それから二日が過ぎた。
エイシスは、リューリィが逃げ出したことについては何も言わなかったが、それがかえって癇に障った。まるで「あそこで逃げ出すことなどはじめからお見通しだった」と言わんばかりの態度だからだ。
あれ以来、食事の支度を押しつけられていることもあって、リューリィはもう縛られてはいない。
(あれくらいのことで、あたしが感謝しておとなしく売られる気になったとでも思ってンのかしら? それとも……)
それとも、たとえ縛り付けておかなくても、逃がさない自信があるのか。
取り敢えずこの二日間、リューリィは逃げ出す素振りも見せずにできるだけ従順な振りをしていた。
そうすればいつか、この傭兵も油断して隙を見せるだろう――そう考えたのだ。
その夜、二人は山の中で野宿していた。
あと半日も歩けば山道は終わる。この山を下りればエイシスが目指しているハシュハルドの街はもうすぐだ。
逃げ出すなら今のうち。リューリィはそう考えていた。
「傭兵……起きてる?」
真夜中を過ぎた頃、リューリィは小さな声で言った。
焚き火が、熾になってぼんやりと赤く光っている。その向こうに、毛布にくるまって横になっているエイシスの姿が見えた。
「傭兵……?」
リューリィはもう一度呼び掛ける。
今度はもう少し大きな声で。
それでも返事はない。
聞こえるのは、規則正しい寝息だけだ。
リューリィはそのまましばらく待って、それからゆっくりと動き始めた。
少しずつ、慎重に。
うっかり枯れ枝など踏んで音を立てたりしないように。
じりじりと、ほんの少しずつ、その場から離れていく。
一歩足を動かしては動きを止めて、エイシスがまだ寝ていることを確認して。
そんなことを繰り返して、やっと十分な距離を取ったリューリィは、ふもとに向かって全力で走り出した。
エイシスの話では、山を下った処に小さな村があるらしい。そこまで逃げればなんとかなるだろう。
夜の山道を明かりも持たずに走るのは難しいことだったが、樹々の間からわずかに照らす月明かりだけを頼りに走り続けた。
そろそろ安全な距離まで離れただろうか。
そう思った瞬間、リューリィは何かにつまづいて思い切り転んでしまった。
思わず声を上げそうになったのを慌てて押さえたため、舌を噛んでしまう。
(痛ったぁ……。やっぱり、明かりなしで行くのは無茶かなぁ)
そこはちょうど木の陰になったところで、地面は真っ暗だった。何につまづいたのかすら見えない。
(これだけ離れたんだもの、少しくらいは大丈夫だよね?)
リューリィは、小声で明かりの呪文を唱えた。
小さな魔法の明かりが周囲を照らし出す。
そして――
「……っ!」
リューリィは悲鳴を上げそうになった。
実際に声を上げなかったのは「見つかってはいけない」という意志の力によるものではなく、ショックが大き過ぎたためだった。
口は大きく開いているのに、まるで何かが喉を塞いでいるかのように声が出ない。
呼吸もできない。
腰が抜けてその場に座り込んだ。
もう一度、叫ぼうとした。
しかし声が出るようになるよりも先に、リューリィは気を失っていた。
彼女がつまづいたのは、無惨に食いちぎられた若い男の死体だったのだ。
「いや……っ!」
意識が戻ると同時に悲鳴を上げそうになったリューリィだったが、一瞬早く大きな手で口を塞がれた。不意のことに、心臓が止まるほどびっくりする。
暴れて、口を塞いでいる手を払い除けようとするが、彼女をしっかりと押さえつけた手はびくともしない。
「声を立てるな。気付かれる」
耳元で、低い声がする。
(よ、傭兵……)
落ち着いて見ると、リューリィはエイシスに背後から抱きかかえられていた。彼女が落ち着いたのを見て、エイシスは口を塞いでいた手を離す。
「落ち着いたか、リュー? あまり大きな音は立てるなよ。まだ近くにいるかもしれないからな」
「近くにいるって……何が?」
「あの死体を作った奴、だ」
リューリィはびくっと身体を震わせた。先刻の、見るも無惨な死体の記憶が甦ってくる。
「あ……な、何なの、あれ……? いったい、何があったの?」
寒いわけでもないのに、身体の震えが止まらない。少しでも気を抜いたら、また悲鳴を上げてしまいそうだった。
「多分、魔物に喰われたんだ」
「ま、魔物……? この間の狼みたいな?」
「いや」
耳元でささやくエイシスの声は低く落ち着いていて、聞いているうちにリューリィの動揺も少し治まってくる。
「もっと、ずっとでかくて凶暴な奴だ。人間をひと噛みで喰いちぎれるなんてな」
「そんな……」
そんな恐ろしい魔物が、こんな人里近くにいるとはにわかに信じられない。
少なくとも、リューリィが育った村ではそんなことはなかった。人間を脅かすほどの魔物なんて、物語の中だけの存在だった。
「多分、どこからか迷い込んだんだろうな。朝になったらふもとの村で訊いてみるさ。おそらく、あれは村の人間だろうから」
意外なほど、エイシスは冷静だった。
傭兵という職業柄、人間の死体など見慣れたものなのかもしれないが、それにしても驚いた胆力だ。
「お前は寝てていいぞ。まだ夜明けまではしばらくあるからな。ずっと寝てなかったんだろう?」
「う……」
なんと応えればいいのかわからなかった。エイシスは、リューリィが寝たふりをしていたことも知っていたのだ。
「傭兵……怒ってる?」
「何が?」
「……逃げたこと」
「別に。捕虜ってのは逃げようとするもんさ。だからといって、逃がしてやる気は毛頭ないんだが」
なんとなく、リューリィをからかっているような口調だった。心の中で舌打ちをする。
(ちぇっ、みんなお見通しってわけ? かなわないや……)
少なくとも、ここまではリューリィの負けだ。
だから、おとなしく眠ることにした。
エイシスの腕の中で。
「確かに……これは息子の物です」
エイシスが差し出した指輪を手に取って、その男は沈痛な面持ちで言った。
その指輪は、昨夜エイシスが死体から抜き取ったもの。
さほど値打ちものではないが、ちょっと珍しい形の細工だったので、持ち主の素性を知る手掛かりになるだろうと考えたのだ。
その考えは的中し、ふもとの村でそれを見せるとすぐに持ち主はわかった。
指輪は、この村の村長の息子の物だった。
エイシスは村長の家へ行き、指輪を渡した。
「昨日の朝山へ行ったきり夜になっても戻らなかったので心配していたのだが……やはり……」
村長はまだ五十歳にはなっていないようだが、何となくやつれているように見えた。
「あまり驚かないんだな。こうなることがわかっていたのか?」
村長は、思い詰めた表情でじっと手の中の指輪を見つめている。
「私は止めたんだ。危険な真似はするなと……」
「危険な真似、ねぇ……」
エイシスの勘が「これは金になる」と告げていた。
「村からすぐの山に、そんな危険があるのか? 見たところ、ずいぶんと困っているようじゃないか。俺なら力になれるかもしれないぜ?」
村長は少しの間エイシスを見ていたが、やがて重い口を開いた。
「最初の犠牲者が出たのは、十日前のことです……」
山へ山菜を採りに行った二人の女が夜になっても戻らず、翌日、無惨に喰い殺された死体となって見つかった。
その翌日には、山へ狩りに行った猟師が戻らなかった。
普段この辺りの山は、狼や熊が出ることはあっても、それで村人に被害が出ることなど滅多にない。
何か、とんでもないものがこの山に居着いたのは間違いなかった。
腕自慢の男達が集まって山狩りを行ったが、その隙に今度は手薄になった村が襲われ、村外れの一軒家にいた母子三人が犠牲となった。
そして今度は、その家から続いていた足跡を追っていった村長の息子とその友人二人が帰らぬ人となった。
「私は、ハシュハルドの街で腕の立つ傭兵でも雇おうかと考えていたのですが、息子は私の制止も聞かず、こんなことに……」
「なるほど、な」
エイシス腕を組んで頷いた。
村長の話は、だいたい彼が想像していた通りのことだった。この辺りではともかく、王国時代の魔物が生き延びているような辺境であれば、それほど珍しくもない話だ。
「俺には、相手がどんな魔物か見当がついている。その予想が当たっているとしたら……そいつを倒すにはちょっとした軍隊並の人数が必要になるぜ」
「軍隊……だと?」
「そうだ、そのくらいすごい奴だ。そこで一つ提案があるんだが」
エイシスがニヤリと笑う。
「俺を雇ってみないか? 俺なら、一人でやれるぜ?」
「なんだと?」
村長は驚いてエイシスを見る。
「軍隊が必要なほどの魔物を、一人で倒すだと?」
「そうだ、俺ならやれる。俺の料金は少々高いが、並の傭兵を十人以上雇うことを考えたらお得だぞ?」
「うむ……」
村長は値踏みするような目でエイシスを見た。
やや、疑わしげな表情をしている。
「確かに、あんたは腕が立ちそうだが……」
「それだけじゃない。俺は昔、同じ魔物と闘ったことがあるんだ。その時は結局、村人が三十人以上死んだな」
「さ、三十人?」
「このままだと、この村もそうなる」
その台詞には、少しばかり脅迫するような雰囲気があった。
尊重は顎に手を当てて考え込む。彼としても、このまま手をこまねいていられない事態であることは間違いない。村長として村人の安全に責任がある上に、大切な息子を失っているのだ。
「報酬は魔物を倒した後……ということでいいかな?」
「構わないさ。但し、一つ条件があるが……村の猟師で、足が速くて魔法が得意な奴を一人貸してくれないか。ちょっと手伝ってもらうことがある」
「いいだろう、すぐ手配する」
「じゃあ、その準備が出来次第出発するとしよう。今夜からは枕を高くして眠れるぜ」
「だといいが」
エイシスと村長は、一緒に家から出た。
家の前では、リューリィがこの家の飼い犬と遊んでいる。
「リュー、行くぞ。魔物退治だ」
その言葉に、リューリィよりも村長が驚いた。
「な……。あんたは、こんな小さな女の子を連れていく気か? 危ないじゃないか。事が済むまでうちで預かってもいいんだぞ」
「いや、駄目だ。今回の件にはこいつが必要なんだ。行くだろ、リュー?」
リューリィは一瞬、耳を疑った。
今、なんて言った?
あたしが必要――?
あたしのこと、子供扱いして馬鹿にしているくせに。
でも本当は、あたしの実力を認めてくれてるんだ――
まったく歯が立たないと思っていたエイシスが、実は自分のことを必要としている。そのことが、彼女の優越感をくすぐった。
リューリィは村長とエイシスの顔を交互に見て、それからできるだけ大人ぶって答える。
「仕方ないなぁ。あたしが必要だって言うんなら、一緒に行ってあげてもいいよ」
「ちょっと! 傭兵っ! いったいこれはどういうことよっ?」
リューリィは下に向かって叫んだ。
「言ったろ、お前が必要だって」
エイシスは上を向いて応える。
リューリィはまたロープで縛られ、大きな樹の枝から吊り下げられていた。
「おい、いくらなんでもこれは……」
エイシスの隣にいた、三十代後半くらいの陽に焼けた精悍な顔つきをした男が、困惑した表情で言った。村長に紹介してもらった腕利きの猟師、セタルカだ。
「だったら、あんたが代わりにやるか?」
「いや、それはちょっと……」
「だろ? 魔物だって肉の軟らかい子供の方が好みだろうし。いいから言った通りにしろよ。一つ間違うと命はないぜ」
「……」
あまり納得した表情ではなかったが、セタルカはエイシスと一緒にその場を離れた。
「いいかリュー、できるだけ美味しそうな素振りをしてるんだぞ」
「できるかっ! バカッ!」
リューリィは足をばたつかせながら叫んだ。しかしどんなにもがいても、しっかりと縛ったロープは切れそうにない。とはいえ、彼女が吊されているのは家の屋根よりも高い枝だから、下手にロープが切れた方が危ない。
時刻は既に夕方、太陽は大きく西に傾いている。
「なにが『お前が必要』よ。ばかぁ……」
リューリィは涙目で呟いた。
何のことはない。魔物をおびき出すための餌の役目だ。
(くそー、これが終わったらぶん殴ってやる!)
どうやってエイシスに仕返ししてやろう。リューリィはその方法を考えるのに夢中になっていた。そのため、周囲の様子がおかしい事に気付くのが遅れた。
ふと気付くと。
何も、音がしない。
虫の音も、小鳥のさえずりも。
森の中は、一種異様な静寂に包まれていた。
(……?)
リューリィが首を傾げるのと同時に、重々しい地響きのような音が聞こえてくる。
(まさか……これが足音?)
その、まさかだった。
背後から聞こえてくる足音は、一定のリズムで真っ直ぐこちらに近付いてくる。
バキバキと、灌木が踏み折られる音。
ガサガサと、何かの巨体が木の枝にこすれる音。
そして何より、周囲に漂う禍々しい気配。
あまり気は進まなかったが、リューリィは脚を大きく振って反動をつけた。蓑虫のように吊された身体が、回転して真後ろを向く。
そこに――
「……!」
恐怖のあまり、声も出なかった。
エイシスには魔物の正体の見当がついていたらしかったが、リューリィには何も教えてはくれなかった。
恐ろしい魔物とは思っていたが、まさかこれほどのものとは。
ゴクリ……。
大きな音を立ててリューリィは唾を飲み込んだ。
そこにいたのは、竜だった。
少なくとも、リューリィの目にはそう見えた。
大きな家ほどもある巨体は漆黒の鱗に覆われ、目だけが爛々と金色に輝いている。
大きく裂けた口は、血の色を連想させる紅。その中に、一本一本が短剣よりも長い牙が、何列にも並んでいる。
「そんな……まさか……」
自分の目が信じられなかった。
竜なんて、いるはずがない。
それは、何百年も前に絶滅したはずの存在だ。
しかし目の前にいる怪物は、どう見ても昔話に出て来る通りの竜に違いない。
「あ……、あ、あたし、美味しくないよ。好き嫌い多いし、野菜あんまり食べないし……」
魔物はその言葉を無視した。リューリィにとっては残念なことに、あまり味にはこだわらない性格だった。
リューリィをひと飲みにできそうな口を開いて迫ってくる。
「ひ……」
思わず目をつぶって、首をすくめる。
しかし次の瞬間、魔物の背中で爆発が起こった。竜の巨体がぐらりと揺れる。
しかし、それで傷を負わせることはできなかったようだ。食事の邪魔をされた魔物は、不機嫌そうな唸り声を上げて振り向いた。
そこに、一人の男が立っている。
「セタルカさん……」
竜に正面から睨み付けられたセタルカは、怯んだ様子で二、三歩後ずさると、脱兎の如く逃げ出した。
竜は、その後を追っていく。
「助……かったぁ」
ふぅっと大きく息を吐き出したリューリィは、思い出したようにきょろきょろと周囲を見回した。
「ちょっと……あの男は何やってんのよ?」
『天と地の狭間に在るもの
力を司る者達よ
我の呼びかけに応えよ……』
大きな樹の陰に立つエイシスは、稀に見る真剣な表情で呪文を唱えていた。
別に、一人で安全な場所に隠れていたわけではない。
『風よりも疾きもの
炎よりも熱きもの
大地よりも広きもの
流れる水よりも清きもの
我が言葉に応え、我の元に集え』
エイシスは、目を閉じた。
遠くから、地響きが近付いてくるのが聞こえる。
ここまでは計画通りだった。
ゆっくりと目を開く。
目の前の山道を、セタルカが必死の形相で駆け抜けていくのが見えた。竜に追われているのだから当然だ。
そのすぐ後ろを、怒りに我を忘れた巨大な魔物が追っていく。
これが、エイシスの狙いだった。
正面からまともに闘って、簡単に勝てる相手ではない。しかし、今なら隙だらけだ。
『――!』
魔物が前を横切るのと同時に、エイシスは魔力を解放する。
次の瞬間、一帯は目も眩むような白い光に包まれた。
光が消えると、エイシスの目の前の風景は一変していた。
鬱蒼とした森は跡形もなく消え去り、地面は想像を絶する高温に融かされて硝子のようになっている。
周囲の樹々は炭になって、白い煙が上っていた。
そして、その中心に『それ』はいた。
金色の瞳で、真っ直ぐにエイシスを睨め付けている。
無傷ではないようだが、あれだけの攻撃魔法の直撃を受けても致命傷は負っていない。
エイシスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「そう来なくっちゃな……。これで終わったんじゃ拍子抜けだぜ」
それは決して負け惜しみではない。
そう、そんな簡単に終わらせてはいけない。
何年も何年も、この日を待っていたのだから。
エイシスが、背に担いだ大剣を抜くのと同時に、魔物の口から青白い炎が迸った。
身体を縛っていたロープを切って、リューリィが無事に地上に降りたのはしばらく経ってからのことだった。
ただロープを切るだけなら呪文ひとつで済むことだが、下手なことをして落ちたりしたら、怪我で済む高さではなかったからだ。
魔物がセタルカを追っていった直後、鼓膜が破けるほどの爆発音が響き、その後もしばらくは魔物の咆哮や爆発音、大木が倒れる音などが遠くから聞こえていた。
しかし、いつの間にかそんな音も聞こえなくなり、森は静寂に包まれている。
(さてと……これからどうしよう?)
リューリィはきょろきょろと周囲を見回した。
何も動くものは見えない。
(ひょっとして、傭兵も殺されちゃったのかなぁ)
だとしたら、リューリィは自由の身ということだ。
そうでなかったとしても、今のエイシスに彼女を追ってくる余裕などあるまい。ふもとの村で、事情を話して助けてもらえばいい。
(……だよね?)
リューリィはしばらく考えてから歩き出した。
つい先刻まで、激しい闘いが繰り広げられていたはずの場所に向かって。
リューリィは間もなく、探していた相手を見つけることができた。
その一帯では大木が薙ぎ倒され、地面には竜の炎が舐めた痕と思われる黒い帯が幾筋も走っている。
そして、わずかに焼け残った草の上に残る血の痕。
真っ赤な人間の鮮血。
やや紫がかった魔物の体液。
そんな血の痕を追っていくと、幹が半ばで折れた巨木の根元に、寄りかかるような姿勢で座っている男の姿があった。傍らに、大きな剣が投げ出してある。
(まさか……)
急に、鼓動が早くなるのを感じた。
緊張した面持ちで、リューリィは恐る恐るその人影に近付いていく。ぴくりともうごく気配がない。
「……傭兵……死んじゃったの?」
「誰が死ぬか、馬鹿」
エイシスは、ゆっくりと顔を上げた。
その額から、一筋の血が流れている。
「何しに来た?」
「……あんたの負け様を見物しようと思って。偉そうなこと言ってたくせに、ボロボロじゃない」
「別に、まだ負けたわけじゃねーよ」
そう言ってエイシスは血の混じった唾を吐き出す。
「疲れたからちょっと休んでただけだ。向こうだって無傷じゃないしな。お互い休憩の時間ってわけだ」
とはいえ、エイシスの傷が浅いものでないのも確かだ。いますぐ命に関わる、というほどではないようだったが、さりとてかすり傷でもない。
リューリィは少しショックを受けていた。
エイシスが生きているとわかった時、思わずほっとした自分の心に。
(どうしてあたしが……)
手を伸ばして、エイシスの額の傷に触れる。
そうして、小さく治癒の呪文を唱えた。
リューリィの魔法では出血を抑えるのが精一杯だったが、それでも何もしないよりはましだろう。
「ねぇ、傭兵……?」
エイシスの傷の手当をしながら、リューリィが訊ねる。
「何だ?」
「あれ……いったい何? まるで、竜みたいだった……」
何百年も前に滅びたはずの竜。
それが今の時代に生き残っているとは信じられない。
もっと人間の街から離れた……例えばこの大陸を分断する大山脈の向こうなら、ひょっとしてそんなこともあるかもしれない。しかし人間の多いコルシア平原で、竜が人知れず生き残っていたなんて考えられない。
「あれは、亜竜……だ」
「亜流?」
「亜竜。遠い昔、王国時代に人間の手で造り出された魔物だよ」
今から千年以上昔、現在『王国時代』と呼ばれている時代。
既に失われてしまった高度な魔法技術がまだ現実のものであった時代。
優れた魔法学者達は、この世界の成り立ちを知ろうとしていた。
自分たちが住む星のこと、宇宙のこと、そして生命のこと――
生命の根元を探っていた学者達は、やがて新しい生命を造り出す術を手に入れた。
次々と、これまで存在しなかった生物が生み出された。
あるものは単に学術的な好奇心から、あるものは生命の成り立ちを知るための実験として、そしてあるものは――
兵器、として。
魔法生物学の研究者達の最終目標は、この星で最強の存在『竜』を越える能力を持った生命を生み出すことだった。
結論からいうと、その試みは成功しなかったのだが、目標にかなり近付いた研究成果もあり、その末裔こそが現存する亜竜だった。
「現在より遙かに進んだ魔法技術があった王国時代でさえ、竜に勝てるのはほんの一握りの竜騎士だけだったんだ。竜騎士の魔法が失われた今の時代、たとえ本物の竜に及ばないとはいえ、亜竜を倒せる人間なんかそうそういないさ」
「あんたやっぱりバカだよ」
リューリィはきっぱりと言い切った。
「そんな怪物相手に、一人で闘いを挑むなんて」
「俺は強いからな」
エイシスはニヤリと笑うと、今まで寄りかかっていた樹の幹に手をついて、身体を支えながら立ち上がった。
「さて……少し休んだことだし、そろそろ決着つけるとするか。リュー、お前はもう行っていいぞ」
「え?」
「ここにいると危ないからな。先に村に戻ってろ」
先に、村に戻ってろ?
リューリィは首を傾げる。
なんて図々しいんだろう。
先に戻っていろとは、つまり「俺が戻るまで待ってろ」ということだろう。
リューリィには別に、そうしなければならない義理はない。
何度も逃げようとしていたリューリィが、エイシスの言葉に従って待っているとでも思っているのだろうか。
エイシスの本心を計りかねて戸惑いながらも、リューリィはその場を離れて山道を下っていった。
やがて背後から、また魔物の咆哮が響いてきた。
再び、闘いが始まったのだ。
魔物の咆哮が、魔法の爆発音が、谷間にこだまする。
リューリィは立ち止まって背後を振り返った。
(傭兵……勝てるかなぁ……)
多分、難しいだろう。
エイシスは傷を負っていたし、かなり消耗もしていた。
魔物がどの程度のダメージを受けているのかはわからないが、長引けば長引くほど人間の方が不利なのは明らかだった。
亜竜が本当に竜に近い力を持っているとしたら、今の時代に一対一で勝てる人間などまずいない。
それは分かり切ったことなのに、どうしてエイシスは無謀な闘いを挑むのだろう。
(……あたしには関係ないや。とにかく、これで自由の身になれたわけだし)
リューリィはまたふもとの村へ向かって歩き出そうとした。
(だけど……)
何故か足は動かず、リューリィはもう一度後ろを振り返る。
(……これで、また独りぼっちだ……)
既に陽は暮れて、森の中は薄暗くなりつつあった。
日中は好天だったにも関わらず、夕方から急に曇が多くなり、今にも雨が降り出しそうな空模様になっている。
周囲は、また静かになっていた。
今度こそ、決着がついたのだろうか。
魔物に見つからないように用心深く歩いていたリューリィは、小さな崖の下で倒れているエイシスを見つけた。
「……、やっぱり負けてンじゃない」
まだ息があることを確認したリューリィの口から、思わず憎まれ口が飛び出す。
「……なんで戻ってきた?」
微かに目を開いて、エイシスが訊く。
「先刻言ったでしょ。あんたが無様に負けるところを見物に」
「残念だったな、最後に勝つのは俺さ」
「無理だと思うけど……」
リューリィはエイシスの傍らにしゃがみ込むと、傷の手当を始めた。
いくら止血をしたところで、既に失われた分の血はどうにもならないのだが、何もせずにはいられない。
「ねえ、傭兵……」
「ん?」
「どうして、こんな勝ち目のない闘いをするの? あんたらしくないよ」
「そうかな……」
「なんだか、妙にこだわってるみたい。何か特別な理由でもあるの? 亜竜に恨みがあるとか」
「別に」
エイシスは否定したが、リューリィはその言葉が真実ではないと、直感的に感じていた。
エイシスが生まれ育ったのは、ここよりもずっと北の山中にある寒村だった。
人口は百人にも満たない小さな村。
村人達は、主として山で獣を獲って生計を立てていた。
その村が恐ろしい魔物に襲われたのは、エイシスが十二歳の頃だ。
誰も今まで見たことがない、強大な魔物。
犠牲者は最終的に三十人を越え、その中にはエイシスのたった一人の肉親であった兄も含まれていた。
もう、村を捨てるしかないのか……。村人達がそんな思いを抱き始めた頃、偶然村の近くを通りかかった旅の魔術師が、一昼夜に渡る死闘の末に魔物を倒して村を救ってくれた。
闘いで傷を負った魔術師は傷が癒えるまで村に滞在したのだが、その間、エイシスは魔術師から多くの魔法を学んだ。
彼は、強くなりたかった。
本当は、自分の手で兄の仇を討ちたかった。
しかし彼にはその力がなく、魔術師が亜竜と闘っているのを、ただ見ているしかできなかった。
それがたまらなく歯痒かった。
だから、強くなろうと決めた。
そして、強くなりたいのにはもう一つ理由があった。
彼は、村を出るつもりだった。
この魔術師と一緒に、
そのためには、強くなければならなかった。
足手まといにならないくらいに。
共に闘えるくらいに。
その魔術師は、フェイリア・ルゥ・ティーナという、まだ若く美しい女性だった。
それが、エイシスの初恋だった。
(ここで亜竜を見るまで、こんなことすっかり忘れていたな……)
リューリィが傷の手当をしている間、エイシスはぼんやりと昔のことを思い出していた。
彼には、亜竜を倒さなければならない理由があった。
兄と、大勢の村人達の仇。
そしてなにより、そうすることがフェイリア・ルゥを越えた証なのだ。
(しかし……こいつに話すようなことでもないよな)
だから、エイシスは何も言わずにいた。
一時ぱらついた雨は上がり、山中には深い霧が立ちこめていた。
空はすっかり暗くなり、霧を通してぼんやりとした月明かりだけが周囲を照らしている。
雨で匂いがかき消され、自分に傷を負わせた相手を見失って苛ついていた亜竜の目の前に、不意に人影が現れた。
手にした大剣は霧に濡れて、月明かりを反射して光っている。
「さぁて、今度こそ決着をつけようか」
エイシスはニヤリと笑う。
魔物の目が、妖しく金色に光った。
リューリィはその時、高い樹の上にいた。
小さい頃から樹登りは得意だった。
手には、槍くらいの長さの、棘がたくさん生えた真っ直ぐな木を持っている。
傷の手当を終えた後で、エイシスが彼女に言ったのだ。
「初めて会った時のあの罠、今ここで作れるか?」
「え? 作れるけど……人間相手ならともかく、あんな化け物相手に役には立たないよ」
リューリィが作った罠は、彼女の村の猟師達が使っていた獣獲りの罠の応用で、殺傷能力を発揮するのはせいぜい小型の熊くらいまででしかない。巨大な亜竜相手では、相手はかすり傷程度にしか感じまい。
「そうでもないさ。矢にアプシの樹を使えば」
アプシは山中に自生する棘の多い樹で、大人の背丈を超えるくらいまではほとんど枝を出さず、真っ直ぐな槍のような形に生えるのが特徴だ。
アプシの樹には不思議な性質があり、魔物を遠ざけたり、樹を手にした者の魔力を高めたりする。
「そりゃあ、アプシの矢ならいくらかマシかもしれないけど……そのくらいで倒せるような相手じゃないでしょ?」
「上手くやれば倒せるさ。実際、フェイリアもアプシの槍を使った」
「え?」
「いや、何でもない」
リューリィはできるだけ下を見ないようにしながら罠を作っていた。
なにしろ、あの大きな亜竜を頭上から狙わなければならないのだ。罠はさらに高いところに仕掛けなければならない。
うっかり落ちたら、怪我で済むような高さではない。
木の枝にロープを何本も結び、それにアプシの矢を取り付ける。
作業の間、リューリィは何度も棘を手に刺してしまい、掌は血塗れだった。
アプシの魔力は無数に生えた棘に宿っているため、取ってしまうわけにはいかない。
落ち着いていればそんなこともないのだろうが、不安定な高所での作業の上、一刻も早く罠を作り上げようとリューリィは慌てていた。
リューリィの準備が遅れれば、それだけエイシスの身に危険が及ぶことになるのだ。
何度も手を刺し、目に涙を浮かべながら罠を作り上げたリューリィは、急いで鋭い口笛を吹いた。
やがて森の中から。エイシスと、彼を追う巨大な影が姿を現す。
先刻の傷が開いたのか、それともまた傷を受けたのか、エイシスはひどく出血している。
しかしそれは相手も同じだった。
魔法の炎で焼かれた傷、大剣で切られた傷。負けず劣らず重傷のようだった。
エイシスも、魔物も、傷のためかそれとも疲れ切っているためか、足元がふらついている。
(傭兵、早く! こっち!)
リューリィは叫びそうになるのを辛うじて堪える。
ここに彼女がいることを気付かれてはいけない。
エイシスは、魔物を罠の下に誘導しようと少しずつ後ずさる。
突然、魔物の口から青白い光が迸った。エイシスは横に身をかわす。
光は一瞬前まで彼がいた空間を貫き、その地面を赤く溶けた液体に変え、高熱は周囲の霧を蒸発させた。
亜竜の炎をかわしたエイシスは、一気に間合いを詰めると、魔物の首の付け根を狙って剣を突き出した。
一瞬早くそれに気付いた亜竜は、丸太のような前脚でエイシスを殴りつけるが、エイシスは剣でその攻撃を受け止める。
(すごい……でも、そんなことやってないで早くこっちに誘い込みなさいよ!)
リューリィは息を飲んだ。
実際にエイシスが亜竜と闘っているところを見るのは初めてだった。
確かに、口先だけではない。自分より何十倍も大きな魔物を相手に、互角に近い闘いを続けていた。
(もう! 早く……)
エイシスは魔物の顔面に炎の魔法を放ち、相手が視界を奪われた隙にリューリィが隠れている樹の下へと向かう。
しかし亜竜が再び吐いた炎は、その進路を妨害する。
(早く……早く来て!)
エイシスはそれでもなんとか、少しずつ魔物をこちらに誘導してくる。
リューリィは、手にした短剣を、罠の引き金となるロープに押し当てた。
エイシスが、樹の真下まで来る。
(もう少し……もう少し……)
掌の汗で短剣が滑りそうになり、両手でしっかりと握り直す。
もう少し……
「リュー! 今だ!」
エイシスが叫ぶのと同時に、リューリィは短剣を引いた。
ブッ
太い樹の枝を引き絞った弓を繋ぎ止めていたロープが切られる。
ヒュッ!
放たれた槍が風を切る音は、魔物の叫びにかき消された。
狙い違わず、槍は魔物の首に突き刺さっていた。
「やった!」
リューリィが叫ぶ。
一瞬、苦しそうな声を上げた魔物が樹上を見上げる。
「……!」
リューリィとまともに目が合った。
この時魔物は、今まで闘っていた敵の存在を忘れた。
そして、その隙を見逃すエイシスではなかった。
意識を集中し、呪文を唱える。
『天と地の狭間に在るもの
力を司る者達よ
我の呼びかけに応えよ』
怪我と疲労のため、意識が遠くなる。
『我は命ずる
力ある言葉に従い
汝らの力を解き放ち
数多の世界より
我の元に届けんことを』
だが、まだ倒れるわけにはいかない。
今こそ、フェイリアから学んだ魔法を、その全てを――
『フェイリア・ルゥ・ティーナの名において命ずる
我の前に立ち塞がる者に
滅びの審判を下さんことを』
魔物は、上を向いている。
その口が開き、喉の奥に青白い炎が生まれる。
『――雷よ!』
エイシスの周囲の空間から、何十条もの稲妻が放たれた。
それは一点に集中し、自然の落雷を何百も集めたほどの強大な雷撃となって、魔物に突き刺さった槍に命中する。
細いアプシの樹はその強大な魔力の負荷に耐えきれずに、たちまち燃え上がる。
だが、その一瞬で十分だった。
アプシを伝わる魔力は増幅され、しかも亜竜の固い鱗に妨げられることもなく、直接魔物の体内へと流れ込んだ。
魔物は絶叫した。
しかし、その叫びは長くは続かない。
内蔵をずたずたに引き裂かれ、全身から血を噴き出しながら、魔物は地響きを立てて倒れた。
最後の力を使い果たしたエイシスは、今にも倒れそうな身体を意志の力で支えながら、魔物に近付いていく。
魔物は、まだ、生きていた。
全身を痙攣させながらも、その目はまだ光を失ってはいない。
エイシスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
魔物の首に、アプシの槍の根本の部分が焼け残っていた。
エイシスは棘が手に刺さるのも気に留めずに、それを掴んで引き抜いた。
「……そうとも、息絶える最後の瞬間まで、生きることを諦めずに闘う……そういうものだよな」
エイシスは体重をかけて、魔物の目を狙って槍を振り下ろした。
瀕死の魔物は、微かに声を上げる。
目に突き刺さった槍に向かって、エイシスはとどめの魔法を放とうとして……
不意に、視界が暗くなる。
一瞬、力が抜けて倒れそうになった彼の身体を、小さな手が支えた。
「これ以上は無理だよ……。あたしが、やろうか?」
「馬鹿言え」
エイシスはリューリィの手を振り解いた。
「これは……俺がケリをつけなきゃならないことだ」
「……じゃあ、あたしも手伝う」
二人は、声を揃えて呪文を唱え始めた。
二人が知っている精霊魔法の呪文は、同じものだった。
『天と地の狭間にあるもの
力ある者達よ
我の言葉に応え、我が元に集え……』
まばゆい光が生まれ、巨大な魔物の最後の叫びが山々にこだました。
それを聞きながら、エイシスはゆっくりと仰向けに倒れる。
「傭兵……大丈夫?」
リューリィは不安そうに覗き込んだ。
「さすがに疲れた……。朝まで、寝かしてくれ」
そう言うが早いか、エイシスは小さな鼾をかき始める。
また、ぽつりぽつりと雨が落ちてきていた。
リューリィは、眠っているエイシスを雨が当たらないように大きな樹の下に引きずっていくと、自分もその隣に腰を下ろした。
明け方まで降っていた雨は上がり、雲の切れ間から陽が射し込んでいる。
リューリィは村の広場で、ぼんやりと空を見上げていた。
「やあ、怪我はなかったかい?」
声のした方を振り向くと、この村の猟師、セタルカが立っていた。
「おじさんも」
リューリィが微笑む。
セタルカはエイシスに言われた通りに、エイシスと魔物の闘いが始まると同時に村へ戻ったからもちろん無傷だ。
「あの男は村長のところか?」
「うん、今回の仕事の報酬を貰うんだって」
「大したものだな……あの巨大な魔物を本当に倒してしまうなんて。しかし、性格にはちょっと問題があると思わないか?」
「そうだね」
リューリィは頷いて、くすくすと笑う。
「笑い事じゃないぞ」
セタルカが怒ったように言う。
「小さな女の子を、魔物をおびき出す餌に使うなんて、まともな人間のする事じゃない。そもそも、あの男とリューリィはどういう関係なんだい? 見たところ、兄妹というわけでもなさそうだが」
「違う、赤の他人。ちょっと訳アリで一緒にいるだけ」
「リューリィの家族は?」
「いない」
「だったら……」
セタルカは小さく咳払いをしてから言葉を続けた。
「リューリィさえよければ、このまま村にいてもいいんだぞ」
「え?」
リューリィは驚いてセタルカの顔を見る。
「うちにはリューリィより少し小さい男の子がいるが、もう一人子供を養うくらいの稼ぎはある。余計なお世話かもしれんが、ああいった傭兵と一緒にいるのは、子供にとっていいことではないと思う」
「そうだね……」
ここでうんと言えば、リューリィには家と、家族ができる。
何も考えることなどないはずだった。
しかし……
エイシスにとって、彼女は大切な金づるなのだ。
それを簡単に手放すはずがない。
そう考えるリューリィだが、しかし、それは言い訳だった。
「リュー、行くぞ!」
村長の家から出てきたエイシスが呼んでいる。
その腕や肩には厚く包帯が巻かれているが、その割には元気そうだ。
リューリィは立ち上がった。
「ありがと。おじさんっていい人だね」
セタルカに向かって小さくお辞儀をする。
「リュー! 何やってんだ、さっさとしろ!」
「いま行く!」
エイシスに向かって叫んでから、リューリィはもう一度セタルカに向き直る。
「でも……あたし行かなきゃ」
「どうして……」
セタルカは心底意外そうな表情をする。
「だって、あいつに昨日の仕返しをしなきゃならないもの」
リューリィはそう言ってペロッと舌を出すと、エイシスの方へと駆け出した。
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