牲 〜にえ〜

作 : 北原 樹恒

 私は、追われていた。
 緩やかに傾斜した狭い登山道を、死にものぐるいで走っている。
 しかし気持ちばかりが焦って、身体は思うように進まない。どうしてこんな時に、ミニスカートなんて身に着けているのだろう。もう二度と、ミニのタイトスカートも厚底靴も履かないと、心に誓った。但しそれは、生きて逃げ切ることができれば、の話だ。
 登山にはまるで向かない服装で、ただでさえ走りにくい山道。その上、周囲は鬱蒼とした森に囲まれていて薄暗く、足元もおぼつかない。
 雲が低く立ちこめているからよくわからないが、時刻はもう夕方なのだろう。ところどころ、雲の薄い部分が朱色に染まっていて、暗い灰色との不気味なコントラストを描いている。
 このまま夜になってしまったら……。
 そんな新たな恐怖に駆られて、そろそろ言うことを聞かなくなってきている脚に最後の力を注ぎ込む。
 しかしこの分では、夜になってからの心配など無意味だろう。どう考えても、周囲が闇に包まれるより私の体力が尽きる方が先だ。それなのに、背後に迫る『あれ』には、疲れた様子など微塵も感じられない。
 重々しい足音。
 突き刺すような殺気。
 地の底から響くような呼吸音。
 その一つ一つが、私を震え上がらせる。
 少しでも走る速度を緩めれば、私はたちまち捕らえられてしまうだろう。
 そして……。
 私は頭を振って、それ以上考えるのを止めた。鮮血に染まり、無惨に喰い千切られた自分の姿が、脳裏に浮かびそうになったから。
 走りながら、時折後ろを振り返る。
 そんな余裕があったら逃げることに専念すべきなのだろうが、それでも見ずにはいられない。
 前だけを見ていると『あれ』がすぐ後ろ、前足を伸ばせば私を捕まえられるほどの距離に迫っているという思いに取りつかれてしまう。
 だから時々振り返って、確認する。
 何もいない。少なくとも、見える範囲には。山道は曲がりくねっていて『あれ』はまだ見えるところまで迫ってきてはいない。
 ほんの少し、気が緩んだ。次の瞬間、私は樹の根に足を取られて転んでいた。
 湿った土が、顔に擦りつけられる。腕や膝に痛みが走る。
 しかし、そんな痛みなど気にしてはいられない。
 背後に『あれ』が迫ってくる。
 重い足音。
 藪をかき分けるがさがさという音。
 樹の枝が折られる音。
 私は立ち上がると、顔に付いた泥も落とさずに走り出した。
 擦り剥いた肘や膝がヒリヒリと痛む。
 一瞬とはいえ止まったことで、身体にさらなる負担がかかっていた。呼吸が苦しい。心臓が破裂しそうだ。
 それでも私は、走り続ける。
 いつまでも、いつまでも。
 どこまでも、どこまでも。
 道端に茂った笹や木の枝が、腕や脚を傷つける。
 今度こそ、本当にもう、限界だ――。
 そう思った時、ふと気付いた。背後の足音が聞こえなくなっている。気配も感じられない。
 少し、距離が開いたのだろうか。この狭い山道は、身体の大きな『あいつ』にとっても決して走りやすい場所ではあるまい。
 このまま、振り切ることはできるだろうか。ちらりと考えて、しかし頭を振った。その期待はできない。私はもうこれ以上、走り続けることはできない。
 他の手を、考える必要があった。
 周囲の森は深く、大人二〜三人が手をつないでも届かないような太い巨木が立ち並んでいる。
 地面には笹藪が繁っているし、巨木の陰に隠れていれば見つからずにやり過ごせるのではないだろうか。
 あいつはまだ、追いついてくる気配はない。私は登山道を外れ、音を立てないように気をつけて藪の中に入った。
 付近で一番太い樹の根元の、登山道から死角になる側が浅く窪んで、落ち葉が積もっていた。その中に身を伏せる。これなら、よほど注意していても気付かないだろう。
 湿った土の匂い。枯れ葉の匂い。
 目の前の地面を小さな虫が這っている。私は昆虫が苦手だが、それでもじっと耐えていた。
 息を殺し、笹の隙間から登山道の様子をうかがう。
 あいつはまだ、姿を現さない。どうしたのだろう。いくらなんでも、そろそろ追いついてきていい頃だ。先刻まで、すぐ後ろに迫っていた筈なのに。
 諦めたのだろうか。上手く、撒いたのだろうか。
 私が安堵の息を漏らしかけた時、突然、背後から重々しい物音が聞こえてきた。続いて、大きな生き物が藪をかき分ける音が。
 はっとして後ろを振り返る。
 いつの間に回り込んできたのか、そこに『あれ』がいた。巨大な、黒い影が迫ってくる。
「――――っ!」
 私は声にならない悲鳴を上げると、慌てて立ち上がって転がるように走り出した。



 目を覚ました時、全身に汗をかいていた。
 心臓の鼓動が、耳に聞こえるほどに大きい。
「……あれ?」
 周囲を見回して最初に目に入ったのは、教室を出ていく老教授の後ろ姿だった。
 私が通う大学の、見慣れた教室の光景。
 続いて、私を見て笑っている友達の顔が目に止まる。
「秋香ってば、教室でよくそこまで爆睡できるねー」
 隣の席に座っていた麻美が、呆れたように言う。
「私……寝てた?」
「寝てたなんてもんじゃないよ。いくらつついても起きないし。なんか、うなされてたけど。あんな不自然なカッコで寝てたら無理ないよね」
 私は講義中に居眠りをしていた?
 あれは、夢?
「だったら、早く起こしてよ。おかげで、怖い思いしたじゃん」
 別に麻美に責任があるわけではないが、つい八つ当たりしてしまう。
「怖い思い?」
「夢、見てた。怖い夢……」



 その日の夜。
 また、同じような夢を見た。
 細部はよく覚えていないけれど、やっぱり一人きりで、何かに追われて必至に逃げていて。
 危うく捕まりそうになったところで、目が覚めた。
 パジャマ代わりのTシャツがぐっしょりと濡れ、激しい鼓動が毛布を小刻みに震わせている。
 私は大きく息を吐き出した。
 部屋の中は暗い。夜明けの早い季節だから、まだ午前三時前だろう。寝直す時間はたっぷりとあるけれど、そんな気にはなれなかった。
 また、あの夢を見そうな気がしたから。
 今度は、捕まる前に目覚めるとは限らないから。
 とても眠れそうにはない。
 静かな部屋の中に、時計の規則正しい音だけが響いている。
 私は、ぼんやりとした頭で考えていた。
 最近よく、こんな夢を見る。
 その時によって場面は違うが、共通しているのはいつも何かに追われていること。
 追ってきているものの正体はよくわからない。時折視界をかすめる大きな黒い影が、はたして猛獣なのか、それとも得体の知れない怪物なのか。はっきり確かめたことはないし、そもそも夢の記憶など曖昧だ。
 鮮明に憶えているのは、追われている時の恐怖だけ。
 どんなに必至に逃げても、あいつは私を追ってくる。隠れてなんとかやり過ごそうとしても、必ず、私の行く先々に先回りしている。
 夢とは、そういうものだ。
 もしかしたら、この先にあいつが……。そんな不安を抱けば、それが現実となる。
 そういうものだと、起きている時はわかっていても、夢の中ではどうしようもない。できることはただ一つ、命からがら逃げるだけ。
 私はいったい、何を怖れているのだろう。
 それはわからないが、あいつに捕まることは決して愉快なことではないだろう。たとえ夢の中とはいえ、怪物にむさぼり喰われるなんて願い下げだ。
 目が暗さになれてきたのか、天井の模様が微かに見えてきた。
 夜明け前で厚いカーテンを閉めていたとしても、部屋の中は真っ暗ではない。
 赤い、テレビのスタンバイ電源。
 緑の、ビデオのタイマー。
 そんな光源が、ぼんやりと室内を照らしている。
 私はただ、天井を見つめていた。
 時々瞬きをする時以外、目は瞑らなかった。
 眠ってしまうのが、怖かったから。
 外が明るくなりはじめるまで、私はベッドの中でじっとしていた。


 いつからだろう、あんな夢を頻繁に見るようになったのは。
 正確な時期は思い出せない。何年も前からではないのは確かだが、かといってここ一、二週間のことでもない。
 最初の頃は、こんなに頻繁ではなかったような気がする。他の夢も見ていたはずだ。
 だんだんあの夢を見る頻度が増えてきて、その分、普通の夢は見なくなった。
 今ではほとんど毎晩のことだ。だから、寝不足の日々が続いている。夜中に頻繁に目を覚ますし、今朝のように怖くて寝直すこともできない日が多い。
 何故、こんな夢を見るのだろう。
 大学の図書館で、夢について書かれた心理学の本などを読み漁ったが、なんの解決にもならなかった。
 眠りが浅いから夢を見るのかと、寝る前にジョギングや体操で身体を動かしてみても結果は同じだった。
 私の苦悩をあざ笑うかのように、夢の中の『あいつ』は毎夜、私を追い回している。
 そして時には、私以外の者が犠牲となることもあった。
 私はたいてい一人で逃げているのだが、たまに途中で他の人と出会うこともあり、そんな時、あいつはその人を襲うこともあった。



 私は山道を走っていた。
 そこはRV車も通れそうな広い砂利道で、そのせいかあいつは少しずつ距離を詰めてきているようだった。私がどんなに力を振り絞っても、脚力では到底かなわない。
 もう、すぐ後ろにいる。振り返れば、その姿がはっきりと見えるだろう。
 死に物狂いで走っている私の目に、人の姿が映った。登山者らしい。私より少し年上、二十代半ばくらいのアベックだ。
 危ない、逃げて――と。
 そう叫ぼうとして。
 不意に、足元の石につまずいてしまった。
 転んだ私に、黒い影が覆いかぶさってくる。
 悲鳴が、山中の静寂を破った。私の悲鳴ではない。あの登山者の女性だろう。
 その声に興味を引かれたのか、私に襲いかかろうとしていた『あいつ』は、矛先をそちらに変えた。
 小山のような黒い影が、その大きさからは考えられないような素速さで、恐怖に立ちすくんでいる女性に飛びかかる。
 絶叫。
 そして、飛び散る紅い飛沫。
 肉が喰い千切られる音。
 骨が噛み砕かれる音。
 目の前で何が起こっているのか理解できないまま、腰を抜かしている連れの男性。
 私は両手で耳を塞いで、その光景から顔をそむけた。


 外が明るくなりはじめた頃、私は目を覚ました。
 ひょっとしたら、実際に悲鳴を上げていたのかもしれない。
 全身に鳥肌が立っていた。
 汗で濡れたTシャツとシーツがひんやりと冷たい。
 鮮明に憶えていた。人が、生きたまま喰われていく光景を。
 飛び散る体液。
 喰い破られたお腹から垂れ下がった内蔵。
 見たくもないものが、目にしっかりと焼き付いている。
 なのに相変わらず、あいつの姿は「ぼんやりとした黒い影」としか憶えていなかった。



 もう、ろくに眠ることもできなかった。
 今度は私が、あんな風にむごたらしく喰い殺されるのかもしれない。そう思うと怖くて眠れない。
 あれはただの夢だ。何も怖がることはないんだ。いくらそう言い聞かせても、自分自身そんな言葉を信じてはいなかった。
 人間、食事をしなくても一週間以上は生きられるだろうが、眠らずにいるのは数日と保たない。どんなに眠らないようにと頑張っても、瞼は鉛でできているかのように重く、少しでも気を抜くと、ついうとうととしてしまう。
 その度に、あの夢を見た。
 あの後も何度か、人が喰い殺される場面に出くわした。
 今度こそ、私の番かもしれない。
 今夜こそ、私が殺されるのかもしれない。
 そう思うと、とても眠ることなどできないのに。
 なのに睡魔は、私を悪夢の中へと引きずり込もうとする。
 睡眠不足の日々が続いて、私は体調を崩していた。仲のいい友人の麻美が見かねて声をかけてくるが、私はただ簡単に「夢見が悪くて寝不足」とだけ答えた。
 毎夜のように続くあの夢の不自然さ。
 私が感じている恐怖。
 それを、言葉で他人に伝えることは難しいし、話しても笑われるのがオチだろう。
「秋香ってば、急に一人になったから不安なんんだよ」
 麻美は笑って言った。
 なるほど、その意見には一理あるかもしれない。言われてみれば、あの夢を見始めたのは独り暮らしを始めた頃からだったような気もする。
 この春、父が転勤になった。少なくとも数年は戻れないというので、家を人に貸して母も一緒に行くことにした。
 私は大学があるから一人でこちらに残って、アパート住まいを始めたというわけだ。
 念願の独り暮らし、と初めの頃は喜んでいたはずなのに。
 両親と一緒に暮らしていれば、こんなことにはならなかったのではないか……と根拠もなく思った。
「よかったら、今夜うちに泊まりに来る? 誰か一緒にいれば、不安も感じないんじゃない?」
 麻美の誘いを、私は快く受け入れた。確かに、親友がすぐ横で寝ているという安心感があれば、あんな夢は見ないかもしれない。
 学校が終わると、私は一度着替えを取りに自分の部屋へ戻って、それから麻美のアパートへ行った。
 一緒に夕食を作って、ビールを飲みながら二人で食事をして。
 一人きりでいるよりもずっと楽しくて、安心できる。
 これなら、今夜は大丈夫かもしれない。
 この時は、そう思っていた。



 私は、街の中を走っていた。
 不思議なことに他の人の姿はなく、車も走っていない。
 まるでゴーストタウンだ。
 作り物めいた現実感のない街並みの中、私は『あいつ』から逃げるために、必死に走っていた。
 今日の服装はジーンズにスニーカー。道路もアスファルト舗装で走りやすい。
 だけどそれは、あいつにとっても走りやすい道ということ。広い道を真っ直ぐに逃げるのは不利と考えて、ふと目に止まった路地に入った。
「――っ!」
 短い悲鳴を上げる。どうやって先回りしたのか、背後から追ってきていたはずの『あいつ』が目の前にいた。私は慌てて回れ右して、元の道に戻ろうとする。
 その瞬間、肩の後ろに灼け付くような痛みが走った。
 爪で引っかかれたのだろう。私の身体はバランスを崩して、アスファルトの上に転がった。
「秋香! 大丈夫っ?」
 いつの間にか、目の前に麻美が立っていた。倒れている私に向かって手を差し伸べる。
 その手に掴まろうとした。しかし、伸ばした私の手は、麻美の手には届かなかった。
 悲鳴が上がる。
 小柄な麻美の身体が、軽々と持ち上げられていた。その顔は恐怖に歪んでいる。手足をめちゃくちゃに振り回して暴れているが『あいつ』の爪から逃れることはできない。
 そして――。
 短い悲鳴と共に降ってきた紅い飛沫が、私の顔を汚した。
 私は、顔をそむけることもできずに、それを見上げていた。
 声を出すことも、指一本動かすこともできなかった。
 歯がカチカチと鳴っている。
 アスファルトの上にぼたぼたと鮮血が滴り、紅い染みが広がっていく。
 どさりと、何かが落ちた。
 小さく痙攣しているそれが、膝の上あたりで喰い千切られた脚だということに気付くには、少しの時間が必要だった。
 私の眼前で、麻美は生きたまま喰われていった。



 最悪の気分で目が覚めた時、汗だけではなく涙が顔を濡らしていた。
 手の甲で涙を拭おうとして、肩の後ろがひりひりと痛むことに気付いた。全身の筋肉が、不自然に強張っているように感じる。
 それでもなんとか起き上がって、Tシャツを脱いだ。部屋の隅に置いてあった姿見に、背中を映してみる。
「――――っっっ!」
 あまりの驚愕と恐怖に、悲鳴を上げることすらできなかった。悲鳴として発せられるはずだった空気の塊が、そのまま私の気管を塞いでいた。
 鏡に、私の背中が映っている。
 肩の後ろに、紅い三本の線が走っていた。――まるで、猛獣の爪かなにかで引っかかれたかのように。
 手に持ったTシャツの背中は、紅い染みで汚れていた。
 そして。
 隣で寝ていたはずの麻美の姿は、どこにも見当たらなかった。
 いったいこれを、どう説明すればいいのだろう。
 私は、部屋中を探し回った。
 玄関。靴は全部ある。
 バスルームとトイレ。誰もいない。
 押入も開けてみて。
 ベッドの下まで覗き込んで。
 理性的な思考ができたのは、そこまでだった。
 ベッドの下で見つけたものが、私の心を完全に打ちのめした。
 夢の中で一度目にしていたはずの物なのに、それがなんであるか理解するまでには、やっぱりいくらかの時間が必要だった。
 私は、麻美を見つけた。
 ――正確には、麻美の身体の一部分を。



 私はぼんやりと、夜の街を歩いていた。
 早朝に麻美の家を出た後、今日一日、どこでどう過ごしていたのか、記憶が定かではない。
 それが寝不足のためなのか、あの衝撃的な出来事のためなのか。おそらくはその両方だろう。
 パッチワークのような記憶の切れ端が、頭の中にグチャグチャと詰め込まれているだけで、自分がどこにいるのか、何をしているのか、それもよくわかっていない。
 はっきりしていることは、一つだけ。
 眠ってはいけない。
 死にたくなければ、眠ってはいけない。
 今度こそ、私が殺される番だ。
 理由なんて、論理的な説明なんて、どうでもいい。あいつは、現実に私を殺すことができる。その事実だけが重要だった。
 眠ってはいけない。
 死にたくない。
 ただそれだけを思いながら街を彷徨う私に、話しかけてくる男がいた。
 同じくらいの歳の、軽そうなノリの男。だけど私は、下心丸出しのその男についていった。
 一人で夜を過ごしたくなかった。誰でもいいから、傍にいて欲しかった。
 その後、どこでどう過ごしたのか。
 気が付くと、どこかのホテルの一室で、その男に抱かれていた。
 不思議なもので、こんな精神状態であっても一応身体は反応するらしい。いやらしい笑みを浮かべた男に貫かれ、喘ぎ声を上げている自分を、醒めた心が冷静に観察していた。
 見知らぬ男に蹂躙されている自分の姿が、ベッドを取り巻いた鏡に映っている。
 これでいい。肉体的な快楽に身を委ねている間は、眠らずにすむ。
 私はむしろ、安堵の息を漏らしてさえいた。



 その夜も、やっぱり夢を見た……ような気がする。
 記憶は曖昧だった。限界を超えた疲労と睡眠不足のためだろうか。
 断片的な夢の記憶だけが、微かに残っていた。あの男が、一緒にいたように思う。顔は憶えていないが、多分そうだろう。
 一つだけ、はっきりと憶えているものがある。
 紅い色彩。
 それは紛れもなく、鮮血の色だった。


 その朝、私は悪夢にうなされて目覚めたわけではなかった。短い時間ではあったが、久しぶりにぐっすりと眠ったような気がする。
 どうしてだろう。あの夢は、やっぱり見たはずなのに。
 鏡に囲まれたダブルベッドに、私は一人で寝ていた。もちろん、一糸まとわぬ姿で。
 ベッドの周りに、二人分の服が散らばっているのが見えた。
 のろのろとした動作で身を起こして下着を拾おうとしたところで、自分の身体が汗でべたついているのに気付いた。それはいつもの、悪夢にともなう冷や汗ではない。昨夜の激しいセックスによる、純粋に、運動による発汗。
 このまま服を身に着けるのは気持ち悪いと、私は全裸のままバスルームへ向かった。脱衣所に置かれていたタオルを取り、扉を開ける。
 そこで、一度立ち止まった。
(……ああ……まただ)
 声に出さずにつぶやく。
 バスルームの床のタイルが、べっとりと紅く汚れていた。
 むっとした生臭い臭気が鼻をつく。
 もう、悲鳴も上げなかった。
 そのままバスルームに入る。
 血に濡れていない部分のタイルは、ひんやりと冷たかった。
 シャワーを全開にする。
 ノズルから吹き出たお湯がタイルを叩く音が、静寂を破る。
 頭から、熱い湯をかぶった。
 私の汗を洗い流した湯と、タイルの上の血溜まりが、排水孔へと流れていく。
 バスルームの血の痕がすっかり流されるまで、私はシャワーを浴び続けた。


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