その日、空は見事なまでに晴れ渡っていた。
澄み切った蒼い空の上で、大きな鳥がゆっくりと輪を描いているのが見える。
時刻は正午を少し過ぎた頃。
樹がまばらに生えた林の中を通る路の脇で、一人の若者が昼食の準備をしていた。
枯れ木を集めて火を起こし、干し肉を焙っている。
その若者の名は、エイシス・コットという。
年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。平均的な成人男子よりも頭半分ほど背が高く、筋肉質の逞しい体格をしている。
大きな荷物を傍らに置き、着ている物がやや汚れているところを見ると、旅の途中だろう。
荷物に立てかけるようにして置いてある剣――子供の背よりも大きな大剣――から、彼の生業を伺い知ることができる。それは明らかに、実戦で用いられるための、人を殺すための武器だった。
彼は、傭兵だった。
生まれ故郷はここよりずっと北の山中にある寒村だったが、十三のときに村を飛び出して以来、ずっと己の力だけを頼りに生きてきた。
傭兵の他、めぼしい戦争のないときには隊商の護衛や酒場の用心棒、場合によっては金で暗殺を請け負うこともあった。
生まれつきの恵まれた体格に加えて、剣の腕前は抜群で魔法にも通じている。その気になればどこかの国で正騎士の地位を手に入れることも難しくはないだろうが、彼は今の生活が気に入っていた。
規律とか、規則正しい生活といったものは性に合わない。
気が向いたときに稼いで、その金がなくなるまでは酒と女に囲まれて暮らす――それが、エイシスにとっての充実した生活というものだ。
だから、今はかなり幸せな気分だった。
つい先日ひと仕事終えたところで、エイシスが雇われていた軍は見事勝利を納めた。彼自身、いくつもの手柄を立てたおかげで懐は暖かい。
そうなれば次にするべきことは、遊ぶところに事欠かない大きな街へと行くことだ。
そんな事情で、エイシスは旅の途中なのである。
焚き火で焙っていた干し肉が、良い香りを立て始めた頃。
「……?」
不意にエイシスは殺気を感じて、反射的にその場を飛び退いた。
一瞬遅れて、今までいた場所が爆炎に包まれる。
(魔法……?)
エイシスの顔に緊張の色が浮かんだ。
地面に伏せて様子を伺うと、少し離れた茂みの向こうで何かが動く気配がした。
軽く息を吸い込むと、剣を掴んで立ち上がり、そちらに向かって走り出す。
逃げていくその気配は、草木が密集した場所を選んでいるようで、こちらからは姿が見えない。それでも足音と気配から察するに、相手は人間、それも一人だけらしかった。
エイシスは足には自身があったが、相手もずいぶんと身が軽いようで、身体の大きいエイシスには走りにくい、低い枝や灌木が密集した場所を走り抜けていく。
このままでは埒があかない……そう考えたエイシスは、口の中で小さく呪文を唱えた。
エイシスの前に、大人の握り拳より一回りくらい大きな白く輝く光の球が出現し、前方に飛び去る。
光球が灌木の茂みを貫いた瞬間、ばんっという大きな破裂音と、小さな悲鳴が聞こえた。
油断なく周囲を警戒しながら茂みを抜けたエイシスは、わずかに驚きの声を漏らす。
そこにいたのは、彼の予想をまったく裏切った相手だった。
「……なんだ、お前は?」
剣を掴んでいた手から力が抜ける。
それは、一人の女の子だった。
両足を軽く開いてしっかりと地面を踏みしめ、真っ直ぐに彼を睨み付けている。
歳はせいぜい十歳くらいだろう。
長く美しい金髪と、深い緑色の瞳。
将来、相当な美女になることを約束されたような容貌だ。
スカートの膝のあたりが汚れているところを見ると、エイシスの魔法に驚いて転んだのだろうか。
何故こんなところに、女の子がいるのだろう。そして、何故いきなり魔法で攻撃してくるのだろう。
エイシスは言葉を失っていた。
これが予想通り山賊の類であれば問答無用で叩き斬るところだが、どうにも勝手が違う。
少女は黙って、その大きな緑の瞳でエイシスを見ている。
「いったい……?」
戸惑いがちにエイシスが一歩足を踏み出すのと同時に、少女は、頭上の枝から垂れ下がっていた蔓を掴んだ。
背中に悪寒が走り、エイシスは踏み出した足を素速く引っ込める。
ずんっ!
「……!」
次の瞬間、彼の目の前に、今までなかった一本の木が生えていた。
いや、生えたわけではない。
エイシスの頭上から降ってきたのだ。
太さ、長さともちょうど槍くらいのサイズの木が、つま先ぎりぎりの地面に深々と突き刺さっている。
一歩下がっていなければ、間違いなく串刺しになっていたはずだ。
エイシスはいまいち事情が飲み込めないまま、その木を掴んで引き抜いた。ぼんやりと、手の中の粗末な槍を見下ろす。
そこで初めて、少女が口を開いた。
「どうして避けるのよ! ずるいじゃないっ!」
「あ……」
エイシスの顔が引きつる。
ようやく、事情が見えてきた。
「当たり前だっ! 誰だって避けるに決まってるだろーが!」
叫ぶのと同時に、その木で少女を張り倒していた。
「この扱いはどういうことよっ? このバカ野郎! 鬼畜! 人非人! 変態!」
罵詈雑言が降ってくる。
少女は、顔に似合わず口が悪かった。
エイシスはそれを無視して、中断された昼食を再開していた。
「ちょっと! 人にこんな仕打ちをして、なにのうのうと食事なんかしてるのよっ!」
無数の悪態は、何故か頭上から聞こえてくる。
「下ろしなさいよ! このウドの大木! これがレディに対する扱い?」
エイシスはうるさそうに上を向く。
そこには、ロープで縛られた少女が樹から吊されていた。
(猿轡もかましておくべきだったか……)
今さら手遅れではあるが、少々後悔する。
「うるさいぞ、このガキ!」
「あたしガキじゃないわ! 今年でもう十歳よ。十歳といえば一人前のレディだわ! スカートの中を覗いたりしたら、承知しないんだからね!」
少女は、大人ぶった口調で叫ぶ。しかしそれはまだ、キンキンと頭に響く子供の声だ。
「なにがレディだ、この追い剥ぎがっ!」
「誰が追い剥ぎよっ? とこっとん失礼なヤツね!」
このガキ、締めてやろうか……。
エイシスはそんな表情をしながらも、辛うじて大人の威厳を失わない口調で聞き返す。
「追い剥ぎじゃなければ、何だっていうんだ?」
「そうね、まずこのロープを解いて、頭を下げてお願いするんなら話してあげてもいいわ……って、ちょっと、なんでそんなところで焚き火を始めるの? 煙たいじゃない!」
エイシスが、真下に薪を積んで火を点けたため、立ち昇る煙に少女は咳き込んだ。
「ちょっとした実験だ」
「実験? なんの?」
煙が目にしみるのか、涙を流しながら少女は訊ねる。
「生きた人間を薫製にできるかどうか」
「ちょっと! やめなさいよ! あ、熱いじゃない!」
エイシスはそんな抗議の声には耳を貸さず、薪を火にくべる。
「ゲホ……わ、わかったわよ! 話すから……やめて!」
「じゃあ、まず……お前の名前は?」
「下ろすのが先よ」
あくまでも偉そうに少女が言うと、エイシスは手に抱えていた薪をまとめて火中に投げ込んだ。
高く上がった炎は、今にも少女の足に届きそうになる。
「で、名前は?」
「い……言うわよ。言えばいいんでしょっ! リューリィよ。リューリィ・リン!」
同時に、少女を吊していたロープが切れる。
リューリィは悲鳴を上げた。このままでは、火の中に落ちてしまう。
しかしエイシスは片手でリューリィを受け止めると、傍らの地面にぽいっと放り出した。
全身からほのかに香ばしい薫製の香りを漂わせているリューリィが、上目遣いにエイシスを睨み付ける。まだ、両手はロープで縛られたままだ。
「で、どうして俺を襲ったんだ?」
「ちょっと、あたしにだけ名乗らせるなんて失礼じゃない?」
「そうか、悪かったな。エイシス・コットだ」
答えながら、エイシスはリューリィを軽く蹴飛ばした。
「縛られて抵抗できない女の子を蹴飛ばすなんて、最低ぇ」
「縛られたまま軽く蹴られるのと、ロープを解いてから思い切り蹴飛ばされるのと、どっちがいい? つべこべ言わず質問に答えろ」
「あたしみたいな可憐な美少女が人を殺す理由なんて、一つしかないじゃない」
リューリィはきっぱりと言い切った。
「復讐、よ」
「お前が『可憐な美少女』かどうかという問題はひとまず置いとくとして、美少女と復讐の関連はいまいちわからんが……」
エイシスはもう一度、リューリィを観察した。
口はなかなかに達者だが、外見はどう見ても十歳前後。
髪は見事な金髪で、長さは背中まで。
瞳は深い森のような緑。
目は大きく、意志の強さを感じさせる。
(可憐な美少女……といえなくもないが、ちょっと性格に問題アリだな)
それなりに教育を受けてはいるようだが、貴族の娘、というほどの上品さはない。
そこそこに裕福な商人か、農場主の娘といったところだろうか、と推測する。
(それにしても、復讐……だと?)
いくら記憶の糸を手繰っても、この少女には見覚えがない。
親とか、あるいは兄を殺されたとでもいうのだろうか?
ここ何年か、戦場で過ごす時間の方が長いエイシスである。これまで殺めた人間の数などいちいち憶えてもいない。
しかし……戦場で倒した相手の娘だとしたら、どうして彼が親の仇だとわかるのだろう。
戦場以外での殺し――金で請け負った暗殺とか、酒場での喧嘩の末に殺してしまった相手というのはそう多くない。その中に、このくらいの娘がいそうな相手は心当たりがなかった。
「復讐と言われても……人違いじゃないか? 俺には心当たりがないんだが」
「しらばっくれる気? あんた達のせいで、村はめちゃめちゃになっちゃったんだから!」
「村?」
エイシスは首を傾げる。
「そう、あたし達の村が戦場になって、畑は踏み荒らされるし、家は焼かれるし……人も大勢死んだわ。みんなあんた達のせいよ!」
なるほど。
エイシスは心の中で頷いた。
それなら納得はいく。
どこかの町や村が戦場になれば、後には焼け野原しか残らないのが普通だ。この大陸のあちこちで毎日のように繰り返されていること、彼のような傭兵には当たり前のこととはいえ、巻き込まれた住民たちにはたまったものではあるまい。
「それで……お前の家族も殺されたのか?」
「ううん。あたしの父さんと母さんは、去年流行り病で死んだ」
リューリィは小さく首を振る。
「でも、うちには土地があったからそれを人に貸して、あたしが生活していくのには困らなかった。近所の人たちも、みんな親切にしてくれたし……。それなのに、あんた達がめちゃめちゃにしたのよ!」
(なるほど、そういうことか……)
リューリィの仇は別にエイシス個人ではない。村を踏み荒らした兵士たち全員に恨みを持っているのだ。
(しかし、待てよ……)
「お前の村って、どこだ?」
「フルカ村よ」
「フルカというと……ここから東に行った、トムシールとの国境近くの?」
リューリィが頷く。
「人違いだ」
エイシスはあっさりと言った。
「俺が雇われていたのは、北の国メラシペだ。今回の戦場は山の中だったし、フルカ村なんて足を踏み入れたこともない」
「ウソばっかり」
「嘘じゃない」
エイシスはポケットから一枚の金貨を取り出すと、リューリィに向かって放った。今回の仕事の報酬の一部であるその金貨には、メラシペ王国の紋章が彫られている。
リューリィは、目の前に落ちた金貨をしばらく無言で見つめていた。
「わかったろ、お前の村を襲ったのは俺じゃない」
「……ま、それは置いといて……」
「ちょっと待てコラ!」
一瞬、気まずそうな表情を見せたリューリィだが、すぐに強気な態度を取り戻す。
「だって、あんた傭兵でしょ? 今回はたまたま違っただけで、いつかはあたしの村を荒らした連中と同じように、罪もない人たちを苦しめるに決まってンの! だったら、今のうちにやっつけとくのが世の為ってものよね?」
「てめえ開き直りやがったな! だったら何か? お前はこの世の全ての兵士をやっつけようとでもいうのか?」
「それが理想ね」
「このガキ……」
エイシスは吐き捨てるように言った。
「……まあいい。だったらこれはこれとお前の戦争だ。そしてお前は負けたんだから、つまり俺の捕虜ってことだ」
エイシスは立ち上がると、リューリィを縛っているロープの端を掴んで軽々と肩に担ぎ上げた。
リューリィは足をばたつかせる。
「ちょっと、どうする気よ! 変なコトしたら、タダじゃすまないんだから!」
「俺はこれからハシュハルドの街に行くところだったんだ。金が入ったから、しばらく大きな街で遊ぼうと思ってね」
「それで……?」
「あそこは大きな街だから、お前みたいなガキも結構な金で売れるぞ。幼女趣味の変態オヤジとかに、な」
口さえ開かなきゃ、確かに可憐な美少女だもんな――そう付け加えると、エイシスはにやにやと笑った。
「俺にはそっちの趣味はないから、その金で妙齢のの美女と楽しもうって寸法だ」
「ちょっと! なんてこと考えンのよっ!」
頭にキンキンと響く声で、リューリィが叫ぶ。
肩に担いでいるので、エイシスの鼓膜は至近距離でその声の直撃を受けることになった。
「捕虜が偉そうな口をきくな!」
片手で耳を塞ぎながらエイシスは怒鳴り返す。
「だいたい、戦争で家を失い、身寄りもないガキがこれからどうやって生きていこうって言うんだ? どっかの金持ちのエロじじいに買われれば、取り敢えず住む処と食べる物には困らんだろう? ついでに俺は金儲けができて一石二鳥、二人とも幸せになれるってわけだ」
「何が幸せよっ! このバカッ! クソ傭兵!」
肩に担がれたまま、リューリィは足だけをばたつかせて暴れる。
「いい加減、口のきき方に気をつけろよ。あの場で殺されなかっただけありがたいと思え」
「思えるわけないでしょ! このインポ野郎!」
「……」
一瞬の沈黙の後、エイシスは唖然とした表情でリューリィを見た。
「お前、意味わかってて言ってんのか?」
「さあ……? あたしの魔法の先生が教えてくれた『男にもっともダメージを与える悪口』のうちの一つなんだけど」
その「先生」とやらがどんな人物なのか非常に興味を引かれるが、あえて詳しくは訊かない。
「他にも『早漏!』とか『皮かむり!』とかのバリエーションがあるけど?」
「もういい! お前は喋るな!」
こんな娘に関わってしまったことを、エイシスは心底後悔した。
(今さら捨ててくわけにもいかんし……。売るときは魔法で眠らせるか、口をきけないようにする必要があるな……)
大きな溜息をついて、エイシスは歩き出した。
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