「ごきげんよう、お姉さま」
玄関のドアを開けると同時にそんな挨拶をされた場合、いったいどんなリアクションをすればよいのだろう。
奈子は、ドアを開けた体勢のまま固まってしまった。
目の前には、由維が立っている。
夏休み中だというのに、セーラー服を着て。
ただしそれは、赤いミニスカートが特徴的な白岩学園中等部の制服ではない。
漆黒に緑色を一滴落としたような、光沢のない黒い生地のセーラー服。
ローウェストのワンピース、膝下丈のプリーツスカートという、ひどくレトロなデザインだ。
黒のラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーは、そのまま結んでタイになっている。
ひどく時代錯誤的な、それでいて品のいいデザインだった。
いつもと違うのは服装だけではない。
普段は明るい茶に金のメッシュという由維の髪が、今日に限って本来の濃い茶に戻っていた。
見た目だけなら、どこの良家のお嬢様か、といった雰囲気だ。
胸には、ご丁寧にロザリオまで下がっている。由維の家はカトリックではないはずだったが。
そして、手には大きな紙袋を持っていた。
「…なんの真似?」
由維を家の中に通しながら、奈子はやや呆れた表情で訊いた。
「リリアン女学園のコスプレですけど…似合いません?」
小さく首を傾げる。その仕草が可愛い。
奈子が言いたいのは、似合うとかに合わないとかの問題ではない。
ひと目見たときから、それがなんの格好かはわかっていた。
リリアン女学園…由維が最近お気に入りの小説『いばらの森』の舞台となっている、カトリック系のお嬢様学校だ。
由維が妙にその小説を気に入っているのは知っていた。
だからといって…
「自分で作ってみたんですけど、けっこう良くできてるでしょ?」
居間に通った由維は、両手を広げてくるっと一回転して見せた。
「まあ…ね」
奈子は曖昧にうなずく。
確かに、よくできている。
中学二年生にして家事全般のエキスパートである由維は、もちろん裁縫も得意だ。
本物だといわれてもわからないだろう。
「…で?」
奈子は訊いた。
「…で、って…?」
「そんなもの着てきて、どうしようって言うの?」
そもそも今日は、由維と一緒に街へ遊びに行く約束だった。
それでこの格好…。なんだか、すごくヤな予感がする。
「今日は、この格好でデートしましょ? 奈子先輩…じゃなかった、お姉さまの分もありますよ」
由維は笑って、持ってきた紙袋を開けて中身を取り出す。
予感は的中していた。
それはピッタリ奈子サイズの、リリアンの制服。
「やっぱり、そういうつもりかぁぁっっっ!」
奈子は力いっぱい叫んだ。
『いばらの森』それは、カトリック系の女子校を舞台とした少女小説だ。
女の子同士の禁断の愛を描いている。
お互いに深く深く愛し合っていながら、周囲の大人たちによって無理やり引き離されるふたりの少女の、悲しくも美しい物語だった。
美しい文章と細やかな心理描写は、読む者の心に響いた。
由維にすすめられて読んだ奈子でさえ、不覚にも涙をこぼしてしまったくらいだ。
何度も何度も読み返していた由維が、感化されてしまうのもわからなくもない。
だからといって…
「アタシまでそんなカッコができるかぁぁっっ!」
テーブルを叩いて奈子は叫んだ。
由維が口をとがらせる。
「え〜、どうして〜」
「恥ずかしい! 第一アタシには似合わないよ。絶対にヤダ!」
由維はむっとした表情で、ぷぅっと頬を膨らませる。
「これ着てデートするのを楽しみに、一生懸命作ったのに〜」
「知るか!」
「どうしてもイヤ?」
「イヤ!」
「絶対に?」
「絶対に」
「…そうですか」
むっとした表情のまま、由維はソファに腰を下ろした。
心なしか、目が据わっている。
「そこまで言うんなら、私にも考えがありますよ」
脅迫するような口振りだった。
「…なによ?」
「もうゴハン作ってあげない」
「う…!」
いきなり急所を突かれ、言葉を失った。
両親が滅多にこの家に帰らない奈子の食生活は、由維の双肩にかかっていると言ってもいい。
由維が食事を作ってくれなくなったら、奈子を待っているのはインスタント食品とコンビニ弁当の毎日だ。
「…卑怯よ、由維」
奈子はうめくように言った。これは反則だった。
しかし由維の脅迫は、それだけでは終わらない。
「それに、奈子先輩の恥ずかしい写真を学校でバラ撒いちゃうんだから」
「は、恥ずかしい写真って?」
「例えばこれとか…」
胸ポケットから一枚の写真を取り出して見せる。
夜の道端で抱き合って、唇を重ねている奈子と由維。
以前、由維の姉の美咲に撮られた物だった。
「こんなのもありますよ」
違う写真を取り出す。
ベッドで寝ている奈子のアップ。
パジャマ代わりのシャツのボタンがいくつか外れ、胸が露わになっている。
「…あ、あんたいつの間に…」
由維が泊まっていくのはしょっちゅうのことだから、その気になればチャンスはいくらでもある。
「あと、こんなのも」
三枚目の写真に、奈子の顔が青ざめた。
いつの間に撮られたのだろう。部屋で着替えている姿だった。
写真を持つ奈子の手が震える。
「あ、あ、あんたね〜」
「そしてこれがとびっきり…」
由維はもう一枚の写真をちらつかせる。
ただし今度は、奈子に表を見せない。
「奈子先輩の、ひとりエッチの隠し撮り!」
「ウソだ〜っっ!」
奈子は叫んだ。
そんなこと滅多にしないし、第一、間違っても由維がいるときにはしない。
「ふっふっふ…、これを人に見られたくなければ、今日はこの制服でデートですよ」
「う…」
奈子に選択の余地はなかった。
唇を噛み、肩を震わせて紙袋を受け取った。
セーラー服に着替えてきた奈子を見て、由維の顔がぱぁっと明るくなった。
「よく似合ってますよ、奈子先輩…じゃなかったお姉さま」
「せめてその『お姉さま』はやめて」
すべてを諦めたような表情で、奈子はつぶやいた。
由維はそんな台詞は無視すると、ブラシを取り出して奈子の髪を整える。
最後に、淡いピンクの口紅を塗って、タイの形を直すと、顔の前で両手を合わせて微笑んだ。
「お姉さま、素敵!」
「だからそれはやめてって」
「さぁ、出かけましょ」
いやがる奈子の手を取って、由維は玄関へと向かった。
(うう…やっぱり恥ずかしいぞ、これは)
とりあえず玄関から出るときに、近所の人に見られずに済んだのは幸いだった。
それでも道を歩いていると、すれ違った人がたまに振り返る。
このあたりでは見慣れない古風なセーラー服を着た女の子が、ふたり手をつないで歩いているというのはやはり少々気になるらしい。
こんなところを学校の友達にでも見られたらなんて言われるか…。
そう思うと、奈子は頬がか〜っと赤くなるのを感じた。
だけど…
手をつないで歩いている由維は、とても嬉しそうだった。
この上なく、幸せそうな顔をしている。
満面の笑みを湛えて。
そう。考えてみれば、とても幸せなことなのかもしれない。
いちばん好きな人と、こうして一緒にいられるというのは。
あの小説の主人公たちのように、愛し合っていても離ればなれになってしまう者たちだっているのだから。
自分と由維は…?
急に、不安になった。
いったいいつまでこうしていられるのだろう。
由維との別れなんて、考えたくもない。そんな日が来るなんて。
だけど、好きだという思いにゴールはあるのだろうか。
いつまでもこのままでいたい。だけど、それはおそらく叶わない願いだ。
そう考えると、いまをもっと大切にしたい。
こうして、由維と手をつないで歩いているこのときを。
奈子は、由維の手を握っている右手に、少しだけ力を入れた。
由維の頬が、かすかに赤みを増したように見えた。
後日談になるが、
「友達に見られたらなんて言われるか…」という奈子の心配は杞憂だったらしい。
この日のデートを目撃していた、亜依をはじめとする数人の友人たちは、
「あのふたりってば、相変わらず仲いいね〜」
と、温かく(?)見守っていたそうである。
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