三章


 村を後にしたカムィは、山道へと入った。
 陽のあるうちに峠を越えて、次の村に着いておきたい。
 腹が痛い。身体が怠い。それでも道を急がなければならない。
「ねー、カムィ、カムィってば!」
 軽い足取りでついてくるカンナが癇に障る。
「ねー、なにか怒ってる?」
「別に」
 素っ気なく応える。そんな短い返事をすることすら億劫だった。
「怒ってなどいない。いつも通りだろう。お前に愛想よくする理由があるか? 私はもともと魔物が嫌いだ」
 その言葉は事実ではあったが、多少の誇張も含まれていた。最近では、よほど怒らせるようなことでもない限り、カンナにここまで冷たく当たることはなかった。
「もぉ! どーしてそう冷たいかなぁ」
 拗ねる子供のように、ぷうっと頬を膨らませる。そんなカンナを無視して脚を進める。
 いらいらする。
 断続的に続く鈍い痛み。身体の奥深く、まるで内蔵を締めつけられるようだ。
(ああ……そうか)
 今さらのように、無性に腹が立つ理由に思い当たった。この痛み自体が直接的な原因ではない。
 痛みとともに、血が流れていくこと。
 それが許し難いのだ。
 こんな風に流れるべき血ではないのに。
 もっと大切なことに使わなければならない血なのに。
 仕方のないことではある。
 女である以上は避けることのできない、月に一度の宿命。
 貴重な魅魔の血が、無駄に流れていく。
 その事に我慢がならない。
「……ん?」
 突然、カンナが脚を止める。
 軽く上を向いて、犬のように鼻をひくつかせる。
「どうした?」
「血の……匂いがする」
「……け、獣の死体でもあるんだろう」
 内心の狼狽を隠し、適当に誤魔化そうとする。しかしカンナは納得しない。
「えー、違うよ。そんなんじゃない! もっと美味しそうな、あまぁい匂い。これって……」
 急に表情が変わる。ふっと納得顔になると、悪戯な笑みをカムィに向けた。
 目を大きく見開く。
 瞳の色が濃くなる。
「そっかぁ……そうなんだ、カムィ?」
 真っ直ぐに向けられる瞳。
 正面から見てしまった。
 しまった、と思った時には手遅れだった。
「カムィも、人間の『女』だもんね。あたしと出会ってそろそろ一ヶ月……そーゆーこと?」
 光を放っているのではないかと思うくらいに、鮮やかな黄金色の瞳。鋭い視線が、真っ直ぐにカムィを貫いている。
 まともに喰らってしまった。
 カンナの――魔物の、力。
 多くの魔物は、人間を魅了する力を持つ。彼らは人間を力ずくで襲ったりはしない。その瞳を向けられた人間は抗うことができなくなり、自ら進んでその身を差し出すようになるのだ。
 それは、魅魔の力を持つカムィであっても例外ではない。年頃の娘は、魅了の力にもっとも反応しやすくもある。しかも相手は、魔物の中でも特に強い力を持つカンナである。
「う……ぁ……」
 全身を打たれたような衝撃。脚から力が抜け、その場にくずおれる。
 熱い。
 燃えるように熱い。
 身体の芯が火照っている。脚が、腕が、痺れてしまって立ち上がることができない。
 見てはいけない。わかっているはずなのに、カンナの瞳から視線を外せない。
 嬉しそうに、楽しそうに、カンナが覆い被さってくる。胸を掴まれる。
「あっ……やぁぁっ」
 軽く触れられただけで、思いもしない甘い声が漏れた。
 触れられた部分が、痛いほどに熱い。
 服が脱がされていく。
 肌に指先が触れる度に、短い悲鳴が上がった。
 抗うことができない。身体が思うように動かない。意味のある言葉を発することができない。
 いつしか、身につけていたものをすべて剥ぎ取られていた。一糸まとわぬ姿で、下半身まで露わにされてしまっている。今もっとも見られたくない部分まで、カンナの眼前に曝されていた。
「あーあ、こんなに血を流しちゃって、もったいなーい」
「ひっ……!」
 指が、紅く濡れた内腿を滑っていく。
「ゃ……ぁ、いや……ぁ、やぁっ!」
「うそつき」
 経血で紅く染まった指を舐めながら、カンナが笑う。
「あまぁい、蜜よりも甘い匂い。これって、カムィが欲しがってる時の匂いなんだよ?」
「ぅ……っ」
 認めない。認めたくない。
 精一杯の理性を総動員して睨みつける。しかしカンナは怯む様子もなく、にやにやと笑っている。
「怖い顔したって、だぁーめ。ちゃーんとわかってる」
「っ……あぁっ、んっ!」
 腹に唇が押しつけられる。全身に鳥肌が立つ。
 舌先で肌をくすぐりながら、下へ滑っていく唇。
 身体が仰け反る。筋肉が痙攣して、呼吸をするのも苦しい。
「ほぉら、いつもよりずっと敏感になってる」
「あ……、や……め……んっ、くっ……んっ」
 淡い茂みに口づけし、さらに下へと移動していくカンナ。
 そこは……
「やぁ……だ、あっ、い……ゃあっ! だめっ、や……っ!」
 そこは普段でさえ、一番隠したい部分。こんな時であればなおさらだ。
 ただ見られることさえ苦痛なのに、そこを舐められ、あまつさえ経血を啜られるだなんて――
「や……ぁっ、ひっ……ぃんっ、あ……」
 しかも――
「っ……うぅっ……くっ、……あっ」
 それが――
「は……あぁっ、あ……ぁ……」
 こんなにも、気持ちいいなんて――
「あぁっ、あぁ――っ」
 これ以上の屈辱はない。
 なのに、肉体は悦んでいる。与えられる快楽に酔いしれている。
 カンナの長い舌が、中に入ってくる。
 深く、深く。
 子宮から流れ出る血を一滴残らず啜ろうとしている。
 体内で蠢く舌に誘われるように、新たな血が滲み出てくる。
「ねー、気持ちいいっしょ? すっごく濡れてるの。カムィの血と蜜が混じって、もう最っ高に美味しい!」
 カンナは心底嬉しそうだ。幸せそうに笑う口の周りが、べっとりと紅く汚れている。長い舌を伸ばしては、それを舐め取っている。
 それは……
 それはまるで……
 あの、生涯最大の屈辱の日の光景を再現しているような。
「……っ!」
 頭よりも先に、身体が勝手に反応していた。気がついた時には、カンナの顔を力いっぱい殴っていた。 
「いったぁーいっ! なにすん……の……」
 赤くなった頬を押さえて大きな声を上げるカンナ。しかしその声は急速に小さくなり、怯えた表情に変化していく。
「……か……カム……ィ?」
 カムィの表情が尋常ではない。
 怒り。
 憤り。
 普段からカンナに対しては怒りっぽいカムィだったが、この形相はただごとではない。
「……に…も…っ」
 カムィは怒りに身体を震わせていた。怒りのあまり、なかなか言葉が出てこない。
「あ、あの……カムィ?」
 表情を引きつらせ、じりじりと後退ろうとしたカンナは、鋭い眼光に射抜かれて動きを止めた。
「……卑汚いにも程がある……っ! よくも……」
 身体を起こしたカムィは、怒りで自分が全裸であることさえ忘れているのか、身体を隠そうともしない。
 ただ、憤怒の形相でカンナを睨めつけている。
 許せることではない。
 見過ごせるはずがない。
 魅魔師という以前に、女として、年頃の娘として。
「よくも……よくも……っ、赤不浄……のっ」
 ただ魔物に犯されることだって、受け入れられるものではないというのに、汚れの血を直に舐められるだなんて。
 怒りの圧力で、身体が破裂してしまいそうだ。
 大きく深呼吸。しかし、そんなことで落ち着けるはずもない。
 傍らに、脱がされた服が落ちていた。手を伸ばす。指先が愛用の短剣に触れると同時に、それを掴んで投げつけた。
「ひ……っ」
 狙いはわずかに外れ、カンナの頬をかすめた短剣は、背後の樹の幹に深々と突き刺さった。怒りで手元が狂わなければ、刃はカンナの顔を貫いていたことだろう。
 さすがにカンナも冷や汗を流している。地上で最強の魔物の眷属とはいえ、カムィは自分を殺す力を持った、数少ない人間なのだ。
「か、カムィ、落ちついて……あ、いや、やっぱり落ち着かないで!」
 慌てて言い直す。
 普段は一、二滴しか与えられることのないカムィの血。しかし今日は本能のままに、欲望のままに、たらふく貪ってしまった。
 これだけの量の魅魔の血は、カンナにとって、魔物にとって、ある意味致命的ですらある。
 カムィが冷静に意識を集中して『力』を行使したなら――
 たとえ自身の死を命じられたとしても、カンナはその言葉に抗うことはできない。怒りにまかせて短剣を投げつけてくるくらいの方がまだ安全だ。少なくとも即死することだけはない。
 魅魔の力なら、一言「死ね」と命じられるだけですべてが終わるのだ。ただそれだけで魔物の肉体は死滅する。
 カムィが何故これほどまでに怒っているのか、人間ではないカンナには理解できなかった。それでも、普段から怒りっぽいカムィがいつになく烈しい怒りに昂っていることと、その原因が自分の先刻の行為にあるらしいことはわかる。
 これほど烈しい怒りは、初めて出会った時以来だ。あの時は本当に殺されると思った。
 生まれて初めて、死の恐怖に身を震わせた記憶。
 あんな思いは二度とごめんだ。
 狂犬を思わせる、正気を失った眼差し。
 このままではいけない。なんとかなだめなければ生命に関わる。
「カ、カムィ……、ね?」
「……くそっ!」
 深く息を吸い込む。
 視線を真っ直ぐにカンナへと向ける。
 瞳が紅く染まっていた。ごく一部の魅魔師だけが持つ、深紅の瞳。
 それは『力』の証。
「……カンナ!」
 名前を呼ばれる。
 瞬間、カンナは魅魔の力に捕らえられていた。闇の眷属である以上、決して抗うことのできない絶対的な力に。
 殺される――カンナはそう確信する。
 殺してやる――カムィもそう思っていた。
 簡単なことだ。あれだけの量の血を口にしたのだ。
 たったひとつの言霊ですべてが終わる。
 たった一言、「死ね」と。
 そのつもりだった。
 しかし。
「……立ち去れ」
 口から発せられたのは、カムィが望んでいたのとは違う言葉だった。
 いったい、誰の声だ?
 声は、間違いなく自分のものだった。
 なのに、何故?
 何故、思っていたのと違う言葉を口にしてしまったのだろう。
 この卑汚い魔物を、始末するつもりではなかったのか。
 戸惑いつつも、唇は動き続ける。自分の中に別な自分がいるかのように、生ぬるい言葉を紡いでいく。
「立ち去れ! 二度と私に近づくな!」
 操り人形のように、ぎこちない動きで立ち上がるカンナ。カムィの言葉は絶対だ。
「……な……なんでぇ」
 その場に留まろうとする意志に反して、一歩、二歩、足が勝手に後退る。背中に光が生まれる。一瞬後、それは大きく広がって、竜の翼の形になった。
 カンナの身体が宙に浮かぶ。
 どんなに抵抗しようとしても、魅魔の血に支配された肉体は、その主の意志を無視する。
「……カ、カムィが美味しそうな匂いさせてるのが悪いんじゃないか! ばかぁっ、けち――っ!」
 たったひとつだけ自由になる口で叫ぶ。その間にも翼はゆっくりと羽ばたき、高度を上げていく。
「……っ」
 憎まれ口に、カムィは眉間にしわを寄せる。
「……うるさい、消えろ」
「……っ? わぁぁ――っ!」
 大空へ舞い上がる雲雀のように、カンナは一気に速度を上げて飛び去っていった。もちろん、自分の意志ではない。
 その姿が視界から消えたところで、カムィは身体から力を抜いた。
 本来、立ち上がれるような状態ではなかった。魔物に魅了され、犯され、人が耐えうる限界を超えた快楽を一方的に押しつけられていたのだ。腰が抜けてしまっている。
 それを、怒りの精神力でなんとか支えていた。
 脚から力が抜け、その場に座り込む。
 高熱に冒されたような脱力感。
 肉体の限界だ。座っていることさえ辛い。
「けち……だと? 勝手な…………」
 倒れるように、草の上にその身を横たえる。
「……やはり、あの時に殺しておけばよかった」
 まぶたが重い。
 体力も精神力も使い果たしたカムィは、そのまま眠りに落ちていく。
 そして――夢を見た。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2004 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.