気配に気がついた。
圧倒的な力。
吐き気を覚えるほどの。
まるで身体中の細胞が、悲鳴を上げているようだ。
それは禍々しさすらない、純粋な闇の気配。
テーブルに手をついて立ち上がった奈子の、その手が震えていた。
「黒の剣……やっぱり……」
絞り出すような声で、フェイリアはつぶやいた。
一瞬、その場が凍りつく。
「黒の剣……? でも、この気配……アタシ、知ってる……」
思わず、エイシスを見る。彼も小さくうなずいたのを見て、奈子は外へ飛び出した。
意識を集中するまでもなく、その『気配』を発している場所はわかった。それほど、強い力を持った存在だった。
奈子は通りを走る。
目指すは、街の中心にある大きな広場だ。
いつもは物売りなどが品物を広げていて、大勢の人間で賑わっているはずのそこは、何故か人の気配がなかった。
周囲の通りは普通に人が歩いているのに、広場にだけ人がいない。そしてそのことの異質さに、誰も気付いてはいない。
(心理結界……)
おそらく、誰にもこの光景が見えていないのだ。無人の広場と、その中心に立つ一人の女性の姿が。
広場に駆け込んだ奈子の脚が止まる。その女性は、真っ直ぐに奈子の目を見て微笑んだ。
黒い服に身を包んだ、美しい女性。
肩の長さで切り揃えた朱い髪と、金属的な光沢を持つ赤銅色の瞳。
よく知っている。
実際に会ったのは過去二度だけなのに、忘れようとしても忘れられない相手だった。
「ア……アィアリス!」
その名を叫んだ。そして、ぎっと奥歯を噛みしめる。
「久しぶり、ナコ・ウェル」
人間味に欠ける整いすぎた笑顔で、アィアリスは言った。
「もっと早く会いに来たかったんだけど、私もいろいろと忙しいの」
「な……んで……」
口の中がからからに乾いていて、うまく言葉を紡げなかった。いずれアィアリスと闘うことにはなると思っていたが、これはあまりにも意外な光景だった。
アィアリス・ヌィ・クロミネル。トカイ・ラーナ教会で生み出された、強大な力を持つ騎士。しかしその正体は、ファージと共通する遺伝子を持った魔物だ。
「なんで、あんたがその剣を……」
「何故……? 説明するまでもないでしょう?」
言いながら、腰の剣を抜いた。突風のような魔力の奔流が奈子を襲う。
アィアリスの手に握られているのは、漆黒の刃だった。
説明するまでもない、確かにそうだ。アルワライェ……彼女の弟を殺し、トカイ・ラーナ教会の本拠地を壊滅させたのは他ならぬ奈子なのだから。
そして奈子は、レイナの剣――無銘の剣の所有者である。
無銘の剣を持つ奈子の力は、アルワライェを上回った。アィアリスの力は弟以上らしいが、だからといって奈子に勝てる保証はない。
この世界で無銘の剣以上の力を持つ魔剣は唯一、黒の剣しかあり得なかった。
「……アタシを……殺しに?」
肯定も否定もせず、アィアリスは静かに微笑んでいる。それでも笑みの中に、尋常ではない悪意の存在を感じ取ることは容易かった。
しばらく間をおいて、アィアリスが口を開く。
「去年、アルの誕生日の少し前に約束したのよね。手足を切り落としたあなたを、綺麗にリボンで飾ってプレゼントしてあげるって。そして、今年の誕生日はもうすぐなの」
「――っ!」
奈子の方から先に仕掛けた。
アィアリスの周囲に、鮮やかな朱色をした光の球がいくつも現れる。それは一斉に爆発して、アィアリスの姿を包み込んだ。
並の人間ならば一瞬で炭になるほどの魔法だが、奈子はこれでアィアリスにダメージを与えられるなどと期待はしていなかった。
炎が視界を遮っている隙に、間合いを詰める。
意識を集中すると、奈子の手に一振りの剣が出現した。
無銘の剣。レイナの剣。
無限の切れ味を持った、恐るべき魔剣。
なんの躊躇もなしに、アィアリスを斬りつけた。
二人の身体が交差する。
一瞬遅れて、奈子の身体が地面に転がった。
太股を斬られ、激しく出血していた。
奈子の刃は、相手の身体に触れることすらできなかった。先手を取ったのはこちらのはずなのに、アィアリスの剣技は奈子をはるかに凌駕していた。
地面の上に、赤黒い染みが広がっていく。
「いささか拍子抜けね。こんなに簡単に片が付くとは」
漆黒の刃が向けられる。その切っ先は、奈子の血に濡れていた。
奈子は目を瞑った。次の瞬間には、黒剣は奈子の身体を貫くだろう、と。
しかし、そうはならなかった。
身体を貫く刃の感触の代わりに、美しい女性の声が耳に届いた。
「抜け駆けは駄目よ、ナコ。私が先でしょう? 私は、二十年以上も黒剣を追ってきたのよ」
目を開くと、フェイリアがいた。その隣にはエイシス。そして由維とユクフェ、リューリィまでもが後に続いていた。
「一人でいいカッコすんなよ、ナコ。相手は黒剣の王、正々堂々と闘おうなんて考えるな。三対一だって、要は勝ちゃあいいんだよ」
いつものように軽薄そうな笑みを浮かべたエイシスが、背負っていた大剣を抜いた。そして、手振りでリューリィや由維たちを下がらせる。
「そうね。まさか黒剣の王が、三対一を卑怯だなんて言わないわよね?」
黒剣とは対照的な白い刃、竜の剣を手にしたフェイリアが微笑んだ。
アィアリスの口元にも笑みが浮かんでいた。自分に刃向かう者たちの存在を楽しんでいるかのように。
傷ついた奈子に背を向けて、新手の二人に向き直る。
「役者が揃ったようね。まだ、ファーリッジ・ルゥが足りないけれど。でも、あなた方を殺せば出てくるでしょう」
奈子はこの隙に、魔法で傷の手当てをしていた。完治させている余裕はないが、とりあえず動ける程度には回復しなければならない。
奈子とフェイリア、そしてエイシス。
三対一ならば、勝算もあるはずだった。
たとえ黒剣を持っていなくても、アィアリス相手に一対一はきつい。奈子はアィアリスと直接闘ったことはないが、ファージに聞いた話では、少なくとも剣技については奈子など足元にも及ばないようだ。
魔力に関しても、アィアリスの力は群を抜いている。間違いなく、王国時代の竜騎士に匹敵する、あるいは凌駕する力を持っているはずだ。それに加えて黒の剣を持っているのだから、一対一でアィアリスに勝てる人間は、この世にはいない。
少なくとも、生きている人間の中には。
聖跡の番人、クレイン・ファ・トームならば話は別かもしれないが、彼女は基本的に、現在の大陸における出来事には関わろうとしない。
それでも三対一なら、まだ勝算がないわけではなかった。フェイリアやエイシスが牽制している隙に、奈子の剣でアィアリスの身体を貫くことができれば。
アィアリスがどれほどの力を持っていようと、生身で無銘の剣を防げるものではない。今の奈子は、以前よりもずっと強く剣の力を引き出すことができる。黒剣で直に受け止めない限り、魔法による結界だけではあの刃を止められまい。
(相手は黒剣の王、要は勝ちゃあいい……か)
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
それはつまり、奈子の手でアィアリスを殺すことを意味している。
果たして、そんなことができるのだろうか。
アィアリスは以前、奈子を操ってファージを殺そうとした。しかしそれから一年が過ぎて、憎しみが薄れているような気がしてならない。こんな精神状態で、本当に人を殺せるのだろうか。
アルワライェを殺したのは、仕方のないことだった。
由維を傷つけられ、お腹の子供を殺されて。
あの男は、間違いなく死に値することをしたのだ。
しかしアィアリスがしたことは……結局、未遂ではないのか?
(……何考えてるんだ。この期に及んで! あいつは……あいつがしたことを、許していいはずがない!)
そう、自分に言い聞かせる。
ファージは結局は助かったが、あの時、確かに一度は死んだのだ。
(思い出せ。あの時のことを……)
自分の刃で、親友の身体を貫いた感触。あれは決して忘れることができない。
(あんなことをした奴を許しちゃいけない……)
迷いは禁物だった。
アィアリスは、敵意を持って奈子に会いに来たのだから。
(……もう、闘いは始まっているんだ)
闘いが始まる前ならば、それを回避する努力をするのは構わない。しかし一度闘いが始まってしまったら、躊躇せずに全力を尽くさなければならない。
それが、北原美樹の教えだった。
そうしなければ、自分が殺されるのだ。
(……やるか、やられるか。だったら……やる! 自分が死ぬより、相手を殺してでも生き延びたい)
心は決まった。奈子は剣を構える。
奈子とフェイリア、そしてエイシスの三人は少しずつ場所を移動し、アィアリスを重心とした正三角形を描く位置に立った。
小さく深呼吸する。目の前の敵に、意識を集中する。
もう、迷いはなかった。
最初に動いたのは、フェイリアだった。精霊の力を借りて放つ光の矢は、数百本に及ぶだろうか。それが一斉にアィアリスを襲う。
同時に、エイシスが飛び込んだ。愛用の大剣を振りかぶる。
奈子は意識的に、一瞬遅れてスタートを切った。
アィアリスの結界が、フェイリアの魔法を受け止める。結界に阻まれた魔法の矢は、火花を散らして霧散した。
そこへ、エイシスの剣が襲いかかる。この大剣による斬撃は、魔法による結界だけで受け止められるものではない。アィアリスはここで黒剣を使うはずだった。
奈子が狙っていたのは、その一瞬だ。
フェイリアの魔法が、アィアリスが得意とする転移を封じている。エイシスの大剣が、黒の剣とぶつかり合う。
背後に、大きな隙が生まれる瞬間だ。
すべては計算通りだった。なんの打ち合わせもなしに、よくこれだけの連係ができたものだと思う。
無銘の剣は、背後からアィアリスを両断するはずだった。
……なのに。
微かな金属音が鼓膜を震わせた。
奈子は、一つ瞬きをする。
アィアリスは、無傷で目の前に立っていた。無銘の剣は地面に転がり、奈子の手首から血が噴きだしている。
「て……めぇ……」
エイシスが呻く。彼の大剣が、柄の上三十センチほどのところからなくなっていた。滑らかな切断面が、夕陽を反射している。
切り落とされた刃が、エイシスの腹を貫いていた。刃を伝って血が滴り落ちる。
エイシスの打ち込みを黒剣を振り上げるようにして叩き斬ったアィアリスは、そのまま勢いを殺さずに身体を半回転させ、剣を持った奈子の手首を斬ったのだ。
指が動かなかった。腱と動脈が完全に切断されている。
出血に伴って、脚から力が抜けていく。奈子はその場に膝を着いた。それでも顔を上げて、アィアリスの動きを追う。
一瞬で戦闘力を失った奈子とエイシスを無視して、アィアリスはフェイリアを見た。冷静な笑みはまるで変わらない。
「残るはあなた一人。せっかくだから、竜の剣の力も見たいわね。先代の王、ヴェスティアを傷つけた竜の剣の力を」
フェイリアは無言で剣を構えなおした。額には汗が滲んでいる。
圧倒的な力だった。フェイリアの表情が強張っている。
勝てない。奈子はそう感じていた。向こうに先手を取られて自分とエイシスが負傷したこの状況では、勝てるはずがない。
たとえフェイリアが最強の攻撃魔法を放ったとしても、アィアリスに通じる保証はない。相手の方が疾く、しかも魔力ははるかに上なのだ。
大規模な魔法を用いたところで、街に被害を出すだけで効果は期待できない。むしろ強力な魔法は、どうしても隙が多くなる。
攻め方が逆だった。奈子とエイシスの力で格闘戦に持ち込んで、アィアリスに隙ができたところでフェイリアの魔法か竜の剣の力を使うべきだったのだ。
まったく勝算がなかったのだとは思いたくない。三対一ということで、どこか油断があったのかもしれない。あまりにも真正直に仕掛けてしまった。
(街に被害……、しまった!)
奈子の表情が固まる。うっかりしていた。由維やユクフェ、そしてリューリィを逃がさなければならない。
一瞬、意識がそちらに向く。思わず声を上げそうになり、辛うじてそれを押しとどめた。
由維とリューリィは、先刻までと同じ場所にいる。青ざめた表情で、不安げに見守っている。
しかし、一人足りなかった。
なんと大胆なことか。ユクフェが遠巻きにこっそりと、アィアリスの死角へ移動しようとしている。フェイリアもその動きに気付いたようだ。顔に、先刻までとは違う緊張が浮かんでいる。
アィアリスは、ユクフェの行動に気付いているのだろうか? 奈子はその表情をうかがう。
もしかしたら、気付いていない可能性もある。強大すぎる力を持つ彼女にとって、奈子とフェイリアとエイシス以外の相手は、取るに足らない存在だろう。いちいち気にしていないかもしれない。
気付いていないのであれば、これは大きなチャンスだ。ユクフェの不意打ちだけで倒せるはずはないが、必ず隙ができる。フェイリアはいつでも力を解き放てる態勢だし、深手を負っているとはいえ、奈子もエイシスも闘志を失ってはいない。
しかし、もしも気付いていたら……。
その時はユクフェの生命はない。
奈子とエイシスがまだ生きているのは、アィアリスがとどめを刺そうとしなかったためだ。
理由の一つは、一撃で仕留めようとした場合に他の二人の攻撃を避けきれない可能性があったから。
そしてもう一つは「いたぶって楽しむに値する」相手だから。
その値のないユクフェなど、蟻を踏みつぶすように殺されてしまう。
(どうしよう……)
声に出してユクフェを制すれば、アィアリスに気付かれてしまう。
果たして、気付いているのかいないのか。
真後ろに回ったユクフェが、意識を集中している。
と、アィアリスが唇の端を微かに上げた。
(……気付いている!)
考えるより先に、身体が動いた。
「アィアリスっ!」
奈子は先程落とした剣に飛びつき、そのまま地面を転がってアィアリスの懐に飛び込もうとした。
同時に、エイシスが魔力の源となる精霊を召喚する。エイシスやフェイリアの精霊魔法は、かなり強力な上位魔法にも匹敵する破壊力を持つ。この際、街の被害など気にしていられない。
そしてフェイリアは、一瞬竜の剣の力を解き放つと見せかけてアィアリスの気を引き、その隙にユクフェの周囲に結界を張ろうとした。
しかし。
先に行動を起こしていた二人の方が早かった。
アィアリスの立っていた場所が、灼熱の炎に包まれる。
ユクフェの魔法。それは鋼すら瞬時に熔かしてしまうほどの超高温の空間を作りだした。
だが、その炎の中にアィアリスの姿はなかった。フェイリアの結界を突き破っての転移が一瞬早かった。
炎はほんの数秒で消えた。
ユクフェが硬直している。驚きに目を見開いて。
その背後に立ったアィアリスが、ユクフェの肩に手を置いていた。
「勇敢なおちびさんね。あの三人より、よっぽど楽しませてくれるじゃない」
「あ……ぁ……」
ユクフェは動けずにいる。肩を押さえられて。まるで、全身が麻痺してしまったかのように。
「アィアリス!」
「この子のおかげで、いいことを思いついたわ。ねぇ、ナコ・ウェル?」
そう言ってちらりと奈子を見る。
「アルが言っていたわ。あなたは、怒っている時が一番魅力的だって」
その表情で奈子は悟った。アィアリスが、何をしようとしているのか。
さぁっと血の気が引いていく。
「やめて! お願い!」
「素敵な声ね。もっと聞かせて欲しいな」
「いやぁっ! やめてぇぇっ!」
奈子の絶叫と、大きな風船が割れるような、バンッという音が重なった。
そこにはもう、ユクフェの姿はなくて。
紅い飛沫と肉片が、花火のように丸く飛び散っていった。
スローモーションのようにゆっくりと、放物線を描いている。
ばらばらと、雨が降るような音が響く。
一瞬前までユクフェであった破片は、奈子の足元まで飛んでいた。
「……っ、…………っ!」
奈子は叫ぼうとした。しかし声が出ない。
まるで喉が、重い鉛の球で塞がれているようだった。
その場の全員が、動きを止めていた。
アィアリスは、紅く染まった掌を奈子に向けて笑った。
「知ってるわよ、ナコ。こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれるって。それとも、もっと大切な人じゃないと駄目かしら?」
「――っ! アリスっ!」
もう、限界だった。
アィアリスが横を向く。その目が奈子の「もっとも大切な人」を捉えることすら許せなかった。
心の奥底で、何かが音を立てて崩れていく。
その下に閉じこめられていたものが、噴き出してくる。
抑えようのない衝動。
それは、魂の解放。
アィアリスの目の前に、ぽつんと、小さな輝点が出現した。
針の先よりも小さく、しかし直視できないほどの眩い光。
それは、無限に小さな空間の中に閉じこめられた、無限大の『力』だった。
原初の宇宙のように。
すべての始まり。
そして、すべての終わり。
奈子の精神を通して『力』がこの世界へと流れ込んでくる。
「ナコ!」
「奈子先輩、だめぇっ!」
その甲高い叫びが、奈子の意識を現実に引き戻した。
それでようやく、自分が何をしようとしていたのかに気付いた。必至に、力を抑え込もうとする。
ここで、あの力を解き放ってはならない。
アルンシルを、トゥラシを滅ぼした力。
アルワライェを殺すために、一つの都市を滅ぼした力。
この力を解き放ってはならない。
ハシュハルドには、罪もない人々が何十万人と暮らしているのだ。
これは、すべてを滅ぼす力。王国時代の高度な文化を滅ぼした力。
一度解放してしまったら、奈子自身でも制御はできない。
(だめ……だめ……)
(抑えなきゃ……抑えなきゃ……)
(……お願い!)
アィアリスが、小さくくすっと笑った。今まさにこの街を道連れに彼女を滅ぼそうとしていた光点が、すぅっと消えていく。
奈子は、肩で大きく息をした。
本当に危ないところだった。由維の声がなければ、また、同じ過ちを繰り返すところだった。
「……甘いわね。甘すぎるわ」
その声には、むしろがっかりしたような響きがあった。アィアリスが肩をすくめている。
「途中で止めなければ、私に勝てたのに。これが、唯一のチャンスだったのよ」
ぱちんと、指を弾くような動作をする。
それと同時に。
奈子の目の前に、小さな、しかし直視できないほどに眩い輝点が出現した。
身体が、ふわっと浮いたように感じた。足下の地面の感触がなくなり、上下の感覚が消える。
視界が真っ暗になった。
次の瞬間、激しい横殴りの突風が奈子の身体を地面に打ち倒した。猛烈な風に蹂躙されて、身体が転がる。
そこで、違和感を覚えた。
ハシュハルドの街中の、大勢の人々に踏み固めたれた固い地面ではない。柔らかな草の感触。
耳元で、風が轟々と唸っている。
奈子は両手で耳を押さえて地面に伏せていた。この風が収まるまでは立ち上がることもできない。
一瞬止んだと思われた突風は、次の瞬間逆方向から襲いかかってきた。それは風というよりも、叩きつけられるような空気の壁だ。奈子の身体は為す術もなく転がった。
しばらく経って風が収まったとき、奈子は自分が青々とした麦畑の中にいることに気付いた。顔を上げて、周囲を見回してみる。
そこは建物の密集したハシュハルドの中心部ではなかった。見渡す限りの畑が広がっている。穂を伸ばし始めたばかりの麦は先程の突風によって、みな同じ方向に倒れていた。
立ち上がった奈子の視線が、ある方向に釘付けとなる。
そこには、巨大なキノコ雲が立ち昇っていた。
むくむくと蠢きながら成層圏へと昇っていく真っ黒い雲は、まるで禍々しい魔物のように見えた。
あの下は、いったいどうなっているのだろう。
奈子は唇を噛んだ。
最後に見た、あの輝点を憶えている。
アィアリスの……黒剣を持つ者の力だ。
奈子がトゥラシを消滅させた力。つい先刻、アィアリスを殺そうとした時の力。それと同じ力を、アィアリスが解き放ったのだ。おそらく、ハシュハルドという街はもう存在しないだろう。
「そん……な……」
そこで、ふと我に返った。慌てて周囲を見回して、ほぅっと胸を撫でおろす。
少し離れたところに、由維が倒れていた。今、頭を振りながら起きあがろうとしている。その傍にはリューリィも倒れている。こちらはまだ、意識が戻っていないようだ。
反対側に目をやると、エイシスがいた。片膝を着いて立ち上がりかけた姿勢のまま、青ざめた表情でキノコ雲を見上げていた。アィアリスに負わされた傷の手当てをするのも忘れている。
奈子は、自分の手首の傷を魔法で塞ぎながら、エイシスの側へ行った。由維のことも心配だが、エイシスの傷は奈子よりも深手だったはずだ。
「エイシス……。傷、手当てしないと……」
予備の治癒魔法のカードを取り出して、背後から呼びかける。しかしエイシスの耳には届かなかったようで、なんの反応もない。ただ呆然と、ハシュハルドがあった方向を見つめていた。
「フェア……」
小さく、そんなつぶやきが漏れる。
奈子もはっと気付いた。
フェイリアが、いない。
それで、すべてが理解できた。
あの瞬間、奈子たちをここまで転移させたのはフェイリアなのだ。あの中で、空間転移魔法が使えるのはフェイリアだけだった。
だから、フェイリアはここにはいない。
本来、間に合わないはずなのだ。アルワライェやアィアリスのような例外を除けば、転移魔法にはタイムラグがある。一秒にも満たないわずかな時間ではあるが、解放されたアィアリスの力が奈子たちを消滅させるのに必要な時間は、それよりもはるかに短い。
フェイリアの防御結界が、奈子たちを護っていたのだ。最強の結界であっても、あの場では一瞬で消滅してしまっただろうが、その一瞬で十分だった。フェイリアは防御結界で場を覆いながら、奈子たちを転移させたのだ。
自身は、最後まで結界を張り続けながら。
「フェイリアが……」
自らの命と引き替えに、奈子たちを救ったのだ。あの一瞬の間に適切な反応ができたのは、フェイリアだけだった。
「エイシス……?」
もう一度名前を呼ぶと、エイシスはゆっくりとこちらを向いた。
奈子は、エイシスの泣き顔を初めて見た。
リューリィが啜り泣く声だけが、静かに響いている。
あの後、何故かアィアリスが追撃してくる様子はなく、奈子たちは異変を察知してやって来たファージやソレアと合流した。
今はファージがアィアリスの行方を追っていて、他の者たちはソレアの屋敷へと戻ってきている。
他に、行くところはない。ハシュハルドという、大陸でも有数の大都市は、もう存在しないのだ。河畔に築かれた都市だったため、その跡はトゥラシ同様、大きな湖となっている。
誰も、口を開こうとする者はいなかった。
あの気の強いリューリィがずっと泣き続けているし、エイシスは傷の手当を受けた後、呆けたように座っている。
ソレアも由維も、沈痛な表情で俯いている。
奈子自身は……どんな表情をしているのか、自分でもわからなかった。
誰もが、大切な人を失ったのだ。
ハシュハルドはリューリィが長年暮らしてきた街であり、養父と、大勢の友人たちがいた。姉同然のフェイリアとともに、そのすべてを失ってしまった。
エイシスにとってフェイリアは、恋人同然の存在だった。リューリィの養父のウェイズとも長い付き合いがあった。
ソレアには、ユクフェの死の方がショックだったろう。長年他人と関わらないように生きていた彼女の、初めての弟子なのだ。
そしてユクフェは、由維にとっては妹と友達の中間みたいな存在だった。なにより由維は、身近な人の死を目の当たりにすることに慣れていない。
奈子は自分については、どのくらいショックを受けているのかよくわからなかった。
フェイリアとユクフェ、奈子はその両方と親しかったのだが、不思議と、涙は出てこなかった。
もしかしたら、あまりのショックの大きさに感覚が麻痺してしまったのかもしれない。神経が、痛みを感じることを止めてしまったかのようだ。
それとも昨年十月のあの事件で、一生分の涙を流し尽くしてしまったのだろうか。
ただ黙って、カップを手にテーブルに寄りかかって立っていた。中のお茶は、いつの間にか冷たくなっていた。
深夜。
喉の渇きを覚えた奈子が台所へ立った時、エイシスが一人、明かりもつけずに居間にいるのに気がついた。
もうとっくに、各自の寝室へ下がったものと思っていたのに。
奈子は水を飲みに行くのを止めて、エイシスの前に立った。ゆっくりと顔を上げて奈子を見る。
「あんた一人? リューリィは?」
「泣き疲れて眠ったよ」
「あんたは眠らないの?」
「……ああ」
「ここが奇襲されることはないと思うよ。ソレアさんが気付くもの」
「……ああ」
どうやら、アィアリスの襲撃を警戒して起きていたというわけではなさそうだ。だとすると、ただ単に眠れないのだろう。
奈子も、その気持ちはよくわかる。彼女もやっぱり眠れなくて、こうして起き出してきたのだから。
由維はしばらくベッドの中で泣いていたが、少し前に眠ったようだった。
「元気ないね。らしくないよ」
「今度ばかりはな……。さすがに、堪えた」
そうつぶやいて笑う。この男が奈子の前で弱音を吐くなんて、初めてではないだろうか。それだけ、フェイリアの存在が大きかったということか。
力のない笑みが見ていて痛々しい。しかしきっと、奈子も同じような表情をしていることだろう。
「アタシが、慰めてあげようか?」
冗談めかして言った。本気というわけではなかったが、エイシスがうなずいたらそれでもいいと思っていた。
「バカ言え」
その声は、少しだけいつもの調子に戻っていた。奈子は静かに笑う。
「……お前だって、泣きたいくせに」
「泣きたいよ。だけど……」
そこで一度言葉を切る。ぎゅっと唇を噛みしめて、涙が滲みそうになるのを堪えた。
「……泣くわけにいかないもの」
泣いて解決することではない。
ユクフェの死の責任は、奈子にもある。
そう思っていた。
今日、ユクフェをハシュハルドへ連れていかなければ。
いや、それ以前に。
奈子がアルワライェを殺さなければ。
黒剣を追っていたフェイリアはともかく、ユクフェは、そしてハシュハルドに住んでいた何十万人という人々は、奈子の闘いに巻き込まれただけなのだ。
不毛な考えかもしれない。しかしどうしても頭の片隅で、その不毛な「if」を考えてしまう。
今更、どうしようもないことなのに。
「アィアリスとアルワライェが、ファージを殺そうとした。由維を傷つけて、アタシの子供を殺した。だからアタシはアルワライェを殺した。……いつまで続くんだろう。アタシとアィアリスが死ねば、終わるのかな」
「……終わらねーよ」
エイシスがぽつりとつぶやく。
「永遠に終わらない。人間は……いや、動物は昔から、戦うことで生き残ってきたんだ」
それは確かにその通りだ。しかしだからといって、それですべて納得できるというわけでもない。
「フェイリアと、ユクフェと、トゥラシとハシュハルドの何十万人という人たち。それにリューイ・ホルトやアルワライェやウェリア。その死の責任は、どうすれば償えるの?」
「お前が死んだって、なんの償いにも解決にもならん。ソレアやユイが泣くだけだ」
「あんたは?」
「あ?」
「エイシスは、泣いてくれないの?」
「……泣く、かもな」
「じゃあ、死なないことにする」
そうやって自分を納得させるしかない。
何十万人もの命は、一人で背負うには重すぎる。その重さから逃れるために、自分の命を絶ちたくなる時がある。
それでも、自分が死んで泣く人間がいるうちは、そんな卑怯な死に方をするわけにはいかない、と。
そう言い聞かせている。
「俺だって、これまで何百人と殺してきた。その中には、必ずしも殺す必要のない人間だっていた。だけど……戦うしかないんだ。俺たちは、そんな生き方しかできないんだから」
自嘲めいたつぶやきに、奈子も小さくうなずいた。
エイシスが寝室へ戻った後で、奈子は最初の目的を思い出して水を汲んだ。カップを持って居間へ戻り、カーテンを少しだけ開けて空を見上げた。
いつものように、三つの月が空にかかっている。ちょうど今は、一番小さな月が天頂近くにあった。
奈子は月を見ながら、ゆっくりと喉を湿らせた。
突然、背後に人の気配が現れる。奈子は別段慌てなかった。馴染み深い気配だ。
振り返ると、そこにファージがいた。
あの後、一人でアィアリスの行方を追っていたのだが、ようやく戻ってきたらしい。
「堪えてるみたいだね、ナコ」
「うん、ちょっと……ね」
ファージの様子は普段とさほど変わりない。そういう性格だ。
それをわかっているから、奈子もなんとも思わなかった。ファージはもともと他人が生きようが死のうが気にも留めないし、フェイリアやユクフェと特別仲が良かったわけでもない。
第一、千年もの間生き続けてきたのだ。親しい者との死別だって、数え切れないほど経験しているのだろう。
自分が死んだらファージは泣くだろうか。奈子はふと思った。もちろん、本人に訊いてみる気にはなれなかったが。
「アィアリスは?」
「教会の新しい本拠地。カムンシルってところ」
「攻め込める?」
「見つかるのを承知の上なら、中へも転移できる。行く気?」
「……迷ってる」
それが、正直な気持ちだった。
これで終わりではないだろう。アィアリスとは決着をつけなければならない。
しかし、今日の闘いでわかった。今の奈子では、一対一ではアィアリスに勝てない。
黒剣の力は、想像以上だった。まともに闘って勝てる気がしない。
唯一勝算があるとすれば、奈子があの『力』を解放して、トカイ・ラーナ教会の本拠地ごと吹き飛ばすしかないだろう。しかしあれは自分の意志で制御できない力だし、これ以上無関係の人間を巻き込むわけにもいかなかった。
「アタシは……ううん、レイナの剣は、黒剣を滅ぼせるの?」
そう訊くと、ファージは微かに苦笑して首を横に振った。
「黒の剣は、不滅だよ。どんな強力な武器を持ってしても、滅ぼすことはできないんだ」
「不滅……? どうやっても?」
「川の流れの中にできた渦のようなものさ。石を投げ込んで渦を散らしても、またすぐ元に戻る。黒剣も同じ。あれは、この世界を満たす魔力の中に生まれた渦みたいなものなんだ。渦の中に集まってくる魔力の結晶、それが黒剣なんだ」
「黒剣は不滅……じゃあ、アィアリスと闘うことはできないの?」
奈子の心には、滅びの美学などというものはない。まるで勝算のない闘いに挑むつもりはなかった。それで死ぬのは自己満足にはいいかもしれないが、結局はなんの意味もない犬死にだ。
「そうとは、限らないよ」
「と、いうと?」
「黒の剣そのものを滅ぼすことはできなくても、それを持つ者を倒すことはできる。黒剣の王がどれほど強大な力を持とうとも、不死身ではあり得ない。ドレイアだって、ヴェスティアだって、結局は死んだんだ」
「……それしか、ないか」
力は、それを使う者がいなければ存在しないのと同じ。
黒剣の王は強大な力を持っているが、その肉体はあくまでも人間。簡単にはいかないだろうが、決して不死身でもない。
付け入る隙があるとすればそれだけだ、とファージは言った。
「ファージ……」
奈子は真っ直ぐにファージを見た。
「虫のいいお願いだってのはわかってる。でも……お願い、力を貸して」
「そんな泣きそうな顔しなくたって」
ファージが笑う。
「友達に協力するのは当然のことじゃない。それに私だって、アィアリスに恨みがあるよ」
「……ファージ」
「墓守の使命なんて知ったこっちゃないよ。クレインが文句を言ったって知るもんか」
「ファージ……」
「でも、その代わり……」
ファージが不自然に接近してくる。唇が触れるほどに。
しかし奈子は避けなかった。
「今晩、一緒に寝ようね?」
金色の瞳を細めて、いつもと同じ笑みがそこにあった。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2000 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.