「うわぁ……」
 それだけ言ったきり、桐花は口をぽかんと開けて言葉を失ってしまった。
 ようやく完成した絵を一目見た瞬間、圧倒されてしまった。
 それは、カンバスいっぱいの緑。
 熱帯の密林を思わせるような深い森の風景。
 悠久の時を生きてきた樹々の節くれだった幹も、分厚い苔に覆われている。
 深い、深い緑色の風景。空気までが緑に染まっているのでないかと思われるほどの空間。その中で、樹に寄りかかるようにして全裸の少女が立っている。
 深い緑の中にある、健康的な赤みを帯びた肌色。そこだけが異質の色彩を放っている。それ故にひどく印象に残る。
「……、……」
 声が出せなかった。感動を言葉に変換することができない。
 深い、限りなく深い色彩。吸い込まれてしまいそうなほどに深い。
 圧倒されて、呼吸をすることも忘れてしまいそうだ。
「いかが?」
「……す、ごい……すごい! すごい! めちゃすごい!」
 他に言葉が出てこなかった。桐花は馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す。
 いつもは無表情な椎奈も、今日はこころなしか嬉しそうな、誇らしげな顔をしているような気がした。
「ま、けっこういい感じに描けたかな。あなたは肌の色がとても綺麗だから、よく映える」
「えー、そんなこと……」
 顔が熱くなる。椎奈に褒められたことが嬉しくて、そして恥ずかしい。
「こんなスゴイ絵……、椎奈さんの才能ですよ、やっぱり」
「気に入ってくれたのなら、この絵はあなたにあげる」
「えっ、でも……」
 喜びのあまり跳びあがりそうになったが、一瞬遅れて大事なことを思い出した。
「こんな高価なもの……」
 椎奈の絵のモデルをしていることは、仲のいい友達にはちらっと話していた。ヌードであることは隠していたけれど。
 桐花よりは事情通であるその友達が、椎奈の絵の価値を教えてくれた。小さな作品でも十万円単位の値がつく、と。
 まだ高校生の椎奈だが、絵の世界では知る人ぞ知る天才少女なのだ。一部ではかなり高い評価を得ているらしい。
 桐花をモデルにした絵にどれだけの価値があるかはわからないが、椎奈の絵というだけでも相応の評価を得るだろう。
 その絵をもらうというのは、マンガが得意な友達がスケッチブックに描いた似顔絵をもらうのとは訳が違う。
「いくら油絵の具が高いといっても、この絵の原価なんてたかがしれてるわよ? 絵の価格なんて、画商とか、自分の持ち物に金銭的価値がないと満足できないな金持ちが、勝手な値をつけてるだけ。正直なところ、絵の金銭的な価値には興味ないわ。私が自分の意志で描いた自分の絵だもの、どう扱おうと私の自由でしょ?」
「でも……」
 売れば少なくとも数十万円の絵、簡単に受け取っていいものだろうか。モデルといっても、それほど役に立てたとは思えない。この絵が素晴らしいのはすべて椎奈の手柄だろう。
 しかし。
「代わりに、次の作品のモデルもしてくれる?」
 そう言われた時には即座にうなずいていた。
 もちろん、この絵と引き替えでなくても迷わず引き受けただろう。
 椎奈のようなすごい才能の持ち主に選ばれること。
 こんなに素敵な絵にしてもらえること。
 それは桐花にとって、大きな悦びだった。



 そうしてまた、放課後に椎奈のモデルをする日々が始まった。
 また、全裸で。
 椎奈も裸になって描いている。
 モデルを始めて二日目の日以来、それが当たり前になっていた。相手に服を脱がしてもらうことも含めて。
 どれだけ日を重ねても、それが平気にはならない。裸にされることも、椎奈に見つめられることも、全裸の椎奈を見つめることも。
 心拍数が上がり、頬が紅潮する。喉が渇く。緊張と疲労感で脚が震える。
 だけど不快ではない。むしろ心地よいとさえいえる。
 不思議な感覚だった。
 毎日、悦びと戸惑いと緊張が入り混じった心理状態で椎奈に描かれている。
 二枚目の絵は、海の風景だった。
 一面の碧。
 珊瑚礁の島を思わせる、真っ白い砂浜。
 白い砂、白い波、白い雲。
 青い空、碧い海。
 その美しい対比が印象的だった。
 そして、白く崩れる波の中に座っている裸の少女。
 南国の強い陽射しを浴びて、肌が艶やかに輝いている。
 鮮やかで、そして深い色。
 魂が吸い込まれるような、透明感のある深い色づかい。それが椎奈の絵に共通した特徴らしい。
 完成した絵を前に、桐花は全身に鳥肌が立つのを覚えた。
 震えてしまう。
 震えてしまうほどに綺麗。
 怖いほどに綺麗。
 引きずり込まれてしまいそう。
 それは本当に、絵の中に吸い込まれてしまうような感覚だった。



 そして今日も、授業が終わると同時に桐花は美術室へと向かった。
 二枚目の海の絵が完成した後、椎奈は間を置かずに三枚目の制作に取りかかっている。
 もちろん桐花にも異論のあるはずがない。喜んで椎奈に協力していた。
 椎奈の絵のモデルをすることは、悦びだったから。
 椎奈の前に裸体を、なにひとつ飾らない自分の身体を曝すこと。
 椎奈の力強い瞳に見つめられること。
 椎奈に描かれること。
 自分の生命が、椎奈の手でカンバスに写しとられること。
 椎奈の美しい絵の中に、自分が存在すること。
 そしてなにより――椎奈の傍にいられること。
 すべてが悦びであり、快感だった。
 そんな想いを自覚したのはいつ頃だったろう。はっきりとはわからない、気がついたらそうなっていた。
 授業中は、放課後が来るのが待ち遠しくて仕方がない。
 椎奈に逢える時間。
 椎奈と一緒にいられる時間。
 椎奈に描いてもらえる時間。
 椎奈に見つめられる時間。
 いつも心待ちにしている。
 今日も、放課後になると同時に自分の教室から美術室までを一気に駆け抜けた。弾けるような動作で扉を開ける。
 大抵、椎奈は先に来ていて、桐花が来るまでお茶を飲んだりしているのだが、この日は違っていた。
 美術室に椎奈の姿がない。今日は三年生の方が先に授業が終わる時間割だったはずなのだが。
 訝しみながら中に入った。イーゼルや椅子が出してあるところを見ると、椎奈は一度ここに来たようだ。そう思ったところで、イーゼルの端に貼りつけてあるメモ用紙に気がついた。
『クラスの用事で少し遅れるから、待ってて』
 そう書いてある。
 昨今の女子高生にしては大人びた字。間違いなく椎奈の筆跡だ。
「……なんだ。だったらメールくれればよかったのに」
 一応メールアドレスの交換はしてあるのだが、どうやら椎奈はあまり携帯を使う性格ではないらしかった。
 いろいろと今どきの女子高生らしくない椎奈だが、そんなところが逆に椎奈らしいという気がした。
「……ちぇ」
 桐花は舌打ちする。
 つまらない。
 つまらない。
 残念だ。
 悲しい。
 カナシイ。
 早く描いてもらいたかったのに。
 ――早く椎奈に逢いたかったのに。
 ほとんど無意識のうちに、そこに置いてあった筆を手に取っていた。
 椎奈のものだ。
 ぎゅっと握りしめて、抱きしめるように胸に押しつける。少しだけ、そこに椎奈がいるような感覚を覚えた。
 少しでも椎奈とのつながりが欲しかった。ただ一人でいるよりはましだ。
「……なにやってるんだろう、私」
 なんなのだろう、この感覚は。
 逢いたい。
 逢いたい。
 逢えないと寂しい。
 逢えない時間が、泣き出してしまいそうなほどに寂しい。
 なんなのだろう、この感情は。
 まるで、
 まるで……
 まさか……
 まさか。
 違う。
 違う。
 多分、違う。
 だけど。
 だけどまるで、恋愛感情みたいではないか。
 おかしなことだ。
 そう思いつつも、抱きしめた筆を手放せない。
「……逢いたい」
 どうしてだろう、涙が滲んでくる。
「待たせてしまった? ごめんなさい」
 不意に声をかけられて、びっくりして跳びあがった。扉が開いたことにも、近づいてくる足音にも、まったく気づいていなかった。
「あ……い、いいえっ! 全然、待ってなんかないです!」
 振り返って応える。声が裏返ってしまう。
 どうしてこんなに取り乱してしまうのだろう。
「……?」
 不思議そうな椎奈の視線は、桐花の手元に向けられていた。
 筆を握りしめている手を。
 慌てて筆を置く。
「あなたも描いてみたいの?」
「い、いえ、そういうわけではなくて、ただ、なんとなく……」
 なんとなく、なんだというのだろう。
 どう説明すれば、不自然ではないのだろう。
 うまい言い訳が思い浮かばない。
 しかし椎奈は特に気にしている様子もなかった。彼女にとっては些細な問題なのかもしれない。
「さ、始めましょう」
「は、……はい!」
 いつものように、椎奈の手が触れてくる。上着のボタンを外していく。
 熱い。
 指先が触れた胸元が、灼けるように熱かった。



 最初に描いてもらった絵は、自室の壁に掛けてある。
 毎日、少なくとも何分間かは絵に見入ってしまう。どれほど見ても見飽きることがない。
 この絵を見ていると、まるで椎奈に見つめられているような気持ちになってしまう。
 描かれている少女は桐花がモデルだ。それは間違いない。
 しかし、瞳だけが桐花のものでなかった。
 それは椎奈の瞳だ。
 椎奈の、あの力強い瞳がそこにあった。
 その瞳で、桐花を見つめている。
 自分の部屋にいる間、常に椎奈に見つめられている。
 そう思うと、鼓動が速くなってくる。体温が上昇する。
 見られている。
 視線を感じる。
 その日の風呂上がり。
 バスタオル一枚の姿で部屋に入ると、ちょうど正面から見つめられるような形になる。桐花は思わず動きを止めた。
 桐花の姿をして椎奈の瞳を持った少女が、こちらを見つめている。
 見られている。
 見つめられている。
 痛いほどの視線をはっきりと感じる。肌がびりびりと痺れるようだ。
 この感覚は、着替えの時やお風呂上がりに特に強い。そう、肌を曝している時ほどそう感じてしまう。
 鼓動が速い。
 身体が熱い。
 それはけっして、長風呂のせいだけではない。
 ゆっくりと手を動かす。身体に巻いていたバスタオルが落ちる。
「――っ!」
 打たれたような衝撃。
 全身に椎奈の視線を感じる。
 呼吸が荒くなる。
 そっと胸元に触れた。数時間前、椎奈の指に触れられた位置に。
 一瞬、火傷しそうな熱さを感じて手を引っ込める。肌に残った熱さがじわっと広がって薄れていく。
 また、恐る恐る指を伸ばす。
 何度も、そんな動作を繰り返す。
 何度も、何度も。
 だんだん、触れている時間が長くなる。
 だんだん、指に力が入ってくる。
 そして――
 だんだん、触れる位置が変わっていく。
「……あ……く、ぅん……っ!」
 脚に力が入らなくなって、その場に座り込んでしまう。それでも、手の、指の動きが止まらない。
「…………ぁ……し、ぃな……さん……」
 指が勝手に動いて止まらない。筆を自在に操る椎奈の指のような動きで、桐花の身体を弄ぶ。
 私ってば、なにをしているんだろう。
 理性が小さな声を上げる。
 こんなの、おかしい。なにか変。
 椎奈のことを考えながら、こんなことをしている。
 椎奈に見られていることを想い出しながら、こんなことをしている。
 椎奈に触れられたことを想い出しながら、自分に触れている。
 こんなの変。
 なにかおかしい。
 普通じゃない。
 頭の片隅でそう思いつつも、指の動きを止めることはできなかった。



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