四章


 カンナと出会ったのは、ちょうど一月ほど前のことだった。
 月に一度の忌まわしい出血と腹痛から解放された直後、とある山村で、人を襲っている魔物の噂を耳にした。
 誰かに依頼されたわけではない。
 カムィにとって、すべての魔物は敵であり、狩るべき獲物だった。たとえ依頼がなくとも、報酬がなくとも、人を襲う魔物の噂を聞けばその地へ赴いた。
 それは、魅魔師としては異色の行動といえた。魅魔師は古より、人間に対して必要以上に害をなす魔物のみを狩るものだった。不用心な人間が独りで山道を歩いて襲われたからといって、いちいち相手になどしない。
 それが、遠い昔からの慣習だった。冷たいことかもしれないが、愚か者のために働くほど、魅魔の力を持つ者が多くないのが現実だ。
 カムィだけが例外だった。まったく見境なしに、見つけた魔物はすべて狩ってきた。
 しかしカムィは、襲われた人間や、その遺族のために魔物を狩っているわけではない。
 あくまでも自分のため。自分が魔物を憎んでいるから。
 それだけの理由で、その山を訪れた。
 人間の集落にほど近い、小さな山。
 最近その周辺で、若い娘が数人、行方知れずになっているという。
 魔物の仕業であることはまず間違いない。狼や羆の仕業であれば、普通はそれとわかる痕跡が残る。なんの痕跡も残さずに人ひとりが忽然と消えることなどあり得ない。
 しかし今のところ、誰も魔物の存在を確認した者はいないらしい。どこに潜んでいるのか、正体はなんなのか、一切が不明だ。
 それでも気に留めなかった。
 力の強い魔物ほど、正体を隠している時には人間と区別のつかない姿をとる。それでも魅魔の力を持つカムィであれば、どれほど完璧に擬態していたとしても、魔物は気配でわかる。
 ……はずだった。
 神経を研ぎ澄まし、魔物を捜して山道を歩いてみたが、予想していた以上に気配が薄い。
 二流の魅魔師や魔剣士であれば、既に魔物はこの地を去ったと思ったことだろう。僅かな気配は、魔物の『残り香』でしかない――と。
 しかし、そうではない。カムィにはわかる。
 確かに魔物はこの山中にいる。ただ、普通では考えられないくらい巧みに気配を消しているだけなのだ。
 焦る必要はなかった。付近に魔物がいることさえわかっていれば、いずれは狩りだせる。時間の問題でしかない。いざとなれば、自分の血で誘い出したっていい。余計な雑魚まで誘き寄せてしまうので、これは最後の手段だったが。
 とりあえず、暗くなる前に周辺の地形を把握しておこう。そう思って歩いていたカムィは、途中、木の実を集めている少女を見つけた。
 活発そうな大きな瞳。明るい色の髪。カムィより三、四歳年下と思われる、可愛らしい子だ。
 おそらく、麓の村の娘だろう。
 何人かの娘が行方知れずになっているにも関わらず、死体が見つかっておらず、魔物の姿を見た者もいないためだろうか。遊び盛りの子供たちは、大人がいくら注意してもこっそり山に入っているのだと、先ほど話を聞いた村人が嘆いていた。
 多分、この子もその一人だ。大きな瞳は、いかにも活発そうな、悪戯好きな光を放っている。
 しかし放っておくわけにもいくまい。この山中のどこか、そう遠くないどこかに魔物がいるのは間違いない。それも、人間の娘ばかりを狙う魔物が。
 こんなところに一人でいては、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものだ。
「……木の実拾いか?」
 近づいて声をかける。
「なるほど、大人が山に入らない今なら採り放題だものな。しかし、この辺りには魔物が出るぞ。親に注意されなかったのか?」
 少女は顔を上げてにこっと微笑んだ。可愛らしい、魅力的な笑顔だ。あと何年かしたら、男たちを虜にすることだろう。もっとも今はまだ、子供っぽさ、あどけなさの方が勝っている。
「魔物? 平気だよ。魔物なんて恐くないもん」
 少女はけろっとした顔で言う。魔物による被害を目の当たりにしたことがない者に多い反応だ。魔物のことを「ちょっと恐ろしい獣」程度にしか考えていない。実際には、最下級の魔物であっても、飢えた羆の何倍も危険な存在なのだが、多くの場合、それを思い知るのは既に手遅れになった時だ。
「恐くなくても魔物は魔物だ。お前みたいな子供は、一噛みで喰い殺されてしまうぞ? 木の実ならもう十分だろう。ついて来い、村まで送ってやるから」
 口調はきついが、カムィは本質的に女子供には優しかった。座って木の実を選り分けていた少女に手を差し伸べてやる。
「お姉ちゃん、優しいんだね」
 その手を取って立ち上がると、少女は嬉しそうに笑った。袋の中から、両手いっぱいの木の実を取り出して差し出してくる。
「これ、お姉ちゃんにあげる」
「……いいのか? こんなに」
 人懐っこい性格のようではあるが、それにしてもずいぶんと気前のいいものだ。木の実を受け取りながら、思わず少女の顔を真っ直ぐに見た。
「うんっ。あたしは、もっといいものをもらうから」
「え?」
 大きな瞳が、まっすぐにカムィに向けられている。
「……っ!」
 大きな、黄金色の瞳が。
 亜麻色だったはずの髪も、いつの間にか鮮やかな黄金色に変わっていた。
 脚から力が抜け、その場にくずおれる。身体が熱くなり、呼吸が速くなる。
 油断、だった。
 一瞬前まで、まったく気配は感じなかった。
 そもそも、こんな可愛らしい少女が。
 信じられない。
 少女の姿で人間の女を襲う魔物なんて、見たことがない。
 確かに、力のある魔物は人間と寸分違わぬ姿をとることができる。そうすることで、警戒されることなく人間に近づくことができるのだ。
 獣のように力ずくで襲うなどというのは、下等な魔物のすることだった。男性型の魔物なら、見目麗しい青年の姿で女を誘惑する。女性型であれば、魅惑的な姿態で男を誑かす。恐怖に震えているよりも、快楽に酔いしれている人間の血の方が魔物にとっては美味らしいのだ。
 この辺りで行方不明になっていたのは、少女ばかり。魔物の仕業であれば、それは男の姿をしているはずだった。
 それなのに、まさか。
 こんな、自分よりも年下の、あどけない少女の姿をしているなんて。
 そして、もうひとつ。
 これも初めてだった。これほどの強い魅了の『力』を持つ魔物も。
 程度の差はあれ、ほとんどの魔物は人間を魅了する力を持つ。しかし、並の人間なら簡単に虜にされる力であっても、魅魔の血を持つカムィであれば、いくらかの抵抗力を持っている。
 事実、これまで数え切れないほどの魔物を狩ってきたが、どれほど見目麗しかろうと、どれほど逞しかろうと、彼らに魅力を感じたことなどただの一度もなかった。
 だからこそ、カムィは最強の魅魔師でいられたのだ。
 なのに、
 なのに、こんな――
 どうしたことだろう。
 一瞬、見つめられただけなのに。
 脚に力が入らない。
 身体が熱い。
 鼓動が、呼吸が速い。
 顔がかっかと火照っている。
 これまで一度も感じたことのない感覚だった。
 楽しそうに笑う少女の口元から、鋭い牙が覗いている。紛れもなく魔物だ。どんなに憎んでも憎んでも足りない宿敵のはずだ。
 なのに。
 この少女は、とても可愛い。
 とても愛おしい。
 嬉しそうな顔が近づいてくる。
 鋭い牙が光を反射している。
 あの牙を、この肌に突き立てて欲しい。この血を啜って欲しい。
 そうしてもらえたなら、どんなに幸せだろう。
 意識の奥底から、そんな想いが湧き上がってくる。
「いい匂い」
「……ひっ……ぃあっ!」
 首筋に鼻が押しつけられる。それだけのことで、身体が弾むほどに震えた。
 ぺろりと舐められる。舌が触れた部分が灼けるように熱い。だけどそれは不快ではなく、むしろいつまでも楽しんでいたいと思う感覚だった。
「……あ」
 鋭い爪が、カムィの服を裂いていく。魔物の爪はまるで刃物のようで、音もなく切り裂かれた布の下から、白く丸いふくらみが顔を覗かせる。
「えへへっ、すっごくキレイな身体」
「やっ……ぁっ」
 焦れったくなったのか、魔物は布を掴むと一気に引き裂いた。低い悲鳴のような音を立てて、服が剥ぎ取られる。上半身がすべて露わにされる。下半身もすぐに同じようにされた。
 指が、直に触れてくる。
 首に、肩に、鎖骨に。
 その度に身体が痙攣する。
「……う……ぁっ」
 鎖骨の上から胸へ、ゆっくりと滑る指先。
 長い爪は剃刀よりも鋭く、滑らかな皮膚を浅く切り裂いていく。
 血が、一直線に並ぶ深紅の珠となって浮き出てくる。
「……ぁっ、あぁっ……う、ぅっ」
 微かな痛み。
 それさえも快感だった。
 傷口に舌が触れてきた時には、意識が飛びそうになった。
「ふわぁ……すっごぉい、甘くて美味しい血! こんなの初めて!」
 興奮して叫ぶ魔物。
 爪が、何度も何度も肌の上を行き来する。
 首筋。
 腕。
 胸。
 腹。
 腿。
 ぷつぷつと浮き出てくる血の珠を、ひとつひとつ丹念に舐め取っていく。
 そのひと舐めごとに、カムィは悲鳴を上げた。
 舌先がそっと触れる――それだけのことなのに、力いっぱい殴られる以上の衝撃だった。気を失いそうになる。しかしあまりにも強すぎる刺激は、失神することすらことすら許してくれない。
「いやぁっ……やぁっっ!」
 熱い。
 身体が燃えているように熱い。
「やめっ……ひぃぃっ、やぁっ、なに……これっ! い、いやぁぁっ!」
 汗が噴き出してくる。特に下半身が、不自然なほどに濡れているように感じる。これは本当に汗なのだろうか。
「まだまだ、これからだよ? 美味しい血のお礼に、人間同士じゃ絶対に味わえない、本当の快楽をあげる」
 魔物は喉の奥でくっくと笑った。
「……気持ちよすぎて、死んじゃうかもしれないけどね」
 カムィの両脚を抱え、その間に顔を埋めてくる。
 女の部分に、鼻先が、唇が、そして舌が触れる。
「――――っっっ!」
 声も出せなかった。
 息をすることすらできない。
 全身の筋肉が硬直する。
 声にならない絶叫。
 肺の中の空気を最後の一滴まで絞り出す。
 だけど、まだ終わらない。
 それはまだ、始まりに過ぎなかった。
「……やっ……め……、や……ぁ……っ! ――っっ!」
 身体の中に侵入してくる異物。やや遅れて、それが魔物の指だと気づいた。
 逃れようにも、身体が動かない。
 いや、下半身はカムィの意志を無視して小刻みに蠢き、その指を迎え入れようとさえしている。
 一瞬の痛み。
 身体が引き裂かれるような感覚。
 次に襲ってきたのは、言葉では表しようのない……悦楽、だった。
 初めて、だった。
 男女の交わりのことは、一応、知識としては知っている。
 魔物に犯された娘の例は少なくない。魅魔師である以上は避けて通れない話題なのだ。
 しかしもちろん、自分のこととしての経験はなかった。
 容姿は比類ないほどに美しいカムィだったが、幼少の頃から、魅魔の力を伸ばすことと魔物を狩ることだけに己のすべてを費やしてきたのだ。色恋沙汰などにかまけている暇はなかった。
 それにカムィは、もっとも正統な魅魔の血を受け継ぐ家系の、最後の一人だ。魅魔師の中でも特別な家柄であり、近隣の若者たちが気軽に言い寄ってこれるような存在でもない。
 これまで、男性を愛おしいと思う気持ちなど抱いたことがなかった。一人だけ仲のよい、五歳ほど年上の従兄がいるが、それは男と女というよりも、他に身よりのいないカムィにとっては兄のような存在だ。
 だから。
 同世代の娘たちにそろそろ縁談が持ち上がるような年齢になっても、カムィはそうしたことにまったく興味はなかったし、当然、処女だった。
 破瓜の痛み。
 下半身が裂かれるようなその痛みすら、気が遠くなるほどに気持ちよかった。
 だらしなく開かれた唇から、甘い嗚咽が漏れる。涎が滴り落ちる。
「や……ぁ、あ……な、に……」
 生まれて初めての感覚。
 知識としては知っていても、これまで自慰の経験すらなかった。
 快楽。
 悦楽。
 言葉としては知っていても、経験するのは初めてだった。
 よりによって魔物相手に――
 魔物に犯されているというのに――
 身体は、それを悦んでいた。
 それを求めていた。
 腰を浮かせて、くねらせる。魔物の指を、舌を、もっともっと奥深くまで受け入れようとするかのように。
 魔物に犯されている身体の中から、なにかが流れ出してくる。股の間を濡らす。
 そこへ、舌が押しつけられる。
「ふふっ、いい匂い。これがいちばん美味しいんだよね」
「ひっ……ぃぃぃっ! ……っ……ぁっ」
 その部分に、何度も何度も口づけされる。蜜に混じって滴る破瓜の血を啜られている。
「――――っっ!」
 下腹部から始まって頭のてっぺんまでを貫く、快楽という名の衝撃。
 長い舌で、身体の中を舐め回されて、喉が嗄れるほどに絶叫する。
 こんな屈辱はない。
 魅魔師でありながら、為す術もなく魔物に犯されているなんて。
 魔物に犯されて、悦んでいるなんて。
 死んでしまいたい。
 魔物に陵辱されて発狂するくらいなら、いっそ舌を噛んで死を選びたい。
 なのに肉体はカムィの意志に逆らう。
 生き続けたい。
 生きて、この快楽を永遠に味わい続けたい。
 全身の細胞が、そう叫んでいる。
 理性が、自我が、失われていく。
 ただ、肉体的快楽を追い求めるだけの存在に成り下がっていく。
 意識が薄れ、なにも考えられなくなる。
 失神することを拒み続け、快楽を貪り続けてきた肉体に、限界が訪れつつあった。
 それでもさらなる快楽を求めようとする。
 魔物も犯すことを止めようとしない。
「ひっ……い、いぃ――――っ!」
 ようやく意識を失った事は、カムィにとってむしろ救いであった。



「……ぁ……?」
 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
(生きて……る?)
 うまく働かない頭で最初に考えたことがそれだった。
 視力が戻ってくる。
 最初に目に入ったのは、あの、憎き魔物の姿だった。こちらに気がついて、極上の笑みを向けてくる。
「あ、気がついたんだ?」
 今なら、はっきりとわかる。
 これのどこが人間の娘だというのだ。見たこともないほどの強い気をまとっているではないか。
 これは上位の……そう、最上級の魔物だ。
「すごいねぇ、こんな血初めて。身体中から力が湧いてくるの!」
 魔物は妙にはしゃいでいる。機嫌のいい猫のように、目を細めている。
「だからね、すぐには殺さないよ。お姉ちゃんの血があれば、あたしはもっともっと強くなれるもの。しばらくは楽しめるよね、竜族に犯されても発狂しないくらい強いんだから。そんな人間、初めて見た」
「……っ?」
 一つの単語が、カムィの意識を、理性を、そして憎悪を呼び覚ました。
 強い風が霧を吹き払うように、朦朧としたカムィの意識は魔物の言葉で瞬時に明瞭になっていく。
「りゅ……竜……ぞ、く?」
「そうだよ?」
 震える言葉に対する返答は、今ごろ気づいたのか……という呆れ顔。
 得意そうに胸を張る。
「これだけの力、他の何者が持てるっていうの? これは、偉大なる竜の末裔だけに許された力だよ」
「竜……族、だと?」
 もう一度、その単語を繰り返す。
 低い、力強い発音。
 それはもう、快楽に囚われていた先刻までのカムィとは別人だった。



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