意識が戻って――
一瞬、どこにいるのかわからなかった。
状況を想い出すのにしばらく時間がかかった。
周囲は暗い。
それは夜の暗さ。しかし真っ暗ではなく、ぼんやりとした明るさがある。
身体の下には硬く、ひんやりとした感触。フローリングの床に裸で横になっているのだと気がつくにも、少し時間を必要とした。
頭の中に霞がかかっているようで、意識が朦朧とする。全身が倦怠感に包まれている。
のろのろと身体を起こそうとした時、下半身にずきんと痛みが走った。
その痛みが頭の中の霞を吹き払い、記憶を呼び起こす。
そう――
あれからずっと、何時間も、椎奈に陵辱され続けた。
それは「愛する」などという生やさしい行為ではなく、まさしく「陵辱」だった。
熱い視線を向けながら、椎奈は何度も何度も桐花を犯した。桐花を犯しながら、スケッチしていた。
桐花は抗わなかった。泣かなかった。
溢れそうになる涙を堪えていた。
泣かない。
絶対に泣かない。
そう自分に言い聞かせていた。
弥生は泣いていたから、私は絶対に泣かない。
どんなに辛くても、すべてを受け入れる――そんな想いを胸に秘めて。
辛い?
辛い、のだろうか。
その行為は辛いものなのだろうか。
確かに、肉体的には痛くて苦しくて、けっして気持ちよくはなかった。
しかし、精神的にはどうだろう?
どこか心の奥底で、それを望んでいたとはいえないだろうか?
「…………」
ゆっくりと身体を起こして周囲を見回す。
いったい何時頃だろう、もうすっかり夜になっている。今日は最初から椎奈の家に泊めてもらう約束で、親にもそう言ってきたから特に問題はない。
空には明るい月がかかっているのだろう。アトリエに灯りはついていなかったが、大きな窓からは柔らかな光が降りそそいで、部屋の中を蒼く照らしていた。
窓の前に、椎奈の姿がある。
母親の絵にあった籐椅子に座って、傍らのイーゼルに置いた絵を見つめていた。
桐花はゆっくりと立ち上がる。下腹部の痛みはそれほどではなかったが、それとは別に、床の上に寝ていたことで身体の節々が痛んだ。
そろそろと歩いて椎奈の傍へ行く。椎奈がちらりとこちらを見る。
その目が、絵を見てみろと促しているような気がした。
隣に立ってカンバスに視線を落とす。
「――っっ!」
息を呑んだ。
力いっぱい殴られたような衝撃だった。
ぼんやりとした月明かりの下でも、いや、だからこそ、その絵には圧倒された。
暗い色調の絵だった。
群青。
限りなく黒に近い、蒼。
東山魁夷の作風よりももっと濃い蒼。
そこに描かれているのが弥生であることは一目瞭然だった。
――たとえ、変わり果てた姿になっていても。
それはまるで、薔薇の花のようだった。
月明かりに照らされている殺風景なコンクリートの上に咲いた、大きな深紅の薔薇。
その中心に横たわる弥生。
それは生きた人間ではなく、人形のように見えた。
ガラス玉のような、生気のない瞳。
子供が壊した人形のように、ありえない形にねじ曲がった手脚。
クラスメイトから聞いた話を、由起から聞かされた話を、想い出す。
弥生は、学校の屋上から飛び降りて死んだ。
これは、その光景なのだ。
本来ならば、とてもおぞましいモチーフだ。
スプラッタ映画よりもひどい。とても直視できるようなものではない。
なのに、この絵は美しかった。
これまでに見た椎奈のどの作品よりも、桐花を魅了した。
この色をどう表現したらよいのだろう。
絵の具では出せないと椎奈が言っていた、本物の血の紅色がそこにあった。
生命を持たない顔料の色ではない。硫化カドミウム、アリザリン、カルミン酸、硫化水銀。どれほどの赤色顔料を混ぜ合わせても、ただそれだけではこの色は出ない。
不可能を可能にしたのは、画家とモデル双方の、強い想い。
本物の生命の色がここにある。
弥生の中から失われた生命が、大きな花を咲かせている。
失われつつある生命の、最後の一瞬の輝き。
美しい。
どんな名匠の作品よりも。
どんな高価な宝石よりも。
美しい。
心底、そう思った。
椎奈が、満足げに絵を見つめている。
絵を描いている時の真剣な表情とも、桐花を傷つけている時の狂気を孕んだ表情とも違う、満ち足りた、安らかな笑み。
椎奈のこんな姿は初めて見た。
この人は、満月の夜が来るたびにこうしてこの絵を見つめているのかもしれない。
そんな椎奈の横顔を見て。
この時、桐花が感じていた一番の感情は……
嫉妬――だった。
コツ……コツ……コツ……コツ……
しんとした建物の中、冷たいコンクリートの壁に微かな足音が反響する。
桐花は薄暗い階段を登っていた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
もしかしたら……という想いは、その場所が近づくにつれて徐々に確信へと変わっていた。
根拠を問われても返答に困る。理屈ではない。
最後の一歩を登る。
表面にいくらか赤錆の浮き出た、飾り気のない重々しい金属の扉が進路を塞いでいた。
この向こうが、運命の場所だ。おそらく……いや、間違いないなく。
ポケットから鍵を取り出す。
あの日、椎名の家で拾った鍵。
その後に起こったいくつかの衝撃的な出来事のために、家に帰るまですっかり忘れていた。着替えるために服を脱いだ時にポケットから落ちて、それでようやく思い出したのだ。
床に落ちた鍵。
それを見た瞬間、天啓のように閃いた。
いくつもの断片がひとつにまとまる。それは、ジグソーパズルの最後のピースだった。
錆びた鍵穴に差し込む。
思った通り、鍵はぴったりと収まった。やはり、この扉の鍵だった。
錆びて固まっている錠を二、三度揺すって鍵を回す。
ガチン。
金属のシリンダーがぶつかる音。ノブを回して重い扉を押す。
ギィ……。
軋みながら扉が開く。
広がっていく隙間から、真夏の白い光が射し込んでくる。
足を踏み出す。
一歩。二歩。
桐花は、普段は立ち入り禁止になっている学校の屋上に立っていた。
周囲にはきちんと高い金網が張り巡らせてあり、以前は学校行事の際などに生徒が上がることもあったらしいが、二年前から完全に立ち入り禁止になっていた。
二年前のあの日から。
そう。二年前、弥生はここから飛び降りて死んだ。
原因は不明、となっている。椎名に犯されたショックで自殺した、というのは由起の見解だ。椎名に突き落とされた可能性だって否定できない、とも言っていた。
「……」
手の中の鍵を見おろす。
これが、文字通りの鍵だった。
どうして椎名が屋上の鍵を持っているのだろう。
弥生が死んで以来、立ち入り禁止となっている屋上の鍵を。
アトリエで見た絵を想い出す。
あの、月光の下で見た絵を。
いや、改めて想い出す必要などない。あの日以来、ずっと脳裏に焼き付いている。
瞼を閉じれば、そこに浮かぶのは月光の下で咲く深紅の薔薇だ。それ以外の光景など浮かんでこない。
あの絵――
あの絵は、想像で描いたものではない。
椎名の絵は、人物についてはいつだって写生が基本だ。
あの絵。
あの光景。
椎名は目の前で見ていたのだ。
ここから飛び降りて、無惨な姿になった弥生を。
そして、おそらくはそうなる瞬間を。
あの大きな瞳で。
今ならはっきりとわかる。
もちろん、椎名が殺したのではない。
椎名にレイプされたショックで自殺したのでもない。
由起も、他の者たちも、みんななにもわかっていない。
この場所に立って確信できた。
物証があるわけではない。だけど、わかる。弥生の気持ちになってみればわかる。椎名のモデルになってみればわかる。
あの日以来封印されていたこの場所には、弥生の想いが色濃く遺っているではないか。
弥生は、自ら臨んで、自ら進んで、あの絵のモデルになった。
自らの生命と引き替えに、椎奈に最高の絵を贈った。
――椎奈のことが、好きだったから。
あの絵に対して桐花が抱いた感情――それは、嫉妬。
今ならはっきりと言える。
椎奈のことが好き。
誰よりも好き。
だから、悔しい。
あの絵――
あの絵には敵わない。
一番好きな人の、一番でありたい。それは当たり前の感情だ。
椎奈にとっての最高の存在でありたい。
椎奈の最高傑作のモデルは、自分でありたい。
そう思った。
だけど、敵わない。
あの絵には絶対に敵わない。
美しすぎる。
生きているものでは出せない美しさ。
弥生が死んでいるから。
死によって、生命というものを限りなく美しく描き出している。
生きているものでは絶対に敵わない。
背後から、静かな足音が聞こえてくる。
見るまでもなく、それが誰かはわかっていた。
ゆっくりと振り返る。
多生椎奈。
桐花が愛した相手。
静かな笑みを浮かべて桐花を見つめている。
深い色の、神秘的な瞳で。
桐花を魅了した瞳で。
今、その瞳は、絵を描いている時に似た輝きを放っていた。
なにかを、期待している。
それがなにか、痛いほどよくわかる。
椎奈が望んでいるもの。
椎奈が求めているもの。
椎奈が欲しているもの。
自分なら、それをあげられる。
「……私なら、もっと綺麗に描いてくれますか? お母さんよりも、弥生さんよりも、他の誰よりも」
椎奈のことが好きだ。
この想いは、弥生よりもずっと強い――そう思いたい。誰にも負けたくない。
「あなたが……好きです。どうしてだろう、どうしてこんな風になっちゃったんだろう……どうしようもなく好き」
桐花は自分の身体をぎゅっと抱くように腕を回した。
「……あなたにとって一番の存在になりたい。あなたにとって永遠の存在になりたい。そんな想いで、おかしくなってしまいそう」
椎奈が小さくうなずく。
「…………母の血はとても綺麗だった。それに比べたら、私の血なんて質の悪い模倣品でしかない。弥生は悪くなかったけれど、母には及ばなかった。でも、学校であなたを見かけた時に感じた。ああ、この子だ……って。誰よりも綺麗な血を持っている。いままで描いた誰よりもいい絵になってくれるって」
強い光を放つ瞳。それは皮膚に覆われた桐花の外面ではなく、その内側に隠されたものを見つめていた。
「この歳で生涯の最高傑作を描いてしまうというのは少し残念だけど、仕方ない。もう、これ以上の絵なんて描けない。……いえ、そうね、これから先、何度も何度も、何枚も何枚も、あなたを描くわ。あなたを描くことが私のライフワークになる」
そこまで言って、椎奈は短い間を置いた。
そして、これまでになく強い口調で言った。
「あなたを描けるなら、他の絵なんていらない」
それだけ聞ければ、十分だった。
望んでいた以上の言葉をもらった。
だから、自分があげられる一番のものを椎奈にあげる。
だから――
桐花は自分を抱いていた腕を解いて、微笑みながら屋上の金網に手をかけた。
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