「珍しい組み合わせね」
 校門を出たところで由起と別れた直後、背後から声をかけられた。
「……椎奈さん」
 いつの間にそこにいたのだろう。椎奈が立っている。
「なんの話をしていたの?」
「え……っと……」
 口ごもる。由起との会話は、椎奈に話しやすい内容ではなかった。
 椎奈の表情を窺う。普段と変わらぬ無表情で、桐花が由起と話していたことをどう思っているのか、まるで読めなかった。
「あの……椎奈さん?」
「なに?」
「……弥生さんを描いた絵、見せてもらえませんか?」
 予想外の台詞だったのだろうか。椎奈はきょとんとしたような表情でこちらを見た。一瞬後、唇の端に微かな笑みが浮かぶ。
「いいよ。試験が終われば夏休みだし、私の家に来ない?」
 どうして弥生のことを知っているのか、などとは訊かず、そんな言葉を返してくる。
 これもまた予想外のお誘いだった。
 試験勉強が手につかなくなるだろうな、と思いつつも桐花は迷わずうなずいた。



 真夏の昼下がり。
 初めて訪れた椎奈の自宅は「お屋敷」と呼ぶのが相応しい、堂々とした建物だった。
 気後れしながら、門の前で呼び鈴のボタンを押す。
 これで執事とかメイドとかが出てきたらさらに緊張するところだったが、幸いなことに出迎えてくれたのは椎奈自身だった。
 飾り気のない、涼しげな麻のワンピース姿。私服姿の椎奈を見るのは初めてで、少し新鮮だった。そういえば、校内と学校帰り以外の場所で椎奈と一緒にいるのも初めてだ。
「……すごいお屋敷ですね」
「今日みたいにひとりだと、無駄に広すぎる気もするけど」
 椎奈は微かに苦笑する。
「ひとり?」
 鸚鵡返しに訊く。
 そういえば、椎奈の家庭環境については訊いたことがない。モデルをしている時はほとんど無言だし、それ以外の時の会話も、話題は絵のことか学校のことがほとんどだ。
「父は海外出張の多い仕事なの。今日はお手伝いの人もお休み」
「お母さんは?」
「母はいないわ。私が小学生の時に、病気で」
「あ……ご、ごめんなさいっ」
 知らなかった。
 自分が両親揃ったごくごく平凡な家庭で生まれ育ったから、それが当たり前のように気軽に訊いてしまった。
 申し訳なさげに小さくなる桐花とは対称的に、椎奈はまったく表情を変えない。
「別に気にしなくてもいいわ。もう昔のことだし、私が小さな頃から病弱だったから、子供心に覚悟はしていたのかもね。あまりショックでもなかった」
「……」
 相変わらずの無表情。いつも通り感情のこもらない抑揚のない口調。しかし心の中でなにを考えているかはわからない。椎奈だって人並みに傷ついたり落ち込んだりすることもあるはずだ。
 本当に、椎奈は感情を表に出さない。桐花の絵を描いている時、たまに楽しげな様子を見せることがあるくらいでしかない。
 今回の訪問で、少しは椎奈のことが理解できるようになるだろうか。
 人気のない家の中は、あまり生活臭が感じられなかった。
 留守がちの父親と椎奈、プラス通いのお手伝いさん。それにしては広すぎる家だ。どことなくモデルルームのような印象を受けるのも仕方のないことだろう。
 通されたのは、アトリエだった。
 椎奈が絵を描くために使っているというその部屋は、平均的中流家庭である桐花の家のリビングよりも広そうだ。庭に面した壁が一面のガラス張りで、まるで温室のようだった。
 夏の陽射しをたっぷりと浴びた庭は、よく手入れされていた。たくさんの木が植えられ、色とりどりの花が咲き乱れている。花壇と呼ぶには自然な雰囲気が作り出されていて、山中のお花畑に迷い込んだような印象を受けた。
 桐花が庭に見とれていると、椎奈はアトリエに隣接した小部屋の扉を開けた。
「売らなかった絵はほとんどここにあるから、好きに見てて」
 中を覗き込む。
 どうやら物置として使っているらしい。小部屋といっても桐花の部屋よりも広く、壁を埋め尽くしている棚にカンバスやスケッチブックが雑多と並べられていた。
 微かに、埃の匂いがする。
 椎奈はお茶の仕度をしてくると言って出て行った。桐花は棚の端から順に絵を見ていく。
 最初の何枚かは、アトリエから見た庭を描いたもののようだった。他に、海外のものらしいもっと雄大な風景を描いた作品も見つかった。
 そして基本ともいうべき、石膏像の木炭デッサンもある。白と黒のはっきりとしたコントラストが印象的だ。
 日付を見ると、椎奈がまだ小学生の頃の作品だ。しかしその技量は、今の桐花でもまったく足元に及ばない見事さだ。
 意外と人物画がないな――と思い始めた頃、ようやく一枚見つけた。
 大人の女性の絵。
 整った顔立ちが椎奈とよく似ている。もしかすると母親だろうか。
 しかし椎奈とは違って、線の細い、どことなくやつれた雰囲気があった。和装の寝間着姿のせいもあるのかもしれない。
 それでも、美しい。
 それは椎奈にはない、儚い美しさ。
 小柄で線の細い椎奈だが、生命力とでもいうのだろうか――内側から滲み出る強さをまとっている。
 この絵の女性にはそれがない。
 続けて何枚も、同じ女性を描いた作品が見つかった。
 ここの庭を背景に、籐椅子に座って儚げな笑みを浮かべている。
 次に見つけた人物画は、もっと印象的なものだった。
 自画像、だろうか。
 たぶん小学校の高学年くらい、まだ中学生はなっていないように見える。だけど紛れもなく椎奈自身だ。
 それが、全裸で立っている。
 まだ子供の、丸みや膨らみのない華奢な身体。
 微かに膨らみはじめた胸。
 だけど表情は今と同じ、感情の感じられない無機的な顔。
 筆とパレットを手にして、イーゼルの傍らに立っている。大きな鏡に映った自分の姿をそのまま描いたらしく、姿見の枠まで描かれていて、その周囲は壁だった。
 鏡によって切り取られた四角い空間に立つ、子供の頃の椎奈の裸身。
 椎奈は真っ直ぐに鏡を見つめている。
 あの瞳で。
 今の椎奈とまったく同じ、あの力のある瞳で。
 全体的にコントラストの低い、モノトーンの絵だった。それ故に、ただひとつの鮮やかな色彩が目をひいた。
 深紅の色彩。
 絵の中の、鏡の中の椎奈は血を流していた。
 内腿を深紅の液体が滴り落ちている。
 まるで、先日の桐花のように。
 彼女も生理中だったのだろうか。
 そうだ。きっとそうだ。
 不意に閃いた。どうしてそう感じたのだろう。だけど確信した。
 これは、椎奈の初潮の姿だ。
 全裸で、経血を滴らせながら、無表情に自画像を描く小学生。
 それはあまりにも日常からかけ離れた、異質な、異常な光景だった。
 そこから感じられるものは、エロティシズムと紙一重の狂気だ。全身の毛が総毛立つ。
 次に見た絵も、やっぱり椎奈の自画像だった。
 そして、やっぱり血を流していた。
 左肩から右胸にかけて、一本の紅い筋が走っている。剃刀で切ったものだろう。右手に、刃が紅く濡れた剃刀を握っている。
 滑らかな傷からゆっくりと滴っていく鮮血が、必要以上に写実的に描かれていた。
 ――怖い。
 それが、率直な感想。
 自身を描いた絵は、何枚も出てきた。母親と思しき女性の絵が見あたらなくなるのと入れ替わりに、自画像が作品の中心になっていた。
 だんだん、増えていく傷。
 だんだん、増えていく出血。
 狂気が椎奈を侵していく。蝕んでいく。
 カンバスの中は、彼女自身の狂気を写し取った空間だった。
 狂気に支配された絵が何年分も置かれているこの部屋にも、絵から滲み出た狂気が満ちているような気がした。
 怖い。
 次の絵を見るのが怖い。
 なのに手は勝手に動いて、棚からカンバスを取り出していく。
 見ないでいるには、その絵はあまりにも美しすぎた。
 狂っているのに、美しい。
 狂っているからこそ、美しい。
 美しくて、愛おしくて、惹き込まれてしまう。
 次々と絵を取り出しては、魅入ってしまう。
 そして。
 やがて、見つけた。
 黒川弥生をモデルにして描いた絵。
 彼女の顔は知らなかったが、すぐにそれだとわかった。
 全裸の少女が、真っ暗なトンネルの中を歩いている。背後にはトンネルの入口。そこには明るい真夏の陽射しが降りそそいでいる。
 しかし少女は光に満ちた外界に背を向けて、灯りひとつないトンネルの奥へと歩いていく。
 それは、由起から聞いていた通りの構図。
『あの絵を一目見た時、本能的な恐怖を感じた。いけない。そっちへ行ってはいけない。戻れなくなる。そんな恐怖を感じたんだ』
 そう言っていた。そして『私は恐怖を覚えたけど、弥生自身はその絵に魅入られているようだった』と付け加えた。
 確かにそうなのだろう。弥生の絵は他に何枚も見つかった。そして傷ついた椎奈を描いた絵はぱったりとなくなった。
 二年という時間による作風の変化か、それともモデルの違いのためか、桐花を描いた作品とはまた雰囲気が違う。深い原生林とか珊瑚礁の海とか砂漠とか、日本ではあり得ない広大な自然を背景とすることが多い桐花の絵に対し、弥生の絵にはこのアトリエの庭とか、学校の校庭とか、どこにでもありそうな里山の風景などが描かれている。
 モデル自身の雰囲気も違う。弥生はたいてい、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。たぶん戸惑ったような表情を浮かべているであろう桐花とは異なる。
『そのうちに弥生は私から距離を置くように……いや、多生にべったりになっていった。多生のモデルをするだけの毎日で、他のことなんてまるで目に入ってないようで、自分の絵も描かなくなっていた』
 由起の言葉が思い出される。
『だけどやがて、なにか悩んでいるような表情を見せるようになって……訊いても曖昧に誤魔化すだけで、そして…………』
 そして、弥生は死を選んだ。
「――っ」
 次に取り上げた絵を見て、桐花は小さく息を呑んだ。
 これまでとは雰囲気の違う絵。
 弥生の絵としては初めての、血を流している絵。
 背景もこれまでと違う。屋外ではなく、かといって室内であるかどうかもはっきりしない白い背景。単なる白一色ではなく、真新しいシーツかなにかのようだ。
 その上に弥生が横たわっている。虚ろな表情で、涙を流している。
 身体には桐花がされているように無数の小さな傷があり、血が滲んでいる。
 だけどもっとも目を引くのは、内腿を濡らし、その下のシーツも染めている出血。
 まるで、陵辱された後の光景。
 ――いや。
 まるで、ではない。そのものだ。
 桐花は本能的に悟った。
 これは、ありのままの姿の写生だ。
 実際にあった光景。実際に椎奈が目にした光景。
 おそらく、弥生をこうしたのは椎奈だ。
 あの血。あれは肌につけられた剃刀の傷とは違う。
 経血でもない。
 破瓜の血。
 処女の証。
 それをしたのは椎奈。
 根拠はないが、そう確信していた。
 これは、椎奈に陵辱された弥生の姿。自分が陵辱した少女の姿を描いたのだ。
 きっと、あの力強い瞳で見つめていたのだろう。これまでの椎奈の行動を考えれば、きっと他の絵よりもずっと熱心に描いていたに違いない。
 ふと、サインの横に書かれた日付が目にとまった。
 それは、弥生が死んだほんの数日前のことだった。
 これが原因だろうか。
 まさか……いや、でも。
 胃がきゅうっと締めつけられるような感覚を覚えた。
 視線が絵に釘付けになる。
 桐花はただじっとその絵を見つめていた。
「お茶の支度ができたわ、こっちに来ない?」
 アトリエから呼ぶ椎奈の声がなければ、ずっとそのままでいたかもしれない。はっと我に返って絵を棚に戻す。
 慌てていたせいで、手を棚にぶつけてしまった。チャリン、と軽い金属音が響く。
 どこから落ちてきたのだろう、床の上にひとつの鍵があった。何気なく拾い上げる。やや古ぼけた、微かに錆の浮いた鍵。頻繁に使われているものではなさそうだ。
 なんの鍵だろう。鞄や、机の引き出し等の小さなものではない。恐らくはどこかの扉のもの。
 後ろを振り返る。この部屋の扉には錠はない。
「桐花?」
 再び桐花を呼ぶ声。慌てて立ちあがってアトリエへ戻る時、無意識のうちに鍵をポケットに入れていた。



 白いクロスを掛けた小さなテーブルに、椅子が二脚。
 テーブルの上には真白い磁器のティーポットとカップが二客。
 そして、パウンドケーキを載せた皿。
 腰を下ろすと、椎奈が紅茶を注いでくれる。湯気を立てているカップを条件反射のように手に取って、しかし口はつけずにぼんやりと見おろしていた。
 鮮やかな紅茶の色が、血を連想させる。先ほど見た絵の残像が頭から消えない。
「……目的の絵は見つかった?」
「え? あ、えっと……」
 桐花は返答に詰まった。
 椎奈は「目的の絵」と言ったが、落ち着いて考えてみれば確たる目的があったわけではない。
 ではどうして、絵が見たいなどと言ったのだろう。
 自分はなにを求めていたのだろう。
 なにを求めてここへ来たのだろう。
 なんなのだろう、胸の奥にあるこのもやもやとした想いは。
 わからない。
 答えられない。
「……桐花」
 肩に手を置かれる。
 顔を上げると、椎奈の顔がすぐ目の前にあった。
 派手さはないが、整った美しい顔。
 白い肌。
 そして、黒い瞳。
 強い力を持った、大きな瞳。
 桐花を魅了する瞳。
 弥生を魅了した瞳。
 由起を怯えさせた瞳。
 正面から目を合わせると、たちまち魅入られてしまう。視線を逸らすことができなくなる。
 ゆっくりと近づいてくる。
 頬に手が当てられる。
「あ……」
 唇が重ねられた。
「……っ、ぅん…………」
 これまでに何度かされていた、軽く触れるような、あるいは舌先で舐めるようなソフトなキスではない。
 しっかりと押しつけられた唇。
 唇を割って入ってくる舌。
 桐花の口中をくすぐる。
「ん、ふ……ん、ん……」
 桐花もそれに応え、おずおずと舌を伸ばした。二つの舌が絡み合い、唾液が混じり合う。
 これまでとは違う。本物のキスだった。
 熱い。
 唇が、舌が、口の中が。
 身体の芯が火照ってくる。
 いつの間にか、椎奈の手が移動していた。
 シャツのボタンが外されていく。
 肌が露わにされる。ブラジャーも外されてしまう。
 なにも隠すものがなくなった肌に、椎奈の手が触れる。
 そして顔が近づいてくる。
 唇が、舌が、肌の上を滑っていく。
 首筋から胸へ、そしてお腹へ。
「あ……」
 身体から力が抜けていく。椅子からずり落ちるような形で、桐花はフローリングの床に横たわった。
 その上に椎奈の身体が重なる。
 スカートが下ろされていく。太腿に何度も何度もキスされる。熱い舌が押しつけられ、強く吸われる。
 その度に、桐花の呼吸が、鼓動が、速くなっていく。
 ソックスも脱がされ、下着の最後の一枚も簡単に剥ぎ取られてしまう。
 なんの抵抗もせずに全裸で横たわる桐花を、椎奈は嬉しそうに見おろしていた。
 瞳が輝いている。
 口元に笑みが浮かんでいる。
「綺麗ね、桐花。でも、もっと綺麗な姿を見せてほしいな」
 椎奈はテーブルの上に手を伸ばし、パウンドケーキを切り分ける時に使ったナイフを手に取った。
 切っ先が胸に押し当てられる。すぅっと引かれる。
「……っ!」
 一瞬、声にならない呻きが漏れた。さすがにいつもの剃刀ほどの切れ味はないのだろう、鋭い痛みが走る。
 だけど――
 その痛みが、甘かった。
 鮮血がじんわりと滲み出してくる。わずかに位置を変えて、またナイフが押しつけられる。
 さらに二度、三度。
 錆びた鉄の匂いが漂ってくる。
「綺麗……とっても綺麗」
 熱っぽい瞳で、椎奈はうっとりとつぶやく。自分でワンピースを脱ぎ、全裸になって桐花に覆い被さってくる。
 傷に口づける。
「……ぁ、……」
 まるで性器に同じことをされたような快感に、身体が震えた。
 ぴちゃ……ぴちゃ……
 湿った音を立てて、舌が何度も往復する。その度に桐花の口からは切なげな嗚咽が漏れ、手や脚が痙攣する。
「桐花の血はとっても綺麗……」
 真っ赤に染まった唇で囁く椎奈。指先でその血を拭い、桐花の唇に塗りつける。その指がゆっくりと下へ移動していく。
 顎の線をなぞり、首筋から鎖骨の上を通って、胸の膨らみを登っていく。指はそこで動きを止めず、腹から臍へ、そしてさらに下へ、血の痕を残して滑っていく。
「どんな紅玉よりも美しい血……だけどあなたは、もっと綺麗な血を隠している」
「あ……」
 最後に触れられたそこは、血ではない、色彩のない液体で濡れていた。
「ここに……ね?」
「……っっ!」
 激しい痛み。
 刃物で切られるこれまでの痛みとはまったく違う。切られるのではなく、裂かれる痛み。
 身体を、粘膜を、力ずくに引き裂かれる痛み。
 ぎゅっと唇を噛んで、悲鳴を上げそうになるのを堪えた。
「……一生に一度だけ、女の子の身体から生まれ出るいちばん綺麗な紅色……ねえ、綺麗でしょう?」
 顔の前に手がかざされる手。
 中指と薬指が真っ赤に濡れている。
 そして、椎奈の顔も負けずに紅潮していた。
「素敵……」
 その新たな傷口に、椎奈の顔が近づいていく。流れ出た血を舐め取り、出血の源へと遡っていく。
 精一杯に舌を伸ばし、一滴も残すまいと啜っていく。
 今度ばかりは、桐花も声を抑えることはできなかった。



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