突然、電話が鳴る。
まあ、電話のベルというのはいつでも突然鳴るものだ。
だからいつも、少し驚いてしまう。
小さな音で「これから鳴りますよ」と知らせてくれてもいいのに――などとくだらないことを考えながら、奈子は受話器を取った。
今日は水曜日。
普段通りの平日の朝。
由維が朝食の仕度をしていて、奈子は牛乳を飲みながら新聞――主にスポーツ欄――を読んでいた。
そこへかかってきた電話。まだ朝早いというのに、珍しいことだ。
「はい、松宮で……あ、父さん? ……うん、元気」
その電話は、東京にいる父親からのものだった。
「え?」
一瞬、奈子の声が大きくなる。
「あぁっ! ごめん、忘れてた!」
やや狼狽した様子で、電話に向かって謝る。
そんな奈子を、朝食の皿を運んできた由維は不思議そうに見ていた。
「……うん。すぐ行くから」
受話器を置くと、奈子は由維に向かって言った。
「由維。アタシ今日、学校休む」
「どうかしたんですか?」
「東京、行かなきゃなんない」
「東京……?」
暫し首を傾げて、間もなく「ああ」とうなずいた。
ぱっと表情が明るくなる。
「赤ちゃん、生まれたんですね?」
「うん」
奈子の母親、美奈が妊娠していることがわかったのが、昨年の十月。あの、アルンシルでの事件があったすぐ後だ。
そして、今月が臨月。
奈子も由維も、そのことをすっかり失念していたのだ。
「いますぐ千歳に向かえば、昼過ぎには病院に着けるっしょ。平日の朝だから、飛行機も空席あるだろうし」
飛行機の予約を入れるため、奈子はまた受話器を手にした。ボタンに伸ばしかけた指を止めて、由維を振り返る。
「エア・ドゥの予約って何番だっけ?」
「短縮の三番。あ、私の分もお願いしますね。すぐ用意してきますから」
「私の分も、って……」
「もちろん、私も行きますよ」
制服の上から着けたエプロンを外しながら、由維は当たり前のように言う。そして、旅行の荷物を用意するために一度自分の家へと戻っていった。
「もちろん、って……」
奈子は受話器を持ったまま、呆然と由維を見送る。
「……なんで?」
そうつぶやいたものの、とりあえず二人分の航空券を予約する奈子だった。
美奈が入院していたのは、両親が暮らしている東京のマンションからそう遠くない、大きな総合病院の産婦人科だった。
朝食後すぐに新千歳空港に向かった奈子と由維が、羽田空港からモノレールとJRを乗り継いで病院に着いたのは昼過ぎのこと。
「わぁー、可愛い! ちっちゃーい!」
それが、由維の第一声。
恐る恐る、赤ん坊を抱き上げる。
「えへへー、可愛いですねぇ。ほら、奈子先輩」
奈子に、妹ができた。三千グラムの元気な女の子。
母子共に健康だ。
「……それにしても、年甲斐もなく」
奈子はぽつりとつぶやいて、美奈に睨まれた。
「なにか言った?」
「いいや、なんにも」
美奈は、十六歳の娘を持つ母親としては若い方だろうが、それでも三十五歳前後の筈だ。
「で、この子の名前は? 考えてある?」
「え?」
「子供の名前、あんたが考えてって言ったでしょ」
一瞬、奈子の表情が強張る。
忘れていた。
そういえば、美奈から妊娠したことを聞かされた時、そんなことを言われていた。
その時は由維と一緒にいろいろ考えていたのだが、結局結論は出ないままになっている。
「まーさーかー、忘れてたわけじゃないでしょうね?」
「え? あはははは……まさか」
奈子はぽりぽりと頭を掻く。本当のことを言おうものなら、鉄拳制裁が待っている。
格闘技に関しては奈子の方がはるかに実力が上でも、学生時代に中国拳法を学んでいたという美奈の拳は、洒落では済まされない痛さなのだ。
「じゃあ、聞かせてよ。何て名前?」
「え? えっと……その……」
奈子は追いつめられた。こんな時に限って、さっぱり頭が回らない。
「えぇと、その……。ゆ……由奈、って……どうかな?」
「由奈?」
美奈が小さく首を傾げる。
「由奈……あんたと由維ちゃんから一字ずつ取ったのね」
「ははは……まあね」
それは本当のことだ。以前、由維といろいろ考えていた名前の一つ。その時はとある事情で没になったのだが、美奈に問いつめられて真っ先に浮かんだのがこれだった。
実際、奈子としてはかなり気に入っている名前だ。
由維と奈子の名前が一字ずつ使われていること。
トリニアの高名な竜騎士ユウナ・ヴィと同じ音であること。
ちょっとした問題があるとはいえ、これ以上の名前は思いつかない。
「いいんじゃない。あんたの妹は、由維ちゃんにとっても義妹みたいなもんだし」
「……今、なんだか微妙に発音が違ったみたいだけど」
それとも、深く追求しない方がいいだろうか。
美奈は、奈子と由維の関係を知っているのだ。しかしどうやら認めてくれているようである。物わかりのいい母親でよかった。
「松宮由奈……か。うん、いいね。それで決まり」
「……だって。よろしくね、由奈ちゃん」
由維が、腕の中の赤ん坊に笑いかける。
その由奈は、たった今自分の名前が決まったことも知らずに、笑っているような表情で眠っていた。
「――――」
奈子は、そんな様子を見ていて。
ぎゅうっと、胸が締めつけられるように感じた。
痛い。
胸の奥が痛い。
身体の芯を貫かれるような痛みに襲われる。
だけど、わかっている。
この痛みは、精神的なものだ。
現実には存在しない、精神の痛みだ。
「あ……アタシ、喉渇いたな。売店に行って来る」
そう言い繕って、奈子は病室を出た。
後ろ手に扉を閉める。
同時に、一筋の涙が頬を伝った。
涙はそれだけでとどまらず、一気に溢れ出してくる。
(やっぱり……、まだまだ、吹っ切れてないな……)
由維が赤ん坊を抱き上げている光景は、あまりにも辛すぎた。
見ていられない。
見るのが辛い。
見たくない。
思い出してしまうから。
一番、辛いことを。
奈子の十六年の人生の中で、一番辛いことを。
(ごめんね……)
生まれて来ることなく失われた一つの生命に向かって、奈子は謝った。
あの忌まわしい事件がなければ……。
今頃、あんな風に由維が抱き上げているのは、奈子の子供だったかもしれなかった。
「や……ダメ……はぁぁっ! あ……だめェ……もっと……あ……優しく……」
奈子は、息も絶え絶えに懇願する。
しかしその願いは聞き入れられない。
「なに言ってンの。こんなに感じてるくせに」
金色の瞳が、意地の悪い笑みを浮かべている。
楽しそうな、そして悪戯な笑みを浮かべて、ファージは奈子の顔を覗き込んだ。
「気持ちイイんでしょ? もっとして欲しいんでしょ?」
「だって……」
奈子は潤んだ瞳でファージを見上げる。
久しぶりだから。
ファージとするのは本当に久しぶりだから、すごく感じてしまう。
由維の目がある時には、間違ってもこんなことはできない。今週、由維は中等部の修学旅行で、奈子は久しぶりに一人でこちらに来ていた。
ソレアの屋敷にはファージもいて、奈子が一人と見ると問答無用で迫ってきて。
そうなると奈子も拒むことのできない性格だ。奈子にとってファージは「初めての女の子」でもあるし。
そう、あれはもう一年半くらい前になるだろうか。
夕食の時に飲んだワインで気持ちよく酔っている時に、カードゲームでファージと賭けをしたのは。酔った勢いで「負けたら相手の言うことをなんでも聞く」なんて約束をして。
そして、負けたのだ。ポーカーに似て、駆け引きが勝負を決めるそのゲームは、考えていることが顔に出やすい奈子にとっては明らかに不利だった。ファージは駆け引きでも、カードの引きの運でも奈子を凌駕していた。
しかし今にして思えば、カードの引きは運ではなくて、魔法によるいかさまだったのかもしれない。魔法の知識がほとんどない当時の奈子では見破れなかったろう。
ゲームに勝ったファージの要求が、奈子の身体だった。
奈子もファージのことは嫌いではないし、女の子同士での行為に興味もあったから、つい承諾してしまった。
以来、機会あるごとに肌を重ね合って、今に至る。
もちろん、由維もそのことには気付いている。快く承諾しているわけではないが「まあ仕方がない」とでも思っているようだ。
奈子だって、それがいいことだとは思っていない。由維に対して後ろめたい気持ちもある。
だけどその後ろめたさが、より快感を高めるスパイスになっていることも否定できない。
それは、いけないことをしているという、背徳的な快感。
『奈子先輩て、倫理観というか、貞操観念というか……が欠如してますよね』
いつか、由維が言っていた台詞。
まったくその通りだ。
「いいじゃない。練習だと思えば」
ファージはあっけらかんと言う。倫理観の無さという点では奈子の比ではない。
「いつかユイとする時のために、テクニックを磨いていると思えばいいじゃない」
「そーゆーもの?」
そんな理由で納得してもいいものだろうか。
「ユイだって、気持ちイイことされた方が嬉しいじゃない」
「うーん……」
そんなことでいいのだろうか。
でも確かに、どうせするなら気持ちイイ方がいいに決まってる。
由維とはまだ最後の一線を越えてはいないけれど、それも時間の問題だろう。だったらその時には、うんと感じさせてやりたい、と思う。
まさか、由維が文句を言いつつもファージとの関係を黙認しているのも、そんな理由からだろうか。いやいや、まさか。
「だから、うんと練習しよ」
「うまく丸め込まれたような気もするけど……。ま、いっか」
とりあえず今は、ファージと楽しもう。そう、決めた。
「……は……ぁ、あぁっ……! あぁん!」
ファージの指が、奈子の中で動いている。
一番感じる部分を攻めたてている。
奈子も、自分から腰を動かしてそれに応える。
「イイ……イイのぉ……」
指の動きは激しい。痛みすら覚えるほどに。
だけど奈子はどちらかといえば、そんな、荒々しいセックスが好きだった。もちろんファージは、奈子の嗜好をよくわかっている。
指が、舌が、奈子の弱点を乱暴に愛撫する。
奈子は全身が痺れるほどに感じて。
何度も、絶頂を迎えてしまう。
しかし、一度や二度くらいではファージはやめてくれない。そして、奈子もやめて欲しいとは思っていない。
由維に「底なしの性欲」と評された通り、奈子のセックスは相手の性別を問わずかなり貪欲なのだ。
疲れて眠ってしまうまで、何度でも。
特に、久しぶりであればなおさらのこと。
「やぁぁっ、あぁっ、あぁ……」
ファージの容赦ない愛撫は続き、奈子は今夜何度目かののクライマックスを迎えようとしていた。
「はぁぁっ……、あぁぁぁんっ!」
奈子の身体が痙攣する。
ぎゅっと、ファージを抱きしめる。
「んあぁぁぁぁっ……」
肺の中の空気をすべて吐き出すまでその状態は続き、ようやく全身から力が抜ける。
汗ぐっしょりで。
荒い呼吸に合わせて、胸が大きく上下している。
「……ち、ちょっと……休憩……」
奈子は蚊の鳴くような声で言った。
さすがに、これ以上休みなしで続けては身体が保たない。
ファージは満足げな笑みを浮かべて、奈子にぴたりと寄り添っていた。
(……やっぱり、気持ちイイなぁ。ファージとするのは……)
ぼんやりとした頭で考える。
実は、それには理由がある。ファージは魔法を使って、奈子の神経を直接刺激しているのだ。反則のような気がしないでもないが、気持ちいいから良しということにしている。
それにしても、おかしな話だ。
奈子は別に、ファージに対して恋愛感情を抱いているわけではない。
それは紛れもない友情。ファージは、大好きな親友だ。恋愛感情ということなら、まだ亜依に対しての方があるかもしれない。
おそらく、ファージも同じだろう。
彼女の奈子に対する感情も、恋愛とは少し違うように思える。それなのに肉体関係を求めるのは、それがファージ流のスキンシップだからだ。
奈子も、嫌いではない。
それが恋人であれ親友であれ。
好きな相手と肌を合わせること、相手の温もりを感じること。
それは楽しくて、そして気持ちいい。
(これってもしかして、肉親とのスキンシップが少ないことと関係あるのかな?)
その点では、奈子とファージには共通点がある。
それでも、奈子には由維がいたからまだいい。しかしファージは一人きりだ。
奈子に必要以上になついているのは、そのせいもあるのだろうか。
「ね、ファージ。今度はアタシがしてあげる」
少し休んだ奈子は、ファージを仰向けにさせるとその上に覆い被さった。
ファージとする時はどちらかといえばネコ役が多い奈子だが「いつか由維とするときの練習」という建前があるからには、それだけではいけない。
それに、やってみるとタチもなかなか楽しかった。
自分の愛撫に反応する相手の表情を見ること。それは、精神的な快感を与えてくれる。
奈子は、ファージの胸に優しくキスをした。手で、もう一方の乳房をそっと包み込む。
「ん……くぅん……」
舌先で乳首をくすぐると、ファージはすぐに切ない声を上げ始めた。
ファージは、奈子に対しては荒々しい攻めをするくせに、自分がされる時は優しい愛撫を好む。
舌先、あるいは指先で微かに触れるような。
すごく感じやすくて、奈子にしてみれば物足りないような、控えめな愛撫だけで簡単に達してしまう。
その時の表情が可愛い。
普段のファージとのギャップが楽しい。
だから、つい何度もいかせてしまう。
ファージは奈子ほどの耐久力がなくて、簡単にギブアップする。瞳を潤ませて「も、ダメ……」なんて言うファージの姿、こんな時でもなければ見ることはできない。
思わず苛めたくなってしまって、さらにもう一回してしまった。奈子は自分がややマゾっ気があると思っていたのだが、責めに転じると実はサドなのかもしれない。
「……ナコの意地悪ぅ」
拗ねたように言う。それが可愛くて、ファージの身体をぎゅっと抱きしめた。
「ファージってば、可愛い」
「……後で仕返ししてやる。超悶絶スペシャルフルコースで」
「実は、それが楽しみだったりして」
奈子はぺろりと舌を出した。
「とは……言ったものの……」
それからしばらく後。
奈子は力尽きたように、ベッドに俯せになっていた。
「……さ、さすがに……効いたなぁ……コレは」
「ふふ〜ん。どぉ、ちょっとは堪えた?」
攻守交代したファージが、勝ち誇ったように言う。しかし。
「……クセになりそ」
さっぱり堪えていない奈子だった。
さすがにファージも今夜はこれ以上続ける気がないのか、話題を変えてくる。
「そういえば奈子、妹ができたんだって?」
「うん、そう。由奈っていうの」
奈子は寝返りを打って、仰向けになった。
「ユウナ……? トリニアの?」
「それもあるけど。アタシの国の文字で、由維と奈子の先頭一文字ずつを取ってつなげると、ユウナって読めるんだ」
「ナコの妹がユウナ、か。ふふ……」
「なにか可笑しい?」
「ちょっと……ね」
ファージは奈子に寄り添って、腕枕してもらうような体勢になる。
なにがそんなに可笑しいのか、その後何度もくすくすと思い出し笑いをしていた。
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