どうやって帰り支度をしたのかすら、まるで記憶になかった。
ずっと、夢の中を漂っていたような気がする。
気がついた時には血の汚れはすべて拭き取られ、ちゃんと制服を身に着けて、椎奈に手を引かれるようにして廊下を歩いていた。
服は自分で着たものか、それとも椎奈に着せてもらったものか、それすらも覚えていない。
高熱にうなされているかのように、ただぼんやりと歩いていた。
はっきりと我に返ったのは、前を行く椎奈が急に立ち止まって、その背中にぶつかりそうになった時だ。
まだ靄がかかったような頭を振りながら顔を上げると、椎奈の前に、長身の女の子が立っていた。
バスケ部のジャージを着ている。その大人っぽい雰囲気から察するに上級生だろう。部活の後らしく、髪が濡れていてかすかに石鹸の香りがした。
そしてどういうわけか、ひどく険しい表情で椎奈を睨め付けている。椎奈はと見ると、いつも通りの無表情だった。
状況がわからずにきょとんとしていると、目の前の相手は桐花に視線を移した。眉間にしわを寄せて、探るように、桐花をじろじろと不躾に睨め回す。
と、いきなり手を伸ばして桐花の襟を掴んだ。ブラウスのボタンを乱暴にひとつふたつ外し、襟元を広く開ける。
驚いて手を振り払おうとしたところで、先に相手が手を離した。
「あんた……、また、こんなことやってるんだ?」
きつい目で椎奈を睨み、低い声で言う。
「あんたは一年? こいつのモデルやってるの?」
いきなり話を振られた桐花は、まるで状況が理解できずになにも反応できない。しかし向こうは桐花の返事など期待していなかったように言葉を続ける。
「今のうちにやめなさい。こいつとは関わらない方がいい。じゃないと、あんたも殺されるよ」
「え?」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、速足で立ち去っていく。桐花は乱れたブラウスを直すことも忘れ、茫然と見送っていた。椎奈はまったく表情を変えていない。
「あの……今の人、お知り合いですか?」
「遠藤由起、一年の時のクラスメイト」
抑揚のない声でそれだけ言うと、椎奈はまた歩き出した。もっと詳しく聞きたかったけれど、しつこく質問するのもなんとなく躊躇われた。
「……気にしない方がいいわ。一昨年、友達が死んでから、彼女ちょっとおかしいの」
おかしいのはどちらだろう。
常識的に考えれば、椎奈の方が異常だ。最近されていることを考えれば、それは間違いない。
それでも桐花は、黙って椎奈の後についていく。
普通ではない椎奈。
それでも、惹かれていることは間違いなかった。
その夜は、ベッドにもぐり込んでもなかなか寝付けなかった。
興奮が醒めない。心拍数はずっと高いままだ。
今日は本当にたくさんのことがありすぎた。
生理中にヌードモデルをさせられた。
椎奈が見ている前で出血してしまった。
あまつさえ、それを舐められてしまった。
それは、限りなくセックスに近い行為だった。桐花はまだバージンだ。これまでまともに男の子と付き合ったこともない。
なのに、あんな経験をしてしまった。
椎奈の舌に、一番恥ずかしい部分をくまなく舐め回されてしまった。
想い出すと、身体中の血液が沸騰してしまいそうだ。
あの感覚。
あの快感。
まだ、身体が覚えている。
目を閉じていると、甦ってくる。
椎奈の舌の、柔らかくて熱い感覚。
あまりにもリアルな、あまりにも官能的な記憶。
「は……ぁっ……」
身体が熱い。
下着の中が潤いを帯びてくる。
ベッドの中で、パジャマと下着を脱いで裸になった。
全裸になると、椎奈に見つめられている時の感覚も甦ってくる。
「や……あ……んっ、ん……くっ……んふぅ……」
それは、いつの頃からか習慣になっていた。
モデルをした夜の自慰――いや、それを自慰と呼べるかどうか。
桐花はただ、ベッドの中で裸になっているだけだ。自分の身体に触れてもいない。
その必要はなかった。
ただ裸になって、目を閉じて、椎奈のことを考えているだけ。
それだけで、気持ちよかった。
記憶が、質感を伴って甦ってくる。
記憶だけで――身体が、全身の細胞が覚えている記憶だけで、快楽の頂に達することができた。
鮮明な椎奈の記憶がもたらしてくれる快感に比べれば、自分の指による刺激などかえって邪魔でしかない。そんなものよりも、椎奈の視線の方が何倍も何十倍も気持ちよかった。
「は……あぁ……あぁぁっ!」
波のように何度も何度も押し寄せる絶頂。海の波がけっして消えることがないように、この快楽の波も鎮まることなく桐花を揺さぶり続けた。
「は……ぁ……」
気が遠くなる。
朦朧とした意識の中、不意に、椎奈のものではない顔が浮かんだ。
『あんたも殺されるよ』
帰りがけに会った、あの長身の三年生。遠藤由起、といっただろうか。
『友達が死んでから、彼女ちょっとおかしいの』
死んだとか殺されるとか、穏便な台詞ではない。
いったい、なにがあったのだろう。
『また、こんなことやってるんだ?』
由起は、桐花の身体の傷を見てそう言った。
椎奈によってつけられた傷を見て。
また――と。
椎奈の姿が脳裏に浮かぶ。
剃刀で、桐花の肌に傷をつけていく椎奈の姿。
流れ出る血を、血に染まった桐花の裸体を、あの狂気じみた視線で貫く椎奈。
異常ともいえる集中力で、血に濡れた桐花の姿を描いていく椎奈。
桐花の経血を美味しそうに舐めていた椎奈。
確かに、普通ではない。
そこには確かに、常人にはない『狂気』の香りがある。
だけどまさか、本当に椎奈が殺したわけではあるまい。もしそうなら、今こうして普通に学校に来ているわけがない。
だとしたら、いったい?
いったい、なにがあったのだろう。
椎奈に明らかな敵意を向けていた元クラスメイト。
椎奈ひとりきりの美術部。
考えてみれば、不自然な状況だ。
なにか、があったのは間違いない。
いったい、なにがあったのだろう。
気にはなるけれど、椎奈に訊くことはできなかった。
翌日――
桐花は真相を探るための行動を起こした。
椎奈は由起のことを、一年の時のクラスメイトと言っていた。ならば話は早い。
運よく、同じクラスに三年生の姉がいる子がいた。さりげなく話を振ってみたら、すぐに答えに辿り着いた。
二年前、自殺した生徒がいたらしい。
名前は黒川弥生。当時、美術部に所属する一年生だったそうだ。
椎奈と同じ学年、同じ部活。
弥生はよりによって学校の屋上から飛び降りたのだという。深夜、鍵がかかっていたはずの屋上にどうやってか忍び込んで。
事件が深夜で目撃者がいなかったためか、それとも醜聞を怖れた学校側がよほどうまく揉み消したのか、あまり騒ぎにはならなかったようだ。事実、これまで桐花はその事件を知らなかった。
それでも人の口に戸は立てられない。突然いなくなったクラスメイトのことを、完全に隠しきれるわけもない。
少なくとも、三年生の間では知られている事件のようだった。学校の怪談のネタにもされているという。
美術部員が椎奈ひとりで廃部同然の状態なのも、その事件が原因らしい。学校側が活動自粛を求めて、当時から才能を認められていた椎奈だけが描き続けてきたのだ。
そこまでは簡単にわかったが、それ以上の詳しい背景はわからなかった。
動機とか、椎奈と弥生、そして由起との関係とか。
桐花が話を聞いた友達の姉も、学年が同じだけで美術部とはなんのつながりもない生徒だったため、噂話以上の情報は得られなかった。
これ以上の詳しい事情を知っている者がいるとしたら、心当たりは二人。
椎奈と、そして遠藤由起。
椎奈には訊けない。
だとしたら、由起に訊くしかない。
しかし。
今度は、すぐには行動に移さなかった。
訊くべきなのだろうか。
知るべきなのだろうか。
知りたいのだろうか。
わからない。
わからない。
知りたい、気がする。
知るのが怖い、気がする。
椎奈のことをもっと知りたい。だけど知ることで、椎奈との関係が壊れてしまうかもしれない。
迷って、迷って。
なにもできないままに日が過ぎていく。
その間もこれまで通りにモデルを続けた。
生理が終わると、椎奈はまた剃刀を手に取るようになったが、桐花は黙ってそれを受け入れていた。
なにも言わなかった。
なにも訊かなかった。
このまま、なにもなかったことにしてしまってもいいのかもしれない。椎奈は以前となにも変わっていないのだから。
そう思い始めた頃――
試験前ということでモデルの予定がなかった日の放課後。
真っ直ぐ帰ろうと教室を出ようとした桐花を、あの遠藤由起が訪ねてきた。
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