紅――
 
 放課後、いつものように美術室の扉を開けた桐花の視界に飛び込んできたのは、紅い色彩だった。
 カンバス一面に広がった、深紅の染み。
 その前に無表情に立つ椎奈。
 鮮やかな色彩に心奪われてしまい、剃刀を握っている椎奈の右手と、鮮血を滴らせている左手首に気づくのが一瞬遅れた。
「な、なにやってるんですかっ!」
 大慌てで自分の鞄を放り出すと、飛びつくようにして椎奈の手から剃刀をもぎ取った。
 紅い滴が飛び散って床に丸い染みを作る。しかしそれは、椎奈の足元にある紅い水たまりに比べれば取るに足らないほど小さなものだ。
 しかも、現在進行形で広がりつつある。左手の指先からぽたぽたと鮮血が滴っている。冗談ですませられる量の出血ではない。
「どうしてこんなことを……絵のことでなにか悩んでたんですか? 私じゃなにも力になれないかもしれないけれど、死のうとする前に相談くらいしてくれたっていいじゃないですか!」
 桐花は金切り声で叫んだ。
 自ら命を絶った画家の例は、文筆家に比べるとはるかに少ない――いつだったか椎奈が話してくれたことを想い出す。
 有名どころではゴッホくらい。美術に興味を持つ者を除けば、リヒャルト・ゲルステルの名を知る日本人はそう多くはないだろう。しかしゲルステルはゴッホの影響を受けているし、ゴッホと椎奈の作風はまるで違っても、異常ともいえる集中力と、独特の色彩感覚という点では共通している。だからといって自分を傷つけるところまで似なくてもいいではないか。
 傷の手当てをするために椎奈の手を取ろうとする。しかしそこで桐花は動きを止めてしまった。
 左手首に刻まれた傷痕に気づいてしまったから。
 ひとつやふたつではない。
 新しいもの、古いもの。無数の古い傷の上に重なってつけられた新しい傷。
「……勘違いしないで」
 言葉を失っている桐花とは対照的に、椎奈は普段とまったく変わらない。抑揚のない口調で言う。
「自殺なんかじゃないわ。死ぬ気なんかさらさらない。ただ、この色に見とれていただけ」
「……え?」
「この色が好きなの。この鮮やかな色をカンバスに写し取りたい。だけど絵の具では出せない色」
 左手を掲げる。また血が滴り、床に紅い染みが増える。
「似た色ならいくらでも作れる。だけどここには、絵の具にはない『生命』の色がある。どれほど顔料を調合しても同じ色は出ない。しょせん顔料は顔料、そこに生命はない」
 椎奈は落ち着いた口調で言った。そこには死に向かう悲壮感も、狂気も感じられない。ただただ真剣に絵と向き合う画家の姿だ。
 だからこそ、深紅に染まった左手の異質さが際だっていた。
「だからって、そんな……」
「さ、始めましょう」
「でも、傷の手当てが」
 まだ出血は続いている。左手は真っ赤に染まり、指先からぼたぼたと雫が落ちている。
「そんなの後でいい。私にはこの色彩が必要なの。脱いで」
「でも…………」
 結局、桐花の方が根負けした。
 椎奈の意志の強さ、絵に向かう時の集中力はよくわかっている。自分が納得しない限り、絶対に治療など受け入れないだろう。
 今はなにを言っても無駄だ。傷の手当てをするためには、早く描いてもらった方がいい。
 桐花は服を脱ぎはじめた。いつもは椎奈に脱がしてもらっているのだが、今日は手が血で汚れているので自分で脱ぐようにとのお達しだ。
 考えてみれば、自分で脱ぐのは初めてモデルをした日以来だった。しかし今日は躊躇している余裕などない。自分でも意外なくらい手早く全裸になり、促されて椎奈の服も脱がせる。
 しかし椎奈はいつものようにすぐ席に着かず、間近で桐花を見つめていた。
 血まみれの左手が差し出される。
 顔に近づいてくる。
 深紅に染まった薬指が唇に触れる。口紅を塗るようにゆっくりと滑っていく。
 唇が濡れるのを感じる。錆びた鉄の匂いが鼻をつく。
「綺麗よ、桐花」
 珍しく、心なしか弾んだような声。気がつくと、椎奈の顔がすぐ目の前にあった。
「――っ!」
 柔らかな感触。
 微かな温もり。
 それはほんの短い時間のことで、すぐに椎奈は離れた。その唇が紅く濡れている。
 一瞬、心臓が止まった気がした。
 今、いったいなにをしたのだろう。いったいなにをされたのだろう。
 唇に、柔らかな感触が残っていた。
 椎奈の左手が頬に触れてくる。そこから首筋、胸、お腹へと下がっていく。手が滑っていった後には紅い軌跡が残る。
「綺麗。すごく綺麗」
 初めて見る、熱っぽいうっとりした表情の椎奈。
 桐花の足下に跪いて、太腿を抱くようにして左手を擦りつけている。脚の付け根に近い、かなり際どい部分を触られている。
 顔が火照って頭がくらくらする。今にも倒れそうだ。
 まるで熱中症だ。椎奈の血の熱さに中てられてしまった。
 熱い。
 触れられた部分が、血を塗られた部分が、火傷しそうなほどに熱い。
 椎奈は満足げな表情で席に着くと、いつも以上の集中力で筆を動かし始めた。
 その間、桐花は倒れないように立っているのがやっとだった。
 頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがっている。
 今、いったいなにをされたのだろう。
 キス、されて。
 全裸なのに、身体を直に触られて。
 ……キス!
 初めて、だった。
 相手が異性であれ同性であれ、桐花にとっては初めての経験だった。
 顔が熱くなる。熱くなりすぎて、頭が熱気球のように膨張していくように感じる。
 嫌だ、とか。
 嬉しい、とか。
 そんな判断もできない。
 ただ必死に、爆発しそうなほどに暴れている心臓を抑え、今にも途切れそうになる意識をなんとかつなぎ止めて、ふらつきながらも立ち続けていた。
 倒れたりして、椎奈が描くことの邪魔をしたくなかった。
 この状態で立ち続けていることは辛い。
 それでも、時間が早く過ぎればいいという想いよりも、いつまでもこうしていたいという想いの方がずっと強かった。

 絵を描き終わると、椎奈は身体を拭くためにウェットティッシュを渡してくれた。しかし桐花は血で汚れた自分の身体を無視して、服も着ないまま椎奈の傷の手当てを優先した。
 出血はもうほとんど止まっているようだったが、やはり放っておくことはできない。
 美術室には小さな救急箱が置いてあった。あるいは、こうしたことは日常茶飯事なのかもしれない。
 傷を消毒して、手首に包帯を巻く。
 傷だらけの手首。
 新しい傷、古い傷。
 小さな傷、大きな傷。
 どうしてだろう。不意に涙が出そうになる。
 特に考えがあったわけではなく、衝動的に細い手首を握って、包帯の上からそっと口づけた。



 滴る深紅の液体。
 椎奈の左手から、桐花の身体へと塗りつけられる。
 そんな異常な行為も、一週間も続けば日常となる。
 しかし、けっして慣れることはできない日常だった。
 力のある椎奈の瞳の前で全裸になるだけでも相当に消耗するのだ。それに加えてこんな異常な状況とあっては、平然としていられないのは当然だ。
 だけどけっして不快ではない。
 ぼぅっとして、なにも考えられなくなって、全身が熱くて。
 長風呂をしてのぼせた時に近いだろうか。ふらつきつつも、この感覚に浸っていたいと思ってしまう。
 しかし。
 その日の椎奈は様子が違っていた。
 いつものように描き始めたものの、すぐに手を止めてしまう。普段、無表情で感情を表に出さない椎奈にしては珍しく、傍目にはっきりとわかるくらいに不満げな表情を浮かべていた。
「……違う」
「え?」
「こんなの、本物じゃない。所詮は紛い物よ!」
 叩きつけるように筆を置く。こんなに感情を露わにした椎奈は初めて見た。不満、どころではない。明らかに憤っている。
「桐花の血は、もっと綺麗よ」
「……え?」
 立ち上がり、近づいてくる椎奈。その手には愛用の剃刀が握られている。
「ねえ、そうでしょう?」
 力のある瞳が真っ直ぐに向けられている。桐花はなにも言えない。
「本物が欲しい。あなたの血の色が欲しいの」
 これまでさんざん椎奈の血を吸ってきた刃が、桐花の肌に当てられた。
 胸の膨らみの上ですっと引かれる。
 痛みは、感じなかった。
 後に残ったのは、目に見えるか見えないかの、微かな一本の紅い筋。
 それがだんだんと色鮮やかになり、小さな紅い珠がふつふつと浮き出てくる。
 もう一度、椎奈が手を上げる。
 銀色の光が閃く。
 最初の傷と交差するように、紅い筋が走る。紅い宝珠が次々と浮かんでくる。それが少しずつ大きく成長して隣同士がつながり、紅い帯となる。そしてゆっくりと流れ落ちていく。
 二度、三度、続けて剃刀が疾る。その度に蛍光灯を反射した刃が閃く。
 桐花はまったく抵抗せず、なにも反応せず、ただされるがままになっていた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、肌の上に広がっていく紅い色彩。
「……綺麗よ、桐花」
 椎奈が笑っていた。
 心底嬉しそうな、満足げな笑みを浮かべている。黒い瞳に、これまで以上に強い力と光が宿っていた。
 イーゼルの前に戻って筆を持つ。紅い絵の具をたっぷりと含ませてカンバスに乗せていく。
 異常なほどに熱い視線を桐花に向けたまま。
 身体を貫く視線が痛い。
 傷の痛みはほとんど気にならなかった。
 鋭利な剃刀で切られた綺麗な傷だ。おそらく痕も残らないだろう。
 傷そのものは痛くない。それよりも椎奈の視線の方が何倍も痛い。傷をえぐられるようだ。
 痛い。そして熱い。
 だけどそれは苦痛ではなく、むしろ甘美な痛み、甘美な熱さだった。
 頭がくらくらする。気が遠くなる。
 だけど――
 ずっとこうしていたい。
 熱にうなされたような、だけどとても甘い時間。
 ずっとこうしていたい。
 ずっと、ずっと。
 だけど――
 時は無情にも過ぎてゆく。
 やがて下校時刻が迫り、椎奈も筆を置いた。
 その頃には、桐花の出血も既に止まっていた。胸からお腹にかけて鉄錆色の乾いた血の帯がこびりついていて、動くと肌が突っ張った。
 椎奈が近づいてくる。肩に手が置かれる。
 顔が近づいてくる。
「あ……」
 唇が触れる。胸の傷の上に。
 舌が触れる。固まった血の上を滑る。
 乾いた血を溶かして舐め取っていく。
 全身の血が沸騰して、頭に昇っていくようだった。
 客観的に見れば、これではまるで性行為のようではないか。
 しかし、おそらく椎奈にはそんなつもりはないのだろう。むしろ、もっと生命の源に根ざした行為だ。
 だけど桐花としては意識せずにはいられない。
 熱い。
 椎奈の唇が、舌が触れた部分が熱い。灼かれたように、痛いほどに熱かった。
 なのに――
 それが、気持ちよかった。
 熱い。
 触れられたわけでもないのに、熱くなっている部分がある。
「……ん」
 熱い。
 漏れそうになる声を堪える。
 お腹の奥が熱い。
 どれほど恥ずかしくても、それを認めないわけにはいかなかった。
 限りなく性的な快感に近い感覚。
 他人にそれを与えられるのは初めてだ。
 傷の上で蠢く舌。
 傷のひとつひとつを丹念に舐め、血を一滴残らず飲み込んでいく。
 腕、胸、お腹。いつまでも続く愛撫。
 桐花は小さな身体を震わせて、繰り返し押し寄せてくる快感に耐えていた。



「ごめんなさい、今日はちょっと……」
 そんな台詞を口にするのは、桐花にとっても辛いことだった。
 椎奈のモデルをすることは悦びなのだ。できるなら毎日だって描いてもらいたい。
 肌に傷をつけられるようになっても、その想いは変わっていない。いや、むしろ強まってさえいるかもしれない。
 だけど、今日ばかりはだめだ。
「どうしたの? なにか用事?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……その……」
 桐花はそこで言い淀んでしまう。
 どうしてだろう。別に、普通に言ってもいいはずだ。女同士なのだから。
 なのに、言うことに抵抗がある。
 多分、事情を説明した時の椎奈の反応が予想できていたからだろう。
「どうしても、だめ?」
 縋るような、あるいは懇願するような口調。
 だけどその目は相変わらずの力がこもっていて、桐花にモデルを強要する。
「今日は……その……生理、で……、ちょっと出血が多くて……」
「それがなにか?」
 ああ、やっぱり。
 心の中で小さく嘆息する。予想していた通りだった。
「むしろ、私にはその方が好都合では?」
 わざわざ剃刀で切る手間が省ける、とでもいうのだろう。
 期待を込めた瞳で見つめている。
 拒みきれない。
 最初からわかっていたことだ。
 それでも一応、もう一度確認する。
「…………どうしても、ですか?」
「どうしても、って言ったらしてくれるんだ?」
 やっぱり拒めない。逆らえない。諦めるしかない。
 いや、もしかすると心の奥底では拒みたくなかったのかもしれない。
 それを、して欲しかったのかもしれない。
 小さくうなずいて、椎奈の前に立った。
 手が伸びてくる。
 ボタンを外していく。
 一枚ずつ服を剥ぎ取っていく。
 最後の一枚を脱がされる時は、さすがに全身が強張った。
 太腿の中ほどまで下着を下ろしたところで椎奈の手が止まる。顔から炎が噴き出しそうだった。ぎゅっと目を閉じる。
 美術室に来る前にナプキンを替えてはきたが、出血はまだ続いている。それが深紅に染まっていることは、見るまでもなく明らかだった。
 やっぱり、タンポンの方がよかったかもしれない。だけど桐花は、まだその生理用品を使ったことがなかった。
 ゆっくりと脱がされていく下着。
 間近から見つめられているのを感じる。
「じゃあ、始めましょ」
 妙に嬉しそうな、弾んだ声。恐る恐る目を開けると、満面の笑みが視界に入った。なにも知らない人が見ればとても可愛らしい表情だが、桐花にしてみれば、こんな椎奈には慣れていないので不気味でさえある。
 踊るような足どりでイーゼルの前へ移動し、筆を取る。
 大きな目を見開き、熱っぽい瞳でこちらを見つめる。
 いつも以上に力のこもった視線だった。熱を発しているかのように感じてしまう。
 顔が熱い。
 身体が熱い。
 どうしよう、どうしよう。
 椎奈が筆を動かし始めてすぐに、桐花はパニックに襲われた。
 身体の奥で進行している事態。
 ああ、だめ。
 やめて、今はだめ。
 身体の中で、胎内で、熱い液体が流れだすのを感じていた。
 よりによってこんな時に、新たな出血だなんて。
 滴り落ちてくる。
 流れ出してくる。
 やだ、やだ!
 内腿を伝い落ちる熱い経血の感覚に、気が遠くなりかける。
 一瞬、椎奈の手が止まる。
 はっきりと、瞳の光が強くなる。
 恥ずかしい。
 恥ずかしい。
 だけど、動けなかった。
 恥ずかしさのあまり、全身ががくがくと震える。
 だけど、動けない。隠そうとしたり拭いたりすることはもちろん、目を閉じたり視線を逸らしたりすることさえできなかった。
 鋭い視線が桐花の身体を射抜いて、動くことを禁じていた。
 流れ出た血だけが、性器から太腿へ、膝へ、そして踝へと滴り落ちていく。
 椎奈が見つめている。
 異常なほどに熱い視線。
 異常なほどに力のこもった視線。
 絵を描く時にはいつも常人にはない集中力を見せていた椎奈だが、今日はまた特別だった。
 自らの経血で汚れていく桐花から一瞬たりとも視線を外さず、カンバスを見もせずに筆を動かしている。
 そこに、この姿を写し取られている――そう思うと気が遠くなる。だけど元はといえば、こんな日でさえもモデルを断れなかった自分が悪いのだ。
 今この状態でさえ、恥ずかしい姿を見られ、描かれることに対する抵抗感よりも、椎奈に見てもらえる、描いてもらえる悦びの方が大きい。
 椎奈もまた、今日の桐花の姿をいたく気に入ったようだ。いつまでも描く手を止めようとしない。
 いつもなら、下校時刻十分前を知らせる放送に合わせて帰り支度を始めるのに、今日は下校時刻を過ぎてしばらく経って、再度下校を促す放送が流れたところでいかにも渋々といった風に筆を置いた。
 桐花は今にも倒れそうだった。単なるヌードモデルだってかなり精神的に堪えることを考えれば、今日は最後まで立っていられたことの方が不思議なくらいだ。
 ふらつきながらも下着を手に取ろうとする。その手を椎奈が押さえた。
「え……」
 熱を帯びた大きな瞳が、じっとこちらを見つめている。
「そのまま服を着るの? 汚れるよ」
「あ……」
 血まみれの脚。血は床にまで滴り落ちているというのに、そんなことすらもうすっかり失念していた。
 椎奈が悪戯な笑みを向ける。意味深なその表情に、全身が総毛立った。
 これまでの彼女の行動パターンを考えれば、これからなにをするのか、なにをしようとしているのか、考えるまでもなかった。
 だけど、逃げられない。脚がすくんで動かない。
 微かに震えながら、桐花は立ちつくしていた。
 桐花の手を取ったまま、椎奈が目の前に跪く。もう一方の腕を、桐花の太腿を抱くように回す。
「……っ!」
 顔が近づいてくる。
 太腿に口づけられる。
 滴り落ちた血の痕に舌を押しつける。
 桐花が感じたのは、電流に打たれたような衝撃だった。
「……や、あ」
 椎奈の舌が動いていく。血の流れた筋に沿って、太腿から膝へ、膝から脹脛へと下がっていく。
 乾いた血を溶かしながら、丹念に、美味しそうに、舐め取っていく。
 そしてまた、来た道を上に戻ってくる。ゆっくりと、少しずつ。だけど着実に、止まることなく。
「や、っだっ……!」
 椎奈は動きを止めない。押しつけられた舌は、太腿からさらに上へと移動していく。
 多量の血を流した、その源へ。
 脚を開かされる。椎奈がその間に身体を割り込ませてくる。
 真下から見上げるような体勢で、桐花の股間に顔を埋めた。
「――っ!」
 びくっ!
 身体が強張る。
 湿った、柔らかなものが、女の子の部分に触れる感触。
 初めての感覚。
 初めての経験。
 そこを他人に触れられるなんて。
 しかも、指ではなくて。
「ひっ……っ! あっ……」
 静かな美術室に、桐花の嬌声と仔猫がミルクを飲むような音が響く。
 だけどその湿った音の源はミルクではなくて。
 口のまわりを深紅に染めた椎奈が、お腹をすかせた仔猫のような表情を見せている。
 美味しそうに。
 嬉しそうに。
 無邪気なその表情と、生々しい血の赤の対比は、あまりにも異質だった。
 信じられない。
 これまでの、モデルとか裸を見られるとかキスされるとかとは明らかに異なる行為。
 限りなくセックスに近い行為。
 不思議な状況だった。
 それをさも当然のようにしている椎奈。
 まったく抗いもせずに身を委ね、切なげな嗚咽を漏らしている桐花。
 女の子同士で。
 恋人でもなんでもないのに。
 好きな人以外にはさせちゃいけない行為なのに。
 なのに桐花はそれを受け入れている。
 その行為を悦んでいる。
 それは死んだ方がましなくらいに恥ずかしくて、だけど気が遠くなるほどに気持ちのいい行為。
 初めての経験だった。
 もちろん、いくらバージンとはいえこの歳になって自慰の経験がないわけではない。しかし椎奈の舌が与えてくれる快感は、自分の指や携帯電話の振動とはまったく別次元のものだった。
 とろけていく。とろけてしまう。
 椎奈の舌が触れている部分から、桐花の身体が、意識が、とろけてなくなってしまう。
 脚の力が抜けて、立っているのが辛くなってくる。思わず椎奈の髪を掴んで身体を支えようとしたが、堪えきれずに尻餅をついてしまった。
 だけど椎奈は離れない。
 仰向けになった桐花の太腿を抱えるようにして、その間に顔を埋めている。流れ出る血を一滴残らず貪ろうと舌を動かし続けている。
 息ができない。
 視界が真っ白になる。
 伸ばした舌が中に入ってきたところで、桐花は意識を失った。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2005 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.