ハシュハルドは、陸路と水路、二つの交易路が交わるところに発展した、この辺りではもっとも大きな街だ。
石造りの大きな建物が建ち並び、大通りはたくさんの人で賑わっている。
田舎育ちのリューリィは、こういった都会を見るのは初めてで、物珍しそうに周囲を見回していた。
「何きょろきょろしてんだ。さっさと来い」
エイシスはこの街には詳しいようで、込み入った裏路地を迷うことなく歩いて行く。都会の珍しい風景に気を取られていたリューリィは、どこに向かっているのか深く考えずについていった。
そこは華やいだ大通りに比べると、やや薄汚れた雰囲気の漂う裏通りだが、人通りは多くこれはこれでまた別の活気がある。
やがて、ひとつの建物に入っていった。
酒場なのだろうか、幾つか並んだテーブルでは、数人の男たちが酒を飲んでいる。
あまり、柄のいい連中ではない。街の外で会ったら絶対山賊と間違うだろうな、とリューリィは思った。
店の奥にいた、四十歳くらいの痩せた小柄な男が、エイシスに気付いて立ち上がる。
「よぉ、久しぶりだな。まだ生きてたのか」
「ラカン、あんたもなかなかしぶといな。景気はどうだ?」
「まあまあ……かな。まあ座れよ。ビールでいいか?」
親しげに言ってから、ラカンと呼ばれたその男は、エイシスの後ろで小さくなっている女の子に気が付いた。
「エイシス、お前にしちゃあ珍しいもの連れてるな。お前の子か?」
「馬鹿言え。だとしたら、俺が十二の時のガキってことになるじゃねーか」
「お前が女を知ったのはそのくらいの歳だろう」
「惜しいな、十三だよ」
エイシスが腰を下ろすと、ラカンはビールを二杯と、ミルクを注いだカップをテーブルに置く。
「じゃあ、いったい何だ?」
エイシスはすぐには答えず、さも旨そうに一息でビールを飲み干すと、ジョッキをテーブルに置いてから口を開いた。
「ここに来る途中で拾った。戦争で故郷の村を失い、身寄りもないそうだ」
「なるほど、それでここに来たのか」
「あんたなら、こーゆー商品を高く買ってくれる客を知ってるんじゃないかと思ってね」
「……っ!」
リューリィは一瞬、自分の耳を疑った。
目の前が真っ暗になり、ミルクのカップを落としそうになる。
まさか、そんな。
確かに、最初に会った時、エイシスはリューリィを売り飛ばすと言って連れてきたのだが。
まさか、本当に?
別に、エイシスが冗談を言ってると思っていたわけではない。初めの頃は、リューリィも本当に売られると覚悟していた。
だけど……。
蹴られたり魔物の餌にされたり、いろいろとひどい目にも遭ったけど、ここ何日かは二人の間はとても上手くいってると思っていた。
こうしてエイシスと一緒に旅をしているのが、楽しいと感じるようになっていた。
なのに……なのに。
いや、エイシスはそういう男だ。
そんなこと最初からわかっていたはずだ。
わかっていたはずなのに。
どうして、こんなに悲しいのだろう。
どうして、さっさと逃げなかったのだろう。
あの、亜竜と闘っていた時なら、いくらでもチャンスはあった。
その気になれば、亜竜との闘いで力尽きていたエイシスを殺すことだってできた。
元々、自分はこの男を殺すつもりだったのではないか。
なのに、どうして。
どうして、こんな男と一緒にここまで来てしまったのだろう。
「ふむ、なかなかの上物だな。いくらで売る?」
ラカンがじろじろとリューリィを見る。
「二千」
とエイシス。ラカンが目を丸くした。
「おいおい、無茶言うなよ。いくらなんでもそんなに出す奴はいないぞ」
「見ての通り、滅多にいない上玉だ。健康だし、意外と頭もいいし、手先も器用だ。磨けばまだまだ光る素材だぞ」
「それにしたって、ん……む……」
ラカンは顎に手を当てて唸っている。
「お前のことだ、今回も街に長居はしないんだろう? 千なら、今日中に買い手を見つけてやれるが」
「二千だ」
「むぅ……」
また考え込む。
二千などという金はとても出せないが、かといってこのまま諦めるにはあまりにも惜しい素材だ。子供とはいえこれほどの上玉なら、買い手はいくらでもいる。
「千……二百でどうだ?」
ラカンとしては、かなり譲歩したつもりだった。
内心、千三〜四百までは出してもいいと思ってはいたのだが、それは口に出さない。
これでエイシスも少し値を下げてくるだろう――ラカンはそう考えていた。
傭兵を生業とするエイシスが、こんな女の子をいつまでも連れて歩くわけにもいかないのだ。
結局、どこかで手放すしかない。
多分エイシスも、こちらが本当に二千も出すとは考えていまい。
いったい、どのくらいで値が折り合うか。それが、商売の駆け引きだ。
だが、予想に反してエイシスは黙って席を立った。
「しばらく、ウェイズのおやっさんのところにいるから、気が変わったら連絡をくれよ」
そう言うと、リューリィの手を引いて店から出ていった。
表に出たところで、リューリィは呆然と立ち尽くしていた。
今日は雲一つない快晴なのだが、今のリューリィにはまるで嵐の直前のような空に見える。
「何ぼんやりしてんだ。さっさと来い」
そんな声も耳に入っていない。
(今ここで逃げ出せばいい……)
リューリィは心の中で呟く。
通りは人も多いし、人混みに紛れれば簡単には追いつけまい。
そうして、寺院にでも逃げ込んで、わけを話して匿ってもらえばいい。
簡単なことだ。
それなのに。
リューリィは唇を噛んだ。
どうして、足が動かないの?
どうして、こんなに膝が震えるの?
どうして……。
泣いちゃ駄目だ。
こんな奴に、涙なんか見られたくない。
こんな奴に……。
「助かったと思ってるか? 値が折り合わなくて」
リューリィはもちろん何も応えない。
ただ黙って、あふれそうになる涙をじっと堪えているだけだ。
「安心するのはまだ早いぞ。この手の商品を扱ってる奴は他にも心当たりがあるからな。だが、その前にメシにしよう。もう昼をかなり過ぎてしまったし」
エイシスは相変わらず、軽薄そうに笑っていた。
どこをどう歩いたのか、リューリィはまったく憶えてはいないが、手を引かれて連れてこられたのは小さな宿屋だった。
一階が食堂兼酒場になっていて、まだ陽は高いというのに、常連らしい老人が二人、隅のテーブルでカードで遊びながら酒を飲んでいる。
カウンターの中には誰もいない。
「おやっさん、いるかい?」
カウンター席に腰を下ろしたエイシスが奥に向かって声をかけると、奥の厨房から、五十過ぎくらいの背の高い男が出てきた。
厳めしい顔つきで、年齢の割には体格が良い。
脚が不自由なのだろうか、歩く時にわずかに右脚を引きずっている。
「おやっさん、久しぶりだな」
「エイシスじゃないか。半年以上も音沙汰なしで何やってた。だいたい……」
そこまで言って、男はエイシスの隣に座っているリューリィに気付いた。
「……まさか、お前の子か?」
エイシスは苦笑する。
「どうしてみんな同じことを言うんだ? ややこしい話は後にして、メシを食わせてくれないか。まだ昼飯を食ってないんだよ」
「まったく……久しぶりに会ったというのに、真っ先にメシの話か」
ぶつぶつと呟きながら、男は厨房に引っ込む。
「あのおやっさん、ウェイズといってな。あんな風体だがメシはすごく旨いんだ」
そう言うエイシスの言葉に嘘はなく、ウェイズが出してくれた料理は確かに美味しかった。もっとも、今のリューリィには食欲などまるでなく、ほんの少しスープに口を付けただけだったが。
「で、この子はどうしたんだ?」
ウェイズはカウンターの中に座り、ビールを飲みながら訊ねる。
よほど腹が空いていたのか、大盛りの料理をがつがつと平らげたエイシスは、ふぅっと大きく息を吐き出した。
「途中で拾ったんだ。戦争で身寄りを亡くしたらしい」
「ふぅむ……」
ウェイズは頷きながら、リューリィではなくエイシスを見て言う。
リューリィは、その目が何となくエイシスを睨んでいるように感じた。
エイシスとは長い付き合いのようだし、ひょっとするとエイシスが何の目的でリューリィをここまで連れてきたのか気付いているのかもしれない。
「お前さん、名は何という?」
ウェイズはリューリィに向き直った。
「リューリィ……リン」
小さな声で応える。
「この先、行く当てはあるのかね?」
リューリィは首を横に振った。
それに、リューリィのこの先を決めるのは、彼女自身ではなくエイシスだ。
「だったら、儂の娘にならんか?」
意外なウェイズの言葉に、びっくりして顔を上げる。
「儂は五年前に女房に先立たれ、一人きりの娘も去年嫁いでいってしまった。それからというもの、どうも生活に張りがなくてな……。家族がいれば、と思うんだよ。無論、お前さんさえよければ、だがね」
「でも……」
リューリィはちらと隣のエイシスの表情を伺った。
エイシスは黙ってビールを飲んでいる。
心なしか、その表情は不機嫌そうに見えた。
何も、言わないのだろうか?
もしここでエイシスが反対したら、リューリィはそれに逆らうことはできなかったろう。
しかし、彼は何も言わない。
リューリィはじっとエイシスを見ていた。
「何だよ?」
リューリィの視線に気付いたエイシスが言う。
「……いいの?」
「好きにしろ」
リューリィは決心した。
ウェイズは、顔は少々怖いが根はいい人そうだ。
それに何より、このままでは売り飛ばされて、どこかの金持ちの慰み物にされるだけだ。それだけは、何があっても避けたい運命だった。
もちろんその他に、逃げ出すという手がないわけでもない。
しかし……。
リューリィはウェイズに向かって小さく頷いた。
「よおし、今夜はお祝いだ」
ウェイズが嬉しそうに言った。
「この歳になって、こんな可愛い娘が持てるとは儂は幸せ者だ。今夜は腕によりをかけてご馳走を作るから、楽しみにしていろよ」
笑いながら厨房に向かうウェイズの後ろ姿を、リューリィはぼんやりと見ていた。
普段はやや怖い顔のウェイズだが、笑った時の目はとても優しそうだった。
「……いいの?」
ウェイズに聞こえないように、小さな声でリューリィはつぶやいた。
恐る恐る、そうっとエイシスを見る。
「売り飛ばされて、変態オヤジに身体中舐めまわされる生活のほうがよかったか?」
「そんなわけないじゃない! でも……いいの?」
「おやっさんには昔ずいぶん世話になっててな、逆らえないんだ」
そう言って肩をすくめる。
「ま、おやっさんに嫌われないようにせいぜいいい子にしてるんだな」
「……ん」
これで良かったんだ、とリューリィは思う。
売られることなしに、それでいてこれからもエイシスと会える方法はこれしかなかった。
リューリィが目を覚ますと、カーテンの隙間から眩い朝日が射し込んでいた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。柔らかなベッドで眠るなんて、いったいいつ以来だろう。
(そっか……。あたし、ウェイズさんの子供になったんだっけ)
リューリィ寝ているのは、去年遠くの街に嫁いでいったというウェイズの一人娘が使っていた部屋だった。
これからは、ここがリューリィの部屋となる。
(……なんだか、夢みたい)
ぼんやりと、昨日のことを思い出す。
昨日一日でいろんな事があったように感じる。
昨日の夜は、宴会だった。
近所に住むウェイズの友人やこの店の常連客なども集まって、ずいぶんと賑やかだった。もっともリューリィは途中で眠ってしまったから、宴会が明け方近くまで続いていたことは知らない。
ベッドから降りて、寝間着から自分の服に着替えた。リューリィは寝間着など持っていないから、これもウェイズの娘の物だ。まだ、彼女には少しばかり大き過ぎて、立つと裾を引きずっていたが。
一階に降りると、ウェイズは既に起きていて、朝食の準備をしていた。
「あの……おはようございます」
「おお、おはようリュー。よく眠れたかね?」
「はい、ぐっすりと。それで……あの……」
リューリィはきょろきょろと食堂の中を見回した。
「エイシスなら、もう出発したぞ」
「え? そんな急に?」
それはちょっと意外だった。
エイシスは「金が入ったからしばらく大きな街で遊ぶ」とか言っていたのではなかったか。それなのに、昨日着いたばかりで今朝にはもう旅立つなんて。
なんて、気まぐれなんだろう。
「南のサネンコルで兵を集めているから……とか言ってたな」
「そう……」
ずいぶんと急な話だ。拍子抜けした様子でリューリィは呟く。
「寂しいかね?」
リューリィのために、パンとチーズ、それにスープをテーブルに並べていたウェイズがからかうように言う。
「まさか! 冗談じゃない!」
リューリィは思わず大きな声を出してしまった。
「あんな奴、いなくなってせいせいしてるんだから」
「ほう?」
「あいつってば、どうしてあたしをこの街に連れてきたと思います? あたしのこと、売り飛ばすつもりだったんですよ! おじさんがいなかったらあたし今頃……」
「売り飛ばす? リューを? まさか……」
ウェイズは声を上げて笑った。
「ホントですよ! 昨日、ここへ来る前にホントに人買いのところに連れて行かれたんだから! そこでは値が折り合わなくて助かったけど……」
大きなパンの塊を小さくちぎりながら、リューリィは口を尖らせる。
「エイシスの奴はその時いくらふっかけたのかね?」
「二千……って言ってた」
「だろうな」
「……?」
リューリィはウェイズの台詞の意味が分からずに、ちぎったパンを口に運びかけていた手を止める。
「いくらリューが器量良しでも、それはあまりにも相場を無視した値だな」
ウェイズはそう言って椅子に腰を下ろす。
「どんなにふっかけてもせいぜい千二〜三百、二千などと言って買い手がつくはずがない。エイシスだってそのくらいのことはよく知っておるよ」
エイシスも知っていた?
知っていてなお、絶対に相手が承知するはずのない値を言った?
それは、つまり。
「え……じゃあ……」
「エイシスにはリューを売る気などなかったのさ。からかわれたんだよ。お前さん、なにかあの男を怒らせるようなことはしなかったかね?」
手から、パンがぽとりと落ちた。
しかしリューリィは、そのことに気付きもしない。
「え……そんな……そんな……」
「最初から、うちに預ける気だったに違いないよ。それでこの街に連れてきたのさ。娘が嫁いでから、儂が落ち込んでいることを知っていたしな」
ガタン!
大きな音を立てて、リューリィが立ち上がる。
「あいつが出ていったのって、いつ?」
「夜明けと同時……だな」
「そっか……」
肩を落として、また椅子に座る。
「もう、追いつけないよね」
「一緒に行きたいのかね?」
「ううん……。ただ……あたし……」
リューリィは寂しそうに呟いた。
「……あいつに、お礼も言ってない」
リューリィがエイシスと再会したのは、それから半年くらい後のことだった。
その時、彼女ははいつものようにパン屋へおつかいに行っていた。
近頃、街の様子がどことなくざわついている。リューリィも、その理由は知っていた。
パン屋からの帰り、見覚えのある、広い背中が目に入った。
どくん!
急に、心臓の鼓動が早くなる。
まさか……いや、間違いない、人違いではない。
その、この辺りではあまり見かけない赤毛の男は……。
道端で花を売っている娘をナンパしていた。
……確かに、人違いではない。
ぷぅっとふくれっ面になったリューリィは、足音を殺してそぅっと背後に忍び寄り、エイシスの太股の辺りを思いっきり蹴飛ばした。本当は背中を蹴飛ばしたいところだったが、リューリィの身長ではまるで届かない。
「こんなところで何やってんのよっ?」
「相変わらずきつい性格だなぁ」
半年前と少しも変わらない、にやにや笑いを浮かべてエイシスが振り返る。
「いったい何しに来たのよ」
「それは、この街に住んでるお前らの方がよくわかってるんじゃないのか?」
その言葉に、リューリィの表情が険しくなる。
そう、よくわかっていた。
傭兵であるエイシスが興味を持つこと。
それはつまり、この街が戦場になるということだ。
交通の要衝にあり、貿易で栄えるハシュハルドは、大陸でも珍しい、事実上どの国にも属さない自治都市だ。
これまでにも、この街の富に目を付けて征服しようとした国がなかったわけではない。
近隣のどの国も、ハシュハルドを自分の領土とすることを望んでいる。 だが、それが叶わぬのなら、ハシュハルドの莫大な富が他国に独占されるよりは、これまで通りどの国にも属さない方がましだと考える。
だから、この街はこれまで自治都市でいられた。近隣の国はどこも、ハシュハルドとその周囲の国々を一度に敵に回せるほどの圧倒的な力は持っていなかったから。
だが、今回は事情が違う。
南方で強大な勢力を誇るアルトゥル王国が、長年の大陸南部での戦争にけりをつけ、その軍勢を北に向け始めたのだ。
そして真っ先に目を付けたのが、ここハシュハルドだった。貿易の拠点であるハシュハルドを最初に押さえてしまえば、もう誰もアルトゥル王国の北征を止めることはできない。
既に数万騎の軍勢が本国を発ち、その先鋒は街まで数日の距離に迫っているという。
ここ数日、街から逃げ出す人が後を絶たない。
ハシュハルドにも一応、自衛のための軍隊はあるが、その数はせいぜい五千騎程度。まともに戦えば勝負は見えている。
「やっぱり、戦争になるの?」
リューリィが訊く。
「なるな」
エイシスはあっさりと応えた。
「負けちゃう?」
「まあ、勝負にならん。兵数が違い過ぎるし、アルトゥル軍の強さには定評がある」
ここ数年、南方での戦争を繰り返してきたアルトゥル王国の軍は戦争慣れしており、練度も高い。それに対してハシュハルドの軍は、もう十年以上も小競り合い以上の実戦経験はない。
「この街、どうなっちゃうの?」
「さあ? お前も荷造りをしておいたらどうだ? もっとも、ウェイズのおやっさんは住み慣れたこの街を離れたがらんだろうが」
エイシスの言葉に、リューリィは泣きそうな表情でうつむいた。
その夜は当然、エイシスはウェイズの宿に泊まった。
酒場には他に数人の客もいたが、話題は湿っぽくなりがちだった。
常連客の中にも、リューリィの友達にも、既に街を離れた者もいる。
その夜、真夜中近くになって、リューリィはそっとエイシスの部屋を訪れた。
「どうした、こんな遅くに。子供はもう寝る時間だぞ」
「傭兵は、これからどうするの?」
「明日にでも街を離れるさ。状況を自分の目で確認しようと来てみたが、負けるとわかってる戦じゃ金にならん」
エイシスはぶっきらぼうに答える。
戦に勝たなければ、傭兵は報酬にはありつけないのが普通だ。負けるとわかっている側につく馬鹿はいない。
「おじさんはあたしに、この街を出ておじさんの娘さんのところに行けっていうの。でも、おじさんは街に残るって」
「それで、どうしろっていうんだ? おやっさんをふん縛って街から連れ出せとでも?」
リューリィは一瞬考えるような表情になった。エイシスの言葉を、真剣に検討しているのかもしれない。
「あのね、傭兵……」
部屋の外に声が漏れることを警戒しているのか、リューリィは声を潜めて言った。
「……お願いがあるの」
「お願い?」
エイシスは驚きを含んだ声で訊き返した。あのリューリィがエイシスにお願いとは、いったいどういう風の吹き回しだろう。
「あのさ……ハシュハルドを護って」
「なん……だって?」
一瞬大声を上げそうになったエイシスは、慌てて声を抑えた。
リューリィは真っ直ぐに彼を見つめている。
子猫のような大きな瞳で。
エイシスもリューリィを見ている。
しばらく、沈黙が続いた。
「何を無茶なことを……。いくら俺が天下無敵の傭兵だからって、百や二百ならともかく、万単位の大軍相手に何ができるっていうんだ?」
エイシスの言い分はもっともなことだったが、リューリィはまったく表情を変えない。
じっと、エイシスを見つめている。
「天下無敵かどうかは知らないけど、傭兵が自分で言うほど強いんだったらできるはずだよ。あんたは、その方法も知ってるはずだ」
リューリィは、自分の言葉に確信を持っている様子だった。
エイシスは小さく肩をすくめる。
「俺をそうまで高く評価してくれるのはありがたいが、相手は先鋒だけで一万は下らないアルトゥルの精鋭だぞ。俺に何ができるってんだ」
「敵は一万じゃない、たった一人だよ。わかってるくせに!」
エイシスは少し驚いた。
リューリィの台詞が単なる子供の我が儘ではないと気付いたからだ。
確かに、彼は知っていた。この戦いで、ハシュハルドに万に一つの勝利をもたらす方法を。
そして、彼ならそれができるはずだった。
「アルトゥル軍の強さの秘密は、優秀な将軍と、その命令に忠実な、良く訓練された兵士だって」
「どこで得た知識か知らんが、よく知ってるな。その通りだ。優れた指揮官、その指令を確実に前線に伝える整備された指揮系統、そして、命令を確実にこなす訓練された兵士。この三つが揃ったアルトゥル軍はほぼ無敵だ」
「どれかひとつが欠けたら?」
「意外な脆さを見せることがある。実際、南方戦線でもそういった例は何度かあった」
「だったら相手は一人よ」
リューリィはきっぱりと言った。
エイシスは腕を組んで黙り込む。
最初に会った時から、歳の割には頭のいい小娘だとは思っていた。
それにしても、これほどとは予想以上だ。
だとしたら、残りの問題にも気付いているのだろうか。エイシスはそれを試してみたくなった。
「なるほど、よくわかった。確かに、ハシュハルドに勝ち目があるとしたらこれしかない。だがな……」
エイシスは意地の悪い笑みを浮かべる。
「どうして、俺なんだ?」
「……他に、頼める人がいないもの」
そう言った時のリューリィの口振りは、少し悔しそうだった。弱みを見せたくない相手に頼み事をしているのだから無理もない。
「知っての通り俺は傭兵だ。金で戦争を請け負う……な。そして、これは相当に危険な仕事だ。そのくらいはわかっているだろう?」
リューリィはうなずく。。
「どうして、俺がそんな危険なことをしなきゃならない? 確かに、おやっさんには色々世話になったが、俺は自分の命の方が大事だ。先刻も言ったように、街を離れたがらないおやっさんを無理やり連れ出すくらいなら手伝ってやってもいい。だが、こんな危険な仕事はただ働きの範囲外だ」
「そんなこと……わかってる。傭兵が、金でしか動かないことくらい」
リューリィは思い詰めた表情で言う。
「報酬は、あたしが払う」
「ガキの小遣いで払える金じゃねーぞ」
そんなことはわかっていた。
全て考えた上で、ここへやってきたのだ。
「報酬は、あたしが払う。あたしを売ればいいでしょ。今度こそ、本当に」
「…………」
長い、静寂の時間が流れた。
どれくらい時間が過ぎただろうか、先に沈黙を破ったのはエイシスだった。
表情には出さないが、実際のところ内心かなり動揺していた。それでも何とか、いつも通りの相手を小馬鹿にしたような口調を保つのには成功した。
「……売られるのが嫌で、さんざん俺に手間かけさせた奴の台詞とは思えんね。どうしてお前がそこまでしなきゃならないんだ? おやっさんを連れて、さっさと逃げりゃいいじゃないか」
「おじさんだけじゃ駄目なの。誰も死んでほしくないの。街が戦場になれば、たくさんの人が死ぬもの」
リューリィの目に、涙が浮かんでくる。
泣きそうになりながらリューリィは続けた。
「おじさんに引き取られてから、みんなあたしに親切にしてくれた。近所の人も、馴染みのお客さんたちも、みんな……。だから、おじさんだけじゃ駄目なの! もう、大切な人が死ぬのはイヤなのっ!」
裏返った声でリューリィは叫んだ。
リューリィの故郷の村は戦火に巻き込まれ、今はもうない。彼女の両親はそれ以前に病で死んでいたが、親しかった者たちの多くがその戦争で命を落としていた。
それを目の当たりにしているリューリィには、同じことがもう一度繰り返されるのは耐えられないことだった。
「お願い、傭兵……」
リューリィの目から、涙があふれ出した。
「お願い、みんなを助けて……」
「やれやれ……」
エイシスは溜息混じりに呻いた。
自己犠牲などという言葉は、彼の信条とは相容れない。それでも一応は、リューリィの申し出を頭の中で真剣に検討してみた。
リューリィがいくらくらいで売れるか。
その金は、この危険な仕事に見合うものか。
実際のところ、これより危険な仕事だって請け負ったこともある。これが、彼の傭兵生活の中で最悪の条件の仕事というわけではない。
しかし、報酬の額と危険の度合い以外にも、この仕事には問題があった。やはりこの条件で引き受けることはできない。
「……いや、やっぱり駄目だ。そんなことをしたら、俺はおやっさんに殺されちまう」
「おじさんはあたしが説得する!」
「無理だな」
ウェイズの、リューリィに対する可愛がりようは相当なものだ。それはまるで、一人娘と初孫を合わせたほど、といっても過言ではない。
殺される、というのはあながち冗談ではなかった。
どうしたものだろうか。エイシスは考える。
リューリィにまったく同情しないわけではない。
できることなら、何とかしてやりたいと思う。
だが、可哀想な少女に同情してただ働き、などというのはどうにも自分らしくないように思われる。
そんな甘いキャラクターではない、と。
(他に何か、報酬がありゃいいんだよな……)
そうすれば彼は、自分の行動を正当化できる。もっと、この危険に見合うだけの値打ちのある報酬があれば。
他に何か。
しばらく考えて、ひとつ思い付いた。
その思いつきに問題がないか、もう一度よく検討してみる。
それはとても「彼らしい」考えに思えた。
リューリィは、一大決心の末の申し出を断られて、泣き顔でうつむいている。
「……俺にひとつ、考えがある。条件次第ではこの仕事を受けてやってもいいぞ」
その一言で、リューリィの顔がパッと明るくなった。この表情が次の瞬間にどう変わるか、その反応が何となく楽しみだった。
「リューをどこかに売り飛ばすわけにはいかん。だから、俺が買ってやろう」
えっ? と驚きと疑いの入り混じった表情で、リューリィはエイシスを見る。無意識のうちに、半歩ほど後ろに下がっていた。
エイシスはその様子を見てにやりと笑う。
「もっとも、俺はロリコンじゃないからな。だから、しばらく貸しにしておいてやる」
リューリィにはまだエイシスの意図がわからないようで、小さく首を傾げている。
「そして、お前が十六歳になったら身体で払うというのはどうだ? まあ、おやっさんにバレたら殺されるのは一緒だろうが……よそに売り飛ばすのと違って、黙っていればわからんからな」
そこでやっとエイシスの言うことを理解したのか、リューの顔が真っ赤になった。
恥ずかしいのか、それとも怒っているのか。その表情からはどちらとも言えないが、なんと応えていいのかわからなくて困っている様子だ。
「ただし、ひとつ条件があるぞ」
エイシスは続ける。
「並の女じゃあ、この大仕事の報酬としては役不足だからな。お前が十六になった時、この街で一番の美女になっていること。ま、素材は悪くないから後は本人の努力次第ってところか……。どうだ、約束できるか?」
しばらく、真っ赤になって口をぱくぱくさせていたリューリィだったが、それでもなんとかいつも通りの強気な口調で言い返す。
「本人の努力次第? ば、馬鹿にしないでよね。あたしは今だってハシュハルド一の美少女よ! ただ、ちょっと歳が足りないだけよ!」
「ならいい」
エイシスが笑う。
その様子から馬鹿にされたと思ったのか、リューリィは眉を吊り上げて怒鳴った。
「見てなさい! 六年も経ったら、あたしはこの街どころか大陸一の美女よ! あんたの報酬なんか、利子付きで返してやるんだから!」
吐き捨てるようにそれだけ言って、リューリィは部屋を飛び出していく。
足音が遠ざかり、リューリィの部屋の扉が閉まる音が聞こえると、エイシスはベッドに横になった。
しばらく、くっくっと思い出し笑いをしていたが、やがて真面目な表情になってつぶやいた。
「それにしても……厄介な仕事を引き受けちまったかな……」
実際のところ、この仕事は彼にとってもリューリィが考えているほど簡単なものではなかった。
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