「……そうして次の日の夜、俺はアルトゥル軍の陣に一人で忍び込んだんだ。敵の将軍を暗殺するために」
エイシスは三杯目のお茶を飲み干してカップを置いた。奈子のカップも空になっているのに気付いたソレアが、ポットに手を伸ばす。
「その目的はなんとか果たしたんだが、逃げ出すときに敵に見つかってな……。数百人の兵に囲まれて絶体絶命、となったところにハシュハルドの軍が夜襲を仕掛けてきた。アルトゥル軍の混乱に気付いたんだろうな。おかげで俺は命拾いしたよ。指揮官を失った直後に奇襲を受けたアルトゥル軍は壊滅的な打撃を受けて敗走、ハシュハルドは救われたってわけだ」
「それじゃあ、明日の約束というのは……」
エイシスのカップにお茶を注ぎながらソレアが訊いた。
「リューの十六歳の誕生日だよ。ちょうど夏至の日の生まれなんだ」
意味深な笑みを浮かべてエイシスが言うのと同時に、奈子が大きな音を立てて立ち上がった。
エイシスをじっと睨み付ける。
目が合った瞬間、エイシスの顔からさぁっと音を立てて血の気が引いた。
「こ……」
奈子の全身に、殺気が漂っていた。
「この、女の敵がぁっっ!」
叫びながらエイシスに向かって勢いよく踏み込むと、低い姿勢から肘を上へ突き上げる。
これっぽっちも手加減のない肘打ちを顎に受けたエイシスの身体は一瞬宙に浮き、そのまま後ろに倒れた。
「女グセが悪いのは知ってたけど、まさか十歳の女の子にまで手を出すほどの鬼畜だったとは……」
バキバキと指を鳴らしながら、尻餅をついて口の端から血を流しているエイシスに近付いていく。
目が、完全にイってしまっていた。
「ち……ちょっと待て、それは六年も前の話……今のリューは十六歳、一人前の女だぞ」
生命の危機を感じたエイシスは、慌てて言い訳する。剣と魔法での闘いなら自称無敵のエイシスも、素手では奈子にかなわない。
「同じことよ。この変態がっ! 女をなんだと思ってンのよっ!」
奈子は高く蹴り上げた右足を、エイシスの頭に叩きつける。
血飛沫が舞った。
踵落としで額を割られたエイシスは、床に座り込んだままずるずると後ろに退く。
「お、落ち着け。落ち着いて俺の話を……、うわ――――っ!」
悲鳴は長くは続かなかった。
さらに三発、奈子の渾身の蹴りを喰らったエイシスは、床に大の字になってのびていた。
「ふっ、悪は滅びたわ」
「ナコちゃん……ちょっとやり過ぎじゃない? まあ、死んではいないみたいだけど……」
満足げな奈子とは対照的に、ソレアが少し困ったような表情で言う。
「まだ生きてるの? じゃあ今のうちにとどめを……」
「ナコちゃん!」
エイシスの容態よりも、絨毯を血で汚されることの方が心配なソレアは奈子を止める。
「どうして止めるの? こんな男、今のうちに始末しておいた方が……リューリィだけじゃなく、この世界の全ての女性のためじゃない?」
「あのね、ナコちゃん……ちょっと耳貸して」
ソレアが耳元で何やら囁くと、奈子の顔がかぁっと赤くなった。
「な、何言ってンのよソレアさん! そんなことあるわけないじゃない!」
ひどく慌てた様子で言うと、奈子は居間から飛び出していった。階段を駆け昇る音と、自室の扉をばたんと閉める音が聞こえてくる。
しばらくくすくすと笑っていたソレアは、やがて思い出したように倒れたままのエイシスに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「……取り敢えず……生きてる。おかげで助かったよ。マジで殺されるかと思った……でも、いったいあいつに何を言ったんだ?」
「それは……内緒」
ソレアが、珍しく子供っぽい表情で笑う。
「それより、傷の手当をしてハシュハルドへ行きましょう。ナコちゃんがとどめを刺しに戻ってくる前に」
夏至祭りは、ハシュハルドの街でもっとも大きな祭りだ。
祭りの期間中、街は昼夜問わずの賑わいを見せる。
元々は夏の訪れを祝い、夏の好天と秋の豊作を願う行事なのだが、商業都市ハシュハルドにおいては祭りの起源などはどうでもいいことだ。
祭りの主役は、期間中に選出される『夏至の女王』だった。
それは、ハシュハルドの男達の投票で選ばれる。すなわち、ハシュハルドで一番『いい女』の証だ。
そして今年、女王の王冠を頭上に戴いたのは、夏至の日に十六歳になったばかりの少女だった。
「さあ、来るなら来てみなさい!」
夏至の日の深夜、リューリィは一人で自分の部屋にいた。
まだ祭りの宴は続いているようだが、なにしろ明るいうちから始まった宴である、みんなすっかり酔っぱらっていて、主役のはずのリューリィが抜け出しても誰も気付きもしない。
リューリィは一人、六年前の約束を果たすために待っていた。
夜が更けるにつれて、胸がどきどきしてくる。
エイシスはごくたまにしかこの街を訪れない。
最後に顔を見せたのはもう一年近く前のことだったが、それでもリューリィは、エイシスが今夜やってくることを確信していた。
(あいつが死ぬはずがないし……いや、死んでいたって地獄からやってくるわよ。だって……)
あの根っからの女好きが、こんな美人を抱けるチャンスを逃すはずがない。
エイシスは、約束を守ってこの街を救ってくれた。
だからリューリィも約束通り、この街で一番いい女になった。
夏至の女王に。
そして今日、リューリィは十六歳になった。
何も問題はない。
(あいつがやってきたとして……)
どんな顔をして迎えればいいのか、リューリィはずっと悩んでいた。
自分の気持ちがわからない。
エイシスのことが好きなのか、嫌いなのか。
リューリィは無論、まだ処女だ。
そして今夜、生まれて初めて男に抱かれることになる。
その相手がエイシスであることを、喜んでいる自分がいる。
その一方で、
やはりどこか、納得していない自分がいる。
あんな男の物になるのは癪だ、と。
身体の線が透けるような紗一枚を身にまとい、手には抜き身の長剣を握っているリューリィ。
そのちぐはぐな姿が、今の彼女の心の混乱ぶりを表している。
(……!)
間もなく日付が変わるという頃、誰かが家に入ってきた。
二階への階段を昇ってくる。
養父のウェイズではない。酒好きの養父は、まだ飲み友達と一緒だろう。それに、重々しいその足音は、ウェイズよりもずっと体格の良い男のものだ。
その足音には聞き覚えがある。
リューリィは、掌にじっとりと汗をかいているのに気付いた。
慌てて汗を拭き、剣を握り直す。
(……そんな簡単に、好きにさせてたまるもんか)
エイシスがこの部屋の扉を開けるなり、斬りつけるつもりだった。
もちろん、相手は一流の傭兵だ。このくらい簡単にかわすに違いない。
リューリィには容易に想像できた。
文字通り赤子の手をひねるようにリューリィから剣を取り上げ、そのまま彼女を押したおすエイシスの姿が。
でも、それでいいのだ。
それで、リューリィは納得できる。
あたしは、この男には敵わないのだ、と。
そうしたら、リューリィはエイシスに言うつもりだった。
――ずっと、あなたのことが好きだった
六年前から、ずっと――
そして、扉が開かれる……
エイシスをハシュハルドまで送っていったソレアが自分の家に戻ると、奈子が居間のソファに座っていた。
「ナコちゃん、機嫌は直った?」
奈子はたちまちむっとした表情になる。
「あのね、ソレアさん。何か誤解してるみたいだけど……先刻言ったこと、絶対違うからね。そんなことあるわけないじゃない」
「あら、そうかしら」
ソレアが意地の悪い笑みを浮かべる。
「こーゆー事に関しては、私の勘はよく当たるのよ。大丈夫、内緒にしておいてあげるから」
「違うって言ってるっしょ!」
奈子はむきになって叫ぶ。
ソレアはそれに構わず、くすくす笑っている。
あの時、ソレアは奈子に言ったのだ。
「ナコちゃん、やきもちもほどほどにしないとカッコ悪いわよ」
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