二章


「この度は本当に、なんとお礼を申し上げてよいものやら」
 初老の男性が、深々と頭を下げた。しかしその表情には未だ影がある。
 無理もない。あの魔物による犠牲者の中には、彼の一人息子も含まれていたのだから。
 魔物を始末した翌朝、カムィは麓の村にいた。魔物退治を依頼された村長に、事の顛末を報告するためだ。
 村長は、カムィが持ち帰った剣を握りしめている。見覚えのある紋章と思った通り、それは彼の息子の持ち物だった。
 目の端に涙が滲んでいる。ここまで、息子を亡くしたばかりの親にしては気丈な態度を貫いていたが、形見の品を手にして堪えきれなくなったのだろう。
 カムィは無言で報酬の後金を受け取った。金のために魔物狩りをしているわけではないが、生活の糧は必要だ。
「そういえば、お連れの方は? 怪我をなさっていたようですし、入って休んでいただいた方がよろしいのでは?」
 涙を隠すように、村長が話題を変える。
 この場にいるのは村長とカムィの二人だけで、カンナの姿はない。外で待たせてある。
「いえ、あいつはかすり傷ですから。お気遣いなく」
 慌てて首を振る。
 村長はもちろん知らないことだが、あんな外見でも魔物だ。少しくらいの怪我など一日と経たずに治ってしまう。そもそもカンナの傷はカムィがつけたものだ。
 この二、三日、カンナに対する抑えが効きにくくなっている。その理由に心当たりがあるだけに、今はできるだけ側に近づけたくなかった。
「それにしても……これまで誰も倒すことの叶わなかった魔物を、わずか一晩で倒してしまうとは驚きですな。それも、あなたのような美しい娘さんが……」
 心底感心したようなその態度は、決して社交辞令ではなく本心からのようだ。当然といえば当然だった。あの魔物には、この村だけでも十人以上が犠牲となっているのだから。
「魅魔……といいましたかな。いったいどのような術なので?」
 これまで、幾度となく繰り返された問い。
 そしてまた、同じ数だけ繰り返してきた答えを返す。
「それを知ったところで、どうにもなりません。死んだ者が還ってくるわけではないのですから。この力は、人が学ぶことのできる類のものではないのです」
 意図せず、ややぶっきらぼうな口調になった。自分の問いが相手の機嫌を損ねたことを察したのか、村長が気まずそうな顔をする。これ以上長居する理由もないので、カムィは早々に村長の家を辞した。
 自分の力について、詮索されるのは好きではない。
 魔物を狩るために必要なものではあっても、カムィ自身、その力を持て余すことがある。
 魅魔の力。
 それは、カムィの血に宿るもの。
 遠い昔から、一族に受け継がれてきたもの。
 人間は遠い昔から、魔物に怯えて暮らしてきた。
 魔物――闇に属する生物。
 人に擬態し、人を喰らう存在。
 人間にとっての天敵。
 人間は、一方的に狩られる存在。
 そんな人間に与えられた、たったひとつの力。
 それが、魅魔の血だ。
 この血は魔物を魅了し、惹き寄せる。そして一滴でも魔物の体内に入れば、その身を思うままに操ることができる。
 血を口にしてしまえば、魔物は魅魔師の言葉に抗うことはできない。たとえ己の死を命じられたとしても、だ。
 それが、魅魔の力。
 ほんの一握りの人間だけに与えられた力。
 魔物に怯えて暮らす人間たちの、たったひとつの希望。
 最強の魔物すら操ることのできる力。
「……そういえば、あの馬鹿はどこへ行ったんだ?」
 カンナの姿がない。家の前で待っているように言っておいたのだが。
 なにしろ飽きっぽい性格だ。暇を持て余して村内をうろついているのだろう。
 やはり、ただ口で言っただけではこんなものだろうか。かといって、この程度のことに魅魔の力を使うのも馬鹿馬鹿しい。『力』を行使するためには、少なからぬ精神集中を必要とする。
 いちいち癇に障る奴だ。余計な手間ばかりかけさせる。
 ただでさえ今日は機嫌がよくないというのに。
 カムィは少し前から、腹痛に悩まされていた。
 下腹部に響く、断続的な痛み。身体の奥深くで生じる痛みは、皮膚や筋肉の外的な痛みと違って、意志の力で無視することが難しい。毎月のこととはいえ、いつになっても慣れることができない。
「……くそっ」
 忌々しげに唾を吐いて、あてもなく歩いていく。
 それほど大きな村でもないし、カンナは目立つ外見だ。適当に歩いていればすぐに見つかるだろう。
 ――と。
「うわぁ、なにこれ、きれいな髪。まるで砂糖菓子みたい!」
 歩き出してすぐに、女の子の弾んだ声が耳に飛び込んできた。
 視線を向けると、広場の片隅に二人の少女の姿がある。
 片方はカンナだ。その明るい色の髪は、遠目にも間違えようはない。
 もう一人は村の娘だろう。十代半ばから後半、カムィと同じくらいの年齢だろうか。楽しそうにカンナに話しかけている。
「ね、触ってみてもいい?」
 カンナがうなずくと、少女は興味深げに髪に手を伸ばしてくる。
 当然のことだが、今のカンナは正体を隠している。髪の色も、魔物の証である本来の黄金色ではない。光の加減によっては金色にも見える、明るい栗色だ。
 人間にもあり得ない色ではないが、この地方の人間は、黒に近い濃い茶色の髪を持っている。カンナのような明るい色も、カムィのような漆黒の髪も珍しい。
「柔らかーい、ふわふわ。まるで子猫みたい」
「お姉ちゃんも、柔らかそうだね」
 にぃっと笑うカンナ。その瞳が一瞬だけ濃い金色に輝いたのをカムィは見逃さなかった。
 眉をひそめる。
 あれは魔性の瞳。魔物としての力を行使した証だ。
(あの、馬鹿……)
 娘の様子に変化が現れていた。
 目の焦点が合わなくなる。
 カンナの髪を撫でていた手が止まる。
 逆に、カンナが手を伸ばす。娘の頬に触れ、首の後ろに手を回し、ゆっくりと抱き寄せる。
 娘は逆らわなかった。うっとりと夢みるようなその表情は、まるで愛しい恋人に触れられ、愛撫されているかのようだ。
 カンナは、唇を娘の細い首に押しつけた。小さく開かれた口から鋭い牙が覗く。首筋に牙を突き立てる。
 娘は身体を小さく震わせ、甘い吐息を漏らした。
 痛みがないわけではない。しかし、その痛みさえ快楽なのだ。幾度となく経験しているカムィはよく知っている。
 やめさせるべきだろうか。
 放っておいても、娘の生命や健康に問題はない。今のカンナは魅魔の血の支配下にある。人間に危害を加えてはいけない――カムィによるその命令はもっとも基本的なものであり、血の効力がある間は、決して背くことはできないのだ。
 あの行為は「危害」というほどのものではない。痛みは虻に刺された程度でしかないし、流す血の量もごくわずかで、傷はすぐに消える。
 引き替えに得られる快楽を思えば、あの娘にとっては損な取引ではない。それどころか、事情を知ればむしろ喜んでその身を差し出すかもしれない。
 最近は、あの程度の「つまみ食い」は黙認することにしていた。食欲旺盛なカンナのこと、いちいち咎めていてはきりがないというのが正直なところだ。
 それでも、あまりいい気はしない。はっきり言えば不愉快だ。あの行為を目にすることで、カンナが魔物であることを思い知らされてしまう。
 くそっ
 くそっ
 何度も何度も、心の中で毒づく。
 美味しそうに、愛おしそうに、娘の血を舐めているカンナ。
 不愉快だ。癇に障る。
 くそっ
 くそっ
 どうして、こんなにも不愉快なのだろう。
 あんなのはいつものことなのに、今日に限って。
 この、下腹の鈍い痛みのせいだろうか。
 ずきん、ずきん。
 耐え難いというほどではないが、無視することもできない痛み。
 今朝からずっと続いている。
「カンナ! いつまで遊んでる、行くぞ!」
 放っておいてもすぐに終わる。それがわかっているのに、途中でやめさせてしまう。
 カンナは不満げではあったが、名残惜しそうにしつつもついてくる。
 後には、夢見るような表情の娘だけが残されていた。



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