傭兵という職業柄、大陸中様々な土地を訪れたことのあるエイシスでも、ティルディア王国の王都クンディアナに足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
フェイリアは前にも来たことがあるのだろうか。ティルディア王国は閉鎖的な軍事国家で、余所者が気軽に出入りできる国ではなかったのだが。
だから、ティルディアには謎が多い。
その国土はハレイトンやアルトゥルといった大国に比べれば、決して広いとはいえない。しかし国は豊かで、軍事力に関しては紛れもなく大陸を代表する強国の一つだった。
兵数は決して多くはないが、訓練が行き届いていてその質は高く、同数の兵力であればアルトゥル王国の精鋭すら凌駕するというのが世間での評判だ。
その上、以前は優れた軍師がいたらしく、敵はしばしばその策にはまって多大な損害を受けていた。
しかし、それもすべて過去のこと。
現在の王都クンディアナは、まったくの無法地帯といってもいい。
先日、中原十カ国の連合軍、すなわちトカイ・ラーナ教会の軍勢との戦いに敗れ、一度はこの王都も敵の手に陥ちた。
その後間もなく、大陸中を震撼させたあの事件――中原の中心都市トゥラシの消滅――によって、今度は教会の軍勢が大混乱に陥り、クンディアナからはすべての秩序が失われてしまった。
今では、両軍の残党やら野盗やらが闇雲に小競り合いを繰り返す無法地帯だ。
「こんな機会でもないと、ティルディアには来られなかったわね」
「まったくだ」
エイシスとフェイリアは、混乱に乗じてクンディアナへ入り込んだ。ここに、フェイリアが追っている仇の手掛かりがあると考えたからだ。
まだフェイリアが子供だった頃、両親を殺した相手。
後にそれが、伝説の『黒の剣』の所有者であること、そしてティルディア王国の騎士であることを突き止めた。
仇の名は、ヴェスティア・ディ・バーグ。
両親の敵を討とうとしたフェイリアは返り討ちに遭って重傷を負い、兄弟同然に育てられてきた従兄弟たちも殺された。
それももう、十数年も前の話だ。
しかし、片時も忘れたことはない。フェイリアが大陸中を旅しているのも、ヴェスティアを倒す力を求めてのことだ。同時に、以来行方がわからなくなっているヴェスティアを捜すためでもある。
以前は外国人の立ち入りが厳しく制限されていたクンディアナが現在のような状態になったと聞き及び、こうしてやって来た。
ヴェスティアの本拠地であったこの土地に、なんらかの手掛かりがあると考えて。
「それにしても……」
エイシスは、荒れ果てた市街地を見回した。
「黒剣の王がいながら、どうしてトカイ・ラーナに負けるんだ?」
おそらく以前は栄えた大都市だったのだろうが、今は見る影もない。人の姿はなく、崩れた建物、焼け落ちた建物も多い。
遠くで一筋の煙が上がっている。また小競り合いがあったのかもしれない。
「ヴェスティアの身に、何かあったのよ。おそらくは、もう何年も前に」
「何か、って?」
「それを調べに来たのでしょう。黒剣の王ヴェスティアは、ティルディア王国の人間だった。それは間違いないわ。ティルディアがここ二、三十年くらいの間に急激に力を伸ばしたのは、黒剣がここにあったからよ」
「トカイ・ラーナの残党がいまだに居座っているのも、そのせいかね?」
「でしょう。下っ端の兵士にまで詳しい情報が伝わっているとは思えないけど、それでも噂くらいは耳に入るでしょうから」
「自分が黒剣を手に入れて、大陸の覇者になる……か」
「そんな連中は黒剣に喰われるのがオチよ」
フェイリアは古い地図を頼りに、荒れ果てた通りを歩いて行く。そして、以前のバーグ家の屋敷だった建物に着いた。
「ここね」
「ほぉ、立派な屋敷だな。ま、いまさら金目の物は残ってねーだろうが」
そう言った後で、エイシスは自分の台詞の不自然さに気付いた。立派な屋敷、しかし。
「……しかし、黒剣の王の屋敷としては、むしろ質素といってもいいかもしれんな。第一、なんで黒剣の王が一介の騎士なんだ?」
過去、もっとも有名な黒剣の所有者は、ストレイン帝国の皇帝ドレイア・ディ・バーグだろう。
この大陸の歴史の中で、もっとも巨大な帝国を築いた王。
後のトリニア王国連合の支配圏はそれを凌駕するが、あくまでも連合全体での話であり、主邦トリニア一国の領土はストレイン全盛時の半分にも満たない。
すなわちストレインの皇帝とは、歴史上もっとも巨大な権力を手中にした人物だ。それに比べると、一国の王ですらないヴェスティアは明らかに不自然だ。
現在の大陸でもっとも強大な力を持ちながら、どうして自ら王となって、歴史の表舞台に立たなかったのか。
「知らないわよ、そんなこと。ただ、力を手にしたからといってそれに溺れるような人物でなかったことは確かみたいね。じっくりと時間をかけて、準備をしていたのかもしれない」
ドレイア・ディ以降の黒剣の所有者は、いずれも短命だった。力を過信してそれをひけらかし、自ら破滅を招くような連中が多かったのだ。
ヴェスティアはその例には当てはまらない。外見こそ若かったが、フェイリアが知る限り二十年以上も黒剣を所有し続けていた。これはドレイア・ディに次ぐ長さだ。
「そういえば、ヴェスティアとドレイアは何かつながりがあるのか? 姓が同じだが」
「それもわからない。ドレイアの直系の子孫は後ストレイン帝国滅亡時に絶えているはずだけど、傍系までは追い切れないし」
「可能性はある、と?」
「でも、ドレイア以降の黒剣の所有者は、ディ・バーグを名乗ることが多かったから」
「はったり、ってわけか。確かに、その方が何かと有利だな」
ストレイン皇帝ドレイア・ディ・バーグは、その強大な力故に人々から魔王と呼ばれ、怖れられた人物だ。その血を引く者と思わせておいた方が、敵に対する牽制になる。
「だけど、ヴェスティアはその名に相応しい力を持っていたことは事実よ」
「厄介なことに、な」
二人は、荒れ果てた屋敷の中へと足を踏み入れる。
中も、徹底的に荒らされているようだ。彫刻やら宝石やら絵画やら、値打ちのありそうなものはことごとく持ち出されている。二階に上がって書斎らしき部屋に入ると、本棚に収められていたはずの書物は、大半が床に散乱していた。
フェイリアは素早い動作で、本棚や床に散らばった本、そして机の引き出しなどを調べていく。空き巣も真っ青の手際の良さだ、とエイシスは感心した。
こんな場面では、エイシスが手伝うことはない。手持ちぶさたに外を見ていた。
やがて、小さく嘆息する。
「やれやれ、もう来たか」
「じゃあ、お願いね」
フェイリアはちらとも顔を上げずに言う。
「どれくらいだ?」
「捜しているものが見つかるまでよ」
「いつ見つかる?」
「知らないわ、そんなこと」
やれやれ……と肩をすくめると、エイシスは剣を担いだ。
敵が、この屋敷を取り囲もうとしている。
どこの勢力に属しているのかは知らないが、ここに来る途中にちょっともめた相手だ。しつこく追ってきたらしい。
「面倒なら、皆殺しにすればいいじゃない。その方が手っ取り早いわ」
「怖いこと言うね、フェアも」
両親と恋人の敵を討つ――その目的のためなら、フェイリアはいくらでも残酷になれた。
そんな彼女の邪魔をしようとする者は、否応なしに不幸になるだけだ。無駄な殺しと金にならない殺しはしない主義のエイシスも、逆らう度胸はない。
見るからにやる気のなさそうな態度で、愛用の大剣を肩に担いで階下へと降りる。
ちょうど、十数人の武装した男たちが屋敷に入ってきたところだった。外にはもっといるに違いない。
「うちの連中を可愛がってくれたそうだな」
先頭の男が言う。歳はエイシスよりも少し上、三十台の半ばくらいだろう。幾度も修羅場をくぐり抜けてきた者特有の匂いがした。
先刻の小競り合いでは見なかった顔だ。エイシスに痛めつけられた下っ端が、ボスに泣きついた、というところか。
「別に、あんたらに恨みがあるわけじゃないさ。通行の邪魔だったんでね」
「それでこちらが引き下がるとでも?」
「引き下がってくれると、お互いに体力も命も無駄にしなくて済むんだが」
「それはできない相談だな」
後に続く男たちが、剣を抜いて散開する。エイシスは完全に囲まれた形だ。
目の前の男を入れて、その数は十六人。
「……やれやれ、こっちはただ働きなんだぜ? 戦場でこれだけの敵を殺せば、褒美の一つも貰えるってのによ」
「だったらテメェが死ねよ!」
いきなり、真後ろに回った男が斬りかかってくる。
エイシスは後ろも見ずに愛用の大剣を抜き、その男を貫いた。
それが引き金となって、男たちが一斉に襲いかかってくる。しかし、その相手をするエイシスには充分に余裕があった。
一斉にとはいっても、屋敷の中で剣を振り回すのだから、同時に斬りかかってこれるのはせいぜい三人。周囲をぐるりと取り囲んだために、同士討ちの危険があって魔法も使えない。
リーダー格の男は別としても、他の連中は並の戦士でしかない。
これでは、エイシスの敵ではない。
彼の大剣が一閃する毎に、悲鳴が上がる。
精霊を召喚して強力な魔法を用いるまでもなく、瞬く間に半数が戦闘不能となっていた。外を取り囲んでいた連中も加勢に駆けつけるが、エイシスの強さに怯んで遠巻きにしているだけだ。
「貴様……かなり使えるようだな」
リーダー格の男が呻く。その表情には先刻までの余裕はない。
「少なくとも、あんたら全員をぶちのめすくらいには、な」
ぎり……と男が歯軋りする。その手には剣が握られているが、エイシスと真っ向勝負するか否か、決めかねている様子だ。少なくとも、エイシスの技量を正しく見抜けるだけの目は持っているということだろう。
突然そこへ、場違いな女の声が割り込んでくる。
「何をもたもたしているの。見つけたわよ」
何気ない口調のようでいて、その声にはえも言われぬ迫力があった。エイシスも思わず階段を見上げる。
二階から降りてくるフェイリアの背後に、紅蓮の炎が見えたような気がした。恐ろしいまでの殺気だ。
久々に見る「本気の」フェイリアだった。
フェイリアの怖さを知らないはずの男たちもその迫力に押され、左右に道を空ける。つい、エイシスもそれに倣いそうになった。
今、彼女の進路上に残っているのはエイシスと、男たちのリーダーだけだ。
エイシスが一歩脇に避けると、フェイリアと男は正面から向き合う形になった。
「なにか?」
フェイリアは女性としてはやや長身な方だが、それでも相手を見上げる形になる。男のこめかみに、一筋の汗が流れた。
「い……いや、なんでもねぇ」
そう言って、エイシス同様に道を空けた。賢明な判断だ、とエイシスは思った。長生きしたければ、本気のフェイリアの前に立ちふさがってはいけない。長い付き合いで、それはよくわかっている。
「結構」
フェイリアは満足げに微笑むと、エイシスの襟首を掴んで引きずっていく。
「ほら、行くわよ。もたもたしてるんじゃないの!」
「い、いてて……引っ張るなって!」
残された男たちは、呆然と二人の背中を見送っていた。ようやく我に返ったのは、その姿が見えなくなってからだ。
「お……親分、女相手に何びびってンすかっ?」
「て、手前ぇらこそブルってるんじゃねーか!」
「な、なんなんすかね、あの女……」
「知るか!」
これが、後々までクンディアナに語り伝えられる都市伝説「銀髪の鬼女」の由来であるのだが、それはまた別の話である。
二人の周囲には、生命の気配のない荒涼とした大地が広がっていた。
灰色の大地。
澱んだ空気。
心なしか、腐臭が漂っているように感じる。
空を見上げると、曇っているわけでもないのにどこか灰色がかっていて、陽炎が立っているかのように太陽も歪んで見える。
「……なんというか……あまり長居はしたくねーな」
転移魔法が使えれば一瞬のことなのだが、まったく知らない土地に転移するのは困難だし、そもそもこれだけ魔力の影響の濃い土地での転移など、試みない方が賢明というものだ。
「黒剣の影響でしょう。とんでもない魔力の歪みだわ」
あちこちに、魔物の死体が転がっている。明かりに群がる虫のように、この地に漂う瘴気に惹き寄せられてきた連中だろう。その中には、ずいぶんと大きなものもあった。
「――っ! これは……」
その、小山のような魔物の死体に、エイシスは息を呑んだ。思わずフェイリアを見る。
彼女の顔も、やや強張っているように見えた。
亜竜、だ。
エイシスとフェイリアにとっては、いろいろと因縁のある相手である。
「マジかよ。一撃だぜ?」
亜竜の胴を剔った大きな傷を見て、エイシスは驚嘆の声を上げた。以前彼が、満身創痍になりながらやっとの思いで倒した魔物である。
「黒剣の力なら、本物の竜が相手だって同じことができるわ」
「それほど古いものじゃねーぞ。ヴェスティアはここにいるのか?」
「さぁ……、行けばわかるでしょう」
その言葉は正しかった。
さらにしばらく荒野を進んだ二人は、一つの答えを見つけた。
荒野の中に、小さな丘がある。
エイシスにもはっきりとわかった。ここが、中心だ。
だとすると、黒剣はここにあるのだろうか。
しかし、周囲には何もない。誰もいない。
フェイリアは丘の頂に登ると、唇を噛んで地面を見つめていた。魔力を集中させて、ここで起こったことを読み取っている。
「……遅かったわ。遅すぎた……」
「え?」
「ヴェスティア・ディ。バーグは死んでいた。ずっと昔に、ここで息絶えた」
「死んだ? まさか……、黒剣の王が? 何故?」
黒剣の所有者とは、すなわち大陸最強の存在だ。そう易々と死ぬことなどあり得ない。
「あの時、私とディックはヴェスティアにかなりの深手を負わせていた」
「しかし、致命傷となるほどではないんだろう?」
そう。ヴェスティアに致命傷を与える前に、返り討ちに遭った。従兄弟のディケイドもアークスも、その時に殺された。
「黒剣を追っていたのは私だけじゃない」
「……あ、墓守……か?」
王国時代の危険な力を封じる者、墓守。彼女らにとって黒剣とは、なんとしても封印せねばならない王国時代の負の遺産だろう。
「ファーリッジ・ルゥなら、傷ついたヴェスティアを倒せたかもしれない」
「だったら黒剣は、ファーリッジ・ルゥかソレアが持ち去ったはずだろう?」
「その前に殺されたんじゃない? ファーリッジはヴェスティアに殺された。だけどヴェスティアも致命傷を負って、ここで力尽きた」
フェイリアの言葉は推測に過ぎなかったが、本人が考えている以上に真実を言い当てていた。
「じゃあ、黒剣はどうなったんだ?」
「ヴェスティアの死後、誰かが持ち去ったのね」
「誰が」
秘められた力の強さという点では、無銘の剣すら大きく凌駕する黒の剣。誰でも手にすることのできる品ではない。
それを制御することのできる人間など、大陸中を捜したところで数えるほどしかいまい。
「可能性としては……、ヴェスティアの副官だったセルタ・ルフか。それとも……」
「いずれにしても、もう終わったんじゃねーか」
エイシスは、爪を噛んで考え込んでいるフェイリアの肩をぽんと叩いた。
「ヴェスティアは死んだ。しかもフェアたちが負わせた傷が元で。自分でとどめを刺したんじゃなくても、復讐は終わったんだろう?」
「……いいえ」
しかしフェイリアは、首を横に振った。
「私もそう思っていた。ヴェスティアを殺せば終わる、と。だけど違う。実際にそうなってわかった」
「フェア……」
「黒の剣、よ。あれがある限り、何も終わらないの。私の中で、何かがそう叫んでいる」
「やっぱり……」
修学旅行のおみやげを持ってきてくれた由維に、顔を見るなりジト目で睨まれた。
「や、やっぱりって、何が?」
冷や汗を流しながら、奈子は白々しく訊く。
由維は持っていたおみやげの包みをテーブルに置くと、いきなり奈子が着ているシャツのボタンを乱暴に外した。
「やだ、ダメ! こんな明るいうちから……」
冗談でその場を逃れようとした奈子だったが、由維の目は誤魔化せなかった。
露わになった胸に、いくつもの赤い痣――キスマーク――が残っている。
「いや、あの、これは……」
「………」
由維の頬がぷぅっと膨らむ。
怒っている。
かなり怒っている。
相手が誰か、わかっているのだろう。エイシスやハルティ、あるいは亜依の時とは比べものにならないくらい、はっきりと不快な表情をしていた。
(こ〜ゆ〜時は……)
奈子はなんの前振りもなく、由維を抱きしめた。
「ゴメン、由維……」
耳元でささやく。唇がそっと、耳朶に触れる。
「そ〜ゆ〜誤魔化し方って、卑怯」
「あ、やっぱり?」
由維は奈子の腕を振りほどくと、顔を赤らめながらもぷいっと後ろを向いた。
それをもう一度背後から抱きつき、うなじに唇を押しつける。
手を、胸の上に乗せる。
「や……だ……」
「ね、由維。許して?」
「や……ぁ、こんな風に、身体に言うこと聞かせようなんてズル……い」
由維は真っ赤になって俯き、唇を噛んで愛撫に耐えている。
「私、免疫ないのにぃ……」
切ない吐息が漏れる。
口では文句を言っても、身体が反応している。
「や…ぁ……」
「愛してる」
頬に手を当てて後ろを向かせ、唇を重ねた。
舌を絡ませ合う。長い時間をかけて。
その間も、もう一方の手は由維の胸を優しく撫でている。
「ん……ふ……ぅ」
伏せられた由維の長い睫毛が、微かに震えている。
ゆっくりと唇を離すと、由維は後を追うように舌を伸ばしてきた。奈子はもう一度顔を近づけ、自分も舌を伸ばした。柔らかな粘膜同士が触れ合う。
由維は背伸びをして、強引に唇を押しつけてきた。
身体を密着させてくる。奈子も、由維を抱く腕に力を込めた。
「……んっ、……ふ……ぅ」
腕の中で、由維の小さな身体がぴくりと痙攣する。
「ベッド、行こうか?」
奈子は唇を離して訊いた。
「……だぁ〜、め!」
潤んだ瞳で荒い息をしていた由維だったが、胸の上に置かれていた奈子の手を思いっきりつねり上げる。
「イ……いたたたた……!」
奈子は反射的に由維の身体を放した。
「もぉ、奈子先輩のエッチ! 女ったらし! ホントに節操ないんだから!」
「とか言って、自分だって感じてたくせに。もうぐっしょりなんじゃないの?」
赤くなった手の甲を擦りながら、ぼそっとつぶやく。
「……なにか言った?」
目が据わっている。恥ずかしさを誤魔化すかのように、いっそう怒りを前面に出してくる。
「大体、ズルいですよ! 修学旅行で何日も奈子先輩に会えなかったのに、それでいきなりこんなことされたら……」
「キスだけでイっちゃう、と」
声を上げて笑いながら、奈子はソファに腰を下ろした。
奈子にとっても一週間ぶりの由維とのキスということで、ついやり過ぎてしまったことは否めない。
しかし、ほどほどのところで止めておかないと。
「お土産の辛子明太子、あげませんよ?」
……ということになる。
奈子は慌てて全面降伏した。
顔の前で手を合わせる。
「ゴメン! 本っ当にゴメン! 謝るから、どうかそれだけは!」
「まあ、これも、モテる恋人を持った宿命なのかもしれないけど」
由維は溜息をつきながら、肩をすくめた。
「でも、怒ってるんですからね、私。謝ったくらいじゃ許してあげない」
「じゃあ、どうすれば?」
「一つ、言うこと聞いてくれる?」
「……何を?」
奈子は顔を上げて首を傾げた。
赤茶けた土に被われた荒野。
乾いた風が大地の上を静かに流れる。
生き物の気配がまったく感じられない。動物の姿がないのははもちろん、草一本生えていない。それが、マイカラスの砂漠との大きな違いだ。
雨が降らないためではない。その証拠に、地面を少し掘り返せば湿った土が現れる。
生命の存在を拒んでいるのは、この地を被う強大な魔力だった。
荒野の中にぽつんと、石造りの建物がある。
王国時代の神殿風の建物、それが、この地の中心だった。
奈子は陽の高いうちにここを訪れるのは初めてなので、どうにも違和感を覚える。
聖跡の風景といえば、夕暮れか明け方というのが定番だった。
聖跡――今から千五百年前の伝説の竜騎士、エモン・レーナの墓所。
戦いの女神の化身が眠る地。
コルシア平原の西の端、大陸を南北に貫く中央山脈に近いこの場所は、普段は近付く者もいない。
ここは、禁忌の地なのだ。
過去、様々な国によって数え切れないほど試みられた聖跡の調査と発掘は、その全てが失敗に終わり、無数の死者を出した。
聖跡は、想像を絶する力を持った番人によって護られている。
クレイン・ファ・トーム。
かつてはトリニアの青竜の騎士だった人物。史上最強の竜騎士と呼ばれたクレインの亡霊が、この地を護っていた。
「これが、聖跡……」
由維がつぶやく。
「別に、見たって面白いもんじゃないっしょ?」
「でも、独特の雰囲気がありますよ、やっぱり。ものすごい魔力が、ここに集中してるのが感じられるもの」
由維はカメラを取り出して、続けてシャッターを切った。そういえば奈子は、こちらにカメラを持ってこようなんて考えたこともなかった。
他の人ならともかく、奈子の事情を知っているソレアやファージとなら、一緒に撮っても問題なかっただろうに。今は大抵ユクフェが一緒だから、そういうわけにもいかないが。
「じゃ、中に入りましょうか」
「入るの? やっぱり?」
由維はやる気満々だが、奈子としてはあまり気が進まない。
「当然。じゃなきゃ、なんのためにここまで来たのか」
「でもさぁ、クレインっていまいち何考えてるのかわかんないし。無事に帰ってこれる保証もないし……」
「クレインさんに敵意があったり、魔物に襲われたりしたら、奈子先輩を盾にして逃げますから」
「あんたねぇ!」
「ファージと浮気してたくせに」
「う……」
これを言われると弱い。
留守中の浮気を許す代償として聖跡へ連れて行け、と由維に言われたのだ。
由維は奈子以上に熱心にこの世界について調べているから、聖跡に興味が湧くのも当然だ。そして奈子は、これまで二度聖跡に入って無事に帰ってきたという、希有な存在だった。
奈子が一緒ならば、おそらくクレインは敵対しない。その期待は充分にあった。
「じゃ、行きましょ」
「……うん」
奈子は渋々、聖跡の入口へと向かった。建物は小さいが、その下には迷路のような地下道が広がっている。
「ドキドキしますねぇ」
興奮した面持ちで、由維は周囲を見回した。
外と違い、建物の中に入ると空気がひんやりしている。
「すべては、ここから始まったんですよね」
「……そうだね」
最初の竜騎士、エモン・レーナが眠る墓所。
王国時代の失われし力が現存し、ファージの不死の秘密が隠された場所。
建物に入ってすぐ、通路は下りの階段となる。奈子は魔法の明かりを灯して階段を下りた。由維がその後に続く。
二人の足音が石造りの通路に響く。
階段も通路の壁も、四角い石を組み合わせて造られている。
紙一枚分の隙間もなく組まれた石。王国時代の建築に共通した様式だ。
所々に枝道のある複雑な回廊を、奈子は迷うことなく進んでいく。
「道、わかるんですか?」
「ここに来るのも三度目だしね。……いや、四度目だっけ? あれ?」
「うわぁ。なんかすごく不安」
「大丈夫だって。あ、こっちだ」
二股に分かれた通路を右へ曲がる。その先はまたすぐ階段になっていた。
しばらく通路を歩いて、いくつかの階段を下って。
そろそろ由維が不安になってきた頃、目的の場所に到着した。
金属製の重々しい扉が、通路を塞いでいる。
「ここ……だ」
奈子は、扉に手をかけた。
前に来た時と同様、重い扉はゆっくりと開く。中から、赤い光が漏れてきた。
そこは、広い部屋だった。
中央部に、床から天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本、一辺十メートルほどの正三角形を描くように立っている。その三角形の重心に、一抱えほどもある透明な結晶が浮かんでいた。
何もかも、最後に訪れた時と同じだ。
奈子は部屋の入口に立って、注意深く周囲を探る。
クレインの気配はない。もちろん、奈子が来ていることは気付いているはずだが。
「この部屋だけ、造りが違いますね」
床、壁、そして天井と順番に見ていた由維が言う。
確かにその通りだ。
ここまでの通路が黒っぽい石を組み合わせているのに対し、この部屋は床も壁も天井も、白っぽい材質で造られている。
普通の石ではない。金属の光沢も冷たさもない。むしろ、陶器か何かのように見えた。
「この材質、あれに似てません?」
「あれって?」
「この間の……、レーナ遺跡」
「――――」
由維の言う通りだ。ゴールデンウィークに二人で訪れた、マイカラスの砂漠にある遺跡。
この部屋を造る材質は、あの遺跡と同じものだろう。
「でも、それが意味するところは?」
「さあ。そこまではなんとも」
由維は部屋の中央部へと進んでいった。例の、光の柱を調べるのだろう。
「この人が、クレイン・ファ・トーム……」
入口からもっとも近い柱の中には、クレインの姿が浮かんでいる。
細胞の一つ一つ、いや分子の、原子の一つ一つまで完璧に再現された、立体映像。
生前のクレインの、完璧な記憶だ。
右手の柱には、ファージの同じものがある。
何度殺されようとも、ここに保管された情報から、元の姿を記憶も含めて再現することができる。
それが、クレインとファージの不死性の秘密だ。無限ともいうべき聖跡の魔力が、それを可能とする。
「でもホント、聖跡ってなんのために造られたんでしょうね? エモン・レーナの墓所っていうけど、肝心の人物はここに保管されていないし」
由維は左手の柱を見た。この三本の光柱のうち、唯一、中が空のものだ。少なくとも、現在は使用されていない。
「これはなんのため……? 万が一のための予備とか?」
「いいや」
奈子は首を振った。
「これこそが、聖跡の真の目的なんだ。そうでしょう、クレイン?」
「え?」
由維が驚いて振り返る。
二人が入ってきた入口の傍に、先刻まではいなかったはずの人影があった。
緩やかなウェーブのかかった銀髪を長く伸ばした、背の高い、美しい女性だった。
口元に微かな笑みを浮かべ、鋭い瞳で二人を見つめている。
(この人が……クレイン。聖跡の、番人……)
由維は、言葉を発することができなかった。
ごくりと唾を飲み込む。
光柱の中の完璧な立体映像が再現していないものが、そこにはあった。
クレインがまとっている、独特の気。
圧倒的なまでの力。
触れただけで身体が切り裂かれそうな……。
それはまるで、人の姿をした刃のようだった。
奈子も、ゆっくりとクレインの方に向き直った。
「今は使われていない、この三本目の柱。ここには本来、エモン・レーナの記憶が収められていたんだ。他に考えられないじゃん。違う?」
「え……?」
由維は驚いたが、クレインの口元は微かに緩んだように見えた。
「いつ、気付いた?」
静かに訊き返してくる。
透き通った、声。
「この前来た時、あんた言ったじゃん。ここはエモン・レーナの墓所であり、揺り籠でもあるって。そういう意味なんでしょう?」
「ちゃんと聞いていたんだな」
からかうようなクレインの口調は、肯定の証だった。
「奈子先輩……?」
「出身不明。ある日突然現れた謎の竜騎士。彼女はどこから来たのか……ここしかあり得ない。他の二つの方が予備なんだ。それを、あんたとファージが使っている」
「そうだ。聖跡は……この『光の間』は、トリニアよりもはるかに古いものだ。エモンの死後に築かれたのは、地上部分とここへの通路だけでしかない」
「やっぱり……ね」
奈子は、鋭い目でクレインを見つめていた。
そのために幾分怒っているようにも見えたが、口調は冷静だった。
クレインは静かな笑みを浮かべている。
「じゃあ……え? いったい……、聖跡って、エモン・レーナって、何?」
由維は狼狽えながら、奈子とクレインの顔を交互に見ていた。
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