七章 黒のヴェスティア


 扉が静かにノックされる。
 アィアリスは顔を上げた。
 返事を待たずに扉が開く。そんな無礼なことをする人間は、ここには一人しかいない。
 艶やかな褐色の肌を持つ、美しい女性が入ってくる。
 手にした銀のお盆には、ティーポットと、カップが二つ。
「午後のお茶をお持ちしました。……私もご一緒してよろしいですか?」
 丁寧な口調の割に、あまり敬意が感じられない。彼女――セルタ・ルフ・エヴァン――はここで唯一、アィアリスと対等な存在だった。
「……あなたがすることではないでしょう?」
 慣れた手つきでお茶の仕度をするセルタを見て、呆れ顔で言う。いくら、今の教会が人手不足とはいえ。
「慣れていますから。子供の頃は、これが仕事でしたし」
 抑揚のない声で応える。
「メイドが?」
 アィアリスは眉を片方上げた。
「あなた、ティルディア王国の騎士でしょう。ヴェスティア・ディの副官として」
 幾分、驚き混じりに訊く。それとも、ヴェスティアは副官にお茶の仕度までさせていたのだろうか。
「それは、成人してからの話ですから」
「じゃあ、その前は?」
 アィアリスの瞳にほんの少し、好奇の色が浮かんだ。そういえばこれまで、セルタの身の上について詳しく訊いたことなどなかった。
 黒の剣を探す途中に見つけた資料で、その名は知っていた。ヴェスティアの副官、そしておそらく愛人だったことはわかっている。しかし、それ以上詳しく調べる必要があるとは思わなかった。
 それに第一、余計なことを調べている時間もなかった。アィアリスは忙しい身なのだ。
 いきなり中枢を失って大混乱に陥ったトカイ・ラーナ教会をまとめ上げ、その実権を掌握すること。
 混乱に乗じて中原に進出しようとした、ハレイトン王国の軍勢を撃退すること。
 教会の支配圏である中原十カ国の王たちと会談し、これまでと変わらぬ忠誠を誓わせること。
 そして、黒の剣を手に入れること。
 それが、トゥラシとアルンシルの消滅以来数ヶ月、アィアリスがやってきたことだ。忙しいどころの話ではない。
 特に、教会の再建は大仕事だった。最近ようやく形だけは整い始めた、というところだ。
 トゥラシからさらに数日コルザ川を溯ったところに、カムンシルと呼ばれる、教会の古い施設がある。アィアリスはここを、教会の新たな総本山とした。
 トゥラシのような大きな街はないが、ここが、彼女の生まれ故郷だった。
 しかし別に、人間じみた感傷でここを選んだのではない。
 カムンシルには、主要な施設がアルンシルへ移される以前の教会の学院があり、王国時代の魔法技術の研究もここで行われていたのだ。
 アルンシルで行われていたことを続けられるのは、ここしかない。
「……で、あなたは何者なの?」
 カップを口に運びながら、アィアリスは訊いた。
 それまで無言でお茶を飲んでいたセルタが、微かに笑う。
「ティルディア王国へ行く前の生業は、娼妓でした」
「……は?」
 さらりと、あまりにも自然な口調だったので、一瞬、聞き間違いかと思った。
 セルタはそんなアィアリスの反応を楽しんでいるようだ。
「小さい頃から娼館で育てられてきましたから。客を取れるようになる前は、お茶の仕度はもちろん、細々とした雑用すべてが私の仕事でした」



 コルシア大平原の南東に連なる山地を越えて海岸線に出ると、そこにウルという街があった。
 大陸南部、あるいは南洋の島々との貿易で栄える、大きな港街だ。
 大勢の商人、船乗り、そして旅人たち。街はいつも大勢の人間で賑わっていた。
 当然、そうした人間相手の商売も栄えることになる。
 宿。酒場。
 そして、春を売る女たちも。
 航海中は大抵、禁欲生活を強いられることになる。恋人や妻を遠い故郷に置いて長い旅をする男たちのために、それは必要な存在だった。


 初めてその客を見た時。
 ウルの街に無数に存在する娼館のうちでも、もっとも上質の女たちが揃っていると評判の『珊瑚館』の女主人、サリーディア・ティル・エヴァンは、微かに驚きの表情を見せた。
 なにしろ、相手は女性である。
 当然の事だが、珊瑚館の客はそのほとんどが男性だ。余所では、女性向けに男娼を揃えているところもないわけではないが、この館は違う。
 とはいえ、十三歳の頃から二十年以上もこの仕事をしているサリーディアである。これまで女性客がまったくいなかったわけではないし、片手で数える程度ではあるが、彼女自身でもてなしたこともある。
 だから、驚きの表情は一瞬で消え、すぐに普段通りの笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、珊瑚館へ」
 サリーディアがお辞儀をするのに合わせて、真紅のドレスが揺れた。
 同時に、すばやく相手を観察する。
 身長は人並みで、どちらかといえば細身だ。
 透き通るような白い肌に、漆黒の長い髪と黒い服。そして瞳も黒い。
 まるで、墨で描かれた絵のようだ。色彩というものが欠如している。
 それだけに、紅い唇が印象的だった。
 身なりはいい。腰に剣を差している。すかさず左腕を見た。
 白金製の腕輪。コルシア平原南部にある、ティルディア王国の紋章が彫られている。
 すると、彼女は騎士なのだ。
(なるほど……)
 トリニアの伝統を残すコルシア平原の国々では、女性騎士もそれほど珍しい存在ではない。そして、女性騎士には「そういう趣味」を持つ者が比較的多いという。
 ならば、そう驚くほどのことではない。
 ティルディアの騎士となれば、懐も豊かだろう。どうやら上客だ。
「四、五日くらいだが、部屋はあるか?」
「ええ、もちろん。ご用意できますわ」
 珊瑚館は、女を抱くためだけの場所ではない。いわば「女と食事つきの高級宿」である。
「ところで、どのような娘がお好みでしょう? 私どもは、およそあらゆるご希望にお応えできると思います」
「そうだな……」
 女騎士の口元に笑みが浮かぶ。
「できるだけ気の強い、跳ねっ返りがいいな。喩えて言うなら、山猫のような性格ってところか」
「それならば、まさにぴったりの娘がおります。きっとご満足いただけるでしょう」
「それは楽しみだ」
 サリーディアは深々と頭を下げると、奥に向かって叫んだ。
「セルタ、お客様のお荷物を運んでちょうだい」
 はーいという返事とともに、褐色の肌をした十歳くらいの女の子が、ちょこちょこと走ってきた。


 礼儀知らずとは思ったが。
 それでも、荷物を抱えて部屋へ案内しながら、ちらちらと相手の顔を見てしまう。
 百戦錬磨のサリーディアでさえ驚いたのだ。幼いセルタにとっては、女性の客なんて珍しくて仕方がない。
 その女騎士が不意にこちらを見て、まともに目が合ってしまった。セルタは慌てて前を向く。
 相手が、小さく笑ったような気がした。
「お前、名はなんという?」
「セルタ・ルフと申します」
 歳に似合わぬ丁寧な口調で応える。一応、客に対する礼儀は仕込まれている。
「お前も、客を取っているのか?」
「いいえ、騎士様。わたしはまだ子供ですから」
 セルタはぺろっと舌を出した。
「……その時のために修行中です。だから今は下働きで」
「そんな子供が、何故ここに?」
「ええと……。赤ん坊の頃、捨てられたらしいです」
 セルタは捨て子だった。
 当然、自分では憶えていないが、街はずれの森に捨てられていたのをたまたま見つけたのが、この館の用心棒をしていた傭兵だった。彼は放っておいて獣の餌にするのも忍びなく思い、連れて帰ってきたのだそうだ。
 だから本当の親も、故郷も、本名もわからない。
 褐色の肌と亜麻色の髪、そして濃い茶の瞳は、大陸南端に近いエサン地方に多い特徴だ。それがどうして、遠く離れたウルに捨てられていたのかもわからない。
 セルタという名は彼女を拾った傭兵がつけてくれたものであり、エヴァンはサリーディアの姓だ。珊瑚館には他にも似たような境遇の娘たちがおり、サリーディアはその親代わりだった。
「なるほどな。しかし、あと一、二年というところか? 南国の娘は早熟だというしな」
「はい、おそらく。お客様の中には、わたしのようなまだ幼い娘を好むお方も多いそうで」
「ふむ」
 女騎士は片手でセルタの顎を掴むと、乱暴に上を向かせた。
「まだまだ原石だが、かなりの上玉だな。将来が楽しみだ」
「あ……ありがとうございます。騎士様」
 セルタは頬が熱くなるのを感じていた。彼女を「上玉だ」と言うこの女騎士こそ、思わず見とれるほどの美女だった。
 間近で見つめられると、胸がどきどきする。
 その漆黒の瞳に見つめられると、魂が吸い取られるようだ。
「ヴェスティア、だ。ヴェスティア・ディ・バーグ」
「……ヴェスティア様」
「私が、お前の最初の客になってやろう。忘れるなよ」
「……え」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 小さく口を開いて、ぼんやりとヴェスティアの顔を見る。
 それからようやく、今の言葉が頭の中に入ってきた。
「どうした、返事は?」
「……は、はい! あの……えっと、た、楽しみにしています!」
 そう応えると、セルタは耳まで真っ赤になって俯いた。


 キャイナ・フィアは、珊瑚館でも指折りの美少女だった。
 小柄だが胸は大きく、それでいて腰は細くくびれ、尻から太股にかけて艶めかしい曲線を描いている。
 挑発的な大きな瞳も、小振りな紅い唇も、見る者を魅了する強力な武器だった。
 そして、彼女の武器は外見だけではない。
 まだ十七歳の若さでありながら、サリーディアも感心するほどの手練手管。男を悦ばせるその技巧は、まさに天賦の才だった。
 当然、客の人気も高い。高い……が、館で一番ではない。実は彼女、性格に少々難があった。
「今夜の客は女だって? で、どんな奴?」
 鏡の前で化粧をしながら、キャイナは訊いた。
「えっと。ヴェスティア・ディ・バーグ様といって、外国の騎士様らしいです」
 セルタが応える。
「長い黒髪の、とても美しい方でした。美しくて……そして、少し怖い雰囲気の」
「珍しいね。ま、男だろうと女だろうと、あたしにかかればイチコロだけど」
 仕上げとして唇に紅を引いた後、手鏡の角度を変えて化粧の出来映えを確認する。キャイナは満足げに微笑んだ。
「そんな簡単そうな相手じゃありませんでしたけど」
「まあ見てなって。セルタ、ドレス取って。違う、その右の黒いやつ」
 衣装棚にずらりと並んだドレスの中から、露出の多い、光沢のある黒の生地のものを持ってこさせる。姿見の前で身体に当てて。
「どう思う、これ?」
「とっても似合ってるわ、キャイナ姉様。きっとヴェスティア様も気に入ってくれると思う」
「当然でしょ。あたしを誰だと思ってンの」
 キャイナは喉の奥でくっくと笑った。
 これが、キャイナの困った点である。
 客に対して、さっぱり敬意を払わないのだ。
 容姿も技術も素晴らしいものを持っている。客を悦ばせることにかけては右に出る者はいない。
 しかし、彼女はしばしばやりすぎてしまう。相手が足腰立たなくなるまで、攻める手を休めようとしない。
 キャイナの相手をする男は、最後の一滴まで搾り取られるような思いをすることになる。なまじ男を虜にする肉体と技の持ち主だけに始末が悪い。
 年輩の客の時など、セルタはこれまで何度、夜中に医者を呼びに行かされたことか。
 本来、客の好みに合わせて一夜の恋人を演じるのが、良い娼妓というものだ。
 キャイナはこれには当てはまらない。
 常に自分のペースを崩さずに、客の言うことなどまるで聞かない。女性にリードされることを好む一部の客には絶大な人気を誇るが、万人向けとは言い難い。
「さあて、倒錯した趣味の田舎騎士をたっぷり可愛がってやるか。一晩中ひぃひぃ言わせてやる」
 自信に満ちた笑みを浮かべて、キャイナは颯爽とヴェスティアの泊まっている部屋へと向かっていった。


 しかし、セルタの予想通り。
 結果として、たっぷりと可愛がられたのはキャイナの方だった。
 翌朝、部屋に朝食を運んだセルタが見たのは、乱れたベッドの上で死んだように眠っているキャイナの姿だった。
 身体中に、キスマークが残っている。
(やっぱり……)
 セルタは心の中でつぶやいた。
 こうなると思っていた。昨夜は一晩中、キャイナの悲鳴がセルタの寝床まで聞こえていたから。
 ヴェスティアは全裸のまま、窓辺に椅子を置いて外を眺めていた。
 静かな表情だった。こちらには、あんな激しい夜を過ごした痕跡はまるで残っていない。
「ヴェスティア様、お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
 お茶のカップを差し出してから、セルタはまた背後のベッドを振り返った。
 疲れ切って、死人よりも深い眠りに落ちている。
 こんなキャイナは初めて見た。彼女の客がこうなっているのは、いつものことなのだが。
「心配するな、生きてるよ」
「……はい」
「どうした?」
「えっと……あのっ、ヴェスティア様って、その……すごいですね」
 口にしてから、なんて間抜けな台詞だろうと反省する。もっと、気の利いたことの一つも言えないものだろうか。
「いずれはお前もそうなるんだからな、覚悟しておけよ」
「……はい」
 セルタは俯いた。
 顔が、かぁっと熱くなる。
 どうして、こんなにどきどきするのだろう。これまでにも、他の客から同様のことを言われたことは何度もあるのに。
 これではまるで、出会ったばかりのこの騎士に恋しているみたいではないか。
 椅子から立ち上がったヴェスティアが傍に来る。全裸のままで、セルタはその見事なプロポーションに目を奪われた。
 顎の下に、手が当てられる。強引に上を向かされる。
 ヴェスティアの顔が、すぐ目の前にあった。
 唇が重ねられる。
 本当は、これはルール違反だ。「デビュー前」のセルタに手を出すのは。
 しかしセルタは抗わなかった。
 むしろ、いつまでもこうしていたいと、そう思った。
 初めてのキスというわけではない。キスくらい、館の先輩たちにさんざん仕込まれている。
 だけど、このキスは特別だった。
 軽く唇が触れただけなのに、全身がとろけてしまうようだった。


 以来、ヴェスティアは時々ウルの街を訪れるようになった。もちろんその度に、珊瑚館に滞在していく。
 数ヶ月に一度のヴェスティアの来訪を、セルタは心待ちにしていた。
 もっとも、ヴェスティアを待ちこがれていたのはセルタに限ったことではない。キャイナを始めとして、一度でもヴェスティアの相手をした者は、すっかりその虜になっていた。
 そんなある日のこと。
 サリーディアの命で街までお遣いに行ったセルタは、ちょっとした小競り合いの場面に出くわした。
 別に、珍しいことではない。
 ウルの街は船乗りが多く、彼らは基本的に力自慢の荒くれ者たちだ。その上、海賊などに備えるために雇われた傭兵の姿も多い。
 通りをしばらく歩いていれば、喧嘩の一つや二つ目にするのが当たり前だ。怪我人、死人が出るような争いも少なくない。
 しかし、その場面は特別だった。
 屈強な男たちが数人で、一人の女騎士を取り囲んでいる。
 遠くからひと目見ただけで、それが誰かわかった。
 黒い髪に、黒い服。色彩というものが欠如したようなその外見。
(……ヴェスティア様!)
 男たちは熱り立ち、なにやら剣呑な雰囲気である。しかし不思議と、不安は感じなかった。
 むしろ、愚かな男たちに憐れみすら覚えるほどだ。
 セルタがそちらに足を向けた時、ヴェスティアが動いた。
 剣を抜く手は見えなかった。
 ぱち、ぱち。
 セルタが二回瞬きする間に、五人の男たちが次々と倒れた。
 後には、片手に剣を持ったヴェスティアだけが立っていた。
 一瞬、その剣に目が奪われる。
 まるで影のような、漆黒の刃。
 夜間の戦場では、剣が光って敵に気付かれることを防ぐために刃を黒く塗ることがある、と聞いたことがある。しかし、その刃はなにか不自然だった。
「見てたのか」
 ヴェスティアはこちらに背を向けていたのに、そう言って振り返った。セルタの足が止まる。
「……お、お強いんですね。ヴェスティア様」
 少しだけ、笑みが引きつってしまう。喧嘩による死体を見るのは初めてではないが、あまりにも冷静すぎるヴェスティアの態度に気圧された。
「私が、怖いか?」
 からかうような口調で訊いてくる。セルタは首を横に振った。
「ならいい」
 ヴェスティアはセルタの肩に手を置くと、珊瑚館へ向かって歩きだした。


 その事件以来、セルタは剣の使い方を学び始めた。
 セルタの名付け親である、珊瑚館の用心棒をしている男に、稽古をつけてくれるように頼み込んだ。
「剣もいいけど、あまり筋肉をつけすぎるなよ。将来、商売に差し支えるぞ」
 苦笑しながらそう言ったものの、快く引き受けてくれた。
 特にこれといった、明確な目的があったわけではない。
 ただ、そうすることで少しでもヴェスティアに近づくことができるような気がしたし、いつか、役に立てることがあるかもしれないと、漠然と思っていた。
 一度、剣の稽古をしているところを、ヴェスティアに見られたことがあった。
 彼女はその時は何も言わず、微かな笑みを浮かべただけだった。



 やがて、セルタは十二歳になった。
 胸が膨らみ、腰がくびれて、全身が緩やかな曲線を描き始める。
 少しずつ「女」へと変化していく身体。これこそ、セルタが望んでいたものだ。
 セルタももう、客を取ることができる。サリーディアはそう判断した。
 このあたりの娘であればまだ少し早いのかもしれないが、セルタのような南方系の人種は、肉体面ではいくらか早熟なのだ。
 まるでそれを見透かしていたかのように、ヴェスティアが三カ月ぶりに館を訪れた。
 ヴェスティアが、セルタの初めての客となる……それは、二年前からの約束だった。サリーディアも承知している。
 この夜は、姉同然の先輩たちが念入りにセルタを飾り立ててくれた。
 髪を結い、お化粧をして。
 取っておきの首飾りや耳飾りも貸してくれて。
 みんな、セルタの門出を祝福してくれている。
「セルタって幸せ者よ。この商売で、初めての相手が本当に好きな人なんて」
「でも大変だよー。なにしろ、あのヴェスティア様なんだから。処女にはちょっと荷が重いかもね」
 キャイナがからかうように言う。
「あははー。言えてるわ、それ」
 一度でもヴェスティアの相手をしたことのある者は全員、その意見に同意する。あの、気が狂いそうになるほどの快楽。充分な経験を積んでいない者に耐えられるものではない、と。
 セルタはもちろん処女である。先輩たちによって知識はたっぷりと仕込まれているが、実技はまだまだだ。
 急に不安になる。
 別に、怖いわけではない。ヴェスティアになら、たとえ何をされても構わない。
 ただ、自分のような未熟者がヴェスティアを満足させることができるのかどうか。それだけが心配だった。
 一番多くヴェスティアの相手をしているキャイナにそのことを相談しても、あまり役に立つアドバイスは得られなかった。
「無駄無駄。生娘がどう足掻いたって敵うわけがないんだから。何もかも諦めて、ヴェスティア様に任せておきな」
 ――と。
 確かに、その通りかも知れない。館で一、二を争うテクニシャンのキャイナだって、ヴェスティアの前では為す術もないのだから。
 期待と不安を胸に、セルタはヴェスティアが泊まっている部屋の扉を叩いた。
 返事よりも先に、中から扉が開かれる。いきなり中に引きずり込まれ、乱暴に抱きしめられた。
「……んっ!」
 唇が重ねられる。
 ただでさえ相手の方が上手なのに、予想もしなかった形で主導権を握られてしまっては抗いようもない。セルタはそのままベッドに押し倒された。
「ヴェ、ヴェスティア様……」
 それきり、何も言えなくなった。
 いろいろな言葉を用意していたはずなのに、それが一つも出てこない。
 ただ、熱い瞳で真っ直ぐにヴェスティアを見つめた。漆黒の瞳に、自分が映っている。
 それで、実感できた。自分が今、ヴェスティアに抱かれているのだということを。
「二年もおあずけを喰らわされたんだ。今さら余計な時間を費やす気はない」
 また、唇が重ねられる。
 乱暴な手つきで、服が脱がされていく。
 ヴェスティアの愛撫は荒っぽい。なのに、セルタは感じてしまう。それも、生半可な感じ方ではない。
 自分の指、あるいは姉たちとの遊びによってもたらされる快感とはまるで次元が違う。
 指、唇、そして舌。その一つ一つの動きに、セルタは声を上げて応えた。
 悲鳴、といってもいい。
 気持ちいいなんて、生易しいものではない。ヴェスティアの指が動くたびに、全身を貫くような感覚だ。
 痛くて。
 気持ちよくて。
 身体の隅々まで、ヴェスティアに支配されている。
「ヴェスティア様……ヴェスティア様ぁっ!」
 セルタは何もできずにいた。ただ、泣きながらヴェスティアにしがみついているのが精一杯。
 身体中の細胞一つ一つが犯されているように感じる。
 今にも気を失いそうで、しかし絶え間なく全身を襲う刺激は、それすらも許してくれない。
 このまま死んでもいい……、と。本気でそう思った。
 これ以上続けられたら、本当に死んでしまうかも知れない。だけどそれは、この上なく幸せな死に方に違いない。
「そう簡単には死なせんぞ。まだまだ楽しませてもらわないとな」
 セルタの意識を読み取ったのか、ヴェスティアがそう言って笑う。
「……だったらもう少し優しくしてください……。こ……、これ以上されたら、本当に死んじゃいますぅ……」
「お前がこれくらいで死ぬような玉か。私の目には、キャイナ以上の素質ありと映っているぞ」
「そ、そんなぁ……」
「自分で気付いていないのか? ならば、私が目覚めさせてやろう」
「ひゃあぁぁあぁぁぁっ!」
 優しく……どころか、愛撫が一層激しさを増す。セルタの身体が激しく痙攣し、ベッドの上で弾んだ。
 身体中の神経を引きずり出されて、強引に快感を注ぎ込まれるような感覚だろうか。
 いっそのこと、気を失うことができれば楽なのに。
 しかしそれは許されず。
 そして、夜はまだまだこれからだった。
 
 
「……生きて……る?」
 それが、第一声だった。
 セルタが目覚めると、もう陽は高くて。
 ヴェスティアが、微笑みながらこちらを見下ろしていた。
 明け方、東の空が白みはじめた頃までは記憶がある。さすがにそのあたりで力尽きてしまったようだ。
 起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。寝返りを打つのが精一杯だ。
 シーツに付いた紅い染みが目に入って、セルタは思わず赤面した。
 女、になった証。この館の一員としての第一歩。
 恥ずかしくて、だけどそれが嬉しい。
 しかもその相手がヴェスティアなのだから。
 きっともう、この人なしでは生きていけない――そう思った。
 この先、数え切れないほどの男と寝ることになるだろう。それでも、心はヴェスティアのものだ。
「どうした?」
 ヴェスティアの指が顔に触れる。
「何を泣いている?」
「泣いて……?」
 言われてから気付いた。涙が頬を伝っている。
 ヴェスティアの指がそれを拭った。
「……あなたを、愛しています」
 セルタは泣きながら言った。悲しいのではない。その逆だ。
「その気持ちは、これからもずっと変わらないと誓えるか?」
「もちろんです。この生命ある限り、永遠に」
 嘘も誇張もない。心からの言葉だった。
 永遠に、この人の傍にいたい。そのためならば、何を引き替えにしても構わない。
「そうか。ならば、十五歳になったら私と一緒に来い。お前を落籍してやる」
「え……?」
「剣の稽古は続けておけよ」
「……ヴェスティア……様?」
 その言葉の意味が頭に染み込むのに、ずいぶんと時間を必要とした。喜びよりも先に、驚きの気持ちが意識を支配する。
「ヴェスティア様……」
 他に何も言えなかった。セルタはただ、ヴェスティアの腕の中でいつまでも泣き続けていた。



 それから三年。
 十五歳になる頃には、セルタはすっかり売れっ子となっていた。
 美しさと可愛らしさの絶妙なバランスを保った顔立ち。
 南方系人種ならではの魅惑的な身体。ビロードのように滑らかな肌。
 サリーディアやキャイナ、そしてなによりヴェスティアによって鍛えられた技巧。
 珊瑚館のセルタ・ルフといえば、ウルの街では知らぬ者のない、男たちの憧れの的だった。彼女がウルからいなくなれば、悲しむ者は多いだろう。
 しかしそうなるのも、遠いことではなかった。
 約束の日まで、あと数日。次にヴェスティアがやって来た時、一緒にこの街を発つことになっている。ヴェスティアに落籍されるのだ。
 ヴェスティアはきっと、珊瑚館の常連客たちに恨まれることだろう。
 これまで、セルタを落籍して妻妾にしようとした男は数知れない。しかし、誰もヴェスティアには逆らえなかった。
 彼女は誰よりも早くにそれを約束し、誰よりも高い値を付け、そして誰よりも強い力を持っていた。
 そしてなにより、セルタがそれを望んだのだ。
 ヴェスティアがウルを訪れるのは、数ヶ月に一度。次の来訪を待つまでの間、どれほど切ない思いをしたことか。しかしもう、そんな悲しみは無縁のものだった。
 これからはずっと、ヴェスティアの傍にいられる。なんと幸せなことだろう。
 一緒にいられるならば、身分なんてどうでもいいと思っていた。
 それなのに、セルタはヴェスティアの許で騎士見習いになるのだという。
 信じられない幸運だ。
 この年頃の少女の多くがそうであるように、セルタも騎士というものに憧れを持っている。
 王国時代の末期、セルタと同じエサン地方の出身でトリニアの騎士となった、ラクーナ・ショウという女性がいた。かのユウナ・ヴィ・ラーナの副官として、ストレイン帝国との戦いで活躍した竜騎士だ。
 彼女のように、ヴェスティアの右腕として働けたらどんなに素晴らしいだろう――剣の稽古を始めた頃、漠然とそんな想いがあった。
 その夢が、手の届くところまで近付いていた。
 この数日、セルタの心は弾んでいた。
 住み慣れたウルの街を離れ、サリーディアや珊瑚館の先輩たち、あるいは贔屓にしてくれた常連客と別れることは辛い。
 しかしそれ以上に、ヴェスティアと共に生きていくこれからの人生は魅力的だった。
 いつものように街へお遣いに行く足どりも、傍目にはまるで踊っているように見えたことだろう。
「やあセルタ、楽しそうだね。今夜は空いてるかい?」
 通りで声をかけてきたのは、この街でも有数の大商人の息子の、ネイストという男だった。まだ若いのに店の一つを任されている、かなりの商才の持ち主だ。
 セルタを贔屓にしている珊瑚館の常連客で、これまで何度かプロポーズされたこともある。
「ええ、若旦那のために空けてあるわ。来てくれる?」
 セルタは愛想良く応えた。
 この仕事をしている以上、気に入っている客も嫌な客もいるが、この男のことはかなり好きだった。もちろん、ヴェスティアを別格としての話だが。
「ああ、もちろん行くさ。もうこれが最後だろうしな」
「ごめんなさい。お詫びに、今夜は最高のサービスをするから」
「セルタはいつだって最高だよ」
「ふふっ」
 ありがとう――そう言おうとして。
 しかしその言葉は、突然の爆発音にかき消された。
 街のあちこちで悲鳴が上がる。街の中心部にある教会の尖塔が、炎に包まれて崩れ落ちていくのが見えた。
「な、なんだ! ありゃあ……」
 ネイストが目を見開いて空を指差す。その先に、黒い大きな影が舞っていた。
 セルタも小さく悲鳴を上げる。
 それは、見たこともない巨大な魔物だった。元々この地方は、王国時代に激しい戦場となったコルシア平原に比べれば、魔物の姿は極めて少ない。セルタが知る限り、街が襲われたことなどない。
 だから、巨大な翼を広げて街の上を舞う漆黒の魔物の姿は、人々を恐怖のどん底に陥れるのに充分すぎるものだった。
 魔物の口から閃光が迸る度に、建物が崩れていく。人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。
 セルタも大急ぎで珊瑚館へと戻った。
 驚いたことに、館の前にヴェスティアの姿があった。セルタの姿を見て微笑む。
「ヴェスティア様!」
「予定より少し早いが、行くぞ。すぐ支度しろ」
「えっ? でも」
「急げ。これ以上街の被害を大きくしたくなければ、な。サリーディアには話をつけてある」
「は、はいっ」
 事情もわからぬまま、セルタは慌てて旅支度をした。そもそも、持って行くつもりでいた物はそう多くはない。館で着ていた商売用の煌びやかな衣装などは、すべて妹分である新入りに譲った。これからの人生には無用の物なのだ。
 動きやすさを重視して選んだ衣類と、いくつかの身の回りの物。それだけだ。
 荷物をまとめて館を出ると、ヴェスティアの傍にサリーディアの姿もあった。街で突然に起こった騒ぎのためだろうか、幾分青い顔をしている。
 それでも、セルタを見て微かな笑顔を浮かべた。
「セルタ、これを持って行きなさい」
 サリーディアは、一振りの長剣を差し出した。見るからに優れた造りの、真新しい剣だった。
「私たちからの餞別よ」
「サリーディア……」
「騎士というのも大変なものよ。決して、格好いいだけではないわ。……それでも、あなたにとってはこの方が幸せなのでしょうね」
「……はい」
 剣を受け取ると、セルタは力強くうなずいた。


 ゆっくりと別れを惜しむ間もなく、ヴェスティアに促されて館を発った。街のあちこちで火の手が上がっているのが見えたが、あの魔物の姿はない。
「ああ、私が始末した」
「ヴェスティア様がっ?」
 ヴェスティアが極めて強い力を持っていることは知っている。それにしてもセルタが荷造りをしているわずかな時間で、あの巨大な魔物を倒したというのなら驚きだ。
「……あれは、なんなのですか?」
「亜竜。王国時代後期に人の手で生み出された、ドールの一種だ」
「亜竜……、あれが」
 ドールとは、王国時代の魔法学者たちが生み出した人造の魔物の総称だ。
 亜竜はその中でも、もっとも強力なものだと言われている。数は極めて少ないが、現在でもその末裔がわずかながら生き長らえているという。
「でも、そんな魔物が何故」
「私を追ってきたんだ」
「え?」
「急いで街を出るぞ。すぐまた次が迫っているからな。街の中では、被害を出さずに倒すのが手間だ」
 まだ混乱の収まりきっていない通りを、全速力で駆けていく。そのため、それ以上質問することはできなかった。
 二人が向かったのは、街の北西だった。交易に用いられる大きな街道は街の北側に延びていたが、それを避けて普段はあまり通る者のいない方の道を選んだのだ。街道に比べて道は険しいが、その分距離はずっと短い。
 ようやく山道に入ったところで、前を進んでいたヴェスティアが立ち止まった。小さく舌打ちする。
 激しい音とともに、樹々を薙ぎ倒して巨大な黒い影が降り立った。
「あ……亜竜……、これが……」
 セルタは言葉を失った。間近から見上げるそれは、信じられないほどに大きく、禍々しい存在だった。
 全身は漆黒の鱗に覆われ、大きく裂けた口の中は血の色をしている。鋭く並んだ牙は、一本一本が大型の短剣ほどもあった。
 セルタはその場に立ち竦んだ。膝が震え、歯がかちかちと鳴っている。
 ヴェスティアの手から閃光が迸り、亜竜の巨体を貫いた。森の中に咆吼が轟く。
 それでもまだ倒れない。しかしその一瞬の間に、ヴェスティアは魔物との間合いを詰めていた。亜竜の鱗よりも黒い刃が閃く。
 剣が抜かれた瞬間、ヴェスティアを中心に突風が吹いたように感じた。それほど強力な魔力を帯びているのだ。
 亜竜の巨体は大きく痙攣し、地響きを立てて崩れ落ちた。
「いったい……これは……」
 唇がからからに渇いて、うまく声が出せなかった。掠れるような声を絞り出す。
「私を狙っている。正確に言えばこの剣を……、だな」
 赤紫色をした血に染まった刃が、セルタの前に突き出される。
 何年か前に一度だけ見た、漆黒の刃。
「黒の剣……ですか?」
「気付いていたか」
 ヴェスティアの口元が綻ぶ。
「もしかしたら……と」
 あの黒い刃を、そしてヴェスティアの力を見た後、ずっと考えていた。
 ストレイン皇帝の魔剣の伝説は、子供だって知っている。
 帝国に代々受け継がれてきた、恐るべき魔力を秘めた大陸最強の魔剣。
 剣に負けない力を持つ者だけが、それを手にすることができる。
 それは王たる力の証。故に、黒剣の所有者は「黒剣の王」と呼ばれるのだ。
 しかしその伝説の剣が目の前にあるとは、こうして見ていてもなかなか実感がわかない。
「ヴェスティア様が、本当に黒剣の王だったなんて……」
「信じられんか? しかし、これが現実だ」
「現実……。黒の剣も、この魔物も」
「そう。こいつらは、剣を狙っている連中が放ったものだ。魔物は、強い魔力を持つ存在に惹かれる。光に集まる羽虫のように」
 なまじ剣の力を完全に引き出せるから、それ故に魔物を惹き寄せてしまう。鞘に収めたままでいればそれほどの影響はないのだが、亜竜を倒すためには剣の力が必要で、剣の力を使えばまた魔物を呼び寄せることになる。
 悪循環だった。
「北のコルシア平原なら、終末戦争の魔力の影響が残っているから、これほどのことはないのだが。この辺りが清浄な土地であることが逆に災いしたな。目立って仕方がない」
 ヴェスティアは苦笑する。その口調に深刻さはない。
「剣を狙っている連中……?」
「この大陸を支配することのできる力だ。強引な手段を用いてでも、奪おうとする者がいて当然だろう」
「それでは……」
「と、話は後だ。客が来た」
 片手を上げてセルタを制する。ヴェスティアの視線を追うと、遠くの空に四つの黒い影が見えた。
 最初は鴉くらいにしか見えなかったそれは、かなりの速度で飛行しているようで、たちまちその大きさを増す。
 紛れもない、亜竜だった。
「まるで大陸中の亜竜が集まってきているみたいだな。セルタ、お前はこれを持って先に行け」
「えっ」
 ヴェスティアは剣を鞘に収めると、無造作に投げ渡した。反射的にそれを受け取った後で、セルタの表情が凍りつく。
 今、彼女の手の中に黒剣があった。
「ヴェ、ヴェスティア様!」
「お前が持っているなら、抜かない限りは魔物に見つかることもない。剣を持たなくとも、私の力の方が強いからな」
「で、でもっ」
「この山道を越えてコルシア平原に入り、そのまま真っ直ぐにティルディア王国へ向かえ。王都クンディアナにある私の屋敷だ。私はあいつらを始末してから後を追う」
 特に気負った様子もない。いつも通りの口調だ。
 静かな、しかしどこか不敵な笑みを浮かべて。
「平気だ。私一人ならな。しかし正直に言って、お前を護りきれるかどうかは自信がない。複数の亜竜が相手となると、手加減はできないんだ」
「あ……」
 セルタも納得した。ヴェスティアは決して、自分が犠牲となってセルタを逃がそうとしているわけではないのだ。
 ヴェスティアが闘いに専念するには、セルタの存在が足枷となる。ちょっとばかり剣術をかじっただけの十五歳の少女だ。巨大な魔物と黒剣の王の闘いに巻き込まれては無傷でいられまい。
 しかしヴェスティア一人ならば、なんの遠慮もなくその力を振るうことができる。黒剣の伝説が真実を伝えているならば、この山一つを消滅させることだってできるはずだ。
 そしてセルタは、一人ならば追跡の手から逃れることができる。魔物たちは黒剣の魔力に惹かれてやってくるが、セルタが持っていても剣の力は顕現しない。むしろ、長年黒剣を持っていたヴェスティアの方が、その気配を色濃くまとっている。
 ヴェスティアは、この場を切り抜けるのに最も良い提案をしているのだ。
「でも、それならばヴェスティア様が剣を持っていれば」
「それではきりがない。ここまで完全に捕捉されると、奴らを完全に撒くには一度剣から離れた方がいい」
 さもないと、この山地ごと大陸中の魔物を吹き飛ばす羽目になる、とヴェスティアは笑った。
「心配される筋合いはないぞ。少しくらい剣から離れたところで、私の力はほとんど衰えはしない。むしろ、お前の方が心配だな。一人旅など初めてだろう」
 セルタはほんの少し唇を尖らせた。
「子供扱いしないでください。このくらい、なんでもありません」
「そうだな。信じているぞ」
 その一言で、胸が熱くなった。
 信じているぞ――ヴェスティアにそう言われたのだ。
 それだけで涙が出そうだった。唇を噛んで堪え、無理に笑顔を作る。
「どうかご無事で」
「心配いらない。私は黒剣の王。いずれはこの大陸を支配する者。こんなところで死ぬはずがない」
「……ええ、そうです」
「正直に言えば、まだ迷っているがな。私が手にした力は大きすぎて、いったいどうしたものやら。ストレインやトリニアに匹敵する大帝国の王。この私が、だ。そんな柄だと思うか? ティルディア王国の一介の騎士、の方が似合っていると思わないか?」
 苦笑する。
 セルタも微笑んだ。目に涙を浮かべたまま。
「どんな身分であっても、ヴェスティア様はヴェスティア様です。私は、あなたを愛しています」
「では、先に行け」
「……はい」
 うなずいたものの、セルタはすぐには歩き出さず、ヴェスティアに身体を寄せた。真っ直ぐに相手の顔を見つめて、唇を重ねる。
「早く追いついてください。じゃないと私、寂しくて我慢できません」
「夜が、か?」
「昼も夜も、です」
 二人は声を揃えて、短く笑った。
「せいぜい努力しよう」


 ヴェスティアと別れて、セルタは山道を走っていた。
 急がなければならない。少しでも、ヴェスティアから離れた方がいい。
 黒剣とヴェスティアとの距離が開くほど、ヴェスティアが発する剣の気配は薄れる。そうすれば魔物たちも、これ以上追ってくることはできないはずだ。
 遠く背後の方で、爆発音が響いた。あの四頭の亜竜との闘いが始まったのだろう。
(ヴェスティア様……ご無事で……)
 今の自分には何もできない。ただ、剣を持って逃げるだけだ。
 しかし。
「そんな……!」
 セルタは思わず立ち止まった。
 前方の空に、三つの黒い影があった。見る間に大きくなってくる。
 新手の亜竜たちは、こちらに気付く様子はない。真っ直ぐに、ヴェスティアのいる辺りを目指している。
(ヴェスティア様!)
 空を見回して、絶望的な気持ちになった。
 他にも二頭の亜竜を見つけたのだ。
「あんなに、たくさんの……」
 いくらヴェスティアが恐ろしい力を持っているからといって、黒剣を持たずにこれだけの数の魔物を相手にできるのだろうか。
 もしかしたら、危ないのかもしれない。だからこそ、セルタを一人で行かせたのかもしれない。
 そんな思いが頭をよぎる。
「いやだ……、そんなの」
 あの人を失うわけにはいかない。
 だから――。


 セルタは、剣を抜いた。


 黒剣を抜いた瞬間、セルタの身体は闇に包まれていた。
 上も下も、右も左も、何もない。
 無限に続く、闇。
 一筋の光も射さず、微かな音もせず。
 すべてを超越した「無」だけが支配する世界。
 意識が薄れてゆく。自我が保てなくなる。
 この闇に溶けこむように。
 身体も、精神も、無に還ってゆく。
 それは世界が生まれる前の、原初の存在。
 不思議と、恐怖は感じなかった。
 むしろ、安らぎすら覚えた。
 しかし。
(だめ。だめ。ここにいちゃだめ!)
 頭の奥深いところで、誰かが叫んでいる。
 それが自分の声だと気付くのに、ずいぶんと時間がかかった。
(だめ? どうして? こんなに気持ちいいのに。こんなに、満たされているのに)
(まだ、やらなければならないことがある。そのために剣を抜いたのでしょう!)
「――っ!」
 一瞬で視界が戻った。
 深い森。
 低く立ちこめた灰色の雲。
 そして、空からセルタに襲いかからんとしている漆黒の魔物が三体。
 身体が勝手に動いた。
 剣を振る。
 身体の中で、目に見えない何かが爆発したように感じた。その力はすべて、剣を通して放出される。
 断末魔の声すら上げることなく、魔物は息絶えた。
 瞬き一つの間に、三つの巨体が目の前に転がった。
 セルタは地面に膝を着いて、肩で息をした。
 意識が遠くなる。視界がまた暗くなってゆく。
 このまま眠ってしまえば楽になれる――そう思った。
 しかし、それはできないことだ。そうすれば二度と目覚めることはあるまい。
 力一杯、唇を噛む。その痛みが意識を現実につなぎ止めてくれることを期待しながら。
 手が震えている。それでも必死の思いで、剣を鞘に戻した。
 力が抜けていく。まるで大きな岩でも背負わされているように体が重い。
 全身、ぐっしょりと汗に濡れていた。
 黒剣を抜いていたほんの一瞬の間に、体力と精神力をごっそりと奪われてしまったようだ。
「こんな……」
 掠れた声を絞り出す。
「こんな恐ろしいものを、ヴェスティア様は平然と持ち歩いていたなんて……」
 セルタは悟っていた。
 自分が、二度と引き返すことのできない一歩を踏み出してしまったことを。
 黒の剣。それは想像を超えた存在だった。
 それでも満足感はあった。放っておけばヴェスティアに襲いかかったであろう魔物を、自分の手で倒したのだ。
 膝が震え、脚に力が入らない。
 それでもセルタは何とか立ち上がった。
 ふらつく足取りで、遠くに見える峠を目指して歩き始めた。



 ウルの街からティルディアの王都クンディアナまで、徒歩で普通に旅するならば二ヶ月ちょっとの道程だ。
 しかしセルタの一人旅は、その倍近い時間を費やしていた。
 なにしろ旅など初めてだ。物心ついてからこれまで、ウルを離れたことなどないのだから。
 初めての土地。見慣れぬ風景が広がっている。
 何度も道に迷って、ずいぶんと遠回りをしてしまった。しかしそのおかげで、様々な経験を積んで見聞を広げることができたと言えなくもない。
 別れる時にヴェスティアから受け取っていた路銀は、時間がかかりすぎたために底をついていたが、それは大きな問題ではなかった。セルタは必要とあれば、自分の身一つで稼ぐことができるのだから。
 もともとそれが生業であるから、何の抵抗もなかった。ウルにおいて娼妓は、別に卑しい職業ではない。
 経済的な問題とは別に、何度か危ない目にも遭った。人里を離れれば魔物の徘徊する土地もあったし、街では逆によからぬ考えを持って近付いてくる人間もいた。
 そんな危機を切り抜けるのに役に立ったのも、珊瑚館で身に付けた技だ。素人に毛が生えた程度の剣技よりも、ウルの男たちを魅了した肉体の方がよほど役に立つ武器だった。
 一人では危険な荒野を越える時には、隊商を率いる商人と親しくなって便乗させてもらった。
 悪意を持って接近してくる男たちも、身体を許せば簡単に無防備な姿を晒すものだ。臥所の中でなら、隠し持った短剣で屈強な男を倒すことができた。
 旅の途中、生まれて初めて人も殺した。
 自分が生き延びるため。
 生きて再びヴェスティアに会うため。
 そのためなら、何を引き替えにしても構わなかった。
 
 
 そうしてようやくクンディアナに辿り着いたセルタは、残っていたお金をすべてはたいて、新しい服を買った。
 長旅でぼろぼろの姿を、ヴェスティアに見られたくなかったから。
 身なりを整えて、ヴェスティアの屋敷を探す。これは簡単な仕事で、通りを歩いていた騎士に訊ねるとすぐに見つかった。
 ヴェスティアには家族はなく、わずかな使用人と共に暮らしていると聞いていたが、それにしては立派な屋敷だ。王都の中でも、もっとも有力な貴族の屋敷が集まっている一角に、その屋敷はあった。
 やや気後れしながらも門番に名を告げると、すぐに中に通された。
 ヴェスティアが屋敷にいると聞いて少し驚いたが、考えてみれば当たり前のことだ。魔物の襲撃を無事に切り抜けたのなら、道に迷ったり、色々とトラブルに巻き込まれていたセルタよりも、向こうの方が先に帰り着いたに決まっている。
 信じてはいたが、ヴェスティアが無事だとわかって胸を撫で下ろした。今頃、ヴェスティアも同じように安堵の息をついていてくれているだろうか。
 初老の執事に案内されたのは応接間ではなく、ヴェスティアの私室ということだった。
 はたして、ヴェスティアはそこにいた。以前と変わらず、王の貫禄を持った微笑を浮かべて。
 部屋に入ったところで、セルタは立ち尽くした。会えたら話そうと思っていたことがたくさんあったはずなのに、頭の中が真っ白だった。
 言葉の代わりに、涙が溢れ出てくる。
「遅い。待ちくたびれたぞ」
「ヴェスティア……様……」
 ヴェスティアが椅子から立ち上がった。
 ゆっくりと歩いてくる。
「しばらく見ない間に、少し逞しくなったか」
 頭からつま先まで、セルタの身体を舐めるように見回す。
「ヴェスティア様……」
 そのまま、力一杯抱きついた。ヴェスティアにしがみついて泣きじゃくった。
 身体の中のどこにこれだけの水分があったのかと驚くくらい、涙が止まらない。
 ヴェスティアの腕が、身体に回された。しっかりと抱きしめられる。
 その時、以前とは違う違和感があることに気がついた。
「ヴェスティア……様!」
 違和感の原因を目にして、セルタは息を呑んだ。
 ヴェスティアの身体には、以前と一ヶ所だけ違うところがあった。
 その右腕が肘の上から失われ、固い義手になっていたのだ。
「ああ、かすり傷だ。問題ない」
 セルタの視線に気がついて、ヴェスティアは義手を軽く叩いた。言葉通り、腕を失ったことなどまるで気にしていない様子だ。
「問題ないって、そんな……」
「心配するな。左手一本だってお前を満足させるくらいわけないぞ。それに、この義手の固さも慣れるとなかなか……」
「そんなこと言ってるんじゃありません! もぅ……」
 顔を真っ赤にして叫んだ。片腕を失っても、ヴェスティアはやっぱり変わっていなかった。
「それに、私は新しい腕を手に入れたからな」
「え?」
 生身の左手が、セルタの肩にかけられる。
「わかっているな。お前はこれから私の右腕として、身も心もすべてを私に捧げるんだ」
「ヴェスティア様……」
 ようやく止まった涙が、また溢れてきた。
 それでもセルタは満面の笑みを浮かべて、力強くうなずいた。



 それからの三年間は、セルタの人生でもっとも幸せな時期だった。
 ヴェスティアの許で、騎士としての知識と技術を教え込まれた。
 勉強も武術の稽古も厳しいものだったが、しかし一度としてそれが辛いと感じたことはなかった。
 最愛の人と毎日一緒にいられるのに、どうして辛いことがあるだろう。ウルの街にいた頃は、年に数回、せいぜい十数日くらいしか会えなかったのだ。
 セルタの表向きの身分は騎士見習いだったが、同時にヴェスティアの愛人でもあるということを、周囲の人間は知っていたようだ。ヴェスティアも特に隠してはいなかった。
 彼女の嗜好が異性よりも同性に向けられているというのは、以前から有名な話だったらしい。しかし、セルタ以前には特定の相手はいなかったという。侍女から聞いたその話は、セルタを少し喜ばせた。
 やがて、セルタもヴェスティアに従って戦場へ赴くようになり、いくつかの手柄を立てた。
 そして間もなく、セルタは正騎士に取り立てられた。それに伴い、若手としては力のある騎士として知られるようになっていった。それまでのセルタに対する評価は、あくまでも「ヴェスティアの愛妾」でしかなかったのだ。
 しかし今では、人々はヴェスティアがいずれセルタを養女として、自分の後継者にするのだろうと噂していた。
 そういえば、ティルディア王国におけるヴェスティアの地位も奇妙なものだった。
 表向きは正騎士であり、ティルディア七将の末席に位置する将軍である。
 しかしその発言力は、大将軍をも上回るものだった。いや、たとえ国王ですらヴェスティアの言葉に異を唱えることはできず、事実上ティルディアにおける最高権力者であった。
 黒剣の話題は屋敷の中でもタブーであったため、ヴェスティアが黒剣の所有者であることを他の者たちが知っていたかどうかはわからない。しかし、誰も敵わない強大な力の持ち主と認知されていたことは確かだ。
 しかしヴェスティアは、国内の政治にはあまり興味はなかったようで、国を留守にすることもしばしばだった。
 そうして大陸中を旅して。
 王国時代、あるいはそれよりも古い時代の知識を探し求めていた。ウルの街でセルタに出会ったのも、こうした旅の途中だったのだろう。
 ヴェスティアは、黒剣の力をただ闇雲に用いて支配者になろうとしているわけではないようだった。
 調べているのだ。
 黒剣の由来。
 その力で何ができるのか。
 そして、トリニアやストレインが滅びた理由について。
 ただ黒剣の力に頼るだけで、王国時代の大帝国を再現できるものなのか。
 以前にも漏らしたことがあるように、まだ迷いがある。
 黒剣の強大な力を行使することに。
 それでもやはり、力を捨て去ることもできない。
 歴代の黒剣の主の中でも有数の力を持ちながら。いや、だからこそ、魔力がすべてではないと悟っているのだろう。
 セルタも騎士見習いの頃は、こうしたヴェスティアの旅に同行していた。しかし正騎士となってからはむしろ、主が留守の間の国内の仕事に追われることになった。
 毎日一緒にいられないのは寂しいが、しかしこれはこれで、ヴェスティアの役に立っているという充実感があった。最近ようやく、ベッドの中以外でも役に立てると実感するようになっていた。
 
 
 そんなある日のこと。
 
 
 例によってヴェスティアは旅に出ていて、セルタは将軍の副官としての仕事をこなしていた。
 しかしある夜、ヴェスティアの夢を見た。
 夢の中で、セルタのことを呼んでいた。「さっさと来い。急がないと、二度と会えなくなるぞ」と。
 夢の中のヴェスティアは、ひどい傷を負っていた。
 翌朝目が覚めると同時に、セルタは旅支度を始めた。ただの夢とは思えなかったのだ。
 大急ぎで、夢の中で言われた地へ向かった。
 そして、住む者もいない荒野の真ん中で、血塗れのヴェスティアを見つけたのだ。
「辛うじて間に合ったな」
 それが、第一声だった。
 すぐさま手当てをしようとするセルタを、ヴェスティアは遮った。無駄だから――と。
 魔法による治療は、どんな傷でも治せるわけではない。ある程度以上強力な魔法によって負った傷は、魔法では治せないのだ。傷を負わせた魔力の源が消滅しない限りは。
 ヴェスティアの傷は、信じられないほど強力な魔法によるものだった。それも、相手は複数だ。
 いったい、誰と闘ったというのだろう。
 大陸でも有数と思われる力の持ち主が二人、乃至は三人。確かに、たとえ誰であっても一人ではヴェスティアにこれだけの傷を負わせることはできないだろう。黒剣の王は、大陸最強の力の持ち主なのだ。
「私はもう、長く生きすぎた」
 ヴェスティアは静かに笑っていた。
 彼女が見た目よりもはるかに年長であることは、セルタも知っていた。黒剣の力を持つ者は、ほとんど歳を取らないという。
「飽きるほどに生きてきたはずなのに、いざ死ぬとなると未練が生まれる。……セルタ、お前を抱けなくなるのだけが残念だが、後のことは任せた」
「いいえ。私は、永遠にあなたの側にいます」
 ヴェスティアの前に跪いて、セルタは言った。
 その目には涙が滲んでいたが、それでも真っ直ぐにヴェスティアの顔を見た。
「今まで秘密にしていました。ウルから脱出するためにあなたと別れた後、亜竜の群があなたの方へ向かっているのを見つけて、剣を抜いたんです」
「…………」
「一度黒剣に魅入られた者は、二度と離れられません。だから私は、黒剣ある限りあなたの側にいます。これだけが、私とあなたを結ぶ絆です」
「それは知っていた。しかし、黒剣に魅入られることなく普通の騎士として生きて欲しいと思っていた。ティルディアに戻れば、私の後継者として幸せに暮らせるものを……」
 小さく苦笑する。しかし、どこか楽しんでいる風だ。
「私の幸せは、ヴェスティア様と共にあること。それだけです」
 セルタはゆっくりと唇を重ねた。
 それが二人の、最後の口づけだった。



「私には理解できないわ。黒剣を手に入れたなら、さっさと大陸を支配してしまえばいいじゃない」
 暗い地下道を歩きながら、アィアリスは言った。意識してのことなのか、セルタの方を見ようとしない。
「そんな簡単なことではありません」
 セルタはアィアリスに身体を寄せて、腰の剣に触れた。慈しむように、優しく。
「あなたのことも理解できないわ。変よ、あなた」
「そうですか? こういう愛の形もあるということです。アリスも、全身全霊かけて誰かを愛すればわかります」
「私には、他人を愛するなんて感情はないから。そんなことのために生まれてきたわけではないもの」
 アィアリスは、人の手で作られた存在だった。
 人の形をしているが、厳密には人間ではない。王国時代の技術から生まれた魔物、一種のドールだ。
 トカイ・ラーナ教会の武器として。
 教会がこの大陸を支配するための力として。
 ただそれだけのためにこの世に生を受けた存在。
 だから愛情などという人間じみた感情は持たない、とアィアリスは言った。
「そうですか」
「そうよ」
「それは嘘です」
「嘘?」
 アィアリスは立ち止まって、セルタを睨みつけた。
 微かな笑みを浮かべたセルタはそのまま進み、通路の行き止まりにある金属性の扉を開いた。
 中には明かりが灯っており、ぼんやりと明るい。
 しばらくセルタの背中を睨んでいたアィアリスも、後に続いた。
「アリスの感情はとても人間的です。人を愛したことがないなんて嘘でしょう」
「何故、そう思うの?」
 警戒した様子でアィアリスは訊いた。
 このセルタ・ルフは、不思議な人物だった。
 どうにも掴みどころがなく、本心が読みとれない。
 それでいて、こちらの心の中はすっかり見透かされているように感じてしまう。確かにセルタの力も相当なものではあるが、単純に魔力の比較であれば、黒剣を手にしたアィアリスの比ではないというのに。
 知らず知らずのうちに、心の中にまで入り込んできてしまう。
 こんな相手は初めてだ。
 アィアリスの最後の質問に答えずに、セルタは室内を見回していた。大きな、円形の水槽のようなガラス容器が並び、細い金属管が複雑に張り巡らされている。
 やがて、その中でももっとも大きな容器――人が楽に入れるほどの――を背景にして、ゆっくりと振り返った。
「アルワライェのことを愛していたのではないのですか?」
「――っ」
 不意打ちに、アィアリスの表情が一瞬強張った。
 図星を指された、と思ったわけではない。まったく思いもよらないことを指摘された驚きだった。
「何をいきなり……」
「違うというのですか? いいえ、アリスはアルワライェ・ヌィを愛していました。でなければ、何故こんなことを?」
 背後にあるガラス容器を振り返る。
 それは、アルンシルの地下にあったものとよく似ていた。
 微かに濁った溶液の中に、小さな男の子の姿が浮かんでいる。
 外見は、まだ五歳にもなっていないだろう。眠っているようで、朱い髪が静かに揺れている。
 それは確かに、アルワライェによく似ていた。
「アルは……弟よ。私の役に立つから」
 自分で言っていて、白々しい台詞だと感じる。セルタは笑みを浮かべていた。
「弟妹は他にもいたのでしょう? だけどアリスにとって、アルワライェだけが特別でした」
「…………」
 ゆっくりと、セルタが近寄ってくる。
 真っ直ぐにこちらの目を見て。
 どこか、からかうような笑みを浮かべている。
 アィアリスは思わず後退ろうとしたが、それより早くセルタの腕が身体に回された。
 優しく、しかししっかりと抱きしめられている。
 唇が耳に触れた。
「人の心の機微を見ることに関しては、私の方が上手です。それが仕事でしたから」
 耳元でささやかれる。
 アィアリスは言い返すことも腕を振りほどくこともできずに、黙って立っていた。心なしか頬が熱い。
「……降参。認めるわ。確かにアルワライェは、私にとって特別な存在だった。それがあなたの言う愛情と同じものかどうかはわからないけど」
「そう。素直なアリスはとても魅力的です」
 降参してもセルタは腕をほどこうとはせず、そのままアィアリスを抱きしめていた。
 これもまた、彼女を困惑させる原因のひとつだ。今回に限らず、セルタはいつも必要以上に接近してきて、アィアリスに触れようとする。
 それが生業だったから、といってしまえばそれまでなのだが、肉体的にも精神的にも他人とのスキンシップを持ったことのないアィアリスにとっては、どう対応してよいのかわからない。
 一つ言えることは、戸惑いはしても決して不快ではないということだ。
 セルタがどういう意図でそうしているのか、そしてこれ以上の性的な接触を望んでいるのかどうかはわからない。ただ、今のところそれを拒絶する口実を見つけられずにいる。
 心地よい香りが鼻をくすぐる。セルタが付けている香油だろうか。その香りも、肌に直接感じる体温も、鼓動も、アィアリスを戸惑わせる。
 いつまでもこうしてセルタの腕の中にいると、不安が増すばかりだ。不快ではないにしても、誰かの手に自分の身を委ねることに慣れていない。
 だから小さく溜息をつくと、頭を軽く左右に振って言った。
「……耳、噛まないでくれる?」



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2000 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.