翌日。
 放課後が近づくにつれて、桐花はどんどん落ち着かなくなってきた。
 考えまいとしても、昨日の出来事を思い出してしまう。
 校内で一糸まとわぬ姿になって。
 その姿を凝視されて。
 絵に描かれて。
 目を閉じるとはっきりと浮かんでくる。
 椎奈の大きな瞳。力強い視線。視ることで相手を魅了してしまう瞳。
 昨日の帰り道、椎奈は美味しいケーキをご馳走してくれた。テーブルを挟んで向かい合ってケーキを食べている間、桐花はその瞳から視線を逸らせなかった。
 なにを話したのかはほとんど憶えていないけれど、桐花を見つめる大きな瞳だけは鮮明に記憶に焼きついている。
 またあの瞳で見つめられてしまうのかと思うと、顔や身体が熱くなって、のぼせそうになる。
 どうしてだろう。
 恥ずかしいのに。
 恥ずかしくてたまらないのに。
 なのに、どこか楽しみにしている自分がいる。ちらちらと時計にばかり目をやって、授業に集中できない。
 時計の針の動きが、やたらと遅く感じてしまう。
 落ち着かない。いてもたってもいられない。
 放課後になると同時に、桐花は飛び出すように教室を後にした。
 廊下に人影が少なくなり、美術室が近づくにつれて、鼓動がどんどん速くなってくる。
 美術室の扉の前で立ち止まる。
 息が苦しい。その原因は教室からここまで走ってきたためだけではなさそうだ。胸の鼓動は制服の上からでも動きが見えるくらいに激しい。
 落ち着けようと胸を押さえる。
 心の準備をする。
 この扉を開けたら、また裸にならなければならない。裸を視られなければならない。
 恥ずかしい。
 恥ずかしくてたまらない。
 なのに。
 それを嫌がっていない自分に戸惑っている。
 けっして裸になりたいわけじゃない。視られたいわけじゃない。
 だけど、嫌だとは思っていない。
 椎奈のあの瞳が忘れられない。あの、力のある視線が。
 真っ直ぐに桐花を見つめていた瞳。押し潰されそうに感じるほどに力のある視線。
 あの瞳だからこそ恥ずかしくて、だけどあの瞳だからこそ断れない。
 いったいどうしてしまったのだろう。わけがわからない。
 美術室の扉に手をかけたところで、桐花はそのまま動きを止めた。
 迷いが生じてしまう。一度躊躇してしまったせいで、扉を開けるきっかけを失ってしまった。
 羞恥心がどんどん膨らんでくる。
 扉にかけた手が、ぴくりとも動かない。
「来てくれたの、ありがとう」
 その声がなければずっと固まっていたかもしれない。不意の声にびっくりして跳び上がる。見ると、椎奈が来るところだった。
「さ、入って」
 扉を開けて促す。その言葉に操られるように、桐花は美術室へと入った。
 椎奈はいま教室から来たところというわけではないようだ。美術室には鞄が置いてあって、昨日と同じ位置にイーゼルや椅子、机が出してある。桐花が来ればいつでも始められるという状況だった。
 桐花も適当に鞄を置く。そこでまた躊躇してしまう。
 服を脱がなければならない。しかし、まだ明るい中、美術室で全裸になるというのは扉を開けることなど比べものにならないくらいにきっかけが難しい。
 そのきっかけは、また椎奈が与えてくれた。正確に言えば、桐花は自分で服を脱ぐ必要すらなかった。
「じゃ、始めましょうか」
 その声に振り返ると、椎奈が目の前に立っていた。不自然なほどすぐ近くに。
 両手を伸ばしてくる。桐花の制服に触れる。
「あ、あの……」
 その手は桐花がなにも言えずにいるうちに、上着のボタンを外していった。簡単に上着が脱がされる。
 続いてベストも同じように。
 そこまではまだいい。しかしスカートに手をかけられた時はさすがに慌てた。
 ホックが外され、ファスナーが下ろされる。支えを失った生地が足下に滑り落ちる。
 顔がかぁっと熱くなった。
 なのに動けない。恥ずかしいのに、なぜか抵抗しようという気にもなれない。
 ただ全身を強張らせていた。
 襟のリボンがほどかれる。
 ブラウスのボタンがひとつずつ外されていく。
 考えてみればとんでもない状況だった。他人の手で服を脱がされている。それも、全裸にされようとしているのだ。
 これならむしろ、自分で脱ぐ方が抵抗は少ない。
 なのに、なにもできず、なにも言えず、ただされるがままになっている。
 椎奈の顔が近づいてくる。両腕が身体に回される。一瞬、抱きしめられるのかと思ってしまったが、実際にはブラジャーのホックを外されただけだ。
 胸が露わにされる。
 見られている。椎奈の大きな瞳で、間近から見つめられている。痛いほどに視線を感じる。
 唾を飲み込む。
 脚が震えてきた。
 椎奈が足元に跪く。
「脚、上げて」
 脚が震えて力が入らなくて、身体がふらついて、うまく片足で立てなかった。椎奈に持ち上げられるようにして右足を上げる。
 靴とソックスが脱がされる。
 左足も同様に。
 ついに、ここまで来てしまった。
 身に着けているものはあと一枚だけ。それを他人の手で脱がされようとしている。
 幼少の頃、親に着替えを手伝ってもらったり病院へ行った時以外、そんな経験はない。しかも今回の相手は家族でも看護婦でもなく、まったくの他人なのだ。
 同性であることがせめてもの救いといえなくもないが、普通の女子高生であれば、むしろ異性に脱がされた経験者の方が多数派だろう。バージンである桐花にとってはどちらにしても初めての経験だった。
 椎奈の白く細い指が下着にかかる。
 化繊の生地が太腿を滑りおりていく。
「……、……」
 ぎゅっと唇を噛む。そうしていないと、叫び声を上げてしまいそうだった。
 頭に血が昇っていく。顔が膨らんで破裂してしまうような気がした。
 女の子のいちばん恥ずかしい部分を隠す最後の一枚を、他人の手で脱がされている。しかも相手の顔はすぐ間近にあって、その場所を正面から見られているのだ。
 正真正銘の全裸にされた時には、今にも倒れそうな心境だった。肝心のモデルをするのはこれからなのに、既に疲れ切ってふらついている。
「……ひょっとして、恥ずかしいの?」
 耳たぶまで真っ赤に染めて硬直している桐花の様子を見て、椎奈は小さく首を傾げた。相変わらずの無表情なので考えを読むのは難しいが、不思議そうにしているようだ。
 やはり彼女には、ヌードモデルをすることが恥ずかしいなどという発想はないらしい。桐花は硬直して、うなずくことすらできずにいるというのに。
「やっぱり昨日みたいに、私も脱いだ方がいいのかな」
 桐花とは対照的に、なんの躊躇いもなく制服のボタンに手をかけた。しかしボタンをひとつ外したところで手を止めると、桐花を見て一度瞬きをする。
「……そうね。この場合、あなたに脱がしてもらうのが公平ね」
「え」
 微かに悪戯な笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。椎奈は手を下ろすと桐花に一歩近づき、促すように軽く胸を突き出した。
 まったく、どういう思考回路をしているのだろう。
 すべてが計算尽くなのか、それともものすごい天然なのか。後者の可能性が高いところが逆に怖い。
 モデルが裸になることを恥ずかしがっているからといって、自分も服を脱ぐ絵描き。それだけでも変わり者のレッテルを貼るには充分と思えるが、自分の手でモデルを脱がし、そのお返しとして相手に脱がせてもらおうだなんて。
 そもそも、椎奈が裸になるのは昨日だけのことと思っていた。昨日だって桐花にはそんなつもりはなかったのだし、今日は多少の躊躇いはあったにしろ、一応は覚悟を決めてきたのだ。
 椎奈が裸になる必要はないし、百歩譲っても自分で脱いでもらっても構わない。
 なのに桐花は、椎奈の言葉に誘われるように手を伸ばしていた。
 心のどこかで、その行為をしてみたいと思っていた。
 震える手で上着のボタンを外していく。
 上着を、そしてベストを脱がせる。
 スカートを下ろし、脚を抜かせる。細くて長い脚が露わになる。椎奈のスカートは今どきの女子高生としてはやや長めだったので、初めて見る白い太腿にどきりとした。
 おそらく、普段あまり屋外で遊んだり、スポーツをしたりはしないのだろう。細くて、肌が白くて、傷ひとつない滑らかな脚をしている。見慣れた自分やクラスメイトの脚とはまるで違うもののように思えて、鼓動が激しくなってしまう。
 ここから先は、いっそう「脱がしている」という実感が強くなる領域だった。
 小さくひとつ深呼吸して、襟のリボンに手を伸ばす。
 リボンがほどける。ブラウスの一番上のボタンは留めていなかったようで、はだけた胸元が眩しい。
 普通は逆のはずだが、脱がされている椎奈よりも、脱がしている桐花の方が恥ずかしくなってきた。
 椎奈は相変わらずの無表情。表情だけを見ればマネキンの着せ替えと大差ないかもしれない。しかし目の前の相手は、人形と思い込むには瞳に生命力がありすぎた。
 こんなに強い光を放つ瞳を持った人形なんて、あるわけがない。
 生きている、生身の人間。
 自分と同じ年頃の、しかも、かなり綺麗な女の子。
 その服を脱がしている。全裸の自分が、女の子を全裸にしようとしている。
 考えれば考えるほど恥ずかしい。考えないようにしよう、無心になろうとしても無理な話だ。
 直視するのが恥ずかしくて、うつむき加減でブラウスのボタンを外していく。かといって完全に視線を逸らすこともできない。視線が、綺麗な肌に引き寄せられてしまう。
 ブラウスを脱がす。下着姿の椎奈が目の前に立っている。白いレースで彩られた、高級そうな下着だった。
 ごくり……唾を飲み込む。
 一歩近づいて、背中に腕を回す。二人の距離が一番接近する一瞬だった。息がかかる距離に椎奈の顔がある。
 ブラジャーのホックを外すと、ずれたカップの下から形のいい膨らみが顔を覗かせる。先端の突起は小ぶりで、淡いピンク色をしていた。
 桐花には別に同性愛の趣味はないから、これまで女の子の裸をまじまじと見たことなどなかった。修学旅行の入浴や水泳の授業の着替えで服を脱ぐことがあっても、クラスメイトをじっくりと観察などしない。たまに好奇心からインターネットのアダルトサイトをこっそり見ることはあるが、興味の対象は『行為』であって、AV女優の裸体ではない。
 だから、こんな風に女の子の裸を見るのは初めてだった。
 知らなかった。女の子の身体が、こんなに綺麗なものだったなんて。
 それとも椎奈が特別なのだろうか。
 とても綺麗なもの。とても大切なもの。
 そんな気がする。
 だから緊張してしまう。手が震えてしまう。これまで以上に、いけないことをしているような気持ちになってしまう。
 心臓が爆発しそうなほどに激しく脈打っている。
 最後の一枚を脱がしていく。その下に隠されていたものが露わになる。
 滑らかな美しい曲線を描く腰、太腿。秘密を隠した淡い茂み。
「どうしたの?」
「えっ? あ、いえっ、なんでもないです!」
 自分でも気づかないうちに、手が止まっていた。膝のあたりまで下着を下ろしたところで、見とれてしまっていた。
 そんなことを正直に言うわけにもいかず、慌てて残りを脱がす。
 桐花に全裸にされた椎奈。
 椎奈に全裸にされた桐花。
 全裸の少女が二人、間近に立っている。
 なんとも不思議な光景だった。
「じゃ、始めようか」
「はっ、はいっ!」
 脱がした下着を手に持ったままだったことに気づいて、慌てて小さく畳んで他の服と一緒に椅子の上に置いた。
 昨日と同じ位置に、同じ姿勢で立つ。
 まだ顔が熱くて、鼓動が速かった。
 対称的に椎奈は昨日と変わらぬ無表情だ。彼女には羞恥心というものがないのだろうか。まさか、いつもこんな風にモデルと一緒に全裸になっているわけではあるまい。
 イーゼルの前に置いた椅子に座った椎奈は、すぐには筆を手に取らず、昨日と同じように真っ直ぐに桐花を見つめた。
 あの、力のある瞳で。
 圧倒されるような圧迫感。
 手で触れられているかのような質感を感じる視線。
 椎奈に見つめられていると、激しい動悸は治まるどころかいっそう激しくなっていく。
 冷静に考えてみれば、やっぱり不思議な光景だ。
 女子高生が二人、放課後の教室で全裸になって向き合っている。
 ここが美術室で椎奈が絵描きであることを考えても、桐花ひとりが裸でいる方がまだ自然な状況だろう。
 女の子が全裸で、密室に何時間も二人きり。
 そう考えるとやっぱり平常心ではいられない。考えないようにしようと思えば思うほど、いっそう意識してしまう。
 考え過ぎなのはわかっている。
 椎奈は少しばかり感性が常人と違うだけで、変な下心があるようには見えない。だからこそこんなことができるのだ。でなければもっと直接的な行動に出るか、あるいは下心を隠すためにもっと自然に振る舞うかだろう。
 これが、彼女の素。
 だからなにも気にする必要はない。ただ平然とモデルをしていればいい。
 頭ではわかっていても、実践するのは難しかった。
 ただでさえ慣れないヌードモデル。そしてなにより、椎奈の瞳があまりにも強い光を放っているから。
 一糸まとわぬ姿をあの瞳に見つめられていて、平常心を保のは不可能だった。
 舐めるような、なんて生やさしい表現では済まされない。毛穴のひとつひとつまで記憶しようとしているかのような、全身全霊の力のこもった視線。
 椎奈の瞳には力がある。
 だから、見つめられているだけで消耗してしまう。ほんの数分間で疲れ果ててしまう。
 だけど。
 けっして、不快ではない。
 恥ずかしいけれど。
 心穏やかではいられないけれど。
 精神的に疲れ果ててしまうけれど。
 心のどこかで、見られていたい、見て欲しいと思っている。見られることが嬉しいと思っている。
 どうしてだろう、こんな気持ちになるのは。
 神秘的なほどに美しくて力強い瞳が、桐花を捕らえている。
 昨日と同様に、時間の感覚がなくなるくらい長い時間、椎奈は黙って桐花を見つめていた。やがて楽にしているように言うと、筆を持ってカンバスに向き直った。
 それからは一心不乱に手を動かし続けている。
 あの視線をカンバスに向けている。
 こちらはちらりとも見ない。一瞬たりともカンバスから視線を外さない。
 桐花は全裸のまま、椅子に座ってそんな光景を見つめていた。
 不思議と、退屈とは思わなかった。
 天才だけが持つ集中力でカンバスに向かう椎奈を見ていると、時が過ぎるのを忘れてしまう。
 そんな時間が下校時刻まで続く。
 帰りにはやっぱり昨日と同じように美味しいケーキをご馳走してくれた。
 椎奈はあまり口数の多い方ではないようだが、さすがに絵に関することは知識も豊富なようで、ぽつりぽつりとではあるが、桐花でも名前を知っているような有名な画家にまつわる逸話を話してくれたりした。
 そうした時間が、不思議なほどに楽しかった。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2005 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.