序章


 月の明るい夜だった。
 空に雲はほとんどなく、丸い月だけが天中に近い高さに浮かんでいる。
 月明かりの下、一人の娘が夜道を歩いていた。
 年は十代の半ばに達するかどうかというところだろう。その身体はようやく女らしい丸みを帯び始めたばかりという印象だ。
 腰まで伸ばした美しい長い髪が、月明かりを反射して黒曜石のような輝きを放っていた。
 歩いているのはこの先にある村へ向かう道だが、真夜中に近い時刻だというのに特に急いでいる様子もない。むしろ、夜風が頬を撫で、長い髪をなびかせるのを楽しんでいるかのように、ゆっくりとした脚の運びだった。
 端から見れば、不用心なことこの上ない。
 若く美しい娘が夜道を歩くなど、それだけでも物騒な話である。ましてやこの辺りでは、もうひとつの理由でその危険は桁違いに高い。
 成人男性でも、よほどのことがなければこんな夜中に一人で外出することはないのだが、まさかそのことを知らないわけではあるまい。
 腰に、やや小振りの剣を佩いているが、少女の細腕ではさほど役に立つとは思えなかった。そもそも、屈強な剣士の大剣であっても、この地にはびこる危険に対しては無力に等しいのだ。

 そんな少女の姿をひそかに見つめている、一対の視線があった。
 視線の主は若い男だ。いったいどうやって登ったのか、枝もそれほど多くない高い樹の、梢近くの細い枝の上に立っていた。
 ――にやり。
 足下を通り過ぎる少女を見て、気障な笑みを浮かべる。
 男が、普通の人間ではないことは一目瞭然だった。その瞳は肉食の獣のように、月明かりの下で爛々と輝いている。
 美味そうな獲物だ、と長い舌で舌なめずりをする。単に「美味そう」などというものではない、かつて見たこともないほどの極上のご馳走といってもいい。
 これだけ離れていてもはっきりと感じる。うっとりするような甘い血の芳香を。
 その香りだけでも力が湧いてくるようだ。
 ――邪魔が入らないうちに、さっさといただいてしまおう。
 そう考えると同時に、男は枝を蹴った。どんなに運がよくても大怪我は免れないはずの高さから音もなく飛び降りると、獲物を狙う猫よりも静かに少女の背後に忍び寄る。
 しかし相手は予想以上に勘がよかった。気配は完全に殺していたはずなのに、手が届く距離に迫る前にこちらを振り返り、同時に腰の剣を素速く抜いた。
 だが、少女にできたのはそこまでだった。
 男が視線を向ける。
 漆黒の瞳を、正面から見つめる。
 少女は目を見開くと、次の瞬間動きを止めた。
 すぐに、目の焦点が合わなくなる。手から力が抜け、乾いた音を立てて剣が地面に落ちる。
 男が手を伸ばす。
 指が首筋に触れた瞬間、少女の身体は小さく痙攣した。
 細い首に爪先を滑らせる。真白い肌の上に紅い筋が浮かんでくる。
 男はそこに唇を押しつけ、滲み出す血を舌で拭った。
 ――素晴らしい。
 予想通り、極上の味だった。これほどの血にはいまだかつて出会ったことがない。
 わずか一滴で、喉が、腹が、かぁっと熱くなってくる。
 身体中に力が満ち溢れてくる。
 細い傷から滲む血だけでは我慢できなくなり、男はその鋭い牙を喉に突き立てた。
 口の中いっぱいに極上の味が広がる。
 少女は苦痛の声を上げるどころか、感極まったような甘い呻きとともに身体を強ばらせた。脚ががくがくと震えている。
 鼻孔をくすぐる芳香がさらに強くなる。
 男は指を拡げ、少女の首筋から下半身へと手を滑らせた。鏨よりも強靱で剃刀よりも鋭い爪が、少女の着物を切り裂いていく。
 着物の切れ端が地面に落ちるのと同時に、少女も崩れるようにその場に座り込んだ。虚ろな、しかし熱っぽい瞳で、前に立つ男を見上げている。
 白い肌が朱みを増す。
 その小さな身体を押し倒すと、少女は待ち望んでいたかのように自ら脚を開いた。
 横たえられた少女の身体を上を、また、男の爪が滑る。
 肌には幾本もの紅い筋が残り、甘い香りの血が滲み出してくる。
 少女の唇から甘い吐息が漏れる。
 傷のひとつひとつに舌を這わせる。
 その度に小さな身体が痙攣する。
 甘く切ない吐息が、甲高い嬌声に変化していく。
 周囲に満ちる血の芳香が甘みを増してくる。
 男は上体を起こすと、細い脚を掴んで大きく開かせ、その間に身体を入れた。まだ幼さの残る身体にあるまじき量の蜜を滴らせている秘所を、古木の太枝の如き男性器で一気に貫く。
「――――っっ!」
 少女が声にならない叫びを上げ、身体を大きく仰け反らせる。
 跳ねる身体を押さえつけ、男は激しく腰を打ちつける。
 ひと突きごとに、少女は悲鳴を上げる。それは痛みや恐怖に因るものではなく、気が狂うほどの快楽がもたらす甘い叫びだった。
 本来ならば男性を受け入れるにはまだやや早いと思われる身体が、大きく弾む。全身の筋肉を強張らせ、初めての絶頂を迎える。
「あぁぁぁぁ――――――っっっ!」
 少女の絶叫が小さな森の中にこだまする。
 肺の中の空気が空になってその叫びが途切れる。少女は最後にもう一度大きく身体を痙攣させると、そのまま動かなくなった。
 男は身体を離し、横たわる少女を見おろした。
 焦点の合わない瞳。
 泡混じりの唾液を溢れさせている半開きの唇。
 陸に打ち上げられて死んだ魚のような、力の抜けた身体。
 それでも顔には恍惚の表情を浮かべている。
 開かれた脚の中心が、破瓜の血で紅く濡れている。その部分が、他のどこよりも強い芳香を放っている。
 男はそこに顔を寄せると、滴る血を一滴残らず啜った。
 言葉にならない、至上の美味。
 ただ美味なだけではない。
 その生涯に一度だけ流す血。それこそが、彼にもっとも力を与えてくれる。
 男は紅く染まった唇を、長い舌で舐め回した。
「最高だ。このまますぐに喰ってしまうにはあまりにも惜しいな。しばらくはこの血を楽しませてもらうか……」
 生かしておけば、当分の間はこの素晴らしい血を味わうことができる。
 もっともっと力を得ることができる。
 一時の欲望に駆られて喰い殺してしまうのは、下等な獣のすることだ。
「さて……」
 再び身体を重ねようとしたところで、男の耳が微かな物音を捉えてぴくりと動いた。
 立ち上がって振り返る。
 近づいてくる気配。
 人間ではなく、獣でもなく。
 もっと、強い力を持つもの。
 この娘の血の匂いに惹かれてきたに違いない。人間や獣には感じ取れないだろうが、頭の芯がとろけるほどの甘い芳香が周囲に満ちている。彼の眷属であれば森の向こう側からでも嗅ぎとれるだろう。
 もちろん、他者に分けてやるつもりなど毛頭なかった。この極上の血は自分だけのものだ。
 男はにやりと笑う。
 ――ちょうどいい。
 この血で得た力を試すいい機会だ。
 一歩、二歩。
 気配が近づいてくる方向へ足を進める。
 近づいてきたのは、彼と同様に金色の瞳を持った男だった。やや年長で、身体も筋肉質でひとまわり大きい。
「美味そうなニオイさせてるじゃねーか。お前みたいな若造には過ぎた獲物だろ? 俺にも少し分けてくれよ」
 口では「分けてくれよ」と言いながらも、それが口先だけであることは表情を見れば一目瞭然、「その獲物を俺によこせ」が本音だ。
 昨日出会っていれば、あるいはその言葉に従ったかもしれない。逆らっても勝ち目の薄い相手だ――と。
 しかし今ではまったく事情が違う。この男と戦うことに、毛ほどの不安も感じなかった。
「失せろよ、ザコが」
「ガキが偉そうな口をきくなよ。身の程を教えてやる」
 年長の男が腕を上げる。大きな手の指先に生えた爪は、その一本一本が槍の穂先ほどの長さと鋭さを備えていた。
 男は地面を蹴ると、目にも留まらぬ速さで間合いを詰めて腕を振りおろした。
 その物騒な武器は、相手がたとえ羆であってもずたずたに引き裂いただろう。しかし見た目はずっと細身の若い男は、まるでそよ風に揺れる小枝をつまむような軽やかな動作で、その太い手首を掴まえた。
 そのまま、手に力を込める。
 岩が砕けるような音。
 それは太い骨が粉々になる音だった。
 痛みと驚愕で大きく見開かれる金色の目。
 大男の動きが止まる。
 若者がもう一方の手を突き出す。
 その手は大男の厚い胸板を易々と突き破り、心臓を貫いた。
 腕を引き抜く。
 胸に開いた穴からどす黒い血をごぼごぼと噴き出しながら、大男の巨体が倒れる。
 若い男はその光景を満足げに眺めていた。
 自分でも予想以上の力だった。
 たった今得たわずかばかりの血で、もうこれほどの力が湧いてくるとは。
 一撃で倒したこの大男は、以前の彼であれば命を賭して戦わなければならないほどの相手だったはずだ。
 ――素晴らしい。最高だ。
 しかも、これで終わりではない。
 あの人間の娘がいれば、あの血があれば、さらに強くなれる。
 やはりあの娘は生かしておいて、もっと血を得るべきだ。あの血を毎日得ていれば、彼の力は一年後にはどれほどのものになっていることだろう。
 もっと、もっと、強くなれる。
 雷の名を持つ者よりも、死の名を持つ者よりも。
 そのことを思うと、自然と口元が弛んでしまう。
 我慢できない。
 ――やはり、今夜のうちにもう少し血を啜っておこう。
 そう考えて娘のところに戻る。
 少女はこちらに背を向けて、力なく座っていた。
 もう、自分の意志など残ってはいまい。最初の交わりで死ななかっただけでも僥倖だ。今は彼が与える快楽を貪るだけの存在に成り下がっているはず。
 娘の肩に手をかけ、その身を横たえようとする。
 その時――
「……え?」
 娘の手が動くのと同時に、腹に灼けるような痛みが走った。
 一瞬なにが起こったのか理解できずに、自分の身体を見おろす。
 目に映ったのは、腹に深々と突き刺さっている剣。
 この娘が持っていた剣だ。
 ――そんな、馬鹿な。
 自分の目を疑った。
 これはなにかの間違いだ。
 人間の武器が、しかも小娘の細腕で、この身を貫けるなんて。
 それが、こんなにも痛いなんて――。
 あり得ない。
 あり得ない。
 なにかの間違いだ。
「――っ」
 剣を逆手に握って背後に立つ彼を刺した娘が、ゆっくりと立ち上がって振り返る。
 ――そんな、馬鹿な。
 もう正気を保っているはずなどないのに。
 しかしその瞳には、強い意志が感じられた。憤怒の形相で彼を睨みつけている。
「よくも…………貴様……よくもわたしを……」
 怒りに震える声。
 自分を陵辱した相手を射抜くような鋭い視線。
 その瞳は――

 人間にはあり得ない、紅い血の色に輝いていた。


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