「あなたの血、綺麗な色をしてるわね」
 その声はけっして大きなものではなかったが、何故かはっきりと桐花の耳に届いた。
 思わず振り返る。
 少し離れたところに、同世代の女の子が立っていた。桐花も高校一年生としてはやや小さい方であるが、その少女はさらに小柄だ。
 しかし彼女は「小ささ」よりも「大きさ」の方が印象的だった。
 大きな目。
 大きな、黒い瞳。
 真っ直ぐに桐花を見据えている。
 単に大きな目、綺麗な目というのではない。圧倒されるような強い視線だった。
 そのためだろうか、小柄ではあるが華奢な印象は受けず、大人っぽい雰囲気を漂わせている。
 桐花は素直に綺麗な人だと思った。最近では珍しいような長く艶やかな黒髪が美しい。
 初対面のはずだった。この顔に見覚えはない。綺麗な顔だし、印象に残る独特の雰囲気をまとっている人だから、一度でも会ったことがあれば忘れるはずがない。
 この学校に入学して、まだ一ヶ月と少し。クラスメイトはともかく、クラスが違えば同学年でも知らない顔は少なくない。ましてや学年が違えばなおさらだ。目の前の少女は三年生の級章をつけていた。
「あの……」
 戸惑いながらも口を開く。
 視線は真っ直ぐ桐花に向けられているし、周囲の廊下に他に人影はない。声を掛けた対象が自分であることは間違いないだろうが、見知らぬ相手にいきなり「あなたの血、綺麗な色をしてるわね」などと言われて、どう反応すればよいものだろう。
 怪我をしたところに通りかかった、とかのシチュエーションであればわからなくもない。しかし桐花はただ放課後の廊下を歩いていただけだ。これならばまだ「タイが曲がっていてよ」とでも言われた方が対応のしようもある。
「えっと……私になにか、ご用でしょうか?」
 無意識のうちに丁寧な口調になってしまう。上級生であるし、そうでなくても気軽にタメ口などきけない雰囲気をまとっている相手だった。
 真っ直ぐこちらに向けられている大きな瞳。
 力のある視線だ、と思った。
「あなた、モデルになりなさい」
 ならない? ではなく。
 なってください、でもなく。
 ――なりなさい。
 一方的な台詞ではあるが、抑揚のない静かな口調のせいか、命令という印象は受けなかった。むしろ、既に決まった事実を淡々と述べているだけのように聞こえる。
「いらっしゃい」
 それだけを言うと、回れ右をして歩き出す。
 その背中に惹き寄せられるように、桐花も後を追った。歩き始めてから、いろいろな疑問が頭をもたげてくる。
 誰、この人?
 モデルって、何の?
 どこへ向かっているの?
 訊きたいことは山のようにあって、なのに言葉が出てこない。
 前を行く少女は振り返りもしない。まるで、後ろからついていく桐花の存在など忘れてしまったかのように。
 速すぎもせず遅すぎもせず、一定の速度で歩いている。
 人のまばらな放課後の廊下に静かな足音が響く。
 今日は授業が早めに終わったので、窓から射し込む陽光はまだ強かった。
 窓のある部分と、ない部分。
 陽が当たっている部分と、陰になっている部分。
 光と陰、白と黒のコントラストが印象的だった。前を行く姿が光の中に浮かび上がり、陰の中に溶け込む。
「あの……先輩?」
 しばらく歩いたところで、意を決して声をかける。
 まさか女子校の校内で妙なことになるとも思えないが、いつまでも訳のわからないままというのも気味が悪い。
 足音が止まり、こちらを振り返る。
 陰の中で、大きな瞳だけが琥珀のように輝いて見えた。
「三年B組、多生椎奈。美術部長。……あなたは?」
「あ……えっと、一年C組、三園桐花です」
「トウカ……冬の花? それとも桐の花?」
「桐の方」
「ふぅん、いい名前ね」
 それだけ聞けば充分といった態度で、多生椎奈と名乗った少女は歩き出した。
 桐花もまた後をついていく。
 とりあえず、最小限のことはわかった。
 名前と、クラスと、所属部。
 美術部――それでモデルなどという話が出てきたのだと、ようやく納得がいった。だとすると、いま向かっているのは美術室だろうか。
 そういえば、三年生にすごく絵の上手な先輩がいるという噂を聞いたことがあった。幾度となく賞を獲っていて、その作品は画廊に飾られていて、もう実質的にプロの画家だとか。
 もしかして、この人がそうなのだろうか。ただ者ではない雰囲気を持っていることは間違いない。
 それにしても、どうして桐花なのだろう。
 自分を不細工と思っているわけではないが、しかし特別に人目を引くほどの美人でもない。顔もスタイルも、客観的な評価を下せばせいぜい『やや良』といったところだろう。
 そんな相手に、初対面でいきなり「モデルになりなさい」とは。
 椎奈の意図がわからない。
 首を傾げているうちに、美術室に着いてしまった。
 美術の授業で何度か訪れたことはある。
 机や椅子は教室の隅に雑多と積んであった。学年やクラスによって人数が違うし、授業内容によっては机を使わないこともあるので、必要な時に必要な数だけを並べるのだ。
 今は教室の真ん中あたりに椅子が三つ、画材を置いた机がひとつ、そしてカンバスを乗せたイーゼルが一台あるだけで、がらんとした印象を受ける。他に誰もいない。
 窓に掛けられた薄い生地の白いカーテンが直射日光を遮り、室内は柔らかな光で満たされていた。
 背後で椎奈が扉を閉める。
「じゃ、脱いで」
「え……えぇっ?」
 美術室の中をきょろきょろと見回している桐花に向かって、椎奈は無造作に言った。
 慌てて訊き返す。
 今、なんて言ったのだろう。願わくば聞き間違いであってほしい。
「聞こえなかった? 脱いでって」
 抑揚のない口調。そんな喋り方が椎奈の癖らしい。
「あ、あのっ、モデルって……ヌード、なんですか?」
「それがなにか?」
 当然、という声音が返ってくる。しかしそれは聞き流せる台詞ではない。
「で、できませんよ、そんなの!」
「どうして?」
「どうしてって……恥ずかしいじゃないですか」
「絵のモデルが恥ずかしいこと?」
「そうじゃなくて! 人前で裸になるなんて……」
 そんなこと、いちいち説明しなくてもわかることだろうに。しかし目の前の相手には、桐花の常識は通用しないらしい。
「あなた、旅行でホテルの大浴場とか入らない人?」
「それは……入りますけど……、お風呂は、裸になるのが当たり前の場所じゃないですか」
「絵のモデルで裸になるのも、ごく当たり前だと思うけど?」
 絵描きである椎奈にとってはそうかもしれない。ヌードデッサンなど珍しいことではないのだろう。
 しかし、一般人である桐花はそう簡単に割り切ることはできない。
「それに、お風呂ではみんな裸じゃないですか」
「ふむ、ひとりだけで裸になるのは恥ずかしい?」
「とーぜんです」
「だったら私も脱ぐから。それでいいでしょう?」
「え?」
 状況を理解できずにいるうちに、椎奈はさっさと服を脱ぎはじめた。
 スカートを下ろし、ベストとブラウスを脱いで、下着姿になる。
 慌てている桐花をよそに、ブラジャーを外し、ショーツすらなんの躊躇いもなしに脱いでしまった。
「これでいいでしょう?」
 脱いだ服を傍らの椅子の背に無造作に掛けて、椎奈がこちらを見る。
 ソックスと上履きだけのほぼ全裸といってもいい格好なのに、桐花の目の前で恥ずかしげな素振りなど微塵も見せていない。自分の部屋でひとりでくつろいでいるのと同じくらい自然に振る舞っている。いや、桐花ならば、たとえひとりでも全裸でこんなに落ち着いてはいられない。
 椎奈のあまりの無頓着ぶりに、桐花の方が慌ててしまう。いくら放課後とはいえ、学校内で全裸になるなんて。
「ちょ……っ、誰か来たらどうするんですかっ?」
「誰も来ないわ。ドアには鍵がかかってるし」
「え?」
 いつの間に?
 なんて用意のいいことだろう。
 そういえば扉を閉めたのは椎奈だった。最初からヌードを描くつもりだったのなら当然のことかもしれない。
「これでいいでしょう? 私はこれで描くから、あなたも脱いで」
「え、あの……」
 桐花は自分が追いつめられたことに気づいた。
 これではもう断れない。
 椎奈が一方的に話を進めて勝手に脱いだとはいえ、自分の発言が原因で全裸にまでさせておいて、断るなんてできるわけがない。
 しかも、あれだけ当たり前のように脱がれてしまっては、恥ずかしがっている自分の方がおかしく思えてしまう。別に、椎奈に変な目的があるわけではあるまい。あくまでもこれは絵のモデルなのだ。
 異性とか複数の前でというならともかく、相手は同世代の女の子ひとり。それも写真ではなく絵画。羞恥心さえ克服できれば、モデルくらいやってみても構わないと思う。
 桐花は人目を引くほどのナイスバディとはいわないが、まあまあ悪くないスタイルだと自負している。少なくとも太ってはいないし、小柄な割には出るべきところも人並みには出ている。肌も綺麗な方だと思う。
 裸を人目に曝すことをどうしても躊躇するような身体ではない。
 やってみても、いいだろうか。
 もう一度椎奈を見る。
 小柄で全体的に細身だが、やはり華奢という印象は受けない。内面の強さが顕れているためだろうか。あるいは出るべきところがしっかり出ているためかもしれない。
 特別大きいというほどではないが、胸はそれなりの大きさで、なにより形が綺麗だった。ウェストは細くくびれ、腰から太腿にかけてなめらかな曲線を描いている。
 二歳とはいえ年上だからだろうか、桐花よりも大人っぽさ、女っぽさを感じさせる身体だった。下腹部の小さな黒い茂みまで顕わになっていて、見ている桐花の方が赤面してしまう。
 椎奈は無言でこちらを見ている。
 特に急かすわけでもなく、強要するようなことも言わない。ただ無表情に、桐花の次の行動を待っている。
 拒絶される可能性など微塵も考えていないのではないか、モデルをするのが当たり前だと思っているのではないか――そんな気がした。
「……」
 だめだ、断れない。
 結局、桐花の方が根負けした。いつまでもこうして躊躇している方が恥ずかしくなってくる。変に意識しているみたいではないか。
 これは単なる絵のモデル。芸術のため。
 そう自分に言い聞かせる。
 小さくひとつ深呼吸をして、制服の上着を脱いだ。
 近くにあった椅子を引き寄せて背もたれに掛ける。
 スカートのファスナーを下ろす。ホックを外す。
 足下に落ちたスカートから脚を抜いて拾い上げる。小さく畳んで椅子の上に置く。
 ベストのボタンを外して脱ぐ。
 襟のリボンをほどく。
 ブラウスのボタンをひとつずつ外していく時は、さすがに少し指が震えた。
 靴とソックス、ブラとショーツのみという姿。普段の学校生活では、体育の着替えの時くらいしかありえない。
 なんだか頼りない。初夏でしかも好天の今日、校内は適温のはずなのに肌寒く感じた。
 例えばこれが修学旅行や合宿といった学校行事での入浴時であれば、さほど抵抗なく脱げるだろう。しかしモデルとなるとまったく事情が違う。
 お風呂の脱衣場と違って、ここは桐花にとって「裸になるのがと当たり前の場所」ではない。扉に鍵がかかっていても、窓にカーテンが掛かっていても、女の子しかいない女子校であったとしても、緊張感というか、本能的な恐怖感がある。
 時間稼ぎをするように、靴とソックスをのろのろと脱ぐ。
 これでもう後がなくなった。
 身に着けているものは残りふたつだけ。どちらも、普通は人前で外さないもの。
 躊躇いがちに背中に手を回す。
 ブラジャーのホックを外す。
 相手の顔を窺いながら、両手で胸を隠すようにしてブラジャーを外した。椎奈は相変わらずの無表情で、なにを考えているのかまったく読めない。
 二度、三度と深呼吸して、胸を隠していた手を下ろす。
 この段階で既にかなりの精神的疲労を感じていたが、最後の一枚を脱ぐことへの抵抗感は胸を曝すことの比ではなかった。
 公衆浴場で裸になることは平気でも、教室の中で、日中、しかも向かい合って見られている状況では。
 とはいえ、ここまで来てしまっては今さら止めることもできない。この上さらに「全部脱ぐんですか?」と念を押すのもどうかと思う。
 椎奈は既に靴とソックス以外はなにも身に着けていないのだ。考えようによっては、靴とソックスだけというのは全裸よりも恥ずかしいかもしれない。
 なのに平然としている。
 桐花はとてもそんな風にはなれそうもない。しかしいつまでもこの中途半端な格好のままではいられない。
 他の誰に見られる訳じゃない。
 犯される訳じゃない。
 ただ、絵のモデルをするだけ。
 何度も何度も自分に言い聞かせる。
 大きく息を吸って、吐いて。
 心を決める。
 目を閉じて、えいやっとばかりに勢いをつけてショーツを脱いだ。
 そして、恐る恐る目を開ける。椎奈は相変わらず感情の読めない無表情のままだ。
 脱いだショーツは椅子の上に置いた服の一番上に乗せ、やっぱり思い直してブラジャーと一緒にスカートの下に隠した。
「……これで……いいですか?」
 前を隠したくなる衝動を抑えて、手を身体の後ろでしっかり組んだ。そうしていないと反射的に隠そうとしてしまいそうだ。無防備に曝け出すことは確かに恥ずかしいが、隠すためにその部分に手をやることは、もっと恥ずかしい。
「ん、綺麗な身体をしてるわね。思った通り、いい感じ」
 相変わらず無表情なまま、抑揚のない声で椎奈が応える。感情が希薄というか、どこか無機的ですらあるその態度が、かえって安心できた。
「楽な姿勢で、そこの壁に軽く寄りかかるようにして。そう、体育の「休め」の姿勢みたいな感じで」
「……はい」
 イーゼルの前に移動する椎奈を横目に見ながら、その言葉に従った。なにしろ精神的に負担の大きい格好だから、寄りかかっていられるというのはせめてもの救いだ。
「ところで、あの、……他の部員の方は?」
「いないわ。私だけ」
 桐花は先刻から気になっていたことを訊いて、その答えに安堵の息をついた。
 大勢に取り囲まれてのヌードモデルなんて絶対に無理だ。椎奈ひとりに見られているだけでも、かなりの負担だというのに。
 イーゼルの前に座った椎奈は、しかし鉛筆も筆も取らず、まっすぐに桐花を見つめていた。
 自然と、見つめ合う形になる。
 椎奈の視線を正面から受け止めることになった桐花は、たちまち圧倒されてしまった。
 手はもちろん、視線すらまったく動かさずにこちらを見つめている椎奈。
 なんて力のある視線!
 その大きな瞳は一目見た時から印象的だったが、見ることに集中した椎奈の瞳は圧巻だった。
 刺すような鋭い視線ではない。もっと大きな、身体全体が押されるような面の圧力を感じる。それはまるで、水量豊富な深い川に身を浸しているかのような感覚だった。
 こんな瞳は初めてだ。
 深い、深い色の大きな瞳。
 桐花は完全に圧倒されていた。
 身体が強張る。ぴくりとも動くことができない。蛇に睨まれた蛙というのは、あるいはこんな状態なのかもしれない。
 全裸であることが、また急に心許なくなってきた。
 なにしろ、見られているというよりもまるで触れられているかのようなのだ。
 椎奈は、視力で桐花に触れている。
 モデルである桐花の身体を、隅々まで余すところなく触れて確かめている。
 以前なにかのニュースで、目の不自由な人のために彫刻に直に触れることのできる展覧会の光景を見たことがあった。それと同じだ。目で椎奈に触れている。形を、手触りを確かめている。
 身体中、隅々まで、余すところなく。
 頭、顔、耳、首、肩、胸、脇、腹、脚、そして陰部まで。
 感じる。
 視られているだけのはずなのに、はっきりとした圧力を感じる。掌を押しつけられているかのように。
 これが、一流の芸術家ならではの集中力がなせる技だろうか。
 こんな経験は初めてだった。
 桐花は椎奈の目を見つめていた。
 いや、捕らえられていたという方が正しいかもしれない。その力強い瞳から、視線を逸らすことができなかった。
 魂まで吸い込まれてしまうような深い瞳。
 無言で見つめ合う時間は、いったいどのくらい続いたのだろう。
 五分? 十分? それとも一時間とか二時間?
 時間の感覚などすっかり失われていた。
 緊張と羞恥心のために、全身がじっとりと汗ばんでくる。
 頭がくらくらする。視界がぐるぐる回っているかのようだ。目の焦点を合わせていられなくなる。
 もう限界――そう思った頃、不意に椎奈が口を開いた。
「いいわ、座って楽にしていて」
 素っ気なく言うと、桐花から視線を外してカンバスに向き直った。絵の具とパレットを手に取って、いくつもの色を混ぜ合わせていく。
 もう、こちらを見てはいない。
 椎奈の視線の圧倒的な圧力から解放されて、桐花は大きく息を吐き出した。全身から力が抜けていく。
 とりあえず近くにあった椅子を引き寄せると、裸のまま崩れるように座った。
 楽にしてもいいとは言われたが、服を着てもいいとは言われていない。もう着てしまっても構わないだろうとは思うが、椎奈が裸のままで筆を動かしているのに、桐花だけが先に服を着るのも不自然な気がする。本来、裸になる必要があるのはモデルである桐花の方なのだ。
 そもそも、服を着るために立ち上がるのも面倒なくらいに疲れていた。主に精神的な理由ではあるが。
 椅子に反対向きに座って、背もたれに顎を乗せただらしない格好で、ぼんやりと椎奈の様子を見た。
 カンバスに向かって小刻みに筆を動かし、次々と色を乗せていく。
 じっとカンバスを凝視している。先ほどまで桐花を見つめていた時と同じ力強い視線を、今度はカンバスに向けている。
 その姿を綺麗だと思った。
 それはほんのわずかな雑念もない純粋な状態。一流の者だけが持つ、常識を越えた集中力。
 研ぎ澄まされた刀剣にも似た、鋭い、危うい美しさ。
 そんな姿をぼんやりと見つめる。
 素人の桐花は、絵というのはモデルを見ながら描くものと思っていた。しかし椎奈は違うようだ。
 筆を手に取ってからは、一度もこちらを見てはいない。一瞬たりともカンバスから視線を外していない。瞬きすらほとんどしていないように見える。
 眼力でカンバスに穴を開けそうなほどの集中力を持って、一心不乱に手を動かしていた。
 最初にじっくりと対象を観察した後は、自分の中にできあがったイメージを描き出していく――それが椎奈の描き方なのだろうか。一流の才能を持った人間のやることなど、凡人の桐花に理解できるはずもない。
 ただ椎奈が見せる集中力と熱気に圧倒されて、なにをするでもなく椎奈を見つめていた。
 不思議と退屈は感じなかった。小刻みに動く手と、逆にぴくりとも動かない瞳に見入っていた。
 そのままどのくらいの時間が過ぎたのだろう。描き始めた時と同じ唐突さで椎奈が筆を置いた時には、陽の長い季節だというのに外はすっかり暗くなっていた。
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
 立ち上がって大きく伸びをすると、手際よく画材を片付けていく。桐花も思い出したように服を手に取った。
「この後、まだ時間ある?」
「え? ええ……」
「お腹すいてない? よかったらなにか食べにいきましょう。お礼にご馳走するから」
 断わる理由はなかった。
 育ち盛りの十六歳、昼食をきちんと食べても夕方になればお腹はぺこぺこだ。
 それに――
 少し話をしてみたい。
 結局ここまで会話と呼べるものはごくわずかしかなく、椎奈については知らないことばかりだ。この一風変わった先輩のことを、もっと知りたいと思った。
 服を着て、後片付けをして美術室を後にする。
「明日の放課後も来て」
 扉に鍵をかけながら椎奈が言う。最初に会った時と同様、依頼というよりも既に決まった事実を述べているかのような口調で。
 しかし桐花は考えるまでもなく、ほとんど条件反射のようにその言葉に頷いていた。



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