満月の夜――
深夜の森は、明るい月光を葉に受けて銀色に輝いている。
それはまるで宝石でできた作り物で、虫の音もない森は時が止まった空間のようだった。
しかし突然、静寂が破られる。
下腹に響くような魔物の咆吼が、樹々の枝をびりびりと震わせる。
それは、断末魔の咆吼だった。
巨木の幹を思わせる太い胴体を深々と剔られ、どす黒い血をまき散らしながら倒れる巨体。
その身体は最大の羆ほどの大きさがあったが、外見は獣というよりも、不自然なまでに人間に似ていた。
魔物――
普段は人間の姿をとりながら、どんな猛獣よりも恐ろしい力を持ち、人の血肉を糧とする存在。
本来ならば弩や大斧を用いても傷つけることさえ難しい相手だが、今この巨体を引き裂いたのは、武器など持たない小柄な少女だった。
くせのある短い金髪が動きに合わせて揺れ、月明かりの下できらきらと輝いている。
体格の割には豊かな胸をしているが、そのあどけない顔は、人間であればまだ十代半ばくらいのものだろう。
しかしもちろん、少女は人間ではありえない。
魔物の返り血で汚れた右腕の先に並ぶ、鋼色をした小刀のような爪。
笑みを浮かべた唇の端から微かに除く鋭い牙。
そして、月明かりを反射して爛々と輝く黄金色の瞳。
それらはすべて、この少女が最強の魔物――竜族――であることを示していた。
少し離れたところに、もう一体の魔物の姿があった。
やはり羆に似たその巨体は、先ほど倒された魔物よりもいくぶん大きい。
その前に立つのは、一人の女だった。
竜族の少女よりも何歳か年長だろう。もう少女とは呼べないが、成熟した大人の女になりきってもいない。喩えていうなら、蛹から羽化したばかりの蝶のような美しさを備えていた。
女性としてはやや長身で、腰まで伸ばした長い髪は闇に溶け込むような漆黒。その並はずれた美しさを除けば、外見に不自然な点はない。人間の――美しい人間の女だ。
しかしその態度は、およそ自然とはいえなかった。
巨大な魔物と間近で対峙し、手にした武器は小さな短剣ひとつであるにもかかわらず、怯えた様子など微塵もない。むしろ楽しげな――どこか残忍さの感じられる――笑みすら浮かべていた。
地響きを立てて襲いかかる魔物を、女は後ろに跳んでかわす。しかし、いくら巨体であっても魔物の瞬発力は獣の比ではなく、人間の反射神経でかわしきれるものではない。
鋭い爪がかすめた腕に、一筋の紅い傷が浮かび上がった。
魔物は、爪についた血を旨そうに舐める。
「……極上の血だなぁ。その血、一滴残らずいただくぞ」
獣の唸りのような低い声で言うと、魔物は再び襲いかかろうとする。
その時、女が腕を前に差し出した。「待て」とでもいうように広げた掌を向ける。
魔物が踏み出した脚を止める。しかしそれは、己の意図した動きではなかった。
意に反して、脚が固まったように動かない。
「な……?」
女が目を細める。うっすらと笑みを浮かべる唇が開かれる。
「お前のような雑魚には、魅魔の血は一滴でも多すぎたな。もったいないことをした」
「魅魔の……血、だと……」
魔物の顔が、生まれて初めて経験する恐怖に歪む。
魅魔の血――
魔物を魅了し、思うままに操ることのできる血。
魔物に抗う術を持たない人間に与えられた、たったひとつの、そして最強の力。
女の目が、まっすぐに魔物を見据える。
魔物の目が見開かれる。
魅魔の血を受け継ぐ者だけが持つ、たったひとつ人間と違う外見。
それは、瞳。
紅い――血の色をした深紅の瞳。
その血を受けた魔物を、支配し、操る瞳。
言葉すら不要だった。
女は、魔物に向けていた手を自分の首に当てる。自分の首を掻き切るような動作をする。
魔物が、恐怖に凍りついた表情で同じ動作を再現する。
己の首にその鋭い爪を深々と突き立てる。頸動脈を切断し、気管を切り裂く。
霧のように噴き出す血を浴びながら、魔物の巨体はゆっくりと倒れていった。
「あーあ、雑魚ばっかり」
カンナ――竜族の少女――はつまらなそうに言うと、足元に倒れている魔物の頭を踏みつけた。
岩よりも硬いはずの頭蓋が、熟れすぎた柘榴のようにぐしゃりと潰れる。
あまり見目いい光景ではないが、カムィ――黒髪の魅魔師の女――は顔色も変えずに応えた。
「雑魚ばかりなのはその通りだが……」
しかし、その意見は真実ではない。
この二体の魔物、対峙したのが普通の人間であれば、重装騎兵の一隊を持ってしても返り討ちに遭うだろう。並の魅魔師であっても勝利はおぼつかない。
それを雑魚と言い切れるのは、カムィがもっとも純粋な血を受け継ぐ魅魔師であり、カンナがもっとも高位な雷の名を持つ竜族だからだ。
しかし二人の外見からその事を察するのは困難であり、魔物は己の生命が尽きる時にようやくその事実を思い知ることになる。
「……しかし、北へ向かうほど数は確実に増えているな。噂の通りだ」
カムィの言葉には、どこか嬉しげな響きがある。
魔物は故郷の村の、母の、そして血を分けた双子の姉の仇であり、魔物を狩る機会が増えることは、彼女にとって至上の悦びなのだ。
「そうだね。これからもっと増えてくるのかな」
応えるカンナも嬉しそうだ。
しかしその表情は、氷の微笑を浮かべるカムィとは対照的に、ご馳走を前にして尻尾を振る仔犬のように無邪気だった。
「……で、カムィ?」
黄金色の目を細めて、にっこりと笑うカンナ。その背後に、ぱたぱたと揺れるふさふさの尻尾が見えたような気がした。
「ねぇ?」
カムィは呼びかけを無視して視線を逸らす。カンナの言わんとしていることはわかっている。わかっているからこそ無視を決め込む。
回れ右して、森を抜けて街へ戻る道へ向かおうとした。
「ねぇカムィ、ごほーびは?」
その前に回り込んでにっこりと笑うカンナ。
「……」
にこにこにこにこ。
必要以上に無邪気な笑みを満面に浮かべている。しかし愛想のいい表情とは裏腹に、望みのものを手に入れるまでは梃子でも動かないという、無駄に強い意志が感じられる。
カムィは溜息をついた。
一度しまった短剣を抜き、刃先を指に押しつける。
滲み出る血が紅い珠になる。
その指を、カンナの前に差し出した。
しかし、それを望んでいたはずのカンナは飛びついてこない。
「カームーィー?」
にこにこにこにこ。
相変わらず笑ってはいるが、それは口元だけのこと。眉間には皺が刻まれ、こめかみに青筋が浮いている。
「……」
もう一度、さらに大きな溜息をつく。
カンナがなにを望んでいるかはよくわかっている。それはもう、いやというほどに。
そして、それを与えることには少なからぬ抵抗があった。
「私が、お前に、そこまでしてやる理由があるか?」
カムィにしてみれば、貴重な魅魔の血を一滴与えるだけでも椀飯振る舞いのつもりだ。
「あるよ」
笑みを崩さずにカンナが応える。
「あたしが、そうしたいから」
「……」
「それにさっきのザコ、あたしの方が先に倒したじゃん? カムィが負けたんだから、ごほーびは五割増しでしょ?」
「そんな約束はしていない!」
「えー、ちゃんと言ったじゃん! カムィってばずるいー!」
「お前が勝手に言っただけだろう。私が了解したわけではない」
「ぶ――」
そのまましばらく無言の睨み合いが続く。
カムィはこれ以上のものを与えるつもりはなかったが、カンナも引き下がる気配は見せない。
長い沈黙。
やがて、静まりかえった森に、虫や梟の声が戻ってくる。
「……」
「…………」
しかしこれは、カムィには分の悪い勝負だった。普段はせっかちなカンナも、竜族という種の特性として、その気になればいくらでも気長になれるし、一日や二日くらいは眠らず食事をせずに過ごしても苦痛ではない。
対してカムィは、いくら魅魔師といえども体力的には普通の人間と変わらない。夜半まで魔物と戦っていれば疲労もするし空腹も覚える。いつまでもこのまま睨めっこはしていられない。
先に根負けしたのはカムィの方だった。
諦めの表情で大きく溜息をつくと、忌々しげにつぶやいた。
「…………さっさと済ませろよ」
「んふ」
カンナが一歩近寄ってくる。
目の前に立って、大きな黄金色の瞳を向ける。
宝珠のような、美しい瞳。
思わず、その瞳をまっすぐに見つめてしまう。
――見てはいけない。
いやというほどわかっているはずなのに、それでも視線が惹き寄せられてしまう。そして一度見つめてしまえば、もう視線を逸らすことができなくなる。
熱でもあるかのように、顔が熱くなってくる。
頭がぼぅっとして、身体が痺れたようになって、思うように動けなくなる。
カンナがもう一歩近づいてくる。もう、ほとんど触れ合うような距離だ。
腕が身体に回され、抱きしめられる。
カンナの顔がすぐ目の前にある。文字通り、鼻先が触れるほど間近に。
大きな目の中の、黄金色の瞳。
力のある視線。見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がする。
淡い桃色の唇が近づいてくる。微かな唇の隙間から覗く鋭い犬歯が、刃物のようにきらりと光る。
「あ……」
唇が重ねられた。
そして、ちくりと刺すような痛み。
唇を咬まれる。そこに舌が押しつけられ、滲む血を舐めとっていく。
「ん……は、ぁ……」
甘く、切ない吐息が漏れる。
どうしてこんな声が出てしまうのだろう。
これは、自分が望んでいることではないはずなのに。
――熱い。
熱っぽくて、頭がくらくらする。無性に喉が渇く。
「ん、ぅく……」
唇を割って、舌が入ってくる。魔物特有の長い舌が口中をくすぐり、カムィの舌に絡みついてくる。
カムィも舌を伸ばしてそれに応えた。意図したことではなく、舌が勝手に動いてしまう。
錆びた鉄の味が口の中に広がる。唇から滲んだ血と、二人の唾液が混じり合う。
「カムィ……」
唇を重ねながら、カンナの手はカムィの着物の帯を解いていく。柔らかな音を立てて着物が足元に滑り落ちる。
「あ……」
露わにされた肌の上を、長く鋭い魔物の爪が滑っていく。
胸の膨らみの上に爪を立てられる。
一瞬の痛み。その痛みにさえ悦びを感じてしまう。熱い感覚が広がっていく。
「や……め……」
真白い肌の上に、紅い珠のような血が浮き出る。
カンナの長い舌がその上を這っていく。それはまるで大きな蛞蝓――いや、血を狙う蛭のようだ。
小さな紅い血の珠をひとつずつ舐めとっていく。
そのまま、胸の先端の突起を強く吸う。母の乳を吸う赤子のように。
「は、ぁ……っ、……ぁぅっ!」
痺れるような感覚。
堪えようとしても甲高い声が漏れてしまう。その声に促されるように、カンナの愛撫が激しさを増す。
最近のカンナは、ただ血を与えるだけではけっして満足しない。血と同時に、カムィとの性的な接触を求めてくる。
もちろん、それはカムィにとっては受け入れ難いことだった。性的な行為自体に抵抗があることに加えて、相手は憎むべき魔物であり、しかも同性なのだ。
人間の男女のような恋愛感情など生まれようもないはずの相手。そんな相手と肉体の交わりを持つなど、潔癖なカムィにとっては許し難い行いだった。
なのに、いざ始まってしまえばその快楽の虜になってしまうところがなによりも許し難い。
しかし、それも無理はない。カムィが魔物を魅了し、支配できるのと同じように、竜族のような力のある魔物は、人間を魅了することができる。魔物に犯された人間は、その多くが快楽のあまり発狂してしまうほどだ。
「……っ! あぁっ!」
カンナに吸われている乳首が固くなってくる。ひとまわり大きくなって突き出てくる。
そこを咬まれる。
乳の代わりに血が滲み出してくる。
カンナが喉を鳴らす。
赤子にとっては母の乳が一番のご馳走であるように、カンナにとってはカムィの血こそが至上の美味なのだ。
強く吸われる。
一滴でも多くの血を吸い出そうとしている。
その行為が、カムィに耐え難いほどの快楽をもたらす。
「やっ……ぁっ! ……あ……ぁっ!」
熱い。
身体が熱い。
下腹部の、身体の奥が熱い。
奥深い部分から、熱いなにかが滴り落ちてくる。
身体に力が入らない。脚ががくがくと震える。
自分の体重を支えきれなくなってその場に座り込んだカムィの肩を、カンナの手が押す。柔らかな草の上に横たえられ、その上にカンナが覆いかぶさってくる。
胸を吸い続けながら、手は胸から腹へ、そして下腹部へと下りてくる。腰、尻、太腿と、触られたくない部分ばかりに指を滑らせていく。いちばん触れられたくない部分に触れられた瞬間には、短い悲鳴を上げてしまった。
指先でくすぐるような、微かに触れる程度の接触。しかしカムィの身体は何度も大きく痙攣する。
指先でつつかれるたびに短い悲鳴を上げる口に、カンナの唇が重ねられる。長い舌が喉を塞ぐ。
「んんっ……ん、ぅぅっ……んぅっ!」
小刻みに動く指。
本当に微かな、微妙すぎる愛撫。
なのにもたらされる快感は気が遠くなるほどに激しい。
カンナはいつまでもそんな愛撫を続けている。失神せずにいられるぎりぎりの強さの快楽の波が、途切れることなく襲ってくる。
いつまでも、いつまでも続く愛撫。気持ちいいが故に、休むことなく延々と続く行為はむしろ拷問だった。
「……い……つまでやってる。……私は疲れているんだ。早く終わらせろ!」
カムィの口は、本心とは逆の台詞を吐く。けっして認めたくない心の内を覆い隠すために。
しかしそんな拙い偽装は、目の前の相手には通じていなかった。
「カムィってば素直じゃなーい。ちゃんと『我慢できないから焦らさないで』って言えばいいのに」
「な……、――――っっ!」
笑いを堪えるようなカンナの言葉に反論するよりも先に、衝撃が身体を貫いた。突然の強すぎる刺激に悲鳴を上げることすらできず、身体を大きく仰け反らせる。
ここまで繊細すぎるほどの愛撫を続けてきた指が、なんの予告もなしに一気に奥深くまで突き入れられていた。
膣全体が灼けるような、強烈な刺激。魔物だけが与えることのできる、運が悪ければ発狂するか、死に至ることすらある快楽。
……いや。
運が悪ければ、ではない。むしろそれが常であり、カムィのように正気を保っていられる方が奇蹟に近い幸運なのだ。
「あ……や、ぁ……あぁ……」
激しすぎる快感のあまり、声も出せない。いっぱいに開かれた口から漏れた空気がひゅうひゅうと鳴る。
身体の中でカンナの指が指が蠢いていた。
長く鋭い魔物の爪が、膣の奥深くの繊細な粘膜を傷つける。その痛みさえ、今のカムィには至上の快楽としか感じられない。
「や……ぁ、や……め……」
やめろ。
やめろ。
理性が叫ぼうとする言葉。
だけど声にならない。
それは、本心ではない言葉。
だから、口にすることを本能が拒絶する。
「や……ぁ……、ぁ……も……っ」
もっと。
もっと。
もっと深く。
もっと激しく。
本能が叫ぼうとする言葉。
だけど声が出せない。
それが心の叫びであるが故に、微かに残った理性が押しとどめる。音にならない唇の動きだけがその言葉を紡ぎ出す。
「は……ぁ……っ、――っ!」
カンナが身体を動かし、カムィの脚の間に顔を埋める。
指が引き抜かれ、別な感触がそこに触れた。狭い膣を押し広げ、カムィの胎内に侵入してくる。
指よりも太く、長く、柔らかな弾力があって熱く濡れたもの。
人間のものよりもはるかに長く、器用に動く舌。
それ自体が意志を持った生き物のようにカムィの中で蠢き、溢れ出してくる淫猥な蜜と、爪がつけた傷から滲み出る血を、一滴残らず舐めとっていく。
「あ……ぁぁ……っ、は……ぁ…………ぁぁっ」
カムィの身体の中で蠢く舌。
それは最後に残った理性の欠片を、小さな飴のように舐め溶かしてしまう。
身体が勝手に動く。
脚を開き、腰を突き上げ、長い舌をより深く導き入れようとする。
さらなる快楽を得るために。
「か……ん……っ、……っ、――――っっ!」
けっして口にしてはならない本能の叫びを声に出す前に失神したことは、カムィにとってはむしろ幸運だった。
一定の、心地よい揺れ。
それはまるで、母の腕に抱かれていた赤子の頃の記憶を呼び覚ますかのような感覚だった。
「……?」
自分がいま何歳なのか。
どこでなにをしているのか。
カムィがそれらを想い出すまでに、目を覚ましてからしばらく時間が必要だった。
何度か瞬きをして、視力が戻ってきて周囲の風景を確認できたところで、ようやく意識がはっきりする。
「……おい」
声をかけると揺れが止まった。
同時に、ゆっくりと後ろへ流れていた景色も止まる。
「……この体勢は不自然だろう、降ろせ」
目を覚ましたカムィは、カンナの腕の中にいた。カンナはカムィを抱きかかえて歩いていたのだ。
森が疎らになっているところを見ると、今夜の宿をとっていた街に戻ろうとしているのだろう。しかし、このままではまずい。
カンナはどちらかといえば小柄で、カムィは細身ではあるが長身だ。小柄な女の子が、自分よりも大きな人間を抱きかかえて軽い足取りで歩いているというのは不自然極まりない。このまま街に戻っては騒動の元だろう。
「でもカムィ、疲れてるでしょ? 脚に力入らないんじゃない?」
からかうような物言いが癇に障る。
「……誰のせいだ」
カンナの言葉を否定することはできなかった。事実、腰が抜けたようになって下半身に力が入らず、しばらくは歩くどころか自分の脚で立つことさえおぼつかない状況だ。
「だからといって、このまま街に戻るわけにはいかんだろう。いくら夜中とはいえ、街に入れば少しは人目もある」
「じゃあ、見られない方法で行く?」
カムィの返事を待たず、カンナの背に淡い光が生まれた。それは広がるにつれて翼の形に変わっていく。
魅魔の瞳を持つカムィにだけ見える、竜の翼。
カンナは翼を大きく広げると、カムィを抱えたままふわりと宙に舞い上がった。
地面が遠ざかる。
森でいちばん高い梢より何倍も高く上がる。
カンナがにぃっと笑う。
「これなら見られないでしょ?」
確かに、深夜にこの高さを飛んでいれば、空を見上げている者がいても気がつくまい。万が一にも見られたら大騒ぎではあるが。
カンナが本気を出せば軍馬の疾駆よりも速く飛ぶことができるが、今はそこまで急いではいない。軽い駆け足程度の速度だ。
馬や馬車と違い、揺れや地面からの突き上げがないので不安定さはない。それでも下を見る気にはなれなかった。
見てしまえば、翼を持たない人間にとっては本能的な恐怖を覚える高度にいることを思い知らされてしまう。
カムィは不本意ながら、カンナの首に腕を回して掴まった。カンナが、悪戯に成功した子供の笑みを浮かべる。
愉快なことではないが仕方がない。こうしていなければ、カンナはしばしば落とす振りをしてカムィを脅かすのだ。身体を密着させているとそれで満足するのか、変な悪ふざけはせず静かに飛んでくれる。
長い髪がたなびき、カンナの頬をくすぐっている。
妙に嬉しそうな顔を見るのがなんとなく癪なので、カムィは進路が正しく街へ向かっていることを確認すると目を閉じた。
頬を撫でる冷たい夜の風は、決して不快なものではなかった。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2004-2007 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.